偏差値じゃ測れない僕の人生
広川朔二
偏差値じゃ測れない僕の人生
「ねぇ健斗、昨日の模試の結果、まだ学校でもらってないの?」
斉藤恵子の声は、優しさを装っていたが、言葉の端に針のような鋭さが潜んでいた。キッチンで味噌汁をかき混ぜる手は一切止まらず、彼女の朝はいつも規則正しく完璧だった。
「……うん。今日、配られると思う」
息子の健斗は、箸を動かしながら目を合わせない。中学三年生。来年には高校受験が控えている。恵子の中では、それは「東大現役合格ロード」の通過点にすぎなかった。
「じゃあ帰ったらすぐ見せてね。前回は国語の偏差値がちょっと落ちてたし、志望校もそろそろ真剣に考え直さないと」
健斗は小さくうなずいた。口の中の白米は、妙に重くて飲み込めない。
恵子は東大卒。今は都内の有名私立で事務職をしているが、かつては一流企業で働いていた。結婚・出産後にキャリアを中断したことを、彼女は「子どものため」と周囲に語っていた。
「健斗くん、最近ちょっと元気なさそうね。大丈夫?」
放課後、校門のそばで待っていたのは、健斗の叔母・咲だった。恵子の妹。服装も言葉遣いもゆるやかで、学校帰りの中学生と自然に並んで歩くことができる大人だった。
咲は知っていた。姉が自分の人生をやり直すように、息子にすべてを託しているのを。そしてそんな姉を嫌がって家にほとんど変えることのない義兄。子供のいない咲はおせっかいだとわかっていても、健斗のことが心配でこうやって学校帰りの健斗の様子を見に来ていた。
「……別に」
「姉さん、また『偏差値下がってるわよ』って言ってきた?」
健斗は苦笑した。否定はしなかった。
「咲ちゃんは、昔から怒らないね。母さんとは正反対」
「姉さんは、正しすぎるのよ。常に“こうあるべき”っていう枠があるから、そこから外れるものは許せない」
咲も苦い顔をした。恵子とは正反対の生き方をしてきた咲も随分と“忠告”を受けてきたからだ。
「でも人間って、本当は“枠の外”の方が面白いのにね」
健斗はその言葉に、ほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。
その夜、食卓に並んだのは栄養バランスを完璧に計算された夕食だった。魚、野菜、発芽玄米、そしてサプリメント。
「残さず食べるのよ。ちゃんと栄養をしっかり取っておかないと、集中力に影響が出るから」
恵子は得意げに説明した。健斗「僕の身体は、母の研究材料か何かか」と思ったがそれを口に出すことはしない。
「ねぇ健斗、咲と最近、何話してるの?」
唐突な質問に箸が止まった。
「……別に。たまたま会っただけ」
「そう。あの人、あんまり真面目なこと考えないタイプだから。あまり影響受けすぎないでね?」
恵子の目は笑っていたが、声は冷たかった。
その夜、健斗は机の上にあるスケッチブックをそっと引き出した。母に見つかると、「またそんな時間の無駄を」と叱られるから、最近は隠して描くようになっていた。
薄い鉛筆の線が、ページの中に小さな街を作っていく。そこには、自分のペースで歩き、笑い、話す人々がいた。
現実のどこにも存在しないけれど、そこだけが、健斗の「呼吸できる場所」だった。
◆
「偏差値62?……なにこれ。なんで前より下がってるの」
模試の結果用紙を握る恵子の眉間に、深いシワが刻まれていた。声は静かだったが、冷蔵庫の扉を閉める音に苛立ちが滲んでいた。
「国語はともかく、数学も英語も全体的に落ちてるじゃない。こんなんじゃあの高校には到底届かないわよ」
健斗は答えなかった。反論すれば火に油を注ぐだけだとわかっていた。食卓の上に置かれたスープが、冷めていく。
「このままだと駄目ね。ねぇ塾変える?今のところ、教え方が合ってないのかも。あるいは家庭教師をつけるのも——」
「……もう、いいよ」
「何が“いい”の?」
「もう、無理……」
ようやく絞り出した言葉は、母には届かなかった。
学校で健斗は廊下の窓辺に腰かけていた。授業の合間、目の前の空はどこまでも青い。
「健斗、お前んちの親、また三者面談で“御三家に進ませる”って断言してたらしいな。廊下にまで聞こえる声だったって」
