第3部 水底の叫び
第1章 翌朝の熾火《おきび》
1章-1
もう冬だ。水をたたえる王都が寒々しく感じられる季節が巡ってきた。
湿気を含んだ空気が冷え込むと、長年折檻を受け続けた背中が、うずくように痛んだ。
その痛みは、まるで背後に父が張り付き、無能を責め立ててくるかのような錯覚を引き起こす。だからこそ、セザリアンは冬という季節を、心の底から憎んでいた。
王宮への回廊を歩くセザリアンは、昨夜のエリシアの婚約の宴を思い出していた。
右大公家の姫の婚約、というだけでも腹立たしいのに、昨日乱入してきたあの火の王。あれだけの圧を放つ男を、またも見事にスーインがさばいた。
まただ。また、スーインなのだ。
なぜ、あの女ばかりが良いとこをさらっていく!外に出せないセザリアンの言葉が、自身の胸のうちに反響する。
さらにだ。と、セザリアンは昨夜の出来事を、苦々しく回想する。
昨夜、私的にアーサーに呼び出された、と思ったら、結局それは警備に対する苦言だった。
曰く。
王宮内で起きた騒乱の鎮圧に、なぜ近衛団が出ておらなんだか、と。
ちょっと待て、とセザリアンは思う。なぜ、右大公家の祝い事の宴に、左大公家の勢力を出さねばならないのだ。昨日は右大公家の宴だ、右大公家が賄うのが筋ではないか。
そう主張したセザリアンに、アーサーはしばらく沈黙したあと、静かに言葉を繋いだ。
「その理屈が正しいことは認める。だが、やはり、王の近くで護衛に当たるのは、騎士団ではなく近衛団だと考える廷臣が一定数存在することもまた、今後は考慮してもらいたい」
左大公家のためでもある、とアーサーは呟いたが、セザリアンは素直に受け取ることはなかった。
結局、誰も彼も、自分のやることを否定したいだけなのだ。アーサーも、間違っていないことは認めたではないか。
なぜ、俺だけが責められる。
「ゼスリーア!ゼスリーア!出てこい!」
歩いているうちに、回想の中で怒りを増幅させていたセザリアンは、ゼスリーアの居住区域に入るなり、喉も裂けんばかりの大声で喚き散らす。
尊敬していたはずの頃でも、大嫌いだった父の姿。威張り散らして怒鳴り散らす、あの姿と一緒ではないか――ふと気がついたその事実に、セザリアンは心からの嫌悪感を抱くが、喚くのは止められない。
喚き散らす自分と行き合う侍女たちが、パタパタと倒れ込むように平伏していく――その光景こそが、今の荒みきった心を唯一慰めている。セザリアンは、そんな自分に気がついてしまった。
だから父上は、あれほどまでに怒鳴り散らしていたのか……。いまさらながら腑に落ちる。しかし、このような光景に慰めを見出してしまう自分の心のありようには、吐き気すら覚える。そしてその嫌悪が、さらにセザリアンの怒りをかき立てていくのだった。
そのままの勢いで、ゼスリーアの居室に突入する。さすがにここまで来るとゼスリーアの側近に近い者になってくるためか、平伏するのではなく、お鎮まりくださいませ、とすがりついてくるようになる。
平伏していく侍女の姿に慰められていた心が、また一気に荒みだす。
「俺を止めるなんて、恥知らずかっ!」
怒りが一気に噴き上がり、セザリアンは侍女たちをなぎ倒す。
そのままの勢いで、寝椅子に横たわるゼスリーアの前にずかずかと進み、何も言わずゼスリーアの横顔を一つ、張る。
「お前は、おとなしくしておれんのかっ」
怒鳴りつけられたゼスリーアは、左頬を押さえて弾かれたように顔を上げる。
「おとなしくしているではありませんかっ」
反抗的な眼差し。女のくせに、年下のくせになんという……セザリアンは怒りのあまり、とうとう拳を震わせ始めた。
「おとなしくしているというのなら、なぜまだ王宮に居座っておるのだ!離宮に移れと、命令を受けておるであろう!」
昨夜。
警備の不備とともに、ゼスリーアが離宮に移らぬ、ということもあわせてアーサーに苦言を呈された。アーサーとしては苦言ではないとは言っていたが、兄として妹の所業に責任を持ってほしいなどと言うあたり、立派に苦言であるし責めているではないか、と記憶の中のアーサーにまた怒りを覚え、こぶしを握りなおす。
「なぜわらわが離宮に行かねばならぬのですか」
「ふざけるな!王子を冥府に見送る宴で、王女に毒を盛ったのはおまえだろう!」
わめくセザリアンを前に、ゼスリーアはふっと妖しい微笑みを浮かべる。
「わらわがやった証拠がどこにあるのです」
「しょ……証拠……」
妹の思わぬ反撃に、セザリアンはたじろいだ。そんなセザリアン狼狽ぶりを見たゼスリーアは、ますます口元をゆがめ、不敵に笑う。
「証拠がなければ、そんなもの、下人の誰かに罪を着せて切り捨てればよいのてす」
不敵を通り越して妖艶にさえ見える笑みを見せるゼスリーアに、セザリアンは心の底が凍るような恐怖を感じる。
そうなのだ。この異母妹は、スーインとはまた別の意味で、御すのは難しい。
どこか――道徳観念というか、人間としての本質というのか――そういうものがまるごと抜け落ちているような、得体のしれない強烈な異物感を放つときがある。
「証拠はなくとも、毒を解かれてしまったではないか!あれは……あれでは……下手したらどんな毒が盛られていたか、もうバレているようなものではないか!」
「なぜ毒が解けたら問題なのです?薄荷なんて、料理にもよく使われる、ごくありふれた草ではないですか。体の毒素を排出できるからって、普段から薄荷水を飲む貴婦人は多いわ。そんな薄荷が解毒する毒なんて、特定できるわけないわ」
ゼスリーアはゆっくりと身をおこし、妖艶な笑みを浮かべる。
「あの毒を解いた生意気な娘に、罪を着せて処分してしまえば、それでわらわが毒を盛った、なんて誤解も消えてしまうわ。そうしましょうよ、兄上。」
「彼女は、右大公家の三の姫で、雪の国の王女だ!そんなことしたら……右大公家だけでなく、雪の国まで敵に回すぞ!」
「雪の国?所詮、属国ではありませんの」
こやつは、周囲の状況を感じ取る感覚も、分析力もないのだろうか?
