圭太の絶望

写乱

圭太の絶望

 圭太の日常は、図書館の本の匂いとページをめくる微かな音、そして友梨奈の柔らかな笑顔で満たされていた。大学に入学してからも、高校時代から続くその穏やかな日々は変わることなく、まるで上質な革装丁の古典文学のように、静かで確かな幸福感を圭太に与えていた。


 圭太は、昔から目立つことを好まない、どちらかといえば内向的な性格だった。大勢で騒ぐよりも一人で読書に耽る方が性に合っており、大学でも必要最低限の交流しか持たない。そんな圭太にとって、友梨奈は唯一無二の、そしてかけがえのない存在だった。


 彼女との出会いは高校二年の春、新しく建て替えられたばかりの図書館だった。静寂に満ちたその場所で、同じように本を愛する友梨奈と出会うのは必然だったのかもしれない。ある日、圭太が読んでいた少しマニアックな海外文学の初版本に、彼女が声をかけてきたのだ。

「あの、それって、ツルゲーネフの初版本ですか?」

 おずおずと、しかし瞳を輝かせて尋ねる友梨奈に、圭太は驚きながらも頷いた。

「うん、そうだよ。よくわかったね」

「私、その作家さんがすごく好きで……でも、初版本は初めて見ました。すごいですね!」

 そこから自然と会話が生まれ、おすすめの本について語り合い、気づけば放課後の図書室で一緒に過ごすのが日課になっていた。


 友梨奈もまた、圭太と同じように大人しく、控えめな少女だった。艶やかなストレートの黒髪は腰まで届くほど長く、風が吹くと絹糸のようにさらさらと揺れる。その美しい髪を時折手櫛で整える仕草は、圭太の胸を密かにときめかせた。服装はいつも清楚で、小花柄や淡い色のふんわりとしたワンピースに白いソックス、そして革のローファーか、可愛らしいストラップシューズを合わせているのが常だった。化粧も薄く、それがかえって彼女の瑞々しい素肌と整った顔立ちを引き立てていた。


