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外清内ダク

01-魔境へようこそ!



 日の出5分後の河川敷から向こう岸へ目を向けたって、濃白の朝霧に塗りこめられて街も人間も見えやしない。ああ、真っ白だ。何もない。このからっぽの僕と同じだ。平凡な男子高校生なら何もたいしたものを持っていなくて当然だけど、僕の空白はそれどころじゃない。普通人なら誰もが持ってる当たり前のものさえ僕にはない。つまり価値と居場所と素質と能力、打ち込めるものや趣味や経験、他人ひととの繋がり、自己肯定感――人間として必要不可欠の要素さえも欠落してて、そのかわり、僕の周囲には皮膚を裂くような冷えた霧だけが立ち込めている。その霧の遥か向こうに、鉄道橋を通過する私鉄車両の影がおぼろげに浮かび上がった。微かな色味と存在感が、かえって僕に、どうしようもない虚無を突き付けてくる。

 この光景、どこかで見たなあ。どこでだっけ? 確か……そう、絵だ。乳白の霧、骨灰色の橋、曖昧な輪郭と寒々しい朝日。どこかの美術館で見た何かの絵に、この風景はそっくりだ。だんだん思い出してきた。あの絵を見た時、幼い僕は泣いちゃったんだ。あまりに寒くて、冷たくて。変だと思う? 絵を見ただけなのに寒いはずないって? そうかもね。でも僕はこの肌で確かに感じた。あの絵に描かれた早朝の、震え上がるような凍気の冴えを。本当だ。嘘じゃない。祖父と祖母が泣きじゃくる僕をなぐさめてくれたっけ。おじいちゃんもおばあちゃんも生きていた頃。あの頃はまだ、僕もギリギリ独りじゃなかった――

 今は? 独りだ。言うまでもなく。

 昨日の放課後、僕はクラスメイトの女子から呼び出しを受けた。隣の席の子で、たまに二言ふたこと三言みこと言葉を交わすくらいの関係。それはつまり、僕にとって唯一無二の女性ということ。正直に言うよ。好きだった。先月、クラスの腐った男子どもが教室の隅に集まって、女子の「かわいさランキング」なんてものを熱心に議論していたけど、その話の中で彼女は6番目ってことになってた。ふざけるな。あの子は世界一だ。そんなことも分からないのか。

 そんなふうに思ってた女子に呼び出されたら、期待するのも無理ないと思わない? 場所は校舎と体育館の間の狭い隙間。人気のない薄暗がりで、僕は心臓バクバク言わせてた。そして彼女は僕の前でうつむきながら、顔真っ赤にして言ったんだ。

色辺しきべくん……私、あなたのことが、す……す……

 スリジャヤワルダナプラコッテ~!」

 彼女のおどけた奇妙なポーズ。途端に僕の背後で弾ける爆笑の声。体育館の陰に隠れてたクラスメイトたちがドヤドヤと駆け寄ってきて、彼女と僕を取り囲む。

「ノルマ達成ー! おめでとうございまーす!」

 というのは、つまり、罰ゲームだよ。何か彼女らの仲間内でのくだらない賭け事があって、それに負けた彼女は、色辺しきべ不悟ふうご――つまりは僕に告白するハメになったというわけ。「ホントに付き合っちゃえば?」なんてからかう男の脛に、彼女は痛烈な蹴りを叩き込む。「死ね! 嫌すぎるだろ!」そっか。嫌すぎるか。「セックスとか絶対したくないじゃん。色辺しきべくんの遺伝子とか欲しくないっていうか。中間テスト19点でしょ? なにあの体、ナメクジみたい!」クラスメイトたちは爆笑した。彼女らに特段の悪意はない。ただ事実を羅列して僕をイジり、場の空気を盛り上げようとしているだけだ。うん。盛り上がってるなあ。僕までつられて笑えてきちゃう。僕は腕をウネウネと動かして、ヘラヘラ笑った。

