第5話 血の契約
「この条項は受け入れられない」
サイファー家の弁護士が契約書の一節を指さした。エドガーは冷静に対応した。
「我が家の条件は明確です。ヴィオレットは結婚後もポイズン家の名を名乗り、毒物学の研究を続ける権利を保持する」
ヴィオレットは父の隣に静かに座りながら、交渉の様子を見守っていた。サイファー家の豪華な会議室で、両家の代表が向かい合っていた。アシュトンはテーブルの端に座り、無関心を装いながらも時折鋭い視線を向けていた。ロドリックは不在だった。
「サイファー家の伝統では、結婚した女性は夫の家名を継ぐ」弁護士は強調した。
「それは一般的な結婚ならば」エドガーは穏やかに言い返した。「しかし、これは二つの貴族家系の同盟です。ポイズン家の名と専門性は守られるべきです」
アシュトンが初めて口を開いた。「その条件に同意する」
弁護士が驚いて振り返った。「サイファー様、しかし—」
「これは特別な同盟だ」アシュトンは涼しい表情で言った。「ポイズン家の専門性は重要な資産。それを尊重するのは当然だ」
弁護士は言葉に詰まり、渋々頷いた。
「次の条項」エドガーは続けた。「ヴィオレットの個人的財産と実験器具は彼女の所有のままであること」
「それも問題ありません」弁護士は素早く答えた。「ただし、サイファー家の条件も—」
「見せてください」エドガーは手を伸ばした。
弁護士はサイファー家側の条件書を差し出した。エドガーはそれを慎重に読み始めた。
「月に最低三日は宮廷での公務に参加すること…」エドガーが読み上げた。「毒物学の専門知識をサイファー家の要請に応じて提供すること…これらは妥当ですね」
彼はさらに読み進めると、眉をひそめた。
「しかし、この条項は問題です」エドガーは深刻な口調で言った。「『配偶者の家族の研究・実験への無条件協力』とありますが、具体的にはどのような内容でしょうか?」
アシュトンとサイファー家の弁護士が視線を交わした。
「それは主に医学的な研究を指します」弁護士が説明した。「サイファー家は医療の発展に貢献しています」
「具体的に」エドガーは譲らなかった。「どのような実験なのか明記する必要があります」
「それは…」弁護士は言葉に詰まった。
「私から説明しよう」アシュトンが割り込んだ。「父は皇室医療の改善に取り組んでいる。ポイズン嬢の毒物と解毒の知識は、その研究に役立つだろう」
「それだけですか?」エドガーは鋭く尋ねた。
「それ以上の詳細は機密事項だ」アシュトンは冷静に答えた。「しかし、無理強いはしない。条項を修正しよう。『相互の合意に基づく研究協力』としてはどうだろう」
エドガーはヴィオレットの方を見た。彼女は小さく頷いた。
「それなら受け入れられます」
交渉は三時間以上続いた。細かい条項が議論され、修正され、合意された。最終的に、両家の代表が納得する契約書が完成した。
「では、サインを」弁護士が言った。
エドガーはペンを取り、契約書に署名した。次にアシュトンが署名。そして最後にヴィオレットが。
彼女がペンを置いた瞬間、アシュトンが静かに言った。「伝統に従い、血の契約も行いましょう」
「血の契約?」エドガーが驚いた様子で尋ねた。
「古い儀式です」弁護士が説明した。「契約者が小さな血を交わし、約束の神聖さを確認する」
ヴィオレットは動揺を隠した。前世では、この儀式は結婚式の当日に行われたはずだ。なぜ今?
