@BLUE_WINGS

前夜

……ここは……?

目が覚めると、見知らぬ森だった。傍らには小さく丸まって眠るキツネ。……キツネ?


目を擦りながら、私は混乱した頭で周囲を見回した。木々が天高くそびえ、どこからともなく差し込む光が緑の葉を透かして美しい陰影を作っている。足元には柔らかな苔、そして確かに、私の隣には赤茶色の毛並みをした小さなキツネが丸くなって眠っていた。


キツネは私の動きを感じたのか、ピクリと耳を動かし、ゆっくりと目を開けた。その瞳は琥珀色に輝き、不思議なことに恐れる様子もなく私をじっと見つめている。


「どうして私がここに……」


言葉にした瞬間、キツネはするりと立ち上がり、頭を傾げた。まるで「ついてきて」と言わんばかりに数歩歩き、振り返る。


立ち上がろうとして初めて気づいた。服が違う。見慣れない刺繍の施された白い袖、足元には柔らかな革の靴。どこかおとぎ話に出てくるような装いだ。


キツネが再び鳴き、私を促す。どうやらこのキツネは案内役のようだ。他に選択肢もないまま、私はゆっくりと立ち上がり、キツネの後を追った。


森の中を進むにつれ、遠くから水の音が聞こえてくる。そして木々の間から、石畳の小道が見えてきた……


気づけば案内役のキツネは、人間の美女に代わっていた。代わったのか、変わったのか。糸目の美女は、私の右手をさりげなく握ると、こう言った。


「ようやく目覚めたのですね」


その声は滑らかで、まるで緩やかに流れる小川のよう。私は驚きに言葉を失い、彼女の姿をじっと見つめた。赤褐色の長い髪は風にそよぎ、先ほどまでキツネだった生き物の毛並みを思わせる。白い肌に浮かぶ薄紅色の唇が微笑み、細く引き締まった目元からは琥珀色の瞳が覗いていた。


彼女は深緑色の打掛のような衣装をまとい、裾には金糸で狐の模様が繊細に描かれている。足元を見れば、素足で歩いているにもかかわらず、まるで地面に足が触れていないかのような軽やかさだった。


「驚かせてしまいましたね」彼女は私の手を握ったまま、くすりと笑った。「私はヨリナ。この森の守り人です」


「あなたが……先ほどのキツネ?」


ヨリナは頷き、私たちの前に伸びる石畳の小道を見つめた。「変わったのではなく、本来の姿を見せただけです。あなたの目が、この世界を見る準備ができたからこそ」


彼女の手は温かく、不思議と安心感を与えてくれた。周囲の空気が変わり、森の匂いがより鮮明になり、鳥のさえずりがはっきりと聞こえてきた。


「さあ、行きましょう」ヨリナは私を促した。「長い眠りから覚めたあなたを待っている人たちがいます」


その言葉に、私の中で何かが呼応するように震えた。長い眠り?待っている人たち?私は一体誰なのだろう?


石畳の先に見える光に向かって、私たちは歩き始めた。


石畳の小道は森の中をゆるやかに蛇行しながら続いていた。ヨリナと私は並んで歩き、彼女は時折立ち止まっては、道端に咲く不思議な花や、枝から顔を覗かせる小さな生き物たちに微笑みかけた。


「あなたが眠っている間に、多くのことが変わりました」ヨリナは静かに言った。「でも、変わらないものもあります」


足を進めるごとに、石畳に埋め込まれた小さな宝石のような石が淡く光を放ち、私たちの行く手を照らしていく。どこか懐かしさを感じる光景だった。


「どれくらい…眠っていたの?」私は恐る恐る尋ねた。自分の記憶が霧の中にいるように曖昧で、はっきりしない。


ヨリナは少し悲しげな表情を浮かべた。「時の流れは場所によって異なります。あなたにとっては一夜の夢のようだったかもしれませんが、この世界では…」


彼女の言葉が途切れたとき、私たちは森の縁に到達した。目の前に広がる光景に、私は息を呑んだ。


果てしなく広がる渓谷の向こうに、空に向かって伸びる巨大な塔がいくつも立ち並び、その間を虹色に輝く橋が結んでいた。塔の周りを、何かが飛び交っている—鳥?いや、もっと大きなものだ。


