月の光はレモンの香り
縦縞ヨリ
月の光はレモンの香り
「僕の世界を作ってくる」
つくづく思う、私は男の趣味が悪い。
脳波感応カプセルモジュールを覗き込んでみる。
眠る顔は妙に安らかだったり、ちょっと楽しそうだったり、たまに少ししょぼくれた様にも見えたが、多分全部気の所為だ。所詮見る者の心を映しているだけ。言ってみればぬいぐるみみたいなものだ。
あるのはただあらゆる五感を遮断して、人間生活を放棄した男の顔である。
彼は仮想現実の構築にのめり込む余り、自ら作りかけの空想にダイブした。
季節は何度も移り変わり、私も少し年を取った。
彼の構築した仮想空間は概ね好評で、売りはサイバーパンクとは真逆の少しメルヘンな世界観と、不気味さの中にも幻想の気配漂う神秘的な演出だった。
朝は陽光の中に妖精の息吹が混じり、現代人のすり減った気持ちを少しマシにする。夜は闇の中に発光する幻獣が駆け抜けて、森の木々の合間に眠るように消えてゆく。
神獣の息吹を感じる野山のざわめき。妖精が水を飲む川のせせらぎと湿度。抱き上げる現実には存在しない小動物の温かさ。
そういう現実離れしたリアリティを彼の妄想から余すこと無く抽出し、彼の世界は更に人々に没入感を与え、世界中のダイバー達を魅力した。
私を除いては。
私は膨大なデータを幾つもの画面に映し、彼の世界と、彼の脳の状態をモニタリングする。スポンサーとの交渉や、AIで捌けなかったカスタマーとのやり取りもたまにしている。一応共同経営者であるが、まあオーナー兼妻兼雑用係と言った所だ。
夫婦二人の二人三脚と言えば聞こえは良いが、まあ夫の道楽に付き合って食べているという所である。いや、実際の所彼とはもう三年も話をしていない。モニター越しに見るアバターは彼に似ているようで、その実全くの別物だ。私に向かって語りかけても、本を開いた様な隔絶を感じる。
『たまには君もこっちにおいでよ、海の色のペガサスが子供を産んだんだ』
「こっちで見るから良いわ」
『産まれたてはとても小さくて、羽もふわふわなんだ。親も良く懐いているし』
「そう、良かったわね」
彼は毎日楽しそうだ。
私はいつからか、彼の夢を覗き見ても何も感じなくなってしまった。最初は一緒にワクワクと世界を見ていたのに、気持ちは日々離れていく。しかし幻想に夢中な彼は気がつく事も無いだろう。
割と仲良かったと思うんだけどな。
モジュールの中の彼は目を閉じ、私の事など見向きもしない。
我慢している訳では無いが、多分もう心が無いのだ、私は。
『オーロラが溢れる竜巻を見においでよ』
「遠慮しとくわ」
『ペリドットだけの地層を作ったんだ』
「良かったわね」
『掌に乗るくらいの猫が居るよ』
「子猫じゃだめなの?」
『白龍の背中に乗って大雪原を飛ばない?』
「忙しいから」
『僕は一体どうしたら君の気を引けるのかな?』
「そこに転がってる顔だったら引けるんじゃない?」
沢山のモニターが一斉に赤く染まる。エラーが画面いっぱいに広がり、ダイバー達は一斉にざわめいた。
私は慌ててトラブルシューティングを開いて、とにかく世界中のダイバー達を彼の夢から追い出す。
『緊急メンテナンスまであと9分45秒』
らしい。唐突だ。とにかくエラーは止まったみたい。彼の姿は何処にも無い。
幻想の世界は人間の気配が消えて、後は彼の描いた架空の動物と、作り物に相応しく不自然な自然が、静かに佇んでいるだけだ。
彼は何処だ?
『緊急メンテナンスまであと3分25秒』
彼を追尾しているカメラワークからも姿が消えている。信号としてはまだ中に居るが、それも不安定で点いたり消えたりしている。
このまま世界ごと消えてしまったらどうしよう。
ゾワッと背筋が粟立った。
『緊急メンテナンスまであと5秒』
モニターの全てが白く染まる。
愕然とする私の背後で、コト、と小さな音がした。
「あなたっ……!」
モジュールの中、彼はうっすらと目を開けている。三年も滅菌されて管に繋がれているのだ、動くどころか声を出すのだって難しいだろう。
私は焦りながらも慎重にカプセルを開けると、外気に晒されて彼は苦しげに咳き込んだ。
「急にどうしたの!? 何処か悪いの!? 痛みは……」
何か言おうとするので、ミネラルウォーターのボトルの封を切り、慎重に口に注ぐ。僅かな量の水を飲み込み、彼は微かに笑って、蚊の鳴くような声で言った。
「……レモンの香りがする、月の光を、見に来ない?」
三年ぶりに聞いた彼の声は、デートのお誘いだった。
私は泣きながら笑ってしまって、少し細くなった身体を抱きしめた。
「ええ、……たまには一緒に行こうかな」
終
月の光はレモンの香り 縦縞ヨリ @sayoritatejima
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