人肌

 男には秘密があった。

 誰にも言えない秘密だ。

 秘密はベッドの上にあった。


 男は時価総額でN位を取る企業で、高い地位を得ていた。

 同じ釜の飯を食ったキャリアコースの仲間を幾人も蹴落として得た地位だ。

 競争社会において冷徹さは羨望の的になる。

 品格を守るために、彼は何人たりとも自分の部屋に入れるわけにはいかなかった。


 だから男は女を招くこともなかった。

 しかるべき雰囲気になったときは必ず懇意の星付きホテルの一等室を用意するようにし、厳かな夜を手配した。

 家に行きたいといった女も一人ではないが、彼は頑として拒んだ。女が察するよう、言葉の節目節目に女の影をにおわせた。そうすれば彼女たちは落胆し、反面、この夜が性の責任から逃れようとするものであることに安堵した。


 男の家には誰もいない。生き物と呼べるのは、せいぜい観葉植物一鉢である。


 しかし、彼の寝室にはマネキンがあった。それはベッドの中に横たわっている。


「ただいま」


 男は抑揚のない一声と共に、扉を開けた。

 そこだけが、唯一男が、社会の高級な一部品である己の、スイッチを切れる場所であった。

 この部屋でのみ男は肩書を失うことができた。


 寝間着姿の男は、既に入浴を済ましていた。右手には鈍い色をした、安物の魔法瓶。

 中にはただの白湯がある。

 呑むわけではなかった。

 男は掛布団をはぎ、遠目から見れば無機物だとは分からない程精巧な人形の、これまた人が来てもおかしくない上等な召し物の、袖と裾を捲りあげた。客観的に見れば、ラブドールと行為に及ぼうとする無機物愛者のようであったが、マネキンに貫通用のホールはなかった。

 マネキンの、人よりもハリのある肌の内側には、金属製の空洞があった。中へ繋がるチューブは、二の腕と太ももの一部に、丁寧に偽装された蓋の下にあった。

 丁度、仕組みとしては、男が手に持つ魔法瓶と一緒である。

 男はチューブへと、白湯を注いだ。

 こんこんという音と共に、寝室に湯気が立ち、マネキンの中が白湯で満たされていく。

 その工程を、男は四肢全て、四回繰り返した。

 動作は慣れたもので、一滴たりとも、シーツに湯が零れることは無かった。


 マネキンは、温度で満たされた。

 これで今日も男は深く眠ることができる。

 男はマネキンに掛布団を被せた。その後、ベッドへと潜り込み、自分も布団を被った。

 ベッドのサイズはダブルである。男はその上に、自分以外の人間を乗せたことは無かった。

 リモコンで照明を落とし、少しみじろぎして寝ずまいを整えた後、

 男は足の指先を自分の掛布団から出し、隣の掛布団の中へ潜り込ませた。


 男は人肌が無いと眠れない。それが誰にも明かせない秘密である。

 物心ついてから、母を失った後でなお、悪癖は直ることが無かった。

 脚の指先に体温を感じることで、男は眠りの前、自分というものを規定する、社会という大きなしがらみの奥の奥に形成された、自分の全身を象った空洞から、抜け出すことができた。

 男は深く息をした。眠る前に一杯だけ、ウイスキーを飲んだ。鼻に残る甘やかな香りが神経細胞を痺れさせ、男を透明無色な眠りへ落とした。


 朝目覚めると、マネキンは体温を失っていた。

 それはいつものことだ。

 自分が心を赦す人肌が、生き物でないことを自覚する。一度死体に触れたことがあるから、その冷たさが『死』のそれでないこともよくわかった。

 小針のささったような無機質な傷みが、彼を昨晩の眠りの前から、社会へと復帰させるのだった。


 **


 二年後、彼は職を失っていた。

 運が悪い話だった。


 彼は毎晩、自分に必要なのが人間でないことを理解するくせに、時折、生きた女を欲する癖があった。そのくせ、朝、寝息を立てる女を見ては、自分から肌を離し、別個の生き物として、自分の管理できない生命活動をしていることに、失望を繰り返すのだった。

 さて、そんな事情はひとまず置いておくとして。

 選んだ女が不味かった。


 懇意の企業の、家出娘と関係を持ってしまったのである。

 金で関係を持ったことも、男にとっては珍しい事だった。社会的成功者の肩書は、金など出さずとも樹液のように女を呼び寄せるからだ。

 しかし、あの日、行きつけのバーで、一人迷い子のように肩を縮めていた彼女を男は見つけてしまった。目が合ったとき、二人の間に微弱電流のような共感が生れた。女は男の方へ擦り寄り、関係を持ちかけた。料金は10万。相場を知らない不埒さに、むしろ男はまぁいいかと心を動かし、一夜の関係を持った。