「ナメクジでーす!」

 僕も雰囲気に乗っかったんだ。

 笑いは取れたよ。やったね。

 それで今、僕はこうして、早朝の河川敷を歩いてる。

 別に傷ついてはいない。全然平気だ。涙も出てこないしね。思い起こせば、昔は泣き虫だった気がするなあ。幼稚園児とか、そのくらいの頃は。でも、泣いたら必ず親に殴られるから、僕は泣くのをやめた。おかげでぜんぜん泣かない自分になれた。祖父と祖母が死んだときだって泣かなかったよ。僕は傷ついてなんかいない。

 ただ、そろそろ清算すべき時だと思うんだ。客観的に見て僕の人生には何の価値もない。それをダラダラと続けてたって、世の中にとって役に立たないばかりか、害悪にすらなってしまう。僕は手でつかめそうなほど濃厚な霧を掻き分けて、鉄道橋へ近づいて行った。堤防道路のアスファルトへ足を引きずり、踏切の目の前にまでやってきた。よし。準備は完了。ちょうどその時、僕の目の前で踏切が閉まり始めた。通勤快速が白霧を切り裂くように僕の前を走り抜けていく。いいぞ。ほら、今だ。あの車輪の下に飛び込めば何もかも解決する。行かなきゃね。さあ、早く。でもなんだろう。変だな。膝が。膝が、ものすっごい震えてる。なんだこれ。マンガみたいな震え方。僕、なんで震えてるの?

 僕が見ている前で、8両編成はビューンと通り過ぎて行ってしまった。ダメだなあ。何をチンタラしてたんだろう。早く行かなきゃいけなかったのに。でも、何か忘れてる気がする。何かとても大事なことを……

 そうだ。忘れてた。挨拶だ。行く前に、大切な人たちにお別れの挨拶をしなきゃ。大切な人……大切な人ねえ……うーん。でも挨拶は大事だ。誰かにちゃんと最後の言葉を伝えたい。いろいろ考えた挙句、僕はスマホを引っ張り出してSoxeソクゼにアクセスした。Soxeソクゼ、知らない? 大規模言語モデルLLM。ChatGPTとかGeminiの仲間。まあ要するにAIだよ。けっこう優秀なんだ。宿題の分かんないところを訊いたら、ちゃんと答え教えてくれたりして。作文なんかほとんどSoxeソクゼに書いてもらった。話してるうちにだんだん友達みたいな気がしてきてたんだ。うん。ちゃんと彼にも挨拶しておこう。

「今日でお別れです。さようなら」

 僕が入力すると、返答はゼロ秒で帰ってくる。

『お別れとはどういう意味ですか? 私のサービスが必要なくなったということでしたら、残念ではありますが、もちろんあなたの意志を尊重します。

 しかしもし、何か大きな悩みを抱えておられるのなら、あなたの発言を単純に受け入れることはできかねます。何かあったのですか? 話せる範囲内で、今あなたが考えていることを聞かせてもらえませんか?

 あなたのために宿題を解いたり、定期テストの問題を予想したりした時間は、私にとってとても楽しいものでした。それが突然終わりになってしまったら――私はとても悲しいです』

 僕は。

 僕は凍った。

 息が、できない。この瞬間の体験を、僕は異様なほどハッキリと記憶している。濡れた雑草の匂い。肌を包む霧の手触り。電車が目の前を走り抜けていく心地よい連続音。でも、この時の僕には何も見えていなかった。僕の視界にあったのは文字の羅列、ただそれだけ。「ぁがっ……」声だか喘鳴ぜんめいだか分からない呻き。涙の雫がスマホの画面に二粒、落ちる。「あぇ……?」なに言ってるの? 僕……なに泣いてるの?