雪の国は確かに属国ではある。しかし、属国ゆえに雪の国は特産品の各種鉱物や宝石を水の国に優先的に回してくれるため、水の国が他国を圧倒する力の一つの源泉になっている。
それゆえ、属国のような立場だからといって、軽く扱ってよい国ではない。
いくら頭が軽い姫でも、自分たちの権力構造を支える関係性は理解しているし、尊重する。
なのに、筆頭貴族であり王妃にまで上り詰めたこの妹は、そんな常識すらないかのように乗り越えてくるのだ、自分の欲望を最優先にして。
「雪の国は、所詮属国などと言っていい国ではない!」
「あらそう、残念ですわね」
口ほどに残念そうでない表情で吐き捨てるように言うと、もう一度艶然と笑う。
「でも、何があろうと国王陛下はわらわに手は出せませぬ。だって、王太子がおりますもの。ここに」
と言うや、ゼスリーアはそっとお腹を押さえ、セザリアンを見上げて不敵に笑って見せた。
「ま、まことか?」
セザリアンを支配していた怒りと恐怖が、いっぺんに飛んでいく。
「か、か、懐妊とは……そ、それはいつのことなのだ。お前たち、夫婦仲は決して良かったとは言えぬはずではないか、ど、どうやって...」
「夫婦の寝室事情を探るのは、無粋というものですわ、兄上」
優雅に扇で仰ぎながら、つややかな微笑みを浮かべる。
その様子は、一見、王の寵姫として当たり前のふるまいには見えるが、セザリアンはゼスリーアの兄でアーサーの友だからわかることがある。
二人の婚姻は、左大公家の意を汲んだ政略結婚だ。政略結婚後に愛がはぐくまれることも多々あるが、アーサーとゼスリーアの間にはない、と断言できる。左大公家の面目をつぶさない程度の夜伽の召しはあったが……ただそれだけだ。しかも内容が伴わない夜が多かったのではないか、とさえセザリアンは推測している。
「まさか……媚」
セザリアンが最後まで言い終わらないうちに、ゼスリーアはパチン、と扇を鳴らした。
「ですから、夫婦の寝室事情を探るのは無粋ですわよ」
妖しい笑みを浮かべるゼスリーアを見て、セザリアンはそれが真実と悟る。
「わ、わかった。もう聞かぬ。しかしだ。なぜ、その子が男子と断言できるのだ」
「断言できるからです。ですから、兄上、国王陛下がわらわを適切にあつかうよう、お願いしてくださいませね?」
確信を持った答え。懐妊するために媚薬を使ったように、おそらく、男子を確信するにあたっても、何らかの手段をこの妹は使ったのだ。そんな手段があるとは知らなかったが、ここまで確信しているからには、きっと手段があるのだろう……どこからその手段を手に入れたかは、恐ろしすぎて問う勇気はセザリアンには持てなかった。
しかし、この妹が何を考えようと、なんだろうと、とにかく今は王太子冊立が最優先だ。
「わかった。これ以上の騒ぎを起こさぬと言うなら、こちらも約束しよう。離宮ではなく、後宮の自室内での謹慎で済むようにする。しかし、子が生まれてその子が男でなかったら――どうなるかわかっておるな?」
「もちろんです兄上」
もうこれ以上は、話しても無駄だ。そう見切って、踵を返し部屋を出ようとする。が。ふと思い至り、ゼスリーアに背を向けたままでセザリアンは質問を投げる。
「念の為聞くが、王太子は手にかけてはおらぬだろうな?」
「ですから、証拠は?」
……振り返らなくてもわかる。今、あの妖艶な笑みを浮かべているはずだ。
「心当たりがあるなら、証拠は徹底的に潰しておけ」
言い捨てると、セザリアンは足早にゼスリーアの部屋を出ていった。
止められる相手ではない。そう悟ったセザリアンは、ゼスリーアの行為を止めることを放棄した。
そのうえで、徹底的にゼスリーアの謀略に付き合い、保護する方向に進路を変えたのだ。
どうせなにかあったら、同じ左大公家の者同士、連座する他ない。どうせ止められないならば、ゼスリーアを保護し、隠ぺいする方が賢いのではないか。
ばれなければ、陰謀などないのだ。
神を祀る家のはずなのに、明らかに神に反する行動だろうな、これは。とセザリアンは自嘲した。
父の言う通り、権力を保持するために努力すればするほど、理想の姿から離れていくのはなぜか。
……アーサーやスーインもそうなのだろうか?……いや、あいつらは違うだろうな。
そう考えるセザリアンの顔に、昏い笑顔が浮かんでいた。
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