学校を作ろう
平井敦史
第1話
「うむ、決めた。ここに学校を作ろう」
殿様の突然の言葉に、家臣たちは皆顔を見合わせた。
「お、お待ちを、殿! この地へは父君、祖父君の墓所を求めて来られたのではなかったのですか?」
「その件はその件で継続する。ここは静かで、学問をするには最適だ。そうは思わぬか?」
と言われても――。家臣たちとしては困惑するしかない。
殿様はたいそう学問を好んだが、その家臣たちは必ずしもそうではなかったのだ。
殿様の名は
時に
光政は、
父・
姫路から鳥取に移された光政。
その際に四十二万石から三十二万五千石に減封されたにもかかわらず家臣団の
数え年二十四歳の時、彼の叔父である備前岡山藩主・池田
以来三十四年、光政は領内の開発や治水事業、産業振興を進める一方、学問も奨励してきた。
しかし、家臣たちの中には、学問など何の役にも立たぬと考える者も少なくない。
「学校でしたら、すでにご城下にございますでしょう」
光政は儒学者の
「あれは藩士のための学校であろう。この地には、庶民も通える学校を置こうと思う。その
庶民のための手習い所の数も、すでに数百箇所に及んでおり、その運営費用も馬鹿にならなくなっていた。それを整理すると言われては、家臣たちも黙らざるを得ない。
「
「はい、ここに」
光政に呼ばれて
十四歳の時に光政の
「その
「は、謹んで拝命いたしまする」
永忠はかしこまってそう答えた。
いや、彼とて困惑はある。
この地――
それがいきなり学校などとは。
しかしその一方で、大仕事を任せられたという高揚感もあった。
主君に目を掛けられている若輩者に対し、老臣たちが舌打ちする音も耳に入ったが、永忠は気に留めなかった。
永忠は、併せて墓所造営の奉行にも任じられ、和気郡
さらに、これをきっかけに土木関係の仕事を任されるようになり、新田開発や治水事業の数々も手掛けることとなった。
主従が木谷村を訪れてより四年の後、本格的に学校の建設が進められることとなり、同時に、
その三年後には、
講堂で、子供たちが
庶民のための学校、といっても、すべての子供たちに基礎教育をほどこす、といった近代的なものではもちろんなく、領内の富農の子などを中心に、地域の担い手を育成するのが目的の学校だ。
講堂の脇に建てられた「
「居眠りをしている者はおらぬようじゃな」
「
永忠は赤面した。
彼が十六歳で光政の児小姓だった時の話だが、不寝番を勤めていた永忠は、不覚にも居眠りしてしまい、夜半に光政から今
家に帰ってから、永忠は今更ながらとんでもないことをしでかしてしまったと
実際、永忠に豪胆な一面があったのは確かである。
光政に目を掛けられ、土木事業においては大胆な発想力で数々の業績を残した彼だが、その異数の出世と、上役に対しても歯に衣着せぬ物言いで、多くの敵を作り、
それに屈しないだけの強さが永忠に備わっていることを、光政は見抜いていたのであろう。
「のう、重二郎よ」
「はい、大殿」
「学校はひとまず形を
「幾百年……でございますか」
「そうよ。学問は国の
「かしこまりました」
光政の言葉に、永忠は深く
「幾百年先までも、か……」
大殿のお帰りを見送り、一人になって、永忠は今一度呟いた。
元々、学校の増改築は以前から決まっていたことではある。
だが、何百年も壊れることのない建物ということになると、色々見直さねばならない。
永忠は大工の
「えっ? 瓦の下に土を盛らぬのですか?」
永忠から話を聞かされて、
この時代、屋根瓦を葺く際には、
「うむ。屋根に土を盛っては、
「しかし、土を盛らねば、雨が降れば瓦の隙間から水がしみ込んで、野地板が朽ちてしまいましょう」
「それはその通りだ。だから、こんなものを作らせた」
そう言って永忠が取り出したのは、
「
「ははあ、なるほど」
下役は、そんなやり方で上手くいくのだろうかと半信半疑ながら、永忠の指示に従い、工事を進めていった。
瓦についても、
元々備前焼は、
その技法を用いて、通常五,六十年程度とされる一般的な瓦よりもずっと長持ちするものを作ろうとしたのだ。
また、地震対策としては、屋根以外にも、支柱を礎石に埋め込んでしまわず、乗せるだけにして、揺れを逃がす工夫をするなど、あまり地震の多くない備前の地にあっても、万一のことの無いよう、万全を期した。
そして、永忠が何よりも気を配ったのは、火災対策である。
講堂には冬場
また、閑谷の学校には、遠方からも生徒が来ており、彼らのための宿坊が設けられたが、煮炊きで火を使う宿坊と講堂との間には
さらに、何百年先までも学校を存続させるための工夫は、
そのことにより、学校の運営が藩の方針に左右されぬようにしたのである。
極論、池田家がよそに国替えになり、他家が岡山の地を治めることとなっても、学校が廃されることの無いように、というための方策であった。
こうして学校の整備を進めていった永忠であったが、その間、学校のことだけに専念していられたわけではない。
ことに、
また、新藩主綱政の命で、
そうした中、
永忠は心の支えを失ったような思いに囚われたが、悲しみに浸ってばかりもいられない。
学校の建設を進めながら、常に永忠が考えたことは、亡き大殿ならばどのようになさるだろうか、という問いかけであった。
元禄十四年(1701年)、ついに閑谷学校の講堂が
最初にこの地を訪れてから、実に三十五年。
永忠の胸にも感慨がこみ上げるのだった。
なお、全くの余談であるが、この年は、お隣の
その翌年、永忠は学校の敷地の東側に
椿は光政が好んだ花だ。
徳川第二代将軍
しかしながら、光政が椿を好んだ理由は、質素倹約を旨とした彼らしく、
ちなみに、椿は花の落ちるさまが打ち首を連想させることから、武士はこれを
防火林としての意味も持たせた椿の生け垣を抜けた先に、供養塚が築かれ、そこには光政の髪や歯、爪などが収められている。
その前に
「大殿、見てくださっておりますか。どうか、この学校を幾百年先までも、お守りくださいませ」
光政が夢に描き、永忠が体現した理想は、今も閑谷の地に、静かに佇んでいる。
――了。
学校を作ろう 平井敦史 @Hirai_Atsushi
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