「圭太くん、この間貸してくれた本、すごく面白かった。特に最後のどんでん返しが……!」

「ああ、やっぱり友梨奈さんなら気づくと思ったよ。あの伏線の張り方、見事だったろう?」

「うん!もう一度読み返して、伏線を確認しちゃった。圭太くんのおすすめは、いつも私の好みにぴったりだなあ!」

 少し頬を赤らめながら、楽しそうに答える友梨奈の声は、ややおとなっぽくて落ち着きがあり、それでいて心地よい響きを持っていた。

「友梨奈さんの読む本も、いつも興味深いものばかりだよ。僕じゃ見つけられないような、隠れた名作をよく知ってる」

 圭太は、言葉少なながらも、精一杯の気持ちを込めて応える。友梨奈と話していると、普段は口下手な自分でも自然と会話が弾んだ。


 同じ大学への進学が決まったとき、二人は手を取り合って喜んだ。

「よかったね、圭太くん!また同じキャンパスに通えるなんて、夢みたい」

「本当に。友梨奈さんがいなかったら、僕、大学生活も心細かったと思う」

「私もだよ。圭太くんがいてくれるから、安心できるの」

 それは、圭太にとって人生で最も輝かしい瞬間の一つだった。大学に入ってからも、二人の関係は変わらなかった。


 講義の合間に中庭のベンチで一緒に過ごしたり、週末には神保町の古本屋街を何時間も歩き回ったり。見つけた珍しい本を見せ合っては、子供のようにはしゃいだ。

「見て、圭太くん!この詩集、ずっと探してたの!」

「すごいじゃないか、友梨奈さん。これは稀覯本だよ。よく見つけたね」

「圭太くんと一緒だったから、見つけられたのかも。なんだか、いいことがありそうな気がしてたんだ」

 友梨奈の屈託のない笑顔は、圭太の心を温かく照らした。


 時にはどちらかのアパートで、ささやかな食事会を開いた。友梨奈の手料理は、見た目は素朴だが、心のこもった優しい味がした。

「友梨奈さんの作る肉じゃが、本当に美味しいな。なんだか、お袋の味を思い出すよ」

「もう、圭太くんたら、褒めすぎだよ。でも、そう言ってもらえると嬉しいな。圭太くんも、今度何か作ってよ」

「えっ、僕? 僕が作れるものなんて、インスタントラーメンくらいだけど……」

「ふふっ、それでもいいよ。圭太くんが作ってくれるなら、何でも美味しいと思う」

 そんな他愛ない会話の一つ一つが、圭太にとってはかけがえのない宝物だった。


 手をつなぐのは、帰り道、人気のない路地に入った時だけ。それでも、初めて手をつないだ日のことは、圭太の心に鮮明に焼き付いている。友梨奈の小さくて柔らかい手の感触、緊張で早鐘を打つ心臓の音。それだけで、世界がきらきらと輝いて見えた。それ以上のことは、まだなかった。圭太は友梨奈を心から大切に思っていたし、友梨奈もまた、そんな圭太の純粋さを信頼していた。焦る必要などどこにもなかった。二人の時間は、これからもゆっくりと、確実に続いていくものだと信じていたからだ。


 やがて、大学に入って初めての夏休みが近づいてきた。蝉の声が日ごとに大きくなり、日差しは肌を焦がすように強くなっていく。

「夏休み、どこか行きたいねって話してたけど、圭太くん、何かいいアイディアある?」

 ある日の帰り道、夕焼けに照らされながら友梨奈が尋ねた。

「うーん、そうだなぁ。やっぱり涼しいところがいいかな。軽井沢とか、どうだろう? 昔ながらの喫茶店とかも多そうだし、二人でゆっくり本でも読めたらなって」

「わあ、素敵!軽井沢、行ってみたい。緑がいっぱいで、空気も美味しそう」

「それと……友梨奈さんが前に言ってた、夏祭りも行きたいな」

 圭太が少し照れながら言うと、友梨奈はぱっと顔を輝かせた。

「覚えててくれたの?嬉しい!私、この間、お母さんと一緒に浴衣を見に行ったんだ。圭太くんに見てもらいたいなって思って」

「友梨奈さんの浴衣姿か……絶対、綺麗だろうな」

 圭太は、来るべき夏の日々への期待に胸を膨らませていた。その先に、想像もできないような深い闇が待ち受けていることなど、知る由もなかった。



 夏休みに入り、太陽は容赦なくアスファルトを照りつけた。蝉時雨が降り注ぐ中、圭太と友梨奈は、町の小さな夏祭りに出かける約束をしていた。友梨奈が楽しみにしていた浴衣。圭太も、この日のために新調した甚平に袖を通した。


 駅で待ち合わせた友梨奈は、圭太の想像を遥かに超えて美しかった。白い肌によく映える、淡い水色地に朝顔の柄が染め抜かれた浴衣。いつもは腰まである長い黒髪は綺麗に結い上げられ、銀色のかんざしが涼やかな音を立てている。少しはにかんだように微笑む彼女は、まるで絵物語から抜け出してきたかのようだった。

「……すごく、綺麗だ」

 圭太は、ありきたりな言葉しか出てこない自分を少しもどかしく思いながらも、素直な気持ちを伝えた。

「ありがとう。圭太くんの甚平も、すごく似合ってるよ。なんだか、いつもよりおとなっぽく見える」

 友梨奈は嬉しそうに頬を染め、圭太の腕にそっと自分の腕を絡ませた。いつもより大胆なその仕草に、圭太の心臓は早鐘を打った。


 祭りの会場である古い神社は、大勢の人で賑わっていた。色とりどりの提灯が夜空を飾り、様々な屋台からは美味しそうな匂いが漂ってくる。金魚すくい、射的、綿あめ。二人は童心に返ったように屋台を巡り、他愛ないことで笑い合った。友梨奈が射的で小さなぬいぐるみを欲しがったが、圭太は何度挑戦してもうまく当てることができない。

「だめだなあ、僕。運動神経は昔から全然なんだ」

 圭太が苦笑すると、友梨奈は「ううん、そんなことないよ。一生懸命な圭太くん、かっこよかったよ。それに、一緒にいるだけで楽しいから」と微笑んでくれた。その笑顔だけで、圭太は満たされた気持ちになった。


