第三章 子を想う心

魔王の言葉が、勇者の頭の中でこだましていた。


(戸籍の形式よりも守りたいもの……?)


それは一体何だというのだ。自分がこの旅で、命を賭してでも守り抜かねばならないと誓ったものは……。 そうだ、あるじゃないか! どんな理屈や制度よりも優先されるべき、揺るがしようのない、守るべき存在が!

勇者の表情が、絶望から一転、最後の砦を見つけたかのように固い決意に変わった。

「そうだ、最も大事なもの…それは未来そのものだ! この国の宝である子供たちだ! 貴様の邪法は、その子供たちを不幸の淵に突き落とす、強制的親子別姓だ! それだけは、断じて見過ごすわけにはいかん!」 彼の声には、これまでのどの主張よりも強い、切羽詰まったような感情がこもっていた。


魔王は足を組み替えた。


「申してみよ。子供達が、どう不幸になるのか?」


勇者は、下がりかかった剣先を戻すと、魔王を正面から睨みつけた。この点において、魔王には反論の余地はないと、自信を持って言える。


「子供たちが、どれほど混乱し、心を痛めるか分かっているのか! 親の都合で、まだ何も知らぬ赤子が、生まれた瞬間から片方の親とは違う姓を名乗らされ、社会から『普通の家族とは違う』というレッテルを貼られるのだぞ! しかも、生まれて来る子供達には姓を選択する余地がないのだ。言葉の通じぬうちから子供の心に疎外感の種を植え付け、学校に行くようになれば子供達はいじめられるだろう。別姓は、親子の一体感を根底から揺るがす『魂への刻印』に他ならない! それを『選択』などという美名で糊塗するつもりか!」


勇者の言葉は、彼が純粋に子供たちの未来を案じているからこそ、激しく、そして悲痛だった。

魔王は、その熱のこもった訴えを静かに受け止めていた。そして、ゆっくりと口を開いた。その声は、非難するでもなく、諭すような響きを持っていた。


「勇者よ、お前が子供たちの未来を深く案じる心は、疑いようもなく本物なのだろう。だが、その懸念もまた、いくつかの誤解と、そしてお前自身の内なる問題に根差しているように思える」

「誤解だと? 俺自身の問題だと!?」

「まず、子供の姓の決定についてだ。選択的夫婦別姓制度が導入されたとしても、子供の姓は、出生の際に父母が協議して決めることになる。多くの場合、どちらか一方の親の姓を選ぶことになるだろう。その選択に責任を持ち、子供に対して誠実にその理由を語り、どんな形であれ家族の絆は揺らがないと伝え続けるのは、親の努めではないかな? 姓の選択とは、すなわち親がその家庭のあり方を主体的に選び取り、その選択を子供と共に肯定していくという『覚悟』の問題でもあるのだ」

魔王は続けた。「そして、『強制的親子別姓』という言葉を使うが、現行制度では、結婚する夫婦のどちらか一方が、必ず自分の姓を『強制的に』変更させられている。変更させられる方だって誰かの子なのだから、今でもそこで親子別姓は発生しているのだ」

「話を逸らすな! 今は幼い子供達に与えるべき環境という話をしているのだ」

「大切なのは、子供がどちらの親からも深く愛され、守られていると実感できること、そして安心できる家庭環境ではないか? 親子の愛の大事さなど、子供が何歳であっても変わらないだろう。大事なことは、姓がどうであろうと家族の絆は、愛は変わらないということだ」


勇者は反論しようとしたが、魔王の言葉には、彼がこれまで考えてもみなかった視点が含まれていた。しかし、それでも拭いきれない懸念があった。


「だとしても、だ! 現実問題として、いじめはどうなる!? 子供は残酷だ。周りと違うものは、子供たちの世界では格好の的になるからだ!」

「ほう、周りと違うもの、か」魔王は勇者の目をじっと見据えた。「では勇者よ、お前自身は、その『周りと違う』というだけで、誰かを心の中で見下したり、異端視したりしたことは、本当に一度もないと言い切れるか?」

「なっ……! そ、それは……」


勇者は言葉に詰まる。


「いじめとは、違いそのものではなく、その違いを許容せず、異質なものを排除しようとする心が生み出す。その『心』は、子供たちだけのものではない。我々大人の中にこそ、深く根付いているのではないかな?」


魔王の声は静かだったが、その言葉の一つ一つが勇者の胸に重く突き刺さった。


「お前が真に恐れているのは、子供がいじめられるという事実以上に、お前自身がまだ受け入れられない『多様な家族の形』が、子供たちの日常になることではないのか? そして、その不安の根源は、子供たちの世界にあるのではなく、お前自身の心の中…『普通と違うものは、奇異の目で見られ、時には攻撃されても仕方がない』という、無意識の容認や、差別意識に繋がってはいないか?」


勇者の顔から血の気が引いた。魔王の言葉は、的確に彼の心の奥底の、見ようとしてこなかった部分を抉り出していた。子供たちを心配する自分の正義感。その裏側に、自分自身の「普通」とは異なるものへの冷淡な視線が隠れていたのかもしれないという事実に、彼は激しい衝撃と自己嫌悪を覚えていた。守るべき子供たちを語る自分の言葉が、実は最も子供たちを傷つける可能性のある「差別」の刃を孕んでいたのかもしれないという恐怖。

それは、勇者にとって、これまでのどんな物理的な攻撃よりも重い一撃だった。


「現状でも、再婚などで、親子の姓が異なる場合は少なくない。そういう子供に対して、いじめがあるのなら、それをなくすよう、大人達が子供に教え導いてやらなければ。親子の姓が異なることも普通の家族であると、それは排除すべき違いではないと子供達に教えること、それこそが真の解決索だろう? 夫婦別姓が可能になれば、そのような社会に変わっていけるのだ」


聖剣の切先が少しずつ下がっていく。自分が何に剣を向けているのか、もう勇者にはわからなくなっている。……それでも、なぜだろう。この絶望的な自己認識の果てに、ほんのわずかだが、何かを見つめ直さねばならないという、痛みを伴う光のようなものを感じ始めてもいた。

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