クラスメイトが笑い混じりに話しかけてきた。
「親の気合だけで受かるなら、俺も東大行けるかもな?」
健斗は笑えなかった。進学、そこに「自分の意志」なんてないことがいつの間にか周囲の冗談になっていた。
もやもやした気持ちのまま、放課後に咲の家に立ち寄ると、テーブルには手作りのプリンが並んでいた。
「おつかれ。今日も模試の話?」
「うん……もう、どうすればいいかわからない」
咲は急かさず、静かに聞いていた。
「絵も……描く時間がない。描こうとすると、“それで将来どうするの”って言われて」
「確かに絵で食べていくのは大変だよ。それは姉さんの言う通りだと思う。でも絵ってさ、将来のためだけに描くものじゃないと思う。その時間が人生を豊かにするんだよ。それに絵を描かないと息苦しくなるなら、その行為は健斗にとって呼吸と同じだよ。ずっと息苦しいまま生きるのは辛いよ。健斗が生きているのは健斗の人生よ」
咲の言葉に健斗の目が、かすかに揺れた。親とも友人とも違うその言葉は、どこか突き放すような冷たさもあったが、真摯に健斗のことを想っているようだった。
数日後の日曜、恵子は模試の申込用紙を片手にリビングにいた。
「これ、全国模試。月末にあるから申し込んでおいたわ」
「え……月末は友達と……」
「友達? そんなのは高校、いや大学に入ってからでもできるでしょ。今は勉強が最優先。あんたに必要なのは、遊びじゃなくて結果よ」
「でも……!」
珍しく健斗が声を上げた。
「どうして僕の話を聞いてくれないの!? 僕は……僕は、母さんの作品じゃない!!」
その一言に、恵子の顔色が変わった。
「何よそれ。まるで私があなたを利用してるみたいな言い方して」
「……違うの?」
「私は“あなたのため”を思って——」
「違う!!」
声がリビングに響いたあと、しんと静まり返った。恵子は唇を震わせながら立ち尽くし、健斗は息を荒げて階段を駆け上がっていった。
閉ざされたドアの向こうで、彼の嗚咽が微かに聞こえた。
その夜、咲に健斗は短くメッセージを送った。
「逃げても、いいのかな」
しばらくして届いた返信は、たった一言だった。
「逃げることも、生きることだよ」
部屋のドアを閉めたまま、健斗は布団にうずくまっていた。あの日、恵子に怒鳴り返してから、三日が過ぎていた。
食卓には顔を出さず、学校も休んだ。朝になると胃が痛くなり、鉛のように体が重くなる。目を閉じれば、模試、偏差値、進学校、家庭教師……母の声が頭の中で渦を巻いた。
だが、このままでは何も変わらない。あの日、咲に言われた言葉が頭を巡る。
【健斗が生きているのは健斗の人生よ】
ベッドから起き上がり、机の引き出しからスケッチブックを取り出すと、表紙を撫でて一度大きく息を吸った。
「……行こう」
鞄に最低限の荷物と、描きかけのスケッチブックを入れる。階下から、恵子の電話の声が聞こえてきた。
「ええ、そうなんです。まだ体調が優れなくて。あの子突き詰めてしまう性格なので。ええ 休んでるのはたまたまです。受験勉強に集中する時期ですから、大事をとろうかと」
まるで「不登校」が、自分の教育方針を否定する汚点かのように弁明する母。
健斗は小さく首を振って、物音がたたないようにそっと家を出た。
これ以上、この人の“物語”の登場人物にはなれない。
咲のマンションに着いたのは、昼すぎだった。チャイムを押すと、咲は驚いた顔で扉を開けた。
「……本当に、来たんだ」
「うん……行く場所、他にないから」
その瞬間、咲の目にうっすらと涙が浮かんだ。
「よく来たね、健斗。お腹すいてない? ご飯、作ろっか」
健斗は頷いた。その言葉に、今までどれだけ飢えていたのかを自覚した。
「狭いけど、気にしないで。遠慮も禁止ね」
咲は笑いながら冷蔵庫から卵を取り出し、ふわふわのオムライスを作ってくれた。食べながら、健斗はぽつりぽつりと話し始めた。
絵が好きなこと。
模試の偏差値が下がるたびに怒鳴られたこと。
“お母さんのために頑張らなきゃ”って思っていたこと。
何度か話していたことだったが、一つずつ確認するように話す健斗。咲は黙って聞いていた。否定も、評価もしなかった。
