間借り
にのまえ
間借り
この思い出の扉を、叩いてくれてありがとう。
これは実録ホラーだ。ホラーと呼ぶにはカタルシスが無いと感じてしまう方もいるだろう。
それでも、私が体験した純粋な恐怖。
それを読んで頂きたい。
小学生の頃、私はよくひとりで自転車を漕いでいた。
地図も目的もなく、ただ静かで、自分だけの風景を探していた。
スマートフォンもまだ普及していない頃だった。
だから、見つけた場所も景色も、すべて私の記憶にしか残っていない。
その日、私は人気のない広い道を走っていた。
ふと視界の端に、不思議な建物が現れた。
廃農場の奥にぽつんと建っている、用途のわからない建物だった。
一階には、何に使われていたのか分からない機械が、ただ一台、そこにあった。
静かで、ほこりっぽくて、でもどこかやさしい空気があった。
私はそのまま階段をのぼった。
二階にはいくつかの布団が、塊になって積まれていた。
乱雑でも整然でもない。ただ、そこに置かれていた。
窓からは夕日が差し込んでいて、舞い上がった埃が光に溶けていた。
私はそこに腰を下ろし、ぼんやりと光を眺めていた。
カビの匂いがした。けれど、それが嫌ではなかった。
誰も来ない。誰にも怒られない。
その場所は住居とは言えないような空間だったけれど――
私にとっては、初めて“自分の家”と呼べる場所だった。
私は実家があまり好きではなかった。
理不尽に怒られることが多く、長男としての役割を背負わされているような息苦しさがあった。
だからこそ、誰もいないその場所が、私にとって安らぎだった。
誰も来ない。誰も口出しをしない。
そこには、ただ私だけがいて、私がいていいと思えた。
それから数年後、私はまた、似たような家に出会った。
あの農場にあった建物の空気に似たそれを、感じる家に。
林の奥、沈みかけた夕日の中で、それはひっそりと佇んでいた。
洋風の別荘のような建物だった。
玄関は閉じられていたが、裏にまわってみると、リビングに面した大きなガラス戸があった。
試しに横へ引いてみると、わずかに軋みながら、それは静かに開いた。
風が吹き込んで、白いレースのカーテンがぶわっと舞い上がった。
その光景に私は、しばらく足を止めた。
リビングには、何人分かの食器が丁寧に並べられていた。
棚には繊細な装飾のグラスが一つ、光を受けて静かに佇んでいた。
キッチンには、古くて立派な冷蔵庫と、重厚なダイニングテーブル、少し錆びたシンク。
空の食器棚。
応接室には、大きな灰皿の置かれた上品な机。
寝室には、ベッドが二つ並んでいた。
どの部屋にも、どこかに人の気配が残っていた。
それなのに、どの壁にも鏡がなかった。
リビングにも、浴室にも、洗面台にも。
あれほど装飾にこだわったような家なのに、一枚も。
そのことに気づいた瞬間、私はようやく、“何かおかしい”という感覚に気づいたのだと思う。
私は階段を上り、二階へ向かった。
廊下に並ぶ部屋のうち、一番奥の扉だけがわずかに開いていた。
その部屋の中、少し奥まった場所に――一脚の椅子があった。
布張りの座面は落ち着いた色合いで、木のフレームは丁寧に手入れされていた。
新しいものではなかったが、誰かが長く大切にしていたような気配があった。
その椅子は、私の方を向いていた。
ただの椅子だ。
でも、私は足を止めた。
誰もいないはずなのに――見られている気がした。
私は部屋に入らなかった。
背を向けるのが怖くて、横向きのまま、視線を外さずに階段を降りた。
玄関を出ると、空はもう暗くなりかけていた。
木々の影が長く伸びて、あたりには肌寒い風が吹いていた。
何も起きなかった。
けれど私は、あの家にもう一度行こうとは思わなかった。
不幸が起きたわけでも、怪異があったわけでもない。
今もその光景だけが、夢という領域に侵食してくる。それだけだ。
間借り にのまえ @bbbbajjd___93
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