第3話

 とはいえ、経済的な問題が全てではない。

 女性の自立、とか、社会進出、とかはざっと2000年ほど先の話で、目下のところ、やはりどうしても、信頼できる誰かの手に姫を預けなければならない。或いは、祖母君のように尼になるか。


 出家は、あまりに姫が気の毒に思えた。第一、あの美しい髪をるなんて、犯罪以外の何物でもない!

 仕えている女房達も同意見だったようで、通ってくる殿方はいないか、広くあちこちに声を掛けているようだ。


 私は危険を感じた。

 一度は回避したものの、光源氏の魔の手が再び迫ってくるのではないか。



 紫の姫の父、養育費を払うことで危ういところで没落を回避した兵部卿ひょうぶきょうの宮は、藤壺ふじつぼ中宮ちゅうぐうの兄君である。

 姫の叔母君であられる藤壺中宮は、言わずと知れた光源氏の初恋の女性で、禁断の恋の相手だ。なんでも、源氏の君の母である桐壺きりつぼ更衣こういに生き写しの美女だとか。

 つまり源氏の藤壺中宮に対する執着は、満たされなかった母親への愛着なわけで、一種の幼児返りともいえる。


 ところでわが紫の姫はといえば、藤壺中宮の姪に当たる。私がぶち壊してやったけど、本来は、透垣すいがいの間から紫の姫を垣間見かいまみた源氏は、藤壺中宮(あるいは桐壺の更衣)の面影を宿しているという理由で、彼女に惹かれていくのだ。

 つまり、ええい、今まで言わないできたが、光源氏はマザコンだ。そして、古今東西、マザコン男が妻や恋人を幸せにした例を、不幸にして私は知らない。


 紫の上は成長し、ますます美しくなっていく。こんな姫をひと目でも源氏が目にしたら……。


 「聖典」では、幼な妻の女三宮に言い寄った柏木を、源氏は一瞥しただけで死なせている。まるで魔王である。柏木は、源氏の親友の息子だったにも関わらずこの所業。ひどい。あんまりだわ。

 その源氏が何かに執着したとしたら、それがどのような結果を招くか。考えるだに恐ろしい。

 源氏の魔の手から姫を守る為には、婚姻や家という強力な後ろ盾が必要だった。



 そこへ、思いもよらぬ方向から手が差し伸ばされた。

弘徽殿こきでんへ上がるようお声掛け頂いたの。お前はどう思う、イヌキ」

 ある晩、紫の上が打ち明けてくれた。

「なんと。弘徽殿の女御さまが!?」


 弘徽殿の女御は桐壺帝のきさきで、彼女の産んだ息子は日嗣皇子ひつぎのみことして立太子している。


「女御様は、私の父君に関するご本をお読みになったそうで……」

紫の姫は言葉を濁した。


 どうやら女御は、私の書き散らした、無責任な父親・兵部卿ひょうぶきょうに関するレポートを読んで、義憤の念に駆られたらしい。気の毒な紫の姫を手元に引き取ろうと手を差し伸ばしてくれたというわけだ。


「大変良いお話ではありませんか」

 今上帝きんじょうてい(今の帝)の女御が後ろ盾となってくれるなんて、こんなに頼もしい話はない。

「それがね、イヌキ。女御様は私に、東宮とうぐう殿下の……」

言いさして姫は、ぽっと頬を赤らめた。

「大賛成です!」

食い気味に私は叫んだ。


 弘徽殿の女御は、紫の姫を、将来的に東宮(皇太子)である息子の妃に、と考えているようだ。その為、早々に手元に引き取り、妃として恥ずかしくない教育を施そうということらしい。

 ということは、将来紫の上は、この日の本の国の皇后になれるかもしれない!


 けれど、いまいち彼女には、積極性が感じられない。

「イヌキ、貴女、前に言ったでしょ? ほら、私を垣間見にいらした方がいるって」

「ああ、天狗てんぐの話ですね?」

私は惚けた。

「天狗じゃなくてよ。あれは、源氏の君だったのよね?」


 あのまま光源氏に見初められたら、貴女の一生は滅茶苦茶に破壊されるのです、と言いたかった。源氏は浮気を繰り返し、二人の間に子はできず、あまつさえ、浮気相手の産んだ子を引き取って育てる羽目になるのだ。挙句、病気になり、心の救済としての出家も許されぬまま死を迎える……。


「天狗です」

きっぱりと私は言い切った。


 源氏も東宮殿下も、同じ帝の息子として、弘徽殿の女御の産んだ東宮殿下は光源氏の異腹の兄に当たる。顔は光源氏に遠く及ばないが、その地位は、異母弟とは比べ物にならないくらい高い。


「そう。それならいいわ」

薄っすらと紫の姫は微笑んだ。

「ねえ、ひい様。一つだけお聞きしてもいいですか? もし光の君がひい様の目の前に現れたら……」

 もしかして、「聖典」の引力はあまりに強く、この世界の紫の姫でさえ、源氏の魔力に屈してしまうのだろうか。


「天狗は、貴女が祓ってくれるのでしょう?」

 迷いのない瞳が私を見つめている。胸がいっぱいになった。

「もちろんです。ひい様のことは、私がお守り致します。何があろうとひい様は、私の最オシですから」

「貴女は時々、わからないことを言うのね」

くすりと紫の姫は笑った。



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