「ねぇ、咲ちゃん。……僕、逃げたんだよね」
「ううん。健斗は、自分の人生に“移動した”だけ。誰のものでもない、自分だけの場所へ」
一方その頃、恵子は健斗の部屋に入り、置きっぱなしのスケッチブックを見つけた。ページをめくると、そこには緻密に描かれた架空の街、動物たち、ファンタジーの風景が広がっていた。
恵子の目が揺れた。
「こんなに描いてたのね、勉強もしないで…」
その声は、誰にも届かなかいが、タイミングよく恵子のスマホに咲からメッセージが届いた。
【健斗、うちに来ています。しばらくは私のところで預かります】
【学校にも報告済みです。連絡は直接、健斗に取ってあげてください】
恵子はその画面を見つめたまま、動けなかった。部屋は静まり返っていた。
それまで完璧に構築してきた「理想の進学プラン」が、初めて音を立てて崩れ落ちていった。
◆
ある午後、咲の家に一本の電話が入った。中学校の担任からだった。
「健斗くんの今後について、保護者の方と面談の場を持ちたいと考えています」
咲は、電話を切ったあと、静かに言った。
「健斗。……お母さんに会ってきなさい。自分の口で言わなきゃ、前に進めないよ」
そして週末、学校で面談が行われることになった。校長、担任、そして母・恵子。健斗は小さな応接室に入った。咲は健斗を学校に送っただけで同席はしなかった。
恵子は開口一番、鋭く言った。
「この数週間、あなたが何をしていたか知ってる? 塾を休んで、学校にも行かず、家出? ふざけないで」
「……ごめん。でも、僕、もう決めたんだ」
健斗は、鞄から一冊のパンフレットを取り出した。
「この高校、受けたい。母さんが入れたがっていた高校じゃないけど、東大への合格者も出してるし…美術系の進学率も高い」
恵子は目を見開いた。
「なにそれ? そんな高校聞いたことないわよ、偏差値いくつよ? 将来どうするの? 大学は?」
「わからない。でも……“わからない”って言っていいって、咲ちゃんが言ってくれた。絵で生きていくかはわからないけど、ちゃんと自分で考えたいんだ」
担任が口を開いた。
「健斗くんが授業で描いた絵は県展で受賞したこともあります。確かにいい高校に進んでいい大学に入ることはその後の人生で大きなアドバンテージになるでしょう。でもその生き方が誰の人生においても最高のものではありません。健斗くんは非常に頭のいい子です。学力だけではなく、です。彼はしっかりと自分のことを考えられるお子さんですよ」
恵子は担任の言葉を無視するかのように言い放った。
「……あなたのために、どれだけ塾代をかけたと思ってるの? 有名高校に入れば将来安泰なのよ」
健斗は、静かに言った。
「その“将来”って、誰のもの?」
応接室の空気が凍りついた。
「……僕、もう、母さんの夢を生きるのはやめたい。自分の人生を、自分で選びたい」
面談後、学校の廊下を歩きながら、恵子は初めて「沈黙」した。強気な母親の姿は、そこにはなかった。
そして一言だけ、つぶやいた。
「……勝手にしなさい。ただし、後悔しても知らないわよ」
数か月後。
桜のつぼみがふくらむ早春の日。健斗は、志望していた都立高校に合格した。合格通知を手に、咲と顔を見合わせた。
「これからが本番だよ。逃げ道じゃなくて、選んだ道だからね」
「うん、覚悟してる。ありがとう、咲ちゃん」
二人の背後には、健斗の祖父母が静かに微笑んで立っていた。あれから両親は離婚し、親権は恵子に移ったが、今は恵子とは離れて暮らしている。
後日。恵子の元に、合格通知のコピーが郵送されてきた。添えられた手紙には、こう書かれていた。
“母さんへ。僕は、僕として生きていきます”
恵子は、しばらくその文面を見つめ、そっと封筒を閉じた。その横で、リビングのテレビに映るワイドショーで有名進学校の合格発表の様子が特集されていた。だが、もうその音は、恵子の耳には届いていなかった。
偏差値じゃ測れない僕の人生 広川朔二 @sakuji_h
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