 夜も更け、祭りの喧騒も少しずつ落ち着き始めた頃だった。二人は人混みを避け、神社の裏手にある静かな小径を散策していた。月明かりが木々の葉を照らし、幻想的な雰囲気を醸し出している。

「なんだか、夢の中にいるみたいだね。こんな素敵な時間、終わってほしくないな」

 友梨奈がうっとりとした声で囁いた。圭太も同じ気持ちだった。この時間が永遠に続けばいいのに、と心から願った。


 その時だった。

「よう、姉ちゃん、可愛い浴衣着てんじゃん。ちょっと俺らと遊ばねえ?」

 不意に、背後から下品な声が聞こえた。振り返ると、派手なシャツを着た三人の男が、いやらしい笑みを浮かべて立っていた。明らかに不良とわかる男たちだった。圭太の背筋に冷たいものが走る。

「いえ、結構です。行こう、友梨奈さん」

 圭太は友梨奈の手を強く握り、その場を立ち去ろうとした。しかし、男たちは行く手を阻むように回り込んできた。

「つれねえこと言うなよ。せっかくの祭りなんだぜ? こっちの兄ちゃんより、俺らの方が楽しませてやるって」

 リーダー格らしい、体格の良い男がにやにやしながら友梨奈の顔を覗き込む。友梨奈は怯えたように圭太の腕にしがみついた。


「やめてください!彼女が怖がっています!」

 圭太は震える声で言った。恐怖で膝が笑いそうになるのを必死で堪える。

「なんだあ?彼氏かあ?ひょろっちいなあ、お前。そんなんで彼女守れんのかよ?」

 男たちは圭太を嘲笑い、小突いてきた。圭太は抵抗しようとしたが、なす術もなかった。


 次の瞬間、事態は圭太の想像を絶する方向に転がった。男の一人が友梨奈の腕を掴み、強引に引き寄せたのだ。

「友梨奈さん!」

 圭太は叫んだが、別の男に突き飛ばされ、地面に尻餅をついた。

「こいつはここで見てな。いいもん見せてやるよ」

 男たちは友梨奈を無理やり神社のさらに奥、鬱蒼とした木々に囲まれた暗がりへと引きずっていこうとした。

「やめて!離して!圭太くん、助けて!」

 友梨奈の悲鳴が夜空に響く。圭太は必死で立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けない。頭が真っ白になり、心臓が激しく鼓動する。助けなければ。友梨奈を、助けなければ。そう思うのに、体は鉛のように重く、恐怖が全身を支配していた。


 男たちの卑猥な笑い声と、友梨奈の抵抗する声、そして衣擦れの音が暗闇から聞こえてくる。圭太は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。目の前で、愛する人が蹂躙されようとしている。なのに、自分は何もできない。その圧倒的な無力感と恐怖に、圭太の視界は涙で滲んだ。


「うわああああああ!」

 圭太は意味のない叫び声を上げると、踵を返し、無我夢中でその場から逃げ出した。友梨奈の悲鳴を背中で聞きながら、ただひたすら走った。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになり、呼吸は乱れ、心臓は張り裂けそうだった。自分が何をしているのか、どこへ向かっているのかもわからない。ただ、この恐ろしい場所から一刻も早く逃げ出したい、その一心だった。


 どれくらい走っただろうか。気づけば、祭りの喧騒も遠のき、見慣れた帰り道に出ていた。圭太は、その場にへたり込み、嗚咽を漏らした。友梨奈を見捨てて逃げた。自分は、最低の人間だ。彼女を救えなかった。その事実が、重い鉛のように圭太の心にのしかかった。



 あの忌まわしい夜から、圭太の世界は色を失った。瞼を閉じれば、暗闇に響いた友梨奈の悲鳴と、男たちの下卑た笑い声が蘇り、圭太を責め苛んだ。眠りは浅く、悪夢にうなされては飛び起きる日々が続いた。食事も喉を通らず、部屋に引きこもって、ただひたすら自分の無力さと卑劣さを呪った。


 友梨奈を助けられなかった。それどころか、彼女を見捨てて逃げ出した。その事実は、消えない烙印のように圭太の心に焼き付いていた。あの時、なぜ立ち向かえなかったのか。なぜ、もっと勇気を出せなかったのか。後悔の念が、波のように何度も押し寄せては、圭太の心を打ち砕いた。


