第13話 血


サイファー家の東翼は長い間使われておらず、廊下には埃が積もっていた。ヴィオレットはランプの灯りを頼りに静かに歩を進める。心臓は激しく脈打ち、息はわずかに荒かった。


「研究室はこの先のはず…」


彼女は防護のために手袋をはめ、青薔薇の髪飾りが緩まないよう確認した。その髪飾りには、いざという時のための解毒剤が仕込まれている。


ついに分厚い木の扉の前に辿り着いた。鍵がかかっているはずだが、メリッサの手紙には「主の間の壁画の後ろに鍵がある」とも書かれていた。そこから取ってきた古びた鍵を差し込むと、重い音を立てて扉が開いた。


室内は予想以上に整然としていた。壁に並ぶ本棚、化学実験用の器具、そして奥には複数の大きな金庫。ロドリック宰相の秘密の研究室だとすぐにわかった。


「まずは何から探せばいいのかしら…」


ヴィオレットが部屋を見回していると、背後から声がした。


「わたしも同じことを考えていた」


振り返ると、アシュトンが立っていた。手には小さなランプを持ち、疲れた表情だったが目は鋭く光っていた。


「アシュトン!驚かせないで」


「メリッサがあなたに手紙を渡したのを見た。こんな危険なことを一人でするつもりだったのか?」


「あなたを巻き込みたくなかったの。父親の研究室なのよ」


アシュトンは苦笑した。


「既に巻き込まれているさ。それに、この部屋には子供の頃から好奇心を持っていた。今こそ真実を知るときだ」


二人は手分けして研究室を探索し始めた。アシュトンは書類棚を、ヴィオレットは実験器具と薬品を調べる。


「見て、これは強力な若返りの薬の処方だわ」ヴィオレットが緑色の液体の入った小瓶を手に取った。「でも副作用として急速な老化と精神の不安定化が記されている」


「皇帝の症状と一致するな」アシュトンは書類から目を上げた。「ここに皇帝が『治療』を受けた記録がある。3年前から始まったようだ」


「治療?」


「父は皇帝に若返りの薬を投与していたんだ。おそらく皇帝の信頼を得て、実質的な権力を握るために」


さらに探索を進めると、奥の金庫の一つが少し開いていることに気付いた。中をのぞくと、血液サンプルが整然と並んでいた。それぞれにラベルが貼られている。


「これは…皇族の血液サンプル?」ヴィオレットは息を呑んだ。


「そう見える」アシュトンが覗き込んだ。「過去200年分の皇族全員のものだ。どうやって集めたのだろう」


その瞬間、別の金庫から小さな音が聞こえた。二人は静かに近づき、慎重に開けてみると、そこには研究日誌が何冊も並んでいた。


「プロジェクト・ラザロの記録だ」アシュトンは最も古い日誌を手に取った。「最初の記録は30年前…母が亡くなる前だ」


彼の声が震えた。ヴィオレットは静かに彼の横に立ち、一緒に日誌を開いた。


「皇族の血に含まれる特殊な因子が時間操作に関わっているという仮説を立てた。死の間際の強い感情が触媒となり、時間遡行を可能にする…」アシュトンが朗読する。「もし人工的にこの能力を抽出できれば、時を制御することが可能になるだろう」


「実験の記録があるわ」ヴィオレットは別の日誌を開いた。「皇族の血を希釈して被験者に投与…」


彼女は突然言葉を切った。そこに自分の名前を見つけたのだ。


「ポイズン家のヴィオレット、投与後24時間経過。副作用なし。血液反応は安定。長期的影響は観察継続中…」


「どういうこと?」彼女は混乱した声で言った。「わたくしがいつプロジェクト・ラザロの実験台に?」


アシュトンは困惑した表情で日誌を見つめた。


「ここによると、あなたが10歳の時、重い病気で宮廷医師の治療を受けた記録がある。その時に皇族の血が希釈された薬が投与されたようだ」


「覚えているわ。あの高熱の日々を…でもそれが」ヴィオレットは震える指で日誌をめくった。「だから、わたくしに時間遡行の能力が?でも、なぜわたくしが?」


「もう一冊見つけた」アシュトンは新しい日誌を開いた。「実験の第二段階。ポイズン家の娘は成長とともに能力が安定した。死の間際に時間遡行を発動するだろう…」続いて衝撃の一文があった。「彼女を処刑に導くことで、能力発動の条件を整える」