 彼女の目に、しがらみから逃れようとする一抹の孤独を見たせいもある。胸に生れるのは、雨の中、踏まれて崩れた落ち葉を見たときの哀愁に似ていた。


 さて、彼女は偽名を使い、年齢の嘘をついていた。


 そして彼女はきっと、破滅願望を持っていたのだろう。後日、理の薄いことに思えるが、彼女は男を訴えた。

 大ごとにできるはずもない男が務める企業と、懇意の企業、二社の隠蔽努力は、却って煙を出した。匂いを嗅ぎつけたマスコミが蠅のように群がり、きっと彼女の思惑通り、大ごとになった。


 落としどころは、法的罰則を伴わない和解であった。そのために、男という社会的存在は犠牲になった。男は職と多額の示談金と、同業には生涯忘れられることのないであろう悪名を持って、一夜の過ちを償った。


 三年をかけて、一連の火事は終息した。


 **


 男は社会的に死んだが、生命活動は続いていた。

 大きな代償を払ってなお、蓄えは残った。

 部屋を引き払い、慎ましい衣食住を選べば、もう働かずとも死ぬまで生きることができた。


 この時点でなお、男の秘密は誰にも知られることは無かった。

 それが唯一、男に残った希望であった。


 男はマネキンを厳重な梱包を伴って、家賃6万の1LDKへと居を移し、透明無色な、無職の生活を手に入れた。


 **


 四年後、男は軽度のうつに苛まれながら、軽度の引きこもりとして生きていた。

 三十数年の習性は直ることがなく、社会人時代から変わらず彼は毎朝5時に起き、清潔なワイシャツに着替える。そして空白となった勤務時間を埋め合わせるように、家事と買い出しの時間を緩慢に引き伸ばし、毎日を過ごしていた。


 生活は『清貧』という言葉がよく似合うものだったが、唯一増えた下品さと言えば、眠る前の飲酒量が増えたことだ。


 そして彼は、少しずつ変わり、朽ちていく、時間というものに怯えていた。


 倹約せず買いなおしたダブルのベッドの上で、変わらずマネキンは眠り続けていた。

 しかし、マネキンの柔らかな肌は、滅び始めていた。

 元々、耐用年数は二年も保たないものである。


 オーダーメイドの特殊機構は、懇意の製造者に金を積んで無理を聞かせたもので、今まで取り換えてきた度、数百万は支払ってきた。


 その金で、今の男は二年生きることができる。

 男は懊悩した。考えるための時間は湯水のようにあったけれど、いつも思考は堂々巡りだった。

 二年を共に眠るために、二年分の日銭を失っていては、残った蓄えもいずれ底をつく。男の目の前に続くのは、二つの細い道。薄靄の向こうへと続く果ての見えない砂利道か、同じように見えて、等間隔に花の咲く砂利道。

 しかし後者は、肉眼で見果てる先に大きな黒い穴が空いている。

 二つの道は隣り合っていて、男は一歩、一歩と二つの道の中間を歩み続けていた。

 ぬかるんだ道だ。黒い革靴は泥で汚れた。せいぜい四年前まで、汚れたことなどなかった革靴が。


 **


 毎夜、男は熱された鉄に触れる前のように、そっと、掛布団の下から脚の指先を隣へと潜り込ませていた。

 乾いた肌はまるで老婆に触れるようで、熱は緩衝されることなく伝わるものだから、まるでマネキンは、熱病に侵されているかのようだった。

 そのぬくもりが男の脚の指先に伝えるのは、緩慢な死である。


 指先を離して眠りにつこうとしても、できなかった。

 そうしようとしても、他者から隔絶された繊維の感触が、彼を世界から、彼の全身に沿って切り取った空間だけ、隔絶する。

 無音で、温度もなく体積もないのに、圧倒的で重々しい何かが、彼を取り囲んで、無の中に存在する自己を際立たせる。

 連綿と続く束縛の中から抜け出すため、彼はやはり人肌を求めた。

 そして熱に触れる。

 熱の不自然さに怯えながら、自己が社会の無い場所で接続していることに安堵し、今日も、男は眠りの底へ落ちていく。


 そこには無色透明ばかりがある。

 きっと、生れる前にもあったものだ。


 **


 課程は省略するが、何十年かの後、男は死んだ。

 病院のベッドの上で、一人で死んだ。

 その眠りが、生きていて初めて、誰の肌にも触れず陥った眠りであった。

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