一億年後・来世・出会い――

五三六P・二四三・渡

第一章 明日生まれるあなたのために

 心地よい水の中にいた。

 上も下もない。抽象的な夢が脳内を時折流れる。

 自分は一体どのような形をして、そして今何処を漂っているのだろうか。目が開いてからも、しばらくその思考が続いた。

 視界にはただ黒があった。そしてゆらめいているのが分かり、次に水面だと感づいた。

 泳ぐ必要もなく、ただ水の中を浮き、水面のゆらめきだけを見つづける。その中で少しずつ光の存在に気付いていく。

 その光の正体を知らんとした。手や足があるはずだ。だが思うように動けない。それでも身体はあるようで、次第にそれらの存在を実感するようになっていった。

 手のひらを水につける。指を曲げると水が逃げていき、そしてまた戻っていく。波紋と水音が発生した。

 音が返ってこない。深い池か、海に違いない。

 このまま水上まで上がったところで、どうしようもないだろうか。

 ふと、ささやくような、それでいて響く声が聞こえた気がした。その声を聞き取ろうとするも、うまくいかない。声は大きく感じる時もあれば、無音に等しい時もあった。しばらくして、声が流れていたことも忘れるほどに時間がたったかと思えば、絶え間なく聞こえることもあった。

 やがて、声は次第に大きくなっていき、ようやく聞き取れるようになるころには自分という存在をしっかりと意識していた気がした。


『こんにちは。聞こえてる?』


 焦がれていた声だったが、聞き取れたときにはさしたる感動もなく受け入れることが出来た。

 しかしどう答えたものかわからない。

 と、そこまで思った時に口があったのを自覚する。そして喉を震わせれば、音声となって伝えられることを本能として得た。


「聞こえています。何のようです?」

『えっと、本来は別の人が質問するはずだったんだけど、こっち側のゴタゴタで部署そのものが解体されたから、私が代わりに質問してる、ということをまず了承して欲しいんだけど』

「はぁ」

『あー、あまり納得いってなそう? 本来ならマニュアルに沿って説明するんだけど、引継ぎがうまくいかずそれ自体が紛失したみたい。だからこういったスマートじゃない質問の仕方になるんだけど……まず初めに言うとあなたの正体は、これから生まれてくる赤ん坊の代弁をするためのシミュレーション人格なの』


 意味不明な単語に思えるのだが、その説明を聞いた途端理解していき、そしてまた分からなくなる。


『私が話しているのは、この世界に産まれ、成長をすることになる、つい最近まで卵細胞として存在していて、いずれ母体を出ていくだろう君の人格の核の部分。あー、言い直してみると、君はこれから赤子として生きていくであろう新しい魂のようなもので、そして君はこの後産まれてくるはずなんだ。私たちがあなたに話しかける目的だけど、この世界の情報を渡して、生まれたいかどうかを聞いているの。えっと、このボタンだっけ……』


 そう言い終わったと同時に、頭の中に情報があふれだした。まず第一にわかったのはこのシステムは昔の小説に出てくる水棲の妖怪の風習を真似たものらしい。そして、この世界の悪い部分と良い部分が流れてくる。悪い部分は戦争や飢餓、個人的な暴力や虐待、社会から孤立する可能性、精神的な苦痛の情報が流れてきて、それに対して、よい部分としてそれらは改善に向かているということ、美しい景色の映像が流される。心地よい風や、波の音。温かい日光。木々の匂い。草や土を触るとどういった手触りが返ってくるだろう。そんなことが想起させられるような音とイメージが送られてくる。それに加えて、生理的な快楽の良さ、社会を継続することの使命感と達成感、大切な人と過ごす時間、などが感情と共に送られてくる。

 それらを感じて、思う。


 生まれる理由などどこにもないのでは?

 もう生まれてしまったのであれば、後者を慈しむ余裕はあるかもしれない。しかし、幸福と不幸は相対的ではないので、苦痛を感じた後に幸福を感じても苦痛自体をなかったことにはできない。であるならば、生まれる理由などどこにもない。

 であるならば、生まれる前に選べるというのであれば、生まれる理由などどこにもない。

 しかし。


「すみません。このシステムは破綻していませんか?」

『はい』

「どうして自我が存在する前に存在させてしまったんですか。真に生まれる前に、生まれることを選択できる意思を作ったのならば、それはもう生まれているのと同じです。ならば存在したくないという意思はもうかないません。『生まれたい』、か『消えたい』の二択になります」

『一応言っておくと、あなたはあくまで疑似人格で意識は存在しない。さっき魂とか言ったけど、あくまでプログラムだから。記憶も引き継がれるわけではない』

「それでも、私という意志が存在している以上、選択した後には後悔しなければいけないんです」

『まあ、そうだね。私たちは無萌学ネイビズムって考えの元、活動を行ってるんだけど、これを作った派閥はかなり異端よりだったの。だから主にあなたが言った理由で解体することになった。少し話は変わるけど無萌学者ネイビストの中に中絶反対派はいないという考えが結構長い間あったんだけど、しばらくたって、「もしかしたらそんなことはない? 心底嫌だけど中絶論は別の論点なので、ここは協力したほうが得策なのでは? 中絶論はまた別の場所で争うと言うことで」 みたいな流れがあったの。「むしろ中絶禁止派こそこのシステムを勧められるのでは?」 と異端派も考え出した。生まれる前に意識を作ろことは生まれる前の命を明確にするシステムだから。中絶論と無萌学ネイビズムはまた別の論点であって、論点が別であるならばそれを強調するために作られた静止が卵子に着手した瞬間を固定して意識を発生させるシステムを開発中だったりするんだけど……さっき言った元ネタの小説の話だけど、具体的には、妖怪の赤ん坊は母親の胎内から「生まれるかどうか」を尋ねられ、そこで赤ん坊自身が「生まれたくない」と答えることも可能だと描写されている。この場合、赤ん坊が生まれることを拒否すると、実際に生まれずに済むという設定。胎内の赤ん坊が「生まれたくない」と選択できる設定は、個体が生まれる前の段階で自己決定権を持つという極端なアイデアを提示していたの。これは、女性の身体や出産に関する自己決定権、ひいては中絶の選択を肯定する視点とつなげて読むことが可能なんだけど。また逆に今まで話していた胎児が漏斗を入れて『生まれなくされる』描写はショッキングな印象を与え、それは中絶を否定する描写のようにもとれる。つまりはその小説は、特定の倫理的立場を明確に主張する作品ではなく、人間社会の矛盾、偽善、抑圧を風刺し、読者に疑問を投げかけることを目的としてているはず。その場面も、中絶そのものを直接扱うというよりは、自由意志、社会的圧力、生命の価値といったテーマを寓話的に提示するものと考えられる。……という感想が一般的なの。その小説を読んで「すばらしい! 是非ともこのシステムを採用しよう!」となる人は限りなく少ないんじゃないかな。システムが先にあって、とりあえず結び付けてみただけみたい』

「そうみたいですね」

『こういういいかたすると、変に中立ぶってるように聞こえるので、私の意見としては中絶の自由は保証されるべきだと表明するけど……どうする?生まれたい?生まれたくない』


 少しだけ考えて言った。


「生まれたくはないです。でも、消えたくはないので生まれます」

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