第2話

通路と展示室を駆け回っていたが、“それ”が目の端に移り、初めは通り過ぎたが、戻った。

壁沿いガラス張りの、ダイオウイカの干物のようなものと胃の内容物のホルマリン漬けの展示物の間に「来館者用ガイドライン」と書かれた大きなプレートが壁に掲げられていた。その前には濡れ掃除の後などに置いてある「転倒注意」の黄色で目を引くハンディスタンドがあった。

来館者用ガイドライン

展示物に触れないでください(過去を侵食する危険があります)

他の来館者に話しかけないでください(その人物が現在に属していない可能性があります)

過剰な感情表現は避けてください(館内構造に影響します)

職員の案内には従ってください(彼らはあなたより先にここへ来ています)

どこかチャチな雰囲気もあるいかにも異常現象という文だ。リアル脱出ゲームにでも出てきそうな注釈だ。ふざけた文だが、自分の命を左右する文かもしれない。

「分かんねえ……」

脱出の手掛かりになると思ったが、それの内容はガイドラインというより、注意事項だ。

どうやって出るかと言うより、危険だから気をつけろという趣旨である。「職員の案内に従ってください」という文には、案内人がいるのかと希望を持ちかけたが、続く「彼らはなたより先にここへ来ています」で信頼できるものではなさそうだと感じた。。


博物館は内部構造が緩やかに変化していっている様で、来た道を戻ると景色が変化していたりしたので、頭の中で地図を作ることはあきらめた。

特に異質感を感じたのは所々で目にする、人の部屋が半分切りになってそこに蝋人形が生活している展示室だ。例えるなら、昭和時代の生活の再現のブースでずんぐりした冷蔵庫やらキセルやらに開設が添えられているそれのようだ。

怖かったのは、それらの蝋人形がやけに生々しく作られていたことだ。変哲のない一般家庭のリビングの展示がされてるのも違和感だった。嫌な考えが頭をよぎったが、平静を保つために意識して見ないようにした。

ガイドラインの「過度な感情表現は避けてください」という文を思い出した。自分はいつまで正気を保ってられるのか。ソファで目が覚めてから3時間は経っている。電波の通じていないスマホの時計が確かなのかは分からないが。ここは時間の流れが歪んでいると、なんとなく感じていた。ずっと駆け足で走っているが一切のどの渇きを感じない。ここには餓死があるのか。発狂しそうなこの歪な空間で正気を保てるのが一週間か十日か予測できないが脱出の手がかりを早く探さねば。せめて話し相手がいればよかった。二人でここで死ぬにしても一人で死ぬよりは終わりまでの過程が苦しみが紛れるだろう。森田がここに来ててくれていればいいと思った。もし連れてこられるとしたら今の俺は引っ張ってでも連れてくるだろう。森田は大事な友人だし、普段おれはそんなことを考える人間ではないが、正常な倫理観なんて崩れるような恐怖感に今の俺は襲われているのだ。逆の立場になればほかの人間でもそうするだろうから、申し訳ないとは思わない。


「―――。」

勢いよく曲がり角を飛び出た先で白いワンピースの長髪の女がこちらを向いて立っていた。

顔があるはずのところがごっそりとなくなっていて中で黒い渦が巻いている。

女はこちらを待ち構えるように立っていて正面から対峙する姿勢で俺は固まってしまった。動けば殺されると思った。

顔の渦と同じ向きに周りの景色が若干歪んでいる。パニックで逆に平坦になった脳の一部で、インフルエンザの時に見る夢みたいだなと思っていた。形を取らない概念が大きくなったり小さくなったりするのに怯えていたあの時感覚に似ているなと思っていた。

女が一歩踏み出した。俺は弾ける様に来た道を走り逃げた。

10メートルほど先で通路の上から黒みがったシャッターが下りた。スピードを緩めず残されていた右の通路に入る。罠に囲い込まれている様で不安だったが、全力で振り返りもせずに走った。

走りながら俺は泣いた。やはり自分はここで死ぬんだとそう思った。

空を仰げず、この気色の悪い場所で正気を失っていくんだと覚悟した。





黒い顔の怪物と距離を取らねばと思っていたが、俺は足を止めてしまった。

俺の部屋があったのだ。その展示室に入った時、冷たいような重いような空気を感じた。

ここまでにも見た、家や部屋の不気味な展示とは少し違った。少し広くなったチェンバーのような空間の中心にモデルルームのように俺の部屋が展示されている。シチュエーションコメディーの撮影現場にも似たような形だ。静岡の家賃3900円ワンルームの一人暮らしの家だ。四辺の内の一組の対角の部分で切り離して、少しずらしておいてある。

俺の部屋の外は壁沿いに俺の過去の宿題プリントやら服やらが解説とともに展示されている。実家の俺の部屋の一面も再現されている。

気色悪い。

嫌悪感が吹きあがってくる空間だが、とても大事なことが隠れていると感じていた。

来館者ガイドラインよりも、この発見の方がずっと重要だと感じた。

展示は所々歪で「製作途中」といった印象だった。

文字化けしてバグが起きている解説文があったり、解説文があるのにそのガラスケースの中が空っぽだったり。

俺の知らない情報もあった。中学3年の夏に断っていた友人の誘いに乗っていた場合、大きなず子に合っていたと書かれていた。浮島状になっていたショーケースに海辺でピースをしている笑った知らない女の人の写真が仰々しく展示されていた。

怪物が追ってくるのが怖くなって、手掛かりを得ぬまま俺はそこを後にした。

あの部屋のバグが直されて、展示が完成してしまった時が俺の終わりだろう。

走りながらぼんやりとそう思った。

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