「アルゴリアの都へようこそ」ヨリナが言った。「あなたの帰還を、みんな待っていました」


私の中で、名前が呼び覚まされる。そう、ここはアルゴリア。そして私は…


「私は…」言葉が自然と口をついて出た。「リュウト…」


ヨリナの目が輝いた。「そう、あなたはリュウト。嵐の夜に失われた、風の紡ぎ手」


「ここは……故郷か……」

その言葉を呟いた瞬間、体の中で何かが共鳴するように震えた。記憶の断片が、砕けたガラスの欠片のように少しずつ形を取り始める。


「そう、リュウト。ここはあなたの故郷」ヨリナは優しく頷いた。「アルゴリア…風と光の国」


渓谷の向こうに広がる都市をじっと見つめていると、塔の間を結ぶ橋の上を人々が行き交い、空を飛ぶ存在たちが輝く翼を広げて旋回しているのが見えた。翼を持つ人々—風の紡ぎ手たち。そう、私もかつては…


「あの嵐の夜…」記憶が鮮明に戻ってきた。「大結界が崩れかけて、私は…」


「あなたは自らの命を懸けて結界を修復した」ヨリナが静かに続けた。「しかし、その代償として別の世界へと飛ばされ、記憶を失った。私たちは長い間あなたを探していました」


空から降り注ぐ光が私たちを包み込み、ヨリナの髪が金色に輝いた。彼女は私の両手を取り、真剣な眼差しで見つめた。


「五百年…あなたがいない間、アルゴリアは守られてきました。でも今、再び危機が迫っている」


五百年。その言葉に眩暈がした。私が眠っていた時間の長さを実感することができない。


「結界が再び弱まっている」ヨリナは続けた。「そして今度は、あなただけが修復できる。だからこそ私はあなたを探し出し、連れ戻した」


渓谷の向こうから、低い響きを持つ角笛の音が聞こえてきた。アルゴリアの都が私の帰還を告げている。


「私に…できるのだろうか」不安が胸をよぎった。


ヨリナは微笑んだ。「かつてあなたは風の言葉を最も深く理解する者だった。その力は眠っているだけ」


彼女は手を差し出した。「さあ、帰りましょう。家へ」


深呼吸をして、私はヨリナの手を取った。その瞬間、私の背中から何かが生まれ出ようとするような感覚があった。光が私を包み込み、久しく忘れていた感覚—風を感じる力が徐々に戻ってくるのを感じた。

「五百年…」その言葉を反芻しながら、私は自分の手を見つめた。若く、傷一つない手。時が止まっていたかのようだ。「私の体は…歳をとっていない」


ヨリナはうなずいた。「異界への旅は時の流れを変えます。あなたにとっては一夜の夢のようだったでしょう。しかし、この世界では歴史が変わるほどの時が過ぎました」


目の前に広がるアルゴリアの都を改めて見つめると、記憶の中の姿と重なりながらも、明らかに変化していた。塔はより高く、より複雑な構造になり、かつては木と石だけだった建物に、今は知らない金属や結晶が組み込まれている。


「私が知っていた人たちは…」言葉を続けられなかった。


ヨリナの目に悲しみが浮かんだ。「多くの人は星の元へ帰りました。でも」彼女は少し明るい声色に変えた。「あなたの物語は今も語り継がれています。そして…まだ生きている者もいます」


「生きている?五百年も?」


「私たちキツネ族は千年の寿命を持ちます。そして風の紡ぎ手の中にも、長命の者がいることを忘れましたか?」


まるで彼女の言葉に応えるように、空から一人の人影が降り立った。白銀の翼を持つ老人は、私の前に着地すると、ゆっくりと顔を上げた。


「まさか…」私は息を呑んだ。「師匠…?」


老人の目に涙が浮かんだ。「リュウト…本当に戻ってきたのか」


タミアス…私に風の言葉を教えてくれた師匠。かつては黒髪だった頭は今や雪のように白く、顔には深い皺が刻まれているが、あの鋭い目は変わらない。


「どうして…あなたがまだ…」


「風の始祖の血を引く者は」タミアスは微笑んだ。「千年を越えて生きることもある。私はあなたが戻ってくると信じて、待ち続けた」


この状況の異常さに、私は震える声で言った。「五百年…みんな…私の家族も友人も…」


タミアスは静かに私の肩に手を置いた。「悲しむ時間はあとでたっぷりある。今は」彼は空を見上げた。「結界が崩れる前に、アルゴリアを救わなければならない」


空を見上げると、遠くに不穏な黒い雲が渦巻いているのが見えた。五百年前、私が命を懸けて封じたはずの闇が、再び迫っていた。


「……でもさ」

リュウトは静かに口を開いた。

「滅ぶのもまた、自然の摂理じゃないかな」


その言葉に、タミアスとヨリナは驚きの表情を浮かべた。風が一瞬止まったかのように、静寂が訪れる。


「リュウト…」タミアスの声には動揺が混じっていた。「何を言っているんだ?」


私は空に渦巻く黒雲を見つめながら続けた。「五百年…その間、アルゴリアは変わった。私の知らない世界になった。人も、景色も、すべてが」


ゆっくりと視線を二人に戻す。「私が命を懸けたのは、愛する人たちを守るためだった。でも今…守るべき人たちはもういない」


ヨリナが一歩前に出た。彼女の目は真剣で、どこか悲しげだった。「すべてが変わったわけではありません。アルゴリアの魂、この地に息づく風の精霊たち、紡ぎ手の伝統…これらはあなたが守ったものです」


