007 ユン・ジンイーの手帳②
時計の短針が、五と六の間を指していた。日没はもう始まっている。まもなく夜が来る。
「よし」
ジンイーさんは椅子を引いて姿勢を正した。
「まず情報の共有からしよう」
「はい」
「私は今夜、君とこの教会から逃げたいと思ってる。それは、私達に命の危険があると思うからなんだけど……」
細い指がコツコツと机上を叩く。
「そもそも、私がそう思う根拠から話すね。私のページを見てくれる?」
「これですか?」
「そう。私の
「えっ」
思わず声が出てしまった。嘘を見抜く能力?
(つ、強すぎないか?)
彼女の
「ドゥルガくんと君をこの部屋に運んだ後、彼に自室で待機するよう言われてね。室内でこの手帳に情報を書き出していたんだけど……書いてたら能力を試してみたくなっちゃって。こっそり教会の中を探検してみたんだ」
それが午後三時頃のことらしい。散策したジンイーさんによると、選徒教会は正門に対してコの字に建っていて、左の棟に食堂や講堂があり、右の棟が宿舎になっている。中央のチャペルから正門までは草っ原の丘を下る必要があり、チャペルの裏手は切り立った崖だ。
「途中でたまたまドゥルガくんに会って、君の部屋に一緒に行くことにしたから、そんなに色々見れたわけじゃないんだけど……結果的に得られた情報は二つ。一つは、私達と他の信徒ではトゥニカの色が異なっていること。もう一つは、初日の夜に行われる行事があること」
トゥニカとは、神に仕える者の衣装のことである。僕とジンイーさんが今まさに身につけているものだ。ワンピースみたいなひと繋ぎの生地で、フードが付いており、模様はない。腰あたりでウエストを絞れるようになっていて、色は黒である。
「私と君だけ黒で、他の信徒は白なの」
「白?」
対極の色だ。そんなにあからさまに色が違うことがあるだろうか。
「代理戦争について話してくれたドゥルガくんの発言に嘘はなかったから、そこから察するに……代理戦争ってかなりしっかり体系化されているでしょ? だから、たまたま信徒の数が多くて服が足りなかったとは考えにくいと思うの」
「それってつまり、あえて色を変えてるってことですか?」
「うん。もし、あえて色を変えてるのだとしたら、それに意味がないわけないでしょ? でも、じゃあ色を変える意味って何だろうと思って、何かの目印なんじゃないかって結論に至って」
「目印……」
僕はふと思い出したことを言ってみた。
「あのお披露目会……じゃなくて、えっと」
「降臨の儀?」
「そうです、降臨の儀。その時聞いたことでちょっと思い出したことがあって」
「え、なになに?」
「今度は二人、って言ってたんです。誰の声かまではわかりませんでしたが。右端と真ん中、って」
【今度は二人。男と女。右端と真ん中】
「ジンイーさんって、あの時どこにいましたか?」
「……そういう意味で言うなら、確かに集団の真ん中だったかも」
「僕は、えっと」
「君は左。いや……私達が見られる側だとするなら右端か。なるほどね」
ジンイーさんは得心したように何度も頷いて、
「誰かに何かを伝えるための目印、っていう線は間違いなさそうだね」
「はい」
「そこでもう一つ共有しておきたいんだけど、チャペルで立ち話をしてた職員の話を盗み聞いた限りだと、今日の夜、間引きなるものが行われるらしい」
「間引き?」
「言葉通りに捉えるなら、間引きって、植物を栽培する時に、密集した苗や作物を間引いて、残ったものが健全に成長できるようにする作業のことでしょ? でも、それをわざわざ夜にやるのは不自然だよね」
「たしかにそうですね」
「だから、これは隠語なのかなって。それでいて、このタイミングで数を減らすものって言ったら」
「え……信徒、ですか?」
「そう、私も同じ結論。目印のトゥニカ。夜の間引き。これが意味するのは、『今夜マークの付いた信徒を強襲しなさい』と誰かに伝えているんじゃないかってこと」
「ちょ、っと待ってください」
口に手を当てて考える。
「もしそうなのだとして、それを、誰が何のために伝えていることになるんですか? この教会の中で、信徒同士で戦うのは禁止されているのに……信徒を殺してメリットがあるのは同じ信徒だけなんだから、別の人が数を減らしても、何にもならないんじゃ」
「それだよ」
ジンイーさんが掌を打つ。それ?
