六人目の友達には顔がない

黒糖はるる

第一章:はじまり

第1話


〇女ケ沢愛音・1



 見てしまった。

 とにかく逃げるんだ。

 絶対に関わっちゃいけない。

 本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。

 

 職場から家までの、徒歩十分ちょっとの帰り道。

 その半ばだった。

 墨を流したようによどんだ夜闇やあん。アスファルトを等間隔に照らすのは古びた街灯。ちかちか、ちかちか。いつ消えてもおかしくない光。その下に、ぽつんとたたずむ小さな人影。女の子が一人、そこにいた。

 時刻は午後八時をとうに過ぎている。しかも人気のない裏道だ。こんな場所で何をしているのだろう。手荷物がないため塾帰りではなさそうだ。それなら迷子か。あるいは家に帰れない、帰りたくない理由があるのかもしれない。かつての自分がそうだったように。

 放っておけず、二、三歩踏み出したところで、はたと立ち止まる。立ち止まってしまう。強烈な違和感が、足の裏から脳天へと一気に這い上がってきたのだ。これ以上近づいてはいけない。頭で考えるよりも先に体が反応していた。

 その少女には、顔がなかった。

 あるべき場所に目も、鼻も、口も、必要な部位全てが見当たらない。青白い肌が漫然と広がるばかりだ。モザイク処理よろしく奇妙なもやで覆われている。どんな顔をしているのか判別がつかない。遠目でみれば、さながら妖怪のっぺらぼうじゃないだろうか。淡いマーブル模様が、ゆるりゆるりと渦巻いている。

 あの子は人間じゃない。

 幽霊、亡霊、怨霊、悪霊。

 眼前の少女は、そのどれとも違う規格外の存在だ。


 私には、いわゆる霊感がある。

 といっても、少年漫画の主人公みたいに霊をはらえないし、ましてや戦うなんてもってのほかだ。人ならざる存在を認識できるというだけ。それ以上でも以下でもない、ちょっと敏感な一般人に過ぎないのだ。

 成人するまでの短い半生、色んな霊に遭遇してきた。

 路傍ろぼうに座り込み、延々と泣いている幼児の霊。

 カップルの間に挟まり、恨み節を吐く女子高生の霊。

 振り子のように揺れる、首が伸びきったおじさんの霊。

 死んだ自覚がなく、通行人に道を尋ね続けるおばあさんの霊。

 どの霊もみんな輪郭がぼんやりしていた。文字通り抜けるような透明感で、時折背景と同化し目立たない者もいる。慣れてしまえば日常だ。それでも触らぬ神に祟りなし。厄介事に巻き込まれないようにと見て見ぬ振りが基本だ。過剰に怖がらず、景色の一部として受け入れる対象。それが私にとっての霊だった。


 だけど、あの少女は違う。

 華奢きゃしゃ体躯たいくから推察するに歳は十歳前後。特に目を引くのがつば広帽子とくり色の髪の毛、そして白地に金色の刺繍ししゅうが眩しいワンピース。どこか懐かしい組み合わせだ。でも、顔は不自然に靄がかかり不明瞭だし、漂わせる雰囲気は禍々まがまがしくて気分が悪くなる。恨みや憎しみといった、分かりやすい負の感情じゃない。喜怒哀楽その他諸々をまとめて鍋に放り込み、二十四時間煮込み続けたかのような混沌。控えめに見積もっても、怨霊や悪霊といった枠を超えている。

 それが理由なのか、少女の輪郭はくっきりはっきり鮮明だ。普通の女の子と比べても遜色そんしょくない。霊特有の希薄さとは程遠い。要するに、生きている人間同様の実体がある、ということになる。

 こんな霊、初めて見た。

 生半可な霊とは全くの別物だ。これまでの経験則は一切通用しない。

 だから、視認してすぐ、一目散に逃げだした。


「何なの、アレは」 


 全速力で走ったせいで、ぜぇぜぇと肩で息をしてしまう。

 残業のせいで疲労困憊こんぱいだというのに。これ以上この身にむち打てば力尽きて行き倒れてしまう。と、洒落しゃれにならない想像をしてしまう。

 でも、我が家まであと少しだ。

 早く布団にくるまりぐっすり眠りたい。

 へたり込みそうな両足にかつを入れ、大股歩きでひたすら前進だ。自宅まで脇目も振らずにずんずんと。曲がり角に差し掛かる。自宅であるアパートの、経年劣化で黒ずんだ壁が露わになる。と同時に、出会い頭で白い影がまろび出る。わっと慌てて飛び退くと、ぬるりと突き出す靄の顔。撒いたはずの少女がそこにいた。


「ひぅっ」


 ひり出されるのはかすれた悲鳴。

 本当は絶叫したかった。なのに、声が詰まり滞ってしまう。ぱくぱくと、えさを待つ金魚みたいに口を開閉させるばかりだ。

 少女がこちらを見つめている。


「あなた、誰なの。私をどうしたいのよ」


 後ずさりするも、足がもつれて尻餅しりもちをつく。 

 腰が抜けてしまったようだ。下半身に力が入らず立ち上がれない。

 怯えるばかりの私がお気に召したのか、少女はぴょんぴょん楽し気に跳び回っている。顔が靄に覆われていなければ、怖気おぞけを催す気を発していなければ。無邪気な子どもだと笑って済ませられただろうに。


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」


 少女が言葉を紡ぐ。

 どこが口なのだろう。そして今、彼女は何と言ったのだろう。

 私の耳朶じだを打ったのは、雑音じみた音の塊だった。まるで、幾人もの子ども達が一斉に話しかけてきたかのよう。小学校特有の騒々しさを潰れるくらい圧縮して、剛速球で投げつけられた心地だ。鼓膜がじんじんと痛む。


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」


 ぴょん、と一跳び。

 ぼやけた顔が無遠慮に覗き込んでくる。

 逃げられない。

 目を逸らせない。

 金縛りだ。

 少女の不明瞭な相貌そうぼうに、否応なく釘付けにされてしまう。

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