第三十一話 あの子のおかげ

 文月ふみづきも十日が過ぎた頃、千尋ちひろがやって来た。


 この日、頼次よりつぐは休みだったので、朝餉あさげのあとはのんびりと過ごしていたところだった。


 玄関から「」ときこえてきた声を、頼次は無視した。こんな時代遅れの道場破りは、一人しか思い当たらなかったからだ。


 東條家とうじょうけはいつも玄関を施錠せじょうしていない。

 

 八百屋とか魚屋とか豆腐屋とか、なじみの行商たちは台所のある裏口を使ってくる。

 使用人の吉乃きつのは年を取ってから耳がすこし遠くなったが、台所から老女の部屋は近いため、行商たちの声は届くそうだ。


 そして、このところは夕方になると、頼次の妻――ゆずりはが台所にいる。


 行商たちとも仲良くなったらしく、すこしまけてもらっているのだとか。

 その日のうちに食べるので、売れ残りでも十分だと楪も嬉しそうに言うので、頼次は妻の成長を感じ取ったのだった。


 そういうわけで、鍵の開いている玄関から簡単に東條家の敷居を跨ぐことは可能である。


「あれー? なんだ、いるじゃん」


 千尋は勝手知ったる廊下を抜けて、頼次の部屋に来た。

 午前中は本でも読んですごそうとしていたところ、うるさい従兄弟がやって来たという次第だ。


「ゆずっこは? 吉乃もいないの?」

「ふたりは買いもの。今日は市場が出ているから」

「ふ~ん。吉乃は膝が痛いって言ってなかったっけ?」

「ああ、うん。でも、動かないと余計に悪くなるからって。楪が一緒だから大丈夫」

「孫とおばあちゃんって、わけね」


 そこは嫁と姑ではないのかと、頼次は失笑しそうになる。


とくじいは……、いないか。んで、お前は休みでひとりでのんびりってね。いいご身分だなあ」

「まあね。……茶でも出そうか?」

「いいや、遠慮しとく。東條宗家の次男さまに淹れてもらう茶なんて、畏れ多くて飲めないや」

「さようでございますか」


 勝手に入ってきた千尋は、勝手に座布団を使って胡座をかく。

 こういう行儀の悪さはあずまの母上にたたき直されたはずなのに、数年経てば元どおりになるらしい。


「今日、帰るのか?」

「そ。お前とちがって、俺けっこう忙しいのよ」

「あの人に……、兄に報告するため?」

「そうそう。って、ばれてましたか」


 千尋はにやっとする。古都にいる従兄弟に文を書いて呼び出したのは頼次だ。

 

 しかし、この従兄弟がなんの打算もなく、頼次の頼みだけきくために西国さいごくに来たとは思えない。なにか裏があると、そう踏んでいた。


雅貴まさたかさまは、けっこう気になってるんじゃないかな?」

「あの人に、そんな感情なんてないだろ」

「ああ、ちがうちがう。のこと」

「楪か……」


 頼次はため息を吐く。異母兄にはちゃんと文で知らせた。ちょうど古都へと届くくらいに祝言をあげたので、兄からしたら事後報告に見えたかもしれない。


「なあ、ゆずっこってさあ、似てるよな。に」

って」

「ああ、ちがうや。じゃなくてだ。きゃんきゃん吠えてうるさいの。でもさ、餌付けしたらこっちのもん。従順でさ、そういうところが可愛いんだよね、頼次は」

「あのな、楪を犬と一緒にするな」

 

 前にもおなじ話をした気がする。千尋がではなくと言ったのは、が赤毛でが黒毛の柴犬だったから。


 尻尾を振りながら、頼次の周りをぐるぐるする柴犬たちを思い出す。たしかに、似てなくはないと思う。


「俺さ、ちょっと安心したのよ。お前が人間らしい感情を持ってたんだなって」

「どういう意味?」

「言葉通りだよ。ちょっと前のお前、すっげーこわかったもん。俺、心配してたのよ。これでも」

「そうは見えなかったけど」

「よかったね、結婚して。あの子のおかげってこと」


 頼次はまじろぐ。千尋はずっとにやにやしている。


(そう……なのだろうか。自分ではわからないけど、そう見えるのかもしれない)


 話している相手が従兄弟だからか、急に気恥ずかしくなって頼次は視線を逸らした。


「古都は、どう? 変わりない?」

「なーんも変わりなし。むしろ変わらなさすぎて面白くない」

「東條家は? ……あの人は?」

「ふ~ん。一応は気になるんだ」

「まあね」

「相変わらずだよ。お前が祓い師にならなかったせいで、雅貴さまは大忙し! 古都と帝都を行ったり来たり。ありゃ、早死にするね」


 本来ならば次男坊の頼次が古都を任されて、異母兄が帝都に残る。そのはずだった。


(そんなもの、自業自得じゃないか)


 ぼんくらで役に立たない穀潰ごくつぶし。


 頼次を見限って西国へと追放したのが、東條雅貴とうじょうまさたかという人だ。

 

「じゃ、そろそろ行くわ。まあ、またなんかあったら呼んでよ。汐莉しおりもけっこう西ヶ原ここ気に入ったみたいだしさ。あいつ、ちょっと変わってるよな」

「感謝してる。お前にも汐莉にも」

「それ、本人に言ってやってよ」


 やおら立ちあがった千尋は臀を払いながら言う。

 最初に来たときとおなじ、白襯衣シャツに黒の胴着チョッキ、紺色の洋袴ズボンの洋装だ。


 西国から古都へと帰るには、汽車に乗って長時間過ごさなければならない。そうなると下駄を履くよりも革靴の方が、脚が疲れなくて済むのだ。


 玄関まで見送ろうとしたものの、千尋は仰々しいと言いながら笑った。

 

 ずいぶんあっさりとした別れだ。汐莉とは一昨日の夕方に挨拶をした。従兄妹はすこし涙ぐんでいたが、来るときよりも晴れやかな顔に見えた。


「あ、そうそう。言い忘れてたんだけどさ」


 廊下の途中で急に振り返った千尋は、笑みが消えて真顔だった。


みおだけど、たぶん近いうちに来ると思うよ」

「澪が……?」


 澪は東條家の人間である。古都から西国へと行く理由なんてないし、そんな自由も許されない身だ。


 ところが、千尋は思いも寄らない声を口にした。


「澪さ、離縁されたんだ。雅貴さまに」


 そのあと、千尋はなにか他にも言っていた気がするが、それらはすべて頼次の耳を素通りしていった。

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