第三話 名もなき密書 “五国の影”

夜の帳が葛城城を包んでいた。蝋燭の灯だけが灯る書見の間で、一人の男が静かに筆を走らせている。葛城 斎かつらぎいつきである。


書を閉じたその時、襖がわずかに鳴った。入ってきたのは、稲生 彰人いのうあきと


無言で歩み寄り、懐から小さな包みを取り出して机に置く。


「密書か」


斎が封を切り、開いた。稲生は灯火に照らされた主の横顔を見つめる。沈黙の中、紙をなぞる視線は早い。やがて、斎の眉が僅かに寄る。


「──五国、それぞれが動いている」

斎が呟いた。


密書には、天義国の軍備拡張、白嶺海国の艦船造り、神代院の巡礼強化、鬼門州の武器流通など、地味ながら明らかな兆しが記されていた。


「偶然では済まされぬな」

「はい。水面下の策動、あるいは……仕掛けの前触れかと」


斎は立ち上がり、壁に掛けられた地図を引き寄せた。筆を取り、勢力名と動向を書き入れていく。その手は迷いなく、的確に各地を結んでいく。──が。


「……殿」


稲生が静かに呼ぶ。斎は振り返らないまま「うむ」と返事をする。


「それ“天瀬あませ”ではなく“雲の記号”になっております」


指摘に斎は手を止める。地図上に走る墨は言われてみればそう見えなくもない。どうにも己の字は他者からすると判別しにくいらしい。


だが、読めなくもないのではないか。

「……汚いか?」


斎が問うと。稲生はしばし絶句した後、苦笑した。

「……いいえ、殿らしいです」


蝋燭の灯が揺れる。しばしの沈黙の後、斎が静かに言った。


「この乱、我らの代で終わらせる」

「ならば、俺はその矢となりましょう」


静かに、だが確かな声だった。笑いも誓いも、そこにはあった。だが、風が吹き抜けると、どこか寂しさも残した。


名もなき密書──それは、まだ遠く揺れる嵐の序章にすぎなかった。

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