第四章 保護されざる者達

苦し紛れに、そして何かにすがるように、彼は以前村の誰かが話していた言葉を思い出す。


「……だが、魔王よ」勇者の声は、以前のような張りはなく、どこか探るような響きを帯びていた。「どうしても姓を変えたくないと願う者たちには……既に道があるのではないか? その……『事実婚』という形を、人々は選んでいると聞く。法律上の婚姻を行わないで伴侶になる形だ。それならば、無理に法を変えずとも、個人の意思は、ある程度尊重されていると言えるのではないか?」


それは、反論というよりは、彼自身が抱える混乱の中で見つけ出そうとしている、か細い希望の糸のようだった。

魔王は、勇者のその言葉を静かに受け止めた。その表情は、先ほどまでの厳しさが和らぎ、むしろ深い憐憫の色を浮かべているかのようだった。


「勇者よ、確かに事実婚という道を選ぶ者たちはいる。だが、その選択が、彼らにとって本当に『十分』で『安心』なものだと、お前は思うか? 法の庇護の外に置かれるということが、どれほどの不安と不利益をもたらしうるか、想像したことがあるか?」


魔王は玉座からゆっくりと立ち上がり、勇者の方へと一歩近づいた。勇者の剣先はすでに床について、勇者の腕の震えを微かに伝えている。


「法の庇護を受けられず、人生の重要な局面で、例えば愛する者を失った悲しみの上になお、生活の困窮という追い打ちをかけられる人々。事実婚の夫に先立たれたとしても、遺されたものは、相続権、遺族年金すら手に入れられないという現実がある。あるいは、パートナーが浮気して去っていったとしても、法律婚ならば保証される財産分与や慰謝料、子供達の養育費といった、その後の生活に関する交渉が非常に困難になる」

「大層なことばかり言うが」勇者は苦し紛れに反論した。「要するにカネのことばっかりじゃないか。そんなにカネが欲しいのか」

魔法をゆっくりと首を振る。「権利が守られるということが、お金の面で見えやすいというだけだ。それに、お金ではないことだってたくさんある。愛する妻が病に倒れ、重大な手術が必要になった時、医師は家族の承諾を求めることになるが、事実婚の夫はその説明と承諾の場から『家族ではない』という理由で締め出されることさえあるのだ。事実婚という道は、時にそうした声なき悲劇と隣り合わせなのだ。勇者よ、お前が守りたいと願った『弱き者』とは誰のことだった?」


勇者は息をのむ。彼が漠然と「自由な選択」と捉えていた事実婚の裏側に、これほどまでのもろさが潜んでいるとは、思いもよらなかった。


「……それでも」勇者は、なおも理解を求めて問いかける。「現に、多くの人々がその道を選んでいると聞く……。それは、何らかの理由で、それを受け入れているからではないのか…?」


勇者の声には、もはや魔王を論破しようという意図はなく、ただ真実を知りたいという切実な響きがあった。

魔王は、その勇者の問いに、力強く、そしてどこか痛切な響きを込めて答えた。


「勇者よ、そこがお前の思考の浅いところだ、とは言わぬ。だが、見誤っている。多くの者が事実婚を選ぶのは、それが素晴らしいからではない! 現行の法律婚制度が、彼らの切なる願い――己の姓を守りながら、愛する者と法的に認められた家族になりたいという願い――を拒絶しているからに他ならぬ! 調査によれば、事実婚夫婦の6割は、夫婦別姓が可能になれば入籍すると述べているとのことだ。彼らは、自らの名前を守り、それでもなお『家族でありたい』と願うからこそ、不自由な道を選ばざるを得ないのだ」


魔王の声が、玉座の間に厳かに響く。


「つまり、事実婚の存在は、現状維持で十分だという証左では断じてない。むしろそれは、姓の選択を可能にする新たな制度を、血が出るほどに待ち望んでいる人々がこれほどまでに多いという、声なき痛切な叫びなのだ!」


魔王の言葉は、ハンマーのように勇者の固定観念を打ち砕いた。そうだ、自分は結果だけを見て、そこに至る人々の苦しい選択の背景を想像しようともしなかった。守るべきは、形骸化した制度ではなく、制度の狭間で苦しむ人々そのものではないのか。

だが、まだだ。まだ、何か見落としていることがあるやもしれぬ。人々は、本当にそこまで追い詰められているのか? 他の「逃げ道」は、本当にないのだろうか…?彼の心は、深い霧に包まれたように、方向を見失っていた。

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