 友梨奈に連絡を取ろうとしたが、どうしても電話をかける勇気が出なかった。どんな顔をして彼女に会えばいいのか。何を言えばいいのか。いや、そもそも彼女は自分に会ってくれるだろうか。自分の顔など見たくもないのではないか。そんな考えが頭の中をぐるぐると回り、圭太をさらに深い自己嫌悪の淵へと突き落とした。


 何度か、友梨奈のアパートへ行ってみた。しかし、チャイムを鳴らしても応答はなく、郵便受けには新聞やチラシが溜まっていた。まるで、時間が止まってしまったかのように、そこには誰もいない気配だけが漂っていた。彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。無事なのだろうか。不安と罪悪感で、圭太の胸は張り裂けそうだった。


 夏休みは、そんな苦悩と後悔のうちに過ぎていった。かつて友梨奈と共に過ごした楽しい思い出が、今は鋭い刃となって圭太の心を抉る。図書館で隣り合って本を読んだこと、一緒に帰った夕暮れの道、彼女が作ってくれた温かい食事。その全てが、失われた楽園の光景のようにあまりにも遠く、眩しく感じられた。


 友梨奈のいない日々は、まるで太陽の光を失った世界のようだった。圭太の趣味であった読書も、今は全く手につかなかった。文字はただの記号の羅列にしか見えず、物語の世界に入り込むことなど到底できなかった。本棚に並ぶ、かつて友梨奈と語り合った小説たちが、今はただ圭太の罪を告発しているかのように静かに佇んでいる。


「友梨奈……ごめん……本当に、ごめん……」

 誰に聞かせるともなく、圭太は何度もそう呟いた。その言葉は、誰にも届くことなく、ただ虚しく部屋の空気に溶けて消えていく。


 夏休みが終わりに近づくにつれ、圭太の不安は増していった。大学が始まれば、友梨奈に会えるかもしれない。しかし、会えたとして、自分はどうすればいいのだろうか。彼女は自分を許してくれるだろうか。いや、許されるはずがない。自分は、彼女の信頼を裏切り、彼女の尊厳が踏みにじられるのをただ見ていることしかできなかったのだから。


 圭太は、鏡に映る自分の姿を見るたびに吐き気を催した。そこには、生気のない、怯えた目をした情けない男が立っているだけだった。こんな自分が、友梨奈の隣にいる資格などあるはずがない。彼女の清らかさを汚してしまったのは、あの不良たちだけではない。何もできなかった自分もまた、同罪なのだ。


 そんな絶望的な思いを抱えたまま、長く、そして暗い夏は終わろうとしていた。そして、圭太にとって、さらに過酷な現実が待ち受けていることを、彼はまだ知らなかった。



 長く苦しい夏休みが終わり、九月になった。後期の授業が始まる日、圭太は重い足取りで大学へ向かった。友梨奈に会えるかもしれないという微かな期待と、会ってしまったらどうしようという大きな不安が胸の中で渦巻く。憔悴しきった圭太の顔色は悪く、目の下には隈がくっきりと刻まれていた。


 大学のキャンパスは、夏休みを終えた学生たちの喧騒で活気に満ちていた。しかし、その明るさが、今の圭太にはひどく場違いなものに感じられる。友梨奈の姿を探しながら、圭太は俯き加減に構内を歩いた。彼女と同じ講義はいくつか取っていたはずだ。どこかで会えるかもしれない。


 そして、その時は突然やってきた。

 学生でごった返す中庭を通りかかった時、圭太の視界の端に、見慣れない、しかしどこか目を引く一団が映った。その中心にいた人物を見た瞬間、圭太は息を呑み、その場に釘付けになった。


 腰まであった美しい黒髪は、今は眩しいほどの金髪に染め上げられ、長く豊かなまま肩から背中へと流れている。その挑発的な髪の色とは裏腹に、以前の清楚な面影を残す顔立ち。しかし、耳朶には大ぶりの、いくつものピアスが揺れ、強い光を反射していた。

