七月の光
誰かの何かだったもの
あの夏、名前を呼べなかった君へ
七月の終わり、駅のホームに立つと、潮の匂いが微かに混じった風が吹き抜けた。
地方都市の小さな駅。列車は30分に1本しか来ない。
アスファルトは焼けるように熱く、セミの鳴き声が騒がしい。
僕は、ひとりで帰ってきた。
十年ぶりの帰省だった。
祖母の三回忌に合わせたはずが、法事は急に中止になった。
だけど、なぜかチケットはキャンセルしなかった。
きっと、どこかで“あの日の続きを見つけたかった”のだろう。
改札を抜けたとき、すれ違った人の横顔に、ふと目が止まった。
白いワンピース、ショートカット。
視線が交差した瞬間、記憶の奥に沈んでいた名前が蘇る。
――葉月、だ。
⸻
中学の夏、僕は彼女に恋をしていた。
2年生の夏休み。図書館でよく会うようになった。
彼女は静かに本を読む子だった。明るいわけじゃない、だけど近寄りがたいほどではなかった。
ある日、勇気を出して話しかけた。
「それ、好きなの?」
彼女が読んでいたのは、太宰治だった。
「うん、暗いけど、きれいな言葉が多いから」
それが最初の会話だった。
図書室で隣に座るようになった。
本を交換しあうようになった。
夏休みの終わり、彼女が一言だけ言った。
「この夏が終わるの、なんかさみしいね」
どうしてその言葉に、あんなに心が揺れたのか分からなかった。
でも、その日から、僕は彼女のことをずっと目で追うようになった。
それでも、告白はしなかった。
次の春、彼女は転校した。
理由は、家庭の事情だったと人づてに聞いた。
僕は彼女の連絡先も知らなかったし、探し方もわからなかった。
あの夏の記憶だけが、ずっと心に残ったままだった。
⸻
今、目の前にいるのは、大人になった葉月だ。
あのときより髪は短く、瞳は少しだけ強くなっていた。
声をかけようとしたが、言葉が喉につかえて出てこなかった。
そのまま、彼女は駅を出て歩き去っていった。
僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
――まだ、何も終わっていなかったんだ。
⸻
翌日、町を歩いた。
通っていた中学校の前を通り、図書館に足を向けた。
あの夏と同じように、静かな空気が満ちていた。
館内に入ると、受付の奥に、見覚えのある横顔があった。
白いシャツ、控えめな笑み。
あの夏のままのような姿で、葉月がそこにいた。
僕は、声をかけた。
「……葉月、さん?」
彼女はゆっくり顔を上げ、そして笑った。
「やっぱり、そうだと思った。昨日、駅で見かけたの。まさか帰ってきてたなんて」
「偶然だった。というか、帰ってきた理由も、実は自分でもわからなくて」
「私も、理由はないかな。ただ、夏がくると戻ってきたくなるんだよね」
彼女はここで図書館司書として働いていた。数年前にこの町に戻り、静かに暮らしているという。
「覚えてる? あの夏」
「忘れるわけないじゃん。太宰、貸してくれたよね」
「返してないけどね」
「……うん。いいよ、もう」
その言葉に、なんだか胸が詰まった。
あのとき、告白していれば何かが違っていたのか。
いや、そんなことは意味がないと、もうわかっている。
彼女には、今の暮らしがある。僕にも、戻る場所がある。
でも、たった一つだけ確かだった。
――今も、まだ好きだ。
⸻
数日後、東京に戻る日の朝。
僕は手紙を一通、図書館のカウンターに預けた。
本文は短かった。
「あの夏、君のことが好きでした。
名前を呼ぶたび、胸が苦しかった。
いまでも、たぶん同じです。
また、来年の夏、図書館で会えたらいいな」
それが、僕にできた唯一の告白だった。
⸻
八月の風は、やっぱり潮の匂いがした。
空は抜けるように青く、ホームの先に蝉の声がこだましていた。
列車に乗り込み、僕はもう一度、窓の外を見た。
図書館の前に立つ白いワンピースの彼女が、手を振っていた。
その姿が、小さくなって消えていくまで、僕はずっと目を離さなかった。
――また来年。
今度こそ、名前を呼べるように。
⸻
【終】
七月の光 誰かの何かだったもの @kotamushi
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