百合について
あかなす
百合について
自分が好きなものを好きでいることに特別で複雑な理由なんて必要ありません。それが自分の中だけで完結していれば、言語化すら本来は必要ではない。かと言って、好きなものを好きだと伝えるのに言葉を尽くす行為が無駄だとは思いません。好きなものの魅力を他人に誤解なく伝えたいのなら、言葉を尽くす以外に方法はありません。
私にとってはそれが百合でした。私は百合が好きです。しかし百合という概念は、具体的にその魅力を言語化することが存外難しい。
そもそも百合を好きになったきっかけから話すとなると、長尺の自分語りが始まってしまいます。ここ数年でハマったとかそんなレベルではないんです、数十年分の積もる話がたくさんあるわけです。それこそ私の人生の話になります。
私は自分語りが苦手です。もっと言えば、対人を想定した思考の言語化がとても苦手です。コミュニケーション能力の欠如と言い換えてもいい。日常会話でさえ上手くできる自信がないですし、インターネットという不特定多数の目に触れる場で語る内容として、私個人の話なんてとても需要があるとは思えません。
特に百合は、語るとなると難しいジャンルです。インフルエンサーが話題にいっちょ噛みして炎上する様を私はSNSで幾度となく見てきました。インターネットは恐ろしい場所です。生半可な意見は必ずどこかで角が立ちます。結局こういったセンシティブな話題は小さなコミュニティの中だけで共有・完結するのが一番安心できる。そういうわけで、百合というジャンルに長く身を置いている人間ほど、そう簡単に言語化なんてできない。慎重にならざるを得ない。そう思っています。
それでも長く生きていると、自分の想いの言語化が必要になる機会は少なからず訪れます。そういう時に備えて最低限誤解なく伝えられるよう、自分の言葉を用意しておいて損はないでしょう。自分語りはともかくとして、せめて自分の好きなものについては自分の考えを明確にした上で、ある程度語れるようになるべきだとは思います。
この記事は私にとっての備忘録。百合のどういうところに魅力を感じるのか、他人に伝わるよう意識して書く練習の場です。
私は百合が好きです。そして百合が好きだということは女性が好きだということとイコールでもあります。私にとって女性は可愛くて格好良くてとても魅力的な象徴です。そんな女性達が複数人集まって何らかの感情を抱き何らかの関係性を構築している、その現象に想いを馳せることで得られる多幸感こそが、第三者目線における百合の魅力だと言えます。
我ながら感覚的で主観的な話ですね。だからこそ、この手の話題は誤解が生じやすく、インターネットで荒れやすいです。「百合の定義は人それぞれ」という意見は、半分正解で半分間違いです。それを正解足らしめるかどうかは「前提となる知識を正しく身につけ理解できているか」だと個人的には考えています。
大前提として、百合とは「女性同士のあらゆる関係性を包括した概念」であることは言うまでもありません。百合の定義が様々だとしても、この前提だけは覆してはなりません。これが所謂「前提となる知識」です。
女性同士の間で生じたものであれば、あまねく概念を百合だと定義可能です。感情の機微であれば、恋愛も友情も性欲も憎悪も殺意も、須く百合だと解釈できます。
百合において感情というものは非常に重要な要素となり得ます。例えば「怒り」の感情でも、それを「誰が誰に対して抱くか」によってその機微は絶対に違うはずです。感情とは個性であり、全く同じ感情なんて存在しません。そんな複雑極まる感情という概念が複数混じり合って構築されるのが関係性であり、個性と個性が掛け合わさることで生まれる関係性には独自の質感が生まれます。「普通」の関係性なんてこの世には存在しないんです。
私は百合が好きですが、もっと言えばこの「関係性」という概念独特の、その当事者間でのみ成立し得る独自の「質感」に強く惹かれるのです。
例えば恋愛関係。先に述べた通り、恋愛においても「普通の恋愛」なんてものは本来存在しません。必ずその関係性独自の特徴があるはずです。そもそも彼女たちは生きた人間のはずですから、その生まれ育った環境や経験によって構築されてきた独自の価値観や習慣があるはず。そんな他人同士が(あるいは血が繋がっていたとしても、血が通っていないとしても)現在の関係に至るまでに乗り越えてきた過去があり、変化してきた感情があり、培ってきた距離感があり、生活があり、人生があるはず。
好きという言葉一つ取っても、そこには恋愛だけではなく羨望が、嫉妬が、嫌悪が、依存が、執着が、様々な感情が込められているはずです。人間の言葉には必ずと言っていいほどその裏に何らかの意図が秘められているものですから、裏があると考えたほうがむしろ自然だと言えます。
そもそも当事者のセクシュアリティはどうなっているのか? 同性愛者とは限りませんよね。もしかすると片方が異性愛者かもしれないし、両性愛者かもしれないし、無性愛者の可能性もある。交際しているからと言って恋愛だとは限らない。百合営業なんて言葉もあるくらいですから、本気の恋愛じゃないのかも。であれば、貞操観念はどうなっているのか。過去に交際相手はいたのか、あるいは複数の相手と現在も関係を維持しているのか。現状の関係性について何か思うところはないのか。将来的にどうなりたいと考えているのか。そもそも当事者間で相互理解はどこまでできているのか。他人同士なんだから理解できているほうが稀なはず。相手のことを本当はどう思っているのか。自分をどういう存在だと捉えているのか。彼女たちはどんな世界で生きているのか。周りからどう思われているのか。
恋愛を例に出しましたが、恋愛に限らずあらゆる関係性にも同様のことが言えますよね。また創作においては、彼女たちが登場する作品自体がその関係性に影響を与える重要な要素となり得ます。このように、関係性というものはそれを構築する要素を細かく挙げていくと、いくらでも掘り下げることが可能なんです。
発生する事象には全て理由があるはずです。ジャイロ・ツェペリも「納得は全てに優先する」と言っていますが私個人もまさにそう考えています。その関係性が成立している「今」にどれだけ説得力を持たせられるか。その人生のディテールが細かいほど、リアリティラインが生々しいほど、解像度が高いほどに私はその関係性に強く惹かれますし、「今」を生きるそんな彼女たちの感情に想いを馳せると、胸の奥にじんとくるものを感じます。ときに打ちのめされ、涙を流すこともあり、そのたびに「人生捨てたもんじゃないな」と思わせてくれます。そんな気持ちにさせてくれる百合という概念が、私は大好きです。
そしてこれもまた言うまでもないことですが、女性同士の恋愛関係は実在する概念であり、創作の中だけのお話ではありません。この点においては異性愛だろうと男性同士だろうと変わりません。現実も創作も、その世界を生きる人たちには感情があり、人生があるはずです。その事実を蔑ろにしたくない、雑に扱いたくはないなと、私も小説を書く上で表現には気を配っているつもりです。
以上が百合についての私個人の見解です。まだ語り尽くせていない要素もありますが、ひとまずはこれで。
百合について あかなす @yuritomatochan
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