赤の静寂
こひらば
不可逆点
巨大。ただその一言の感想しか浮かばないほど、それは圧倒的だった。赤く膨張した表面は灼熱の渦を絶え間なく巻き、そこに浮かぶ無数の黒点は、まるで終末を見下ろす審判者の眼差しのように、じっとこちらを射抜いていた。
その赤の只中に、一つの影があった。人影だ。デカプラーの先、テラフォーマーの18番ケーブルと体を結び、使命と共に死のうとする男。遮光ガラス越しでは、その表情はおろか、輪郭すらも定かでない。ただ、その決意だけが、真空を超えてこちらに届いてくる。
「木村。戻ってこい。今なら、まだ間に合う」
絞り出すような呼びかけは、殉教者の耳に届いているのかもわからない。赤の嵐と宇宙の沈黙に、声は吸い込まれていく。
「……結局、意味はないんだ。なぜ俺たちはここまで来た? 人類の未来を、たった一つの機械の苗に託したからだ。ノアが、自分の箱舟を焼くか? ――いや、仮に焼いたとして、それは信仰じゃない。絶望だ。失敗なら失敗でいい。ただ、無意味に生き延びることのほうが、よほど狂っている」
俺にはその問いに対する明確な答えはない。ただ根源的な衝動に突き動かされているのだ。生への意志。本能。名付けようと思えばいくらでも名は与えられるが、行動だけは常に一つに収束する――誰一人欠けることなく、この危機を脱する。
それが、曲がりなりにも、そして自分勝手でも、俺なりの贖罪だ。
時は、数刻巻き戻る。
────────
静寂と暗黒。わずかに光る星の瞬きと、わざとらしい航行灯のみが物質の存在を証明していた。緑と赤、白そして黄色のわずかな光は、純白のラジエーターという帆を張る最先端の植民船の躯を意味もなく晒していた。
人によってはこの躯を骸と記す人がいるかも入れない。事実、この船は数百年にわたる航海のため船員はコールドスリープ状態にあり、外海と同様に凪いでいた。しかし、これが適切ではないのは、つい先程にある船員がけたたましい警告音と共にたたき起こされることになるためである。
実に、出航からおよそ100年目。目的地に到着する直前のことだった。
田所は酷く不機嫌だった。彼はこの船のメインエンジニアである。といっても、彼らの操る船は3人しか乗り込めないため、エンジニアに接頭語がつく意味はないように思える。しかし、彼はこの船の躯と頭を知る者で、その自負があった。
極限まで簡素化された航法システム、冗長系を持たない主機、出力の小さなイオンスラスタ──この目的に特化した船の航路さえ。
そして、彼がコールドスリープから叩き起こされたのは、航路の歪みが検出されたからだった。
「航法、再計算……全く、このポンコツは何をどう間違えた……?」
田所は解凍直後の朦朧とした意識のまま、インターフェースを覗き込む。
《目標位置は計画航路より、1.39AU内側。到達予測時刻は19年早まりました》
船は、目的の恒星に対して「近すぎる」場所にいた。これが異常だった。
予定では、この段階ではまだ侵入し、惑星系を周回する軌道へ移る前の慣性航行期間であった。しかし、このままでは十分な準備がないまま重力圏へと侵入してしまうことになる。
対応は容易だ。ただ、その原因が不明だった。
この船は、定期的に送信される太陽系からの標準ビーコンと、周辺の恒星風の粒子密度・速度、そして恒星自体の光度の組み合わせによって、事前に用意されたマップと航路を擦り合わせ、修正を重ねていく。すでに100年以上にわたり、その自己修正は正常に行われていた。少なくとも、彼らが目覚める直前までは。
「問題は恒星側か?」
そう口にした瞬間、田所は自嘲した。あまりにもありえない前提だからだった。
ツイ=クルルァ。恒星コードAA4-51d。
この恒星は、国連移住先選定プログラムが2世紀にわたる観測とそれを用いたモデル分析に基づき選定した1000の恒星のひとつだった。選定条件には、主系列星であること、磁気活動の変動が極小であること、ハビタブルゾーンに居住可能な惑星が存在すること、そして寿命が少なくとも数十億年単位で保証されていること──
計画段階で丁寧に選別された天体。その一つが、たった100年そこらで変わるはずがない。
「まぁ、こいつはただのマッピングの誤差だろう……」
眉をひそめ、そう自分に言い聞かせるように田所は続けた。
基準となる太陽風モデルも数十年前の定数に基づいており、マップも古い。もしどこかで積算誤差があったとすれば、それがいま露呈した可能性がある。
夥しい量のセルフメンテナンスログによると、センサの自己較正に狂いは生じていない。エンジン系統への命令が出された記録もない。これといった原因は見つからなかった。
前提を疑い直す機会も機械もあった。しかし、機体は慣性航行かつ太陽光発電が不可能なため、節電状態にある。そのため、航行機材以外の観測系は常時稼働していない。これをわざわざ起動してまで原因を究明するほど、彼は勤勉ではなかった。冷凍明けの倦怠感が、さらにそれを助長した。
「よし……いい。補正自体は十分可能だ。Δvは稼げる、イオンスラスタの推進剤も余裕がある。予定通りなら、この電力ロスも問題ないはずだ」
エンジニアとしての結論は明快だった。補正は可能。自己保管可能なため、艦長の解凍は不要。ミッションはまったく破綻していないという判断だった。
《位置情報更新完了。主恒星ツイ=クルルァからの距離:0.73AU。推定予定位置:1.02AU。乖離率27パーセント》
「ずいぶんとズレたな……が、まあなんとかなったな」
田所は無重力下で身体をくるりと回し、操作パネルへ手を伸ばした。
メインAIは冬眠中の節電のためにオフラインだが、航行補正プログラムは簡易系で問題なく作動する。船体の回転方向と現在の電力収支、それにイオンスラスタの残推進剤量──全てを確認し終え、彼はため息をついた。
「出力ベクトル調整。スラスタバースト3週間。補正後Δvは……ぎりぎり、か。まぁ、融合炉の出力を上げれば済む話だな。それで済むなら御の字だろ」
コールドスリープ明けの苛立ちは、やや和らいでいた。
不測の事態というより、想定内のトラブルだった。
恒星の異常などでは断じてない。そもそも、そのような可能性を考慮すること自体が、地球の科学者たちの予見と努力に泥を塗る行為に思えた。
田所はAIに最終確認を送り、全システムを自動復旧ルーチンに戻した。融合炉は十分に作動しており、全てが予定通りに動けば、三年後にはまた元の電力量に戻っているだろう。
《乗員の再冬眠を推奨します。次回の機体自動診断まで、船内事象のリスクレベルは"低"と診断されています》
「よし。なら寝るとしようか」
田所は最後に機材を確かめ、トラブルらしい兆候がないことを見届けてから、ゆっくりとカプセルの中へ身体を滑り込ませた。静かに蓋が閉じ、静音の気密ロックが作動する。
《生命維持システム安定。心拍緩徐。スリープモード移行開始──》
まどろみの中、彼は考えた。
ほんの数年で、また何事もなかったかのように目覚めるだろうと。
ほんの数年で、すべて元通りになるだろうと。
──だが、その期待は、今この船の目的地にて静かに狂いはじめた星の鼓動と比べれば、あまりに無力だった。
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