あかね
木穴加工
朱音あかね
配信終了のボタンを押した瞬間、宇宙から全ての彩りが失われたかのような感覚に襲われる。
この世界を包んでいた心地の良い喧騒が、そんなものは最初からお前の幻想でしかなかったのだ、と嘲笑うかのように灰色の現実に侵食され、上書きされていく。
理香はこの感覚がどうしょうもなく嫌いだった。
だからいつも「今日はもう配信終わろうかな」と宣言しても、ダラダラと1時間も2時間も喋り続けてしまう。
ファンはそれをサービス精神と呼ぶけど、そうではない。運営が「プロ意識の欠如」と指摘するように、これは現実を直視できない理香の逃げでしかない。
大きく溜め息をついて、弾みをつけてゲーミングチェアから立ち上がる。
椅子は勢いよく後方へと転がり出すが、すぐ何かにぶつかって止まった。溜まりに溜まったペットボトルなのかもしれないが、それを視界にいれたくなかった。
「喉、かわいた」
誰にともなくそういい、防音室の重い扉を開く。一人には広すぎる3LDKの家を横切ってキッチンに向かう途中で、廊下に貼られた『
そこには描かれているのは人気急上昇中のVTuber。完全無欠のネットアイドルになるべくして生まれた究極の美少女だ。
朱色のメッシュの入った長い銀髪、この世の無邪気さをすべて詰め込んだように煌めく両目、スラリと伸びた手足にはあまりにも不釣り合いな、ボリューミーな胸元。清潔感がありながらどこか劣情を煽るようなドレス。
その一つ一つが、現実に打ちのめされた三十路の女への当てつけに、理香は見えた。
──貴女が憎い。
ポスターを見るたび、理香はそう心の中で毒づく。
だって、私なのに。
アニメのヒロインのように可愛らしい声も、ユーモアに富んだ軽妙なトークも、優美な仕草や時々覗かせる子供っぽい表情も、あれは全部私なのに。
私がいなきゃ、私がいなきゃ貴女は何者でもないのに。
なのにどうして貴女は20万人のファンにチヤホヤされ、それにひきかえ私はひとりぼっちで惨めな思いをしなきゃいけないの?
そんなのって不公平じゃない。
いっそう、配信中に自分の顔を出してしまおうかと考えたこともあった。いや、私を見てよ!丹金あかねではなく、板谷理香を見てよ!と数千人に向かって叫びたい衝動は常にあった。
でも、自分にはそれが出来ないことも理香はよく分かっていた。炎上するからじゃない。ましてや契約解除が怖いからでもなかった。
数千人の前に素顔の自分を晒し、等身大の人間として立つ。その瞬間を想像しただけで、胃の奥がぎゅっと締め付けられ、吐き気が喉元こみ上げた。
「あんたはブスなんだから――」
幼少期の頃、母親が枕詞のように使っていたフレーズ。ブスなんだから勉強しなさい、ブスなんだからピアノを頑張りなさい、ブスなんだから⋯
理香を縛りつけ続けた呪詛は今でも事あるごとに耳奥をこだまし、三半規管をキリキリと軋ませ続けていた。20年以上経っても母の呪いから逃れられない自分の心の弱さにも無性に腹が立った。
「ほらぁ、アンタもあかねにべったりじゃない。あかねの姿を借りなきゃ何一つも出来ないくせに」
そう嘲笑う丹金あかねの甲高い声が聞こえてくるような気がした。
──ゲームやろ。
疲れ切って寝落ちするまでゲームをする。それが理香にとってこの惨めな時間から逃れる唯一の方法だった。
水と夕飯代わりの納豆を持って防音室に戻ると、モニタに映ったメッセージアプリの通知が目に入った。また運営からだろうか。
いつもの理香なら2,3日は無視するところだが、今日はなぜか即座に開いた。特に理由はない。ただの気まぐれ。
――例のコラボの件ですが。
「あっ⋯」
既読をつけてしまったことを即座に後悔した。
例の子だ。
最近やたら絡んでくる個人VTuber。名前はなんだっけ⋯そう、アキ。
きっかけは半年くらい前の雑談配信だった。あかねが好きな小説についてあまりにも早口で語りすぎてリスナーが半ば引いていたあの配信だ。
その直後に彼女はDMをよこした 。
「『環の追憶』、私も大好きなんです!!」という書き出しから始める、画面の1ページに収まらないほどの長文だった。
作品の好きな場面、作品に対する自分なりの解釈、いつもあかねの配信を見ていること、尊敬していることなどを勢い任せに一方的に送り付けられた。
本来なら理香が無視する類のメッセージだった。
丹金あかねの人気にあやかろうとする同業者は後を絶たない。売名やコラボ打診のメッセージは毎日のように届く。それらは決まって冒頭にあかねに対する丁寧すぎるほどの賛辞が並んでいた。
理香にはそのすべてが薄っぺらいお世辞か、自分に対する皮肉にしか見えなかった。顔も知らない人が本気で私を褒めるわけなんてなかった。母親も父親も、保健室の先生だって、誰も心から理香を褒めてくれたことなんかないのに。
でも、その時は少し違った。
アキはあかねではなく、理香が好きな小説を褒めてくれた。それは自分自身が褒められるより百倍も嬉しかった。
それに、彼女の作品に対する熱意は、確かに本物だった。自分も背表紙がボロボロになるまで読んだ理香にはわかる。それは何度も何度も読み返し、自分の中で深く掘り下げていかなければ絶対書けないような感想だったし、ところどころに狂気や執着に近いものすら感じた。
理香は一時間ほど悩んで、社交辞令を織り交ぜた丁寧な返信をひねり出した。
アキに嫌われないような、傷つけないような、だけどそれ以上自分には深入りされないような、そんな微妙な距離感の文面を頑張って書きあげた。
でも、そのあては外れた。
彼女はすぐに返信をよこしてきたからだ。
その返信を理香は1週間無視した。
次は2週間。
そのあとまた1週間、2週間、というように、奇妙な応酬が断続的に、しかし確実に続いていった。
今思えば、理香の方から切ればいいだけだった。そうだけど、そうしなかった。
なぜだろう。
もしかしたら、あの子のせいなのかもしれない。
名前はもう思い出せない。
でも、高校の教室の隅で本を読んでいた私に、初めて声をかけてくれた、あの子。
結局友達になれなかったあの子。
「それこそ"呪い"ね」
背中から、丹金あかねが耳元に囁いた。
「今更、棒に振った青春への贖罪をしようってわけ?」
「うるさい」
あかねの声を脳裏から追い出し、教室の窓を吹き抜ける五月の風に意識を集中させる。
そうだ。
あの時理香が読んでた本も『環の追憶』だった。
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