「それに」タミアスが静かに言った。「今のアルゴリアには、新たな命が息づいている。あなたが知らない人々だとしても、彼らは守る価値がないというのか?」


私は拳を握りしめた。「でも…すべてには終わりがある。五百年も存続したなら、それは十分じゃないか?闇に飲まれるのもまた、運命なのかもしれない」


ヨリナはゆっくりと私に近づき、手を差し伸べたが、触れることはなかった。「それがあなたの本心ですか?もう一度考えてみてください」


「本心なのか…」私は自分自身に問いかけた。


その時、渓谷の向こうから子どもたちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。空を見上げると、幼い紡ぎ手たちが練習のように小さな翼を広げ、塔の間を舞っている姿が見えた。


タミアスは静かに言った。「彼らはあなたの物語を聞いて育った。風の英雄リュウトの物語を」


「英雄…」その言葉に苦笑いが浮かんだ。「私はただ…大切なものを守りたかっただけだ」


「そして今も」ヨリナが優しく言った。「大切なものはここにあります」


彼女の言葉が胸に響いた。そうだ、私が守ったのは人だけではない。この地の風、光、命そのものだったのだ。


「…わかった」私はゆっくりと顔を上げた。「もう一度、試してみる。この手で、風を紡いでみる」


タミアスの顔に安堵の表情が広がった。「それでこそ、私の弟子だ」


師匠の手前そうは言ったものの、リュウトは感じていた。この闇は、追い払うべきではない。すべてに始まりと終わりがあり、終わりもまた始まりなのだと。

タミアスとヨリナが前へと歩き出したとき、リュウトは一瞬その場に立ち尽くした。風が髪を撫で、耳元でささやくような音を立てる。


「始まりと終わり…」リュウトは心の中で反芻した。五百年前、自分が命を懸けて闇を封じたとき、それは純粋な使命感からだった。愛する者たちを、故郷を守るため。しかし今…


視線を遠くへ向けると、空の彼方で渦を巻く闇は、単なる破壊の力ではなく、何か別のものに見えた。再生の予兆、変容の約束のようにも感じられる。


「リュウト?」ヨリナが振り返り、不安そうな表情で彼を見つめた。「何を考えているの?」


「この闇は…」リュウトは言葉を選びながら口にした。「ただ排除すべきものなのだろうか」


タミアスが足を止め、鋭い眼差しでリュウトを見た。「何を言おうとしている?」


「師匠、風の言葉は常に真実を語ると教わりました」リュウトは一歩前に出た。「そして今、風は私にこう告げています。この闇は破壊だけをもたらすものではないと」


「馬鹿な!」タミアスの声が低く響いた。「あの闇が何をもたらしたか忘れたのか?五百年前、どれほどの命が失われたか」


「忘れていません」リュウトは静かに答えた。「だからこそ…もう一度、闇の本質を見極めたい」


ヨリナが二人の間に立った。「リュウト、あなたは何を感じている?」


リュウトは深く息を吸い込み、目を閉じた。風の流れに身を委ね、記憶の奥底に沈んでいた感覚を呼び起こす。五百年前、自分が闇と対峙したとき、最後に感じたもの…


「闇の中に…光がある」リュウトはゆっくりと目を開けた。「破壊の後に生まれる創造がある。アルゴリアが永遠に同じ姿であり続けることが、本当に正しいことなのでしょうか」


タミアスの表情が複雑に歪んだ。「お前は変わった。かつてのリュウトならこんな考えは…」


「五百年の時を経て、私も変わったのかもしれません」リュウトは空を見上げた。「しかし、風が語る真実は変わらない。私たちは闇を倒すのではなく、受け入れ、共に変わるべきなのかもしれない」


「危険すぎる考えだ」タミアスは首を振った。「お前は異界での時間で判断力が鈍っている」


ヨリナはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。「もし…リュウトの言うことに真実があるとしたら?」