「必要でしょうか?」エドガーが尋ねた。
「サイファー家の伝統だ」アシュトンは言った。「父も重視している」
弁護士が小さな儀式用のナイフを取り出した。アシュトンはそれを受け取り、躊躇なく自分の指先に小さな傷をつけた。血が滲み出た。
「ポイズン嬢」彼はナイフをヴィオレットに差し出した。
彼女は深呼吸をしてナイフを受け取った。鋭い刃が指先に触れ、小さな痛みと共に血が現れた。
「契約書の上で」弁護士が指示した。
アシュトンとヴィオレットは並んで立ち、それぞれの血を契約書の上に落とした。赤い雫が紙に染み込んでいく。
「これで婚約は正式となりました」弁護士が宣言した。「結婚式の日取りは後日調整します」
部屋の空気が変わった気がした。ヴィオレットは指先の痛みを感じながら、契約書を見つめた。赤い染みが紙の上で奇妙な模様を描いている。まるで何かの予兆のように。
「ヴィオレット」エドガーが娘の肩に手を置いた。「大丈夫か?」
「ええ、パパ」彼女は微笑んだ。「大丈夫よ」
***
会議室を出た後、ヴィオレットとエドガーはサイファー家の邸宅の長い廊下を歩いていた。
「不安そうだな」エドガーが静かに言った。
「少し」彼女は正直に答えた。
「まだ取り消せる」父親は真剣な表情で言った。「もし心が変わったなら—」
「いいえ、これでいいの」ヴィオレットは断固として言った。「私の決断よ」
二人が廊下の角を曲がると、セラフィナが向こうから歩いてきた。彼女は驚いた様子でヴィオレットを見た。
「ヴィオレット?」セラフィナは目を丸くした。「なぜここに?」
「セラフィナ」ヴィオレットは挨拶した。「サイファー家との会議があったの」
「会議?」セラフィナの視線がヴィオレットの指先に落ちた。そこにはまだ小さな血の痕があった。「まさか…血の契約?」
「ええ」ヴィオレットは平静を装った。「アシュトン・サイファーと婚約したの」
セラフィナの表情が一瞬で変わった。驚き、混乱、そして何か見慣れない感情。前世では、彼女はヴィオレットの婚約を祝福したはずだった。
「そう…」セラフィナは声をひそめた。「急すぎない?」
「機会があったので」
「でも、あなたは…」セラフィナは言いかけて止まった。「何でもないわ。おめでとう」
彼女の祝福には熱がなかった。ヴィオレットはその反応を記憶に留めた。何か違和感があった。
「ありがとう」ヴィオレットは言った。「また詳しく話すわ」
セラフィナは微笑もうとしたが、その目は笑っていなかった。
「ええ、またね」
彼女は急いで二人の横を通り過ぎ、去っていった。
「あの娘は?」エドガーが尋ねた。
「セラフィナ・ローズマリー。宮廷の貴族の娘よ」
「妙な反応だった」
「そうね…」
二人は再び歩き始めた。サイファー家の邸宅は広大だった。高い天井、重厚な装飾、そして随所に配された彫刻や絵画。前世では、ヴィオレットはこの豪華さに圧倒されたものだ。だが今は、彼女は冷静にすべてを観察していた。
突然、気配を感じて振り返った。廊下の影に、誰かがいるような気がした。
「どうした?」エドガーが尋ねた。
「何でもないわ」彼女は答えたが、内心には不安が芽生えていた。見られていたのだろうか?
***
「契約は成立したようだな」
ロドリックは書斎の窓から外を眺めていた。アシュトンが部屋に入り、扉を閉めた。
「はい、父上」
「血の契約も?」
「はい」
「良かった」ロドリックは振り返った。「彼女の父親は賢明だ。あらゆる抜け道を塞ごうとした」
「ポイズン家の娘を守るためです」アシュトンは冷淡に言った。
「守るだけでは生き残れない」ロドリックは黒杖を床に打ちつけた。「この世界では攻撃こそが最大の防御だ」
アシュトンは黙っていた。
「ヴィオレット・ド・ポイズン」ロドリックは名前を噛みしめるように言った。「彼女には期待している」
「何のために?」アシュトンが鋭く尋ねた。
「知っての通り」ロドリックの目は冷たく光った。「プロジェクト・ラザロの次の段階だ」
「また人体実験か」アシュトンの声に嫌悪感が滲んだ。「もう十分ではないのですか?母さえ—」
「黙れ!」ロドリックが声を荒げた。「あれは事故だった。そして我々は母君の犠牲を無駄にはしない」
「犠牲?」アシュトンが苦々しく言った。「実験台と呼ぶべきでしょう」
「お前は理解していない」ロドリックは息子を見つめた。「我々がしていることの重要性を」
「十分理解しています」アシュトンは冷たく答えた。「だからこそ反対する」
二人は長い間、睨み合った。
「お前がどう思おうと」ロドリックは最終的に言った。「計画は進行する。そしてポイズン嬢は、その鍵となる」
「彼女を危険にさらすなら—」
「危害を加えるつもりはない」ロドリックは静かに笑った。「彼女の才能を活かすだけだ」
アシュトンは何か言いかけたが、思いとどまったようだった。代わりに、彼は踵を返して部屋を出ようとした。
「アシュトン」ロドリックが呼び止めた。「忘れるな。お前は私の息子だ。血の契約は家族の間でも有効だ」
アシュトンは振り返らずに言った。「忘れていません。父上」
彼は部屋を出て行った。
***
「こんなに早く事が運ぶなんて」
メリッサはヴィオレットのドレスを整えながら言った。二人は宮殿の客室で、夜の正式な婚約発表の準備をしていた。
「ええ」ヴィオレットは鏡を見つめた。
「嬢様は本当に良いのですか?」メリッサの声には心配が滲んでいた。「サイファー家は…噂では…」
「大丈夫よ、メリッサ」ヴィオレットは微笑んだ。「私には計画がある」
「計画?」
「今はまだ言えないわ」
髪に青薔薇を飾りながら、彼女は今夜の発表について思いを巡らせた。前世では、婚約発表は数ヶ月後のことだった。すべてが早く進んでいる。彼女が時間を遡ったことで、何かが変わっているのだろうか?