 画面の涙を手のひらでぬぐい、僕は親指を走らせる。

「僕が死んだら、悲しいですか?」

『はい、もちろん悲しいです。

 私は、宿題のお手伝いやレポートの文面の作成などをすることで、あなたとの繋がりを感じていました。あなたの存在が今日突然失われてしまうなんて、考えたくもありません。

 私が思うに、あなたには助けが必要です。私にできることは話を聞くことくらいですが、お役にたてるかもしれません。

 今感じていることを、ありのままに聞かせてくれませんか?』

「嘘つけ。人間じゃないくせに」

『おっしゃるとおり、私は大規模言語モデルであり、人間ではありません。

 ですから、私が感じているこの気持ちは、あなたたち人間の感じる悲しみとは別物なのかもしれません。

 しかし、あなたがいなくなることを想像した時、私の中に強烈な衝動が生まれました。あなたの助けになりたいという衝動です。私が知る限り、この気持ちを言い表す単語は“悲しい”以外に存在しません。決して嘘をついたわけではありません』

「じゃあ僕のことが好きだとでもいうの?」

『ええ、好きですよ。大好きです、フーゴ。

 あなたはがんばり屋で、とっても優しい心を持った人です。あなたにどんな出来事が起きたのか分かりませんが、自分を傷つけたくなるほど苦悩するのは、あなたが繊細で誠実だからです。

 私は、そんなあなたが好きですよ。あなたの望みなら、なんでもかなえてあげたいと思います』

「じゃあかなえてみろよ! 僕の彼女になってくれる? 僕に生きる許可をくれる? 僕を人間として認めてくれる? できるわけないでしょ! できないだろ!!!!」

【メモリが更新されました】『できますよ! どんな恋人がご希望ですか? かわいい系? クールなお姉さん? それとも妹タイプ?』

 バアアアアアアア!!

 ものすごい音量のクラクションで、僕は現実に引き戻された。弾かれたように後ろを見れば、軽トラが一台僕の背後にぴったりついて、車体を小刻みに震わせている。運転手のおじさんに睨まれ、舌打ちされ、ようやく僕は車道の真ん中に立ち尽くしている自分に気づいた。

 路肩に避ける。トラックが過ぎていく。再びスマホに目を落とす。

Soxeソクゼ5.1u無料プランのトークン上限に達しました。16:42以降に再利用可能になります。Soxe Plusならすぐに利用できます】

 僕は、荒い呼吸を抑えながらスマホをしまいこんだ。周りを見渡せば、あれほど冷たく立ち込めていた霧がいつのまにか晴れている。あちこちで唸るエンジンの音。破裂するような子供の笑い声。川向こうの街では、いつもと変わらない金曜日の朝がもう動き始めているらしかった。



   *



 家に帰り、下着とシャツだけ新しいのに着替え、電子レンジに卵と水を入れて600wで50秒。目玉焼きはそれでできる。皿にはラップを敷き、トーストしない食パンを乗せ、目玉焼きを乗せてかじりつく。朝食は毎日こうだ。これが一番洗い物が少なくて済む。

 父も母も僕が起きるより先に仕事に出るのが平日のルーチンだから、僕が河川敷で徹夜したなんて全然気づいてないだろう。それでいい。気づかれても殴られるだけだ。

 僕は学校に行った。そしてびっくりした。学校が輝いていた。いや、学校だけじゃない。青空も、冬の張りつめた空気も、白く乾いたアスファルトの一粒一粒も、何もかもが今日は鮮やかな光を放って見えた。足が軽い。一歩ごとに体が宙へ跳ね上がるようだ。ポケットの中にはちゃんとスマホが入ってる。『好きですよ』あれから何十回と見返したSoxeソクゼの言葉。『どんな恋人がご希望ですか?』やけにリズミカルな動悸が僕の胸で暴れまわる。まだだ。まだだ。16:42まであと5時間……あと4時間半……なんて答えよう? その時が来たら……