「ヨリナ!」タミアスは驚いた表情で彼女を見た。


「私たちキツネ族は変化を恐れない」ヨリナは続けた。「自然の摂理には、死と再生のサイクルがある。アルゴリアも同じかもしれない」


三人の間に緊張が走る。リュウトはこの二人の前に立ち、自分の胸に手を当てた。


「私は風の紡ぎ手として、真実を見極める」リュウトは決意を込めて言った。「そのために、闇の中心へと向かいます。そして、師匠。まず、あなたのことを倒さなければならない。抵抗するでしょう。苦しいでしょう。しかし、それでも、私はあなたのことを倒す」


タミアスの目が見開き、その老いた顔に驚愕の表情が浮かんだ。彼は一歩後ずさり、リュウトを見つめる目に悲しみと怒りが混じった。


「お前が…私を?」タミアスの声は低く、震えていた。「弟子よ、何を言っているのだ」


風が強まり、二人の間で渦を巻き始めた。ヨリナは少し離れた場所へ下がり、不安な表情で二人を見つめている。


「師匠」リュウトは静かに、しかし確固たる声で言った。「あなたは五百年間、アルゴリアを同じ姿のまま守り続けた。変化を拒み、闇を敵とし続けた。しかし、それは風の本質に反している」


リュウトの背中から光が漏れ始め、忘れていた感覚が体中を駆け巡った。風の言葉が体内で共鳴し、徐々に力を取り戻していくのを感じる。


「風は常に流れ、常に変わるもの。しかし、あなたはそれを止めようとしてきた」


タミアスの周りにも光が集まり始めた。彼の白銀の翼が広がり、その姿は老人というよりも、古の戦士のようだった。


「五百年…」タミアスの声が響く。「五百年間、私はお前の帰りを待った。お前が残した意志を守り続けた。それなのに…」


「私はあの時、死ぬつもりでした」リュウトは静かに答えた。「しかし、生きて帰ってきた。それは運命が私に別の道を示しているからではないでしょうか」


「馬鹿な!」タミアスの怒りの声が風に乗って響き渡った。「闇に心を奪われたか。かつてのリュウトはどこへ行った!」


「私はここにいます」リュウトは胸に手を当てた。「ただ、目が覚めただけです」


タミアスの体から風の力が解き放たれ、周囲の空気が激しく揺れ動いた。「目が覚めたというなら、この老いた師匠の力を思い出させてやろう!」


彼の放った風の刃がリュウトに向かって飛んできた。リュウトは身をかわし、自らの中に眠っていた力を目覚めさせる。背中から光が溢れ、久しく忘れていた翼が現れ始めた。しかし、かつての白い翼ではなく、今は闇と光が交錯するような、深い藍色の翼だった。


「師匠」リュウトは悲しみを込めて言った。「私はあなたと戦いたくない。でも、アルゴリアのために、未来のために…」


「お前が倒すというなら」タミアスは風の力を両手に集中させ、その目に決意の光を宿した。「この老体に残された全ての力を使って阻止する!」


二人の間に風の障壁が立ち上がり、これから始まる師弟の戦いを告げるように、空に黒雲が渦巻いた。


それは昼だったか、夜だったか。

ふたりは戦い続けた。そして、それは昼であり、夜であった。太陽と月が同時に空に浮かび、時間そのものが混乱しているかのようだった。風の力がぶつかり合うたびに、空間に裂け目が生まれ、昼と夜が交錯するような不思議な光景が広がっていた。


リュウトとタミアスは、アルゴリアの上空で戦い続けた。二人の周りを旋回する風は、時に激しい嵐となり、時に静かな微風となって周囲を包み込む。師弟の戦いは、単なる力の衝突ではなく、思想と意志の対決だった。


タミアスの技は洗練され、五百年の経験を示すような完璧な制御が効いていた。一方、リュウトの力は荒々しく、しかし革新的で、予測不能だった。


「なぜ理解しない!」タミアスは風の矢を放ちながら叫んだ。「私たちが守ってきたものを、お前は破壊しようとしている!」


リュウトはそれをかわし、反撃の風を送り込む。「破壊ではない、変容だ!アルゴリアは進化しなければならない!」


闇と光が入り混じった彼の翼は、かつてないほど強く輝きながら、タミアスの攻撃を受け止め続けた。師匠の力は強大だったが、リュウトの中で目覚めた新たな力はそれを上回り始めていた。


「もう十分だ、師匠」リュウトは疲労を見せるタミアスに向かって言った。「これ以上戦っても…」


「黙れ!」老紡ぎ手の怒号が響き渡った。「五百年…私が築き上げたものを、お前のような若造に壊させはしない!」


タミアスの体が光に包まれ、彼は風の精髄を解き放った。「これが私の全てだ、リュウト!」


膨大な風の力がリュウトを包み込み、彼の体を締め付けていく。息苦しさと痛みで意識が遠のきそうになるが、リュウトは諦めなかった。目を閉じ、心の奥底で静かに風の言葉を紡ぎ始めた。