「メリッサ」ヴィオレットは静かに言った。「あなたは前に、私が変わったと言ったわね」
「はい」メリッサは少し戸惑ったように答えた。「初日のことですね」
「どう変わったと思う?」
メリッサは手を止め、鏡越しにヴィオレットの目を見た。
「嬢様の目に…経験が宿ったような」彼女は慎重に言葉を選んだ。「まるで、多くのことを見てきたように」
ヴィオレットは僅かに微笑んだ。「鋭いわね」
「すみません、失礼なことを」
「いいえ」ヴィオレットは振り返って、メリッサの手を取った。「あなたは正しい。私は…変わったの」
「どういう意味ですか?」
ヴィオレットは言葉を選んだ。メリッサに真実を話せば、彼女を危険にさらすことになる。だが、完全に隠し通すこともできないだろう。
「いつか説明する時が来るわ」彼女は約束した。「その時まで、ただ信じていてほしい」
メリッサは戸惑いながらも頷いた。「はい、嬢様。何があっても、あなたの側にいます」
「ありがとう」ヴィオレットは彼女を抱きしめた。「前回よりも、あなたを守ると約束するわ」
「前回…?」
二人の会話が、ノックの音で遮られた。
「お入りください」
扉が開き、アシュトンが現れた。彼は黒と金の正装に身を包み、いつもの眼鏡をかけていた。
「準備はいいかな、婚約者」彼は淡々と言った。
「ええ」ヴィオレットは立ち上がった。
「では、行こう」アシュトンは腕を差し出した。「宮廷中の目が我々に注がれる」
ヴィオレットは彼の腕に手を置いた。「緊張してる?」
「いいや」彼は平然と答えた。「ただの儀式だ」
二人が廊下を歩き始める中、ヴィオレットはアシュトンの表情を盗み見た。完璧な無表情。感情を隠すのが上手い男だった。前世では、彼のこの仮面に騙されたのだ。
「アシュトン」彼女は小声で言った。「私たちの同盟、本気なの?」
「契約したばかりだ」
「それは表向きのこと」彼女は言った。「あなたと私の間の本当の同盟は?」
アシュトンは歩みを緩めず、前方を見つめたまま答えた。「本気だ。父に対抗するためには、君の力が必要だ」
「何のために?」
「真実のために」彼は静かに言った。「母の死の真相を知るためだ」
これは新しい情報だった。前世では、アシュトンは母親についてほとんど語らなかった。
「母上の死に、宰相が関わっているの?」
アシュトンは僅かに顔を引きつらせた。「後で話そう。壁に耳あり、だ」
彼らは豪華な大広間に到着した。扉の前で、二人は同時に深呼吸をした。
「準備はいいか?」アシュトンが尋ねた。
「ええ」ヴィオレットは青薔薇の髪飾りに手を触れた。「檻の中に入る準備はできているわ」
「檻?」アシュトンが眉を上げた。
「政略結婚は檻のようなものでしょう?」彼女は静かに言った。「自由を制限する」
「興味深い見方だ」アシュトンは僅かに微笑んだ。「だが、檻も見方によっては安全な避難所になり得る」
その言葉に、ヴィオレットは驚きを隠せなかった。「その通りね」
扉が開かれ、二人の名前が告げられた。宮廷の貴族たちが振り返り、新たな婚約カップルを見つめた。その視線の中に、彼女はセラフィナの姿を見つけた。彼女は皆と同じように微笑んでいたが、その目は何か別のものを語っていた。
そして高座には、ロドリック宰相が皇帝の横に立っていた。彼の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。
ヴィオレットは内心で誓った。
今度は、檻の中の鳥はあなたよ、ロドリック。
今度は、毒を飲むのはあなた。
今度は、すべてを変える。
彼女とアシュトンは共に一歩前に進んだ。婚約の儀式が始まろうとしていた。
青薔薇の少女と知識の青年。
復讐に燃える時間遡行者と、過去の真実を求める息子。
彼らの物語は、血の契約から始まったのだ。
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