「信徒の、私闘は禁止されている。おかしいと思わない? その言い方、信徒じゃないなら良いって言ってるみたいだよ」
納得してしまった。確かにそうかもしれない。
「加えて、この代理戦争には、私たちの考える普通の戦争と違って、明確なルールがある。どちらかというと戦争というより……多分ゲーム、に近い」
神様なら、あり得るのかもしれない。人間という駒を使ったサバイバルゲーム。ゲームなら、フォルトゥーナさんが『公平性』を重んじていたことも、選徒教会が教育の場であることも、国を出るまで信徒同士で争えないことにも納得がいく。つまり今は、所謂チュートリアルの段階なのだ。
「運営側--この場合で言えば、教会の人間が、多すぎる信徒の数を初日にあらかじめ減らしておいて、戦争の効率化を図ってもおかしくない」
「……でも、そんなことをしたら、減らされた信徒を選んだ神様が黙ってないんじゃ」
「そうだね。だから、これはあくまで仮説」
仮説と言う割に、ジンイーさんは何かしらの確信を持っているようだった。けれどそれを僕に話すつもりもないようだった。
「それからね」
ジンイーさんは困ったように笑う。
「これは伝えるべきか迷ったんだけど……」
「はい」
「ドゥルガくんの台詞、覚えてる? 最後に私たちに言ってくれた励ましの言葉」
【だから今、お前たちを脅かすものは何もないよ。安心していい】
「えっと、それが、どういう」
ジンイーさんの表情を見てハッとする。彼女の
「……うそ、なんですね」
だからあの時、ジンイーさんは驚いたのだ。それまで真実を語ってくれていたドゥルガさんが、一番ついてほしくないところで嘘をついたから。
「正直に言うと、ドゥルガくんに全てを話して手を貸して貰おうと思ってたんだ、あの時までは」
「…………」
「彼は降臨の儀で君が倒れた時、他の誰も駆け寄らなかった中で、唯一すぐに助けに来てくれた人なの。君を部屋に運んだのも、後処理をして着替えさせたのもドゥルガくん。さっきだって、私達の食事をわざわざ持ってきてくれて」
僕は頷いた。彼は親切で優しい。
(でも、きっとそれだけじゃない)
「君を、すごく心配していたみたいだった。だから、話せば力になってくれるかもって思ってたんだけど……」
伏せられたジンイーさんの黒い瞳。その虹彩は、黒曜石のように鈍く光っている。
「でも実際のところ、彼は私たちがこの教会で安全じゃないことを知っていた。多分、トゥニカの色の意味も、夜の間引きについても。だから、彼には話せない。信用しきれなかったから」
嫌な想像が過ぎる。間引きとは、園芸や農業の用語だ。それが本当に隠語なら、庭師という職業も隠語の可能性がある。
ドゥルガさんの芯まで凍るような冷酷な視線を思い出す。しない足音。庭師という職業につけられた敬称。右掌の親指の付け根の古傷。
(ま、さか)
強張った僕の表情に何か感じたのか、ジンイーさんが手を振って「考えすぎだよ」と笑った。
「ごめん、変なこと言ったね。ドゥルガくんが発言を偽ったのはあの一度きり。それ以外の言葉には、一切嘘はなかったよ。……それに、そもそも私の
本当にそうだろうか? 転移して数時間で、自分の力をここまで理解して上手く活用出来る人が、あの時だけ気のせいだったなんてことがあり得るとは思えない。
「とりあえず、ドゥルガくんのことは一旦置いておこう。私たちが今考えなきゃ行けないことは、これからのことだよ」
「……信徒を間引きする人がいて、その決行が今夜だから、ここから逃げなきゃいけない」
「その通り。どうして狙われているのが私たちなのかはわからないけどね」
降臨の儀で聞こえた声は、今度は二人、と言っていた。今度は、と思考するということは、同じようなことが全ての降臨の儀であるということだ。毎回あるなら、恐らく間引きに選ばれる信徒にも明確な基準がある。
ジンイーさんの手帳に目を落とす。
(何か、ヒントがあれば)
太陽が落ち、部屋が薄暗くなってきたからか、文字が見づらくなってきていた。先程より顔を近づけて手帳を覗き込んでいると、パチン、と軽快な音と共に部屋の電気が付く。ジンイーさんが付けてくれたらしい。
「だいぶ暗くなってきたね」
「はい」
「ここは周りに建物もないし、みんなが寝静まった夜中は、きっともっと暗くなるよ。私たちのトゥニカは黒だから、フードまで被れば夜の闇に紛れやすい。運が天に味方してるかも」
ふと思う。運は天に味方しても、運が僕たちに味方してくれるとは限らないんじゃないかと。だって、他ならぬその天の神様のせいで僕たちは殺し合わなきゃいけないのだから。
見やすくなった手帳には、ジンイーさんの力強い右上がりの字がびっしり踊っている。その中には運と銘打たれた項目の数値があって、彼女のページには九と書かれていた。
(……何点満点の、評価なんだろう)
最高値がいくつかはわからないが、彼女の精神力の数値が十八であることを考えると、九という数字は、お世辞にも高いとは言い難かった。そしてそれ以上に。
運:3
僕がいるならば、きっと運は僕たちには味方しない。そんな強い予感があった。
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