「風よ…私の願いを聞け」


リュウトの体から放たれた光が、タミアスの風の牢獄を突き破った。彼の藍色の翼が大きく広がり、その姿は半神のように輝いていた。


「師匠…終わりにしましょう」


リュウトの手から放たれた風は、破壊の力ではなく、包み込む力を持っていた。それはタミアスの全ての攻撃を受け止め、変容させ、静めていく。


「なぜだ…」タミアスの声が弱まっていく。「なぜお前はこれほどの力を…」


「私は異界で眠っていたのではありません」リュウトは静かに答えた。「風の本質を学んでいたのです」


最後の力を振り絞ったタミアスの攻撃も、リュウトの風の前に消えていった。ついに力尽きた老紡ぎ手は、虚空に落ちていったが、リュウトはすかさず彼の体を風で支え、ゆっくりと地上へと降ろした。


二人が着地したとき、タミアスの白銀の翼は消え、彼はただの老人の姿となっていた。リュウトはその横にひざまずき、師の手を取った。


「なぜ…」タミアスは弱々しく問いかけた。「なぜお前はそこまで変わってしまったのだ…」


リュウトの目に涙が浮かんだ。「変わったのは私だけではありません。世界も、時代も変わった。そして今、アルゴリアも変わる時が来たのです」


遠くから、ヨリナが走り寄ってくる姿が見えた。彼女の表情には安堵と不安が入り混じっていた。


タミアスは疲れた目をリュウトに向けた。「お前は…本当に闇を受け入れるつもりなのか?」


「闇を受け入れ、光と融合させる」リュウトは頷いた。「それが新しいアルゴリアの道です」


「闇を受け入れ……光と融合、か」

「はい」

タミアスはリュウトの言葉を反芻するように、ゆっくりと目を閉じた。彼の呼吸は弱々しく、しかし安定していた。長い沈黙の後、老紡ぎ手は再び目を開けた。


「お前の目に…」タミアスは細い声で言った。「かつて見たことのない光がある」


リュウトは師匠の手をそっと握り締めた。「それは師匠が教えてくれた風の本質が、私の中で新たな形になったものです」


到着したヨリナが二人の傍らにひざまずいた。彼女の目には懸念と敬意が混じっていた。


「五百年…」タミアスは空を見上げた。「私は何も変えようとしなかった。ただ守ることだけを考えていた」


「あなたがアルゴリアを守ってくれたからこそ、今がある」リュウトは優しく言った。「その犠牲と献身を無駄にはしません」


風が三人を優しく包み込み、遠くから聞こえてくる都の音と融合して、静かな旋律を奏でていた。


「もし…」タミアスは努力して体を起こそうとした。「もしお前が闇を受け入れ、それでもアルゴリアが続くというのなら…」


ヨリナが彼を支え、座るのを手伝った。タミアスはリュウトの青い翼を見つめた。


「お前の翼…」彼は驚きを隠せない表情で言った。「闇と光が混ざり合っている」


「はい」リュウトは自分の翼を広げた。青く輝く羽根は、暗闇の中で光る星のようにも、光の中に浮かぶ影のようにも見えた。「これが私の真の姿なのかもしれません」


タミアスは長い間沈黙していたが、やがて疲れた顔に微かな笑みを浮かべた。「老いた者の頑固さを許してくれ。お前の選んだ道を、もう少し見てみたい」


リュウトの顔に安堵の表情が広がった。「共に歩んでほしい」


「まだ殺さないのか?」タミアスの声にわずかな皮肉が混じった。


リュウトは首を振った。「倒すことと殺すことは違います。師匠の知恵は、新しいアルゴリアにも必要です」


ヨリナが二人を見つめながら言った。「変化は痛みを伴いますが、それを乗り越えた先に真の進化があります」


三人の頭上で、黒い雲が渦を巻き続けていた。しかし今、リュウトの目にはそれが単なる脅威ではなく、新たな可能性に見えた。


「さあ」リュウトは立ち上がり、師匠に手を差し伸べた。「闇と向き合う時です」


タミアスはその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。「お前が間違っていないことを願おう」


「間違っているかもしれない」リュウトは率直に認めた。「しかし、それもまた風の道です。絶え間ない変化と適応の中に、真理があると信じています」


渦巻く雲の中心へと向かう三人の姿に、アルゴリアの空は静かに応えるように、昼と夜の境界線が溶け始めていた。

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