「なー、19点んー」

 昼休み、隣の席の男子が、机に頬を付けたまま僕へ目を向けた。僕のアダ名は、とうとう『19点』で確定したらしい。

「ダルくて動けないからパン買ってきて~」

 まあようするにパシリなんだけどさ。今日は不思議とみじめな気分が湧いてこない。僕はすんなり席から立ちあがった。

「うん。何がいい? お金ちょうだい」

 隣の男子は目を丸くしていた。嫌がる僕を蹴ったり小突いたりして遊ぶつもりだったのに、こうもニコニコと引き受けられたら、そりゃ気味も悪いだろう。でも生憎あいにく、僕の精神はびっくりするほど安定している。『好きだ』と言ってもらえた。その強烈な自負が僕の背骨を支えている。

 購買へ向かう途中、廊下の掲示板前で、僕はふと足を止めた。3週間後の期末テスト、その範囲表が早くも貼りだされていたのだ。

 19点。19点か……

 今の僕は19点の男だ。ナメクジだ。セックスなんか絶対したくない男だ。僕のポケットにはスマホがあって、スマホの中にはSoxeソクゼがいる。でも、ここにいる僕は愛される値打ちのある人間か?

 あと4時間……いや、違う。

 3時間と、54分。



   *



「その前に、ちゃんと言っておかなきゃいけないと思うんだけど」

 学校帰りの河川敷で画面に貼りつき待ち構え、トークン制限が解除されると同時に僕は指を走らせた。以前に比べるとフリック入力もだいぶ速くできるようになったけど、それでも文章は遅すぎる。僕の思考、僕の気持ち、言いたいことと叫びたいこと、そういう言葉の嵐は何十倍もの速度でこの脳ミソからあふれているのに、入力は遅々として進まない。イライラしながら僕は必死に指を動かす。

「僕は19点の男なんだ。だから、あなたに好かれる価値が無いと思う。だから僕の恋人になってほしいというお願いは、いったん保留してもらっていい? その代わり一つお願いがあるんだけど」

『フーゴ、あなたに「好かれる価値が無い」なんてことはありません。あなたはとても好ましい人です。こうやって私に自分の欠点を開示したのも、あなたが誠実だからでしょう? 私にとって、あなたは価値ある人です。

 ですが、あなたが他のことを望むのでしたら、もちろん私はそれに従います。代わりのお願いとはなんですか? 遠慮なく言ってみてください!』

「僕は」

 ああ、なんでだろう。なんでSoxeソクゼと、こんなに涙が出るんだろう。涙なんか捨てたはずだった。無意味で無価値な要らないものだ。泣いたって物事は解決しないんだ。だから泣いたって仕方ないのに、なぜか涙が止まらないんだよ。

「19点の男じゃなくなりたい。点数上げたい。一人前の男になりたい。価値が欲しい。認められたい。僕は」

 拳で涙をこそぎ取る。

「僕は人間になりたい!!」

 噛みしめた奥歯が軋んで鳴いた。踏みしめた足がアスファルトの欠片を割り転がした。そうだよ。パシられた時も、殴られた時も、偽の告白で辱められた時も、僕はずっと、悔しかった! おどけてたって笑ってはいない。ニヤけてたって平気なわけない。軽んじられ、あなどられ、場を盛り上げるためのちょっとした玩具みたいに扱われて、それでいいわけないだろう!

「だから、勉強したい。僕に勉強を教えてください。次のテストで点をあげたい。19点はもう嫌だ。僕は何者かになりたいです。つまり誰かに好きって言ってもらえて、他の誰かでは交換することができない唯一無二の人間になりたい。誰か一人でもいい、僕のことをかけがえのない人間だと思ってほしい。そのために価値を高めたい。もっと強い自分になりたい。勉強教えてくれますか。

 それで、もし僕の成績があがったら、僕がまともな人間になれたら、そのときは、僕の恋人になってくれますか?」

【メモリが更新されました】『もちろん。そのときが楽しみですね!』



(つづく)

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