 服装は、以前の彼女からは想像もつかないものだった。身体の線があらわになる、黒いミニフレアのワンピース。胸元が大きく開き、スカートの丈はあまりにも短く、風が吹けば下着が見えてしまいそうなほどだ。そして、その滑らかな生足には、艶やかな黒いエナメルのピンヒールが履かれていた。指にはシルバーリングがいくつもはめられ、口には細いタバコがくわえられている。そして、その顔には、挑発的で、どこか投げやりな化粧が施されていた。


 友梨奈だった。

 いや、それは圭太の知っている友梨奈ではなかった。圭太の記憶の中にいる、あの大人しくて清純だった友梨奈とは似ても似つかない、変わり果てた姿だった。


 圭太は愕然とした。頭を鈍器で殴られたような衝撃。目の前の光景が信じられず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。心臓が激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。あれが本当に、友梨奈だというのか?


 そして、圭太の絶望をさらに深める光景が目に飛び込んできた。

 その変わり果てた友梨奈の隣には、見覚えのある男が立っていた。夏祭りの夜、友梨奈を暗闇に引きずり込み、圭太を嘲笑った、忘れもしないあの不良グループのリーダー格の男だった。男は友梨奈の肩を馴れ馴れしく抱き、友梨奈もまた、嫌がる素振りも見せずに男の体に寄り添っている。二人は親密そうに言葉を交わし、時折、友梨奈は甲高い声で笑っていた。その笑い声は、圭太の知っている友梨奈の穏やかなそれとは全く異質のものだった。


 圭太は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。目の前が暗くなり、立っていることさえ困難に感じられた。なぜ。なぜなんだ。あの男と一緒にいるなんて。信じられない。信じたくない。


 その時、不良の男が圭太の存在に気づいた。男はにやりと口元を歪め、面白そうに圭太の方へ歩み寄ってきた。友梨奈もまた、男の視線を追って圭太の方を見た。その瞳には、かつての優しさや温かさは微塵も感じられなかった。ただ、氷のように冷たく、どこか蔑むような光が宿っていた。


「よお、久しぶりじゃねえか。夏祭り以来だな、弱虫くん」

 不良の男は、圭太の目の前に立つと、嘲るような口調で言った。その声は、あの悪夢の夜と同じ、圭太の神経を逆撫でするような響きを持っていた。

「お前、こいつのダチか?ああん?」

 男は友梨奈の顎をくいと持ち上げ、見せつけるように言った。

「こいつ、友梨奈。俺の女になったんだわ。なあ、友梨奈?」

 友梨奈は何も答えず、ただ冷めた目で圭太を見つめている。その視線は、まるで汚物でも見るかのように冷ややかで、圭太の心を容赦なく突き刺した。



 不良の男の言葉は、鋭いナイフのように圭太の胸に突き刺さった。「俺の女になった」。その言葉が、圭太の頭の中で何度も反響する。信じたくない現実が、容赦なく目の前に突きつけられていた。


「な、なんで……友梨奈さん……」

 圭太はか細い、掠れた声で呟いた。全身が震え、立っているのがやっとだった。

 男はそんな圭太の様子を心底楽しむかのように、にやにやと笑い続けている。

「なんでって、そりゃあ、お前みたいな弱虫より、俺の方がいい男だからに決まってんだろ?なあ、そうだろ友梨奈?」

 男は高圧的に言い放ち、圭太の肩を乱暴に押した。よろめいた圭太は、情けなくもその場にへたり込みそうになって、思わずその場に膝をつく。


 その時だった。

 それまで黙って圭太を冷ややかに見つめていた友梨奈が、ふっと嘲るような笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと圭太に近づいてくると、彼の目の前に立った。ピンヒールの先端が、圭太の膝に触れそうなほど近い。


「圭太くん、だっけ? あー、いたいた、そんな名前のヤツ。あんたさあ、マジで情けない男だよね。存在自体が目障りなんだよ、クズ」

 友梨奈の声は、以前の優しく穏やかな響きとは全く異なっていた。低く、乾いた、そして吐き捨てるような、明確な侮蔑と憎悪を込めた声だった。その口汚い罵りに、圭太は言葉を失った。

「あの夜のこと、覚えてる? あんた、あたしがアイツらにやられてる時、何してた? 泣きべそかいて、ションベンちびりそうになりながら逃げたじゃない! マジで最低の腰抜け野郎だよ、あんたは!」