ヴィオレットの顔から血の気が引いた。


「前世での処刑は…実験だったの?」


「父は計画的にあなたを罠にはめたんだ」アシュトンの声は怒りに震えていた。「時間遡行の能力を実証するための」


「でも、なぜサイファー家はそこまでして時間を操作したがるの?」


アシュトンはさらに日誌をめくり、息を呑んだ。


「ここに答えがある。『時間を操る者は永遠の権力を手に入れる。同じ過ちを繰り返さないために、歴史を正すために…』」


「最初は純粋な動機だったの?」


「そう見える」アシュトンは顔を上げた。「だが父は力に飲み込まれた。今や彼の目的は単なる権力。あらゆる可能性を試すために何度でも時間を巻き戻そうとしている」


別の金庫から、ガラスの破片のような音が聞こえた。急いで確認すると、そこには小さな砂時計が並んでいた。一つが落ちて割れている。中から流れ出た砂が異様に輝いていた。


「これは何?」


「儀式の砂時計だ」アシュトンが説明した。「皇族の血で満たされ、時間遡行の儀式に使われるらしい」


「アシュトン、この記録には皇女セラフィナの名前も」ヴィオレットは戸惑いながら言った。「彼女は皇帝の隠し子…そして最も強力な時間遡行者としての資質を持つとある」


「セラフィナが?彼女はただの令嬢だと思っていた」


「だからあの不可解な言動…彼女も時間を遡った可能性がある」


突然、廊下から足音が聞こえた。二人は互いを見つめ、すぐに行動した。アシュトンは重要な日誌を何冊か集め、ヴィオレットは皇帝の治療に使われた薬のサンプルをポケットに滑り込ませた。


「裏口から」アシュトンは小声で言った。


彼らは隠し通路らしき小さな扉を通り、物置部屋へと逃げた。息を潜め、研究室に入ってきた人物の足音に耳を澄ませる。


「ロドリック様、どなたかが入った形跡があります」執事のクロードの声だった。


「何が持ち出された?」ロドリックの冷たい声。


「わかりません。ですが…砂時計が一つ割れています」


「…セラフィナの仕業か」


「若様かもしれません」


「息子は私の研究に興味を持つほど賢くない。セラフィナを見張れ。そしてポイズン家の娘も」


足音が遠ざかると、ようやく二人は安堵のため息をついた。


「危なかった」アシュトンは汗を拭いた。


「でも大切な情報が手に入ったわ」ヴィオレットは持ち出した薬の小瓶を見つめた。「これを解析すれば、皇帝の病状を少しでも和らげられるかもしれない」


「そしてセラフィナの正体も明らかになりつつある」


彼らは物置から抜け出し、密かに自室へと戻った。夜はすでに深く、明日は重要な宮廷の集まりがある。皇帝の症状が悪化し、後継問題が議論される予定だった。


「明日は慎重に行動しよう」アシュトンは廊下で別れる前に言った。「ロドリックもセラフィナも、もはや信用できない」


「では誰を信用すればいいの?」


アシュトンはヴィオレットの目をまっすぐ見つめた。


「互いを。われわれは盟約者だ。これからは心を開いて協力しよう」


その言葉に、ヴィオレットは小さく頷いた。前世での裏切りを知った今でも、彼の目に映る決意と後悔は嘘偽りないものに思えた。今、彼女が信頼できるのは、皮肉にも自分を死に追いやった男だけなのかもしれない。


「わかったわ。ともに戦いましょう」


彼女が自室に戻ると、窓際にメリッサが待っていた。


「ご無事で」侍女は安堵の表情を浮かべた。「見つかりませんでしたか?」


「どうして協力してくれたの?」


「私の母も…プロジェクト・ラザロの犠牲者です」メリッサは俯いた。「あなた様とアシュトン様なら、この悪夢を終わらせられると思って」


「ありがとう、メリッサ」ヴィオレットは彼女の手を握った。「絶対に父上や皇帝陛下を救ってみせる」


部屋に一人残されたヴィオレットは、窓から昇りつつある朝日を見つめた。世界は徐々に明るくなっていくが、彼女の前には依然として多くの闇が広がっている。それでも、一筋の光明は見えた気がした。アシュトンと共に立ち向かうべき真実への道が。

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