第七話 月鬼

「おや? こんなところでどうしたんですかい、ゆずりはさん」


 洗濯物を干し終わったとき、あまりにいいお天気だったので、楪はそのまま庭でひなたぼっこしていたところだった。


 膝を抱えるようにして座っていた楪は、降ってきた声の主を見あげる。しまの着流しの男は、迷い猫でも見つけたような顔をしている。


「おひさまがあったかいから、ここなら元気が出るかと思って」

「ほうほう。つまり楪さんは、ここでひとり悄気しょげてたわけですな」


 そんなに落ち込んでいたわけではなかったけれど、元気という言葉を使ったのは楪だ。


「ちがうもん。徳じいのお庭をながめてただけ」

「それはようございましたなあ」


 良いことなんてひとつもなかった。

 徳じいこと徳之輔とくのすけは意地悪だ。おなじ使用人の吉乃は楪にすごくやさしいのに、徳之輔はときどきこうして楪に意地悪する。


 抗議の意味で見つめたものの、そんな楪が可笑しかったのだろう。徳之輔はからから笑っている。


「まあ、そんなに落ち込みなさんな」

「でも、わたし……、徳じいや吉乃きつのみたいに、うまくできなかった」

「そりゃあ、私らとは年季がちがいますからなあ」


 禿げあがった頭を掻きながら、徳之輔は言う。年季というのは生きている時間のことだけではなく、はらい師としての経験のことも言っているのだ。


 ぐうの音も出ずに、楪は黙り込む。思い出されるのは昨晩の失態だ。


 妙な空気を嗅ぎ取った楪は頼次よりつぐの部屋へと駆け込んだものの、すでに戦闘ははじまっていた。

 

 東條家とうじょうけの次男、東條頼次を襲うのは異形の存在だ。

 頼次たちは月鬼つきおにと呼ぶ。古来、人に取りいたり苦しめたりする物の怪もののけはたしかに存在する。人はそれを死霊しりょう怨霊おんりょうと呼ぶが、月鬼というのはそれとは似て非なるものだという。


 まず、月鬼は夜にしか出ない。

 そして死霊などは死者の霊魂のことを差すが、月鬼は生きている人間から生まれる化け物だ。


 楪はふと思った。先日読んだ本で知った生き霊という存在。つまりそれとおなじものなのかと。


 すると、頼次はちょっと苦笑いしながら否定した。一緒にするのはよくない。専門職の人たちが怒るからと。


 それがどういう意味なのか、楪にはわからなかったけれど、死霊と月鬼のちがいは他にもある。前者には触れることができない。でも、月鬼には触れることが可能だし、それは逆にもおなじで、月鬼が物理的に人間に危害を加えることができるのだ。


 月明かりの下で露わになった月鬼の姿を、楪はこの目で見た。


 姿形は人間に似ていても、ぎょろりとした大きい目も裂けそうなくらいに大きな口も、そこからのぞいた牙みたいなものも、人間にはない。おまけに月鬼の爪はとても長くて、あんなものに引っ掻かれたら痛いどころでは済まされない。動きも速くて目で追うのが精一杯だったし、月鬼の力もすごく強かった。


 つまり、勇んで飛び込んだものの、楪はてんで役に立たなかったというわけだ。


「そもそも、楪さんは呪具を持っていませんからなあ」

「呪具? 徳じいの弓、とか?」


 吉乃は小薙刀こなぎなたを、徳之輔は弓を。それぞれ自分の得意な得物を持って月鬼に立ち向かっていた。徳之輔はうなずく。


「そうです。呪力を込めた武器がなければ、月鬼には効きはしません」

「うん……。わたし、なにも持ってない」

「楪さんは呪力を扱える素質がある。ただし、それを宿すための武器がないと」

「それって、どこにある? どうやったら、使える?」

「まあ、まあ。落ち着きなさいよ、楪さんや」


 鼻息を荒くしながらつづきを乞う楪を、徳之輔はちょっと考える間を置いてから答える。


「私が思うに、楪さんは素手で月鬼に触れることができた。それは誇れることなんですよ」


 楪は目をぱちくりする。もどかしくて早く答えがほしい。


「私の爺さんがその爺さんからきいた話なんですがね。むかし、呪具を使わずに月鬼と戦えた者がいるそうですよ」

「わたし、みたいに?」

「まあ、楪さんのあれは偶然でしょうな。とはいえ、ちゃんと自分の呪力を扱えるようになれば、不可能ではない」


 そのために呪具がいるのではないかと、喉から出掛かった声を抑えつつ、楪はうなる。

 徳之輔の話はむずかしい。最初に頼次や吉乃から月鬼のことを教わったときだって、楪の頭は難解な言葉の羅列に破裂しそうだった。


(わたしだって、たたかえるようにならないと。じゃないとわたし、あの人の……)


 楪はぐっと作った両の拳を見つめる。楪がもっと怪力だったなら、月鬼を力で殴り倒すことができたかもしれない。でもきっと、そういうことではないのだろう。

 

「いいですか、楪さん。祓い師にとって、一番大事なことを忘れちゃあいけません」

「それは、なに?」

「立ち向かう勇気です。それがなければ、人はあの化け物と戦えませんからね」


 記憶のない楪には勇気というものがよくわからない。でも、あの化け物と対峙したとき、怖いとはあまり思わなかった。それはたぶんきっと、を楪は知っているから。


『あんたって、本当に役に立たない穀潰ごくつぶしだねえ』


 名前すら失っているのに、耳にこびりついた言葉は、ふとしたときに思い出される。


(こわくなんて、ない。つぎは、もっとうまくやれる)


 楪のちいさな肩を軽くたたいて徳之輔は去った。きっと、励ましてくれたのだろう。

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