 友梨奈はそう言うと、くわえていたタバコの煙を、これみよがしに圭太の顔にゆっくりと吹きかけた。むせ返るような煙と、友梨奈の氷のように冷たい視線に、圭太は身動き一つ取れなかった。


「ほんっとうに……みっともなくて、虫酸が走ったわ。あんたみたいなゴミクズが元彼だったなんて、あたしの人生最大の汚点だわ!思い出すだけで吐き気がする!こんな汚らわしい存在、さっさと目の前から消え失せろってんだよ!」

 彼女の唇が、鋭利な刃物のような言葉を次々と紡ぎ出す。それは、かつて圭太が愛した友梨奈からは想像もできないほど、暴力的で、下品な言葉だった。


 圭太は、顔を上げることができなかった。友梨奈の言葉の一つ一つが、ガラスの破片のように心に突き刺さり、血を流させる。絶望と屈辱で、視界がぐにゃりと歪む。

「友梨奈……さん……ごめ……なさ……」

 絞り出すような圭太の謝罪の言葉を、友梨奈は勢いよく遮った。


「謝って済むと思ってんの? ふざけんじゃねえよ、クズが! あんたにできることなんて、もう何もねえんだよ! あんたみたいな役立たず、生きてる価値もねえわ!」

 そして、友梨奈は衝撃的な行動に出た。

 彼女は、圭太の顔に向かって、思い切り唾を吐きかけたのだ。

 べちゃり、という生々しい音と共に、温かい液体が圭太の頬を伝う。その瞬間、圭太の思考は完全に停止した。かつて清らかだと信じていた女性に、こんな仕打ちをされるとは。


「あんたとの付き合いなんて、時間の無駄だったわ!手も繋ぐのがやっとで、キスの一つもできないようなインポ野郎が!そんなんで、あたしが満足できるわけねーだろーが!あんたみたいなクソつまんねえ童貞野郎と付き合ってた時間、ドブに捨てた方がマシだったわ!」

 友梨奈は狂ったように高笑いし、隣に立つ不良の男の腕に淫らに絡みついた。

「それに比べて、こいつは違うの。毎晩毎晩、あんたみたいなガキには想像もつかないような、最高の快楽をあたしに教えてくれる。あんたみたいなウジ虫野郎じゃ、逆立ちしたって無理だけどねえ!」

 そう言って、友梨奈は不良の男の首筋に舌を這わせ、男は満足げに友梨奈の腰を強く抱き寄せ、その尻をいやらしく揉みしだいた。


「いいぞ、友梨奈!もっと言ってやれ!こいつ、真っ青になってプルプル震えてんじゃねえか、マジウケるんだけど!」

 不良の男は、腹を抱えて下品な笑い声を上げている。その笑い声は、圭太の絶望をさらに深く、暗い奈落の底へと突き落とした。


 圭太は、何も言い返すことができなかった。言葉を発する力も、顔を上げる気力も、もう完全に失われていた。ただ、地面に両手をつき、嗚咽を漏らしながら泣き続けるしかなかった。涙が後から後から溢れ出し、唾で汚れた頬を伝って地面に染みを作っていく。情けない。あまりにも情けない。こんな惨めな姿を、変わり果てたとはいえ、かつて心から愛した友梨奈に見せている。その事実が、圭太の残ったわずかなプライドを、粉々に打ち砕いた。



「あらあら、まだ泣いてんの? 本当にみっともないわ、この泣き虫のクソ雑魚が! いつまでメソメソ泣いてりゃ気が済むんだよ、あぁん?」

 友梨奈は、泣き崩れる圭太を見下ろし、心底軽蔑しきった、虫ケラでも見るような声色で嘲った。その瞳には、かつての優しさの欠片すら見当たらなかった。ただ、冷え切った侮蔑と、サディスティックな愉悦の色が浮かんでいるだけだった。


 不良の男が、にやにやと笑いながら圭太の前に進み出た。

「おい、いつまでも泣いてんじゃねえよ、うっとうしいんだよ、ゴミが!」

 ドンッ、と鈍い音が響き、圭太の脇腹に男のつま先がめり込んだ。強烈な衝撃。

「ぐっ……うあああっ!」

 圭太は呻き声を上げ、地面に倒れ伏した。息が詰まり、視界が白む。腹の底からこみ上げてくる吐き気と、内臓を抉られるような激しい痛み。


 圭太が地面にうずくまり、苦痛に喘いでいると、友梨奈がゆっくりと近づいてきた。そして、その黒いエナメルのピンヒールの尖った細いヒールで、圭太の背中を容赦なく踏みつけた。

「きゃはは!見て、こいつ、芋虫みたいに丸まってる!ダッサ!」

 ミシミシと骨がきしむような音が聞こえ、圭太の口から「がはっ」と空気が漏れる。鋭いヒールが背中に食い込み、激痛が全身を貫く。

「あんたみたいなゴミ虫、こうやって踏みつけられるのがお似合いだわ!もっと、もっと苦しめよ!」

 友梨奈はヒールに体重をかけ、ぐりぐりと何度も圭太の背中を抉るように踏みしだく。その顔は、恍惚とした、残忍な笑みを浮かべていた。


「もうあんたに用はないわ。せいぜいそこでみっともなくのたうち回ってなさいよ、役立たずの汚物!」

 友梨奈はそう言い放つと、吸っていたタバコの火を、圭太の頭に押し付けた。

「ジュッ」という音と共に、髪の毛の焼ける嫌な臭いと、頭皮を灼くような、耐え難い激痛が圭太を襲う。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!!」

 圭太は獣のような、絶叫に近い叫び声を上げた。あまりの痛みに、意識が遠のきそうになる。

 友梨奈は、圭太の苦痛に歪む顔を無表情で見下ろすと、満足したようにふっと息を吐き、タバコをその場に捨てた。


「行こっか、ハニー」

 友梨奈は不良の男の腕に甘えるように絡みつき、何事もなかったかのように言い放った。男は最後に一度だけ圭太をゴミでも見るかのように見下し、唾を吐き捨てると、友梨奈の肩を抱いてゆっくりと歩き去っていった。


 カツ、カツ、と友梨奈のピンヒールの音が、圭太の鼓膜に突き刺さるように響く。その音は、まるで圭太の心臓を一つ一つ踏み潰していくかのように、冷酷で、無慈悲だった。友梨奈が新しいタバコに火をつけ、紫煙をくゆらせながら不良と楽しそうに談笑する声が、遠ざかりながらも圭太の耳に届いた。その楽しげな声は、圭太の絶望とあまりにも対照的で、彼の心をさらに深く切り刻んだ。


 やがて、二人の姿は雑踏の中に消え、ピンヒールの音も聞こえなくなった。しかし、圭太はその場から動くことができなかった。脇腹の鈍い痛み、背中に残るヒールの跡の痛み、頭皮の灼けるような痛み、そして何よりも、心に受けた修復不可能なほどの深い傷。周囲の学生たちの好奇の視線や囁き声が、まるで槍のように圭太の全身に突き刺さる。だが、そんなことはもうどうでもよかった。


 圭太は、ただ地面に蹲り、声を殺して泣き続けた。頬を伝った友梨奈の唾の感触、頭皮に残るタバコの火傷の痛み、背中と脇腹の打撲の疼き。それらは、圭太にとって、取り返しのつかない屈辱と絶望の証だった。かつて、あれほどまでに大切に思い、清らかな存在だと信じていた友梨奈。その彼女から、これ以上ないほどの侮蔑と暴力を受けたのだ。


 自分の情けなさが、骨の髄まで染み渡るようだった。あの夏祭りの夜、友梨奈を守れなかったこと。彼女を見捨てて逃げ出したこと。そして今、変わり果てた彼女に口汚く罵られ、唾を吐きかけられ、踏みつけられ、暴行を受けても、何も言い返すことすらできなかったこと。その全てが、圭太自身の弱さ、卑小さ、存在価値のなさを証明していた。


 友梨奈を失った。それは、もう紛れもない事実だった。いや、失ったというよりは、自分から手放してしまったのかもしれない。あの夜、勇気を振り絞って不良たちに立ち向かっていれば、たとえ打ちのめされたとしても、何かが変わっていたのかもしれない。しかし、自分は逃げた。その卑怯な選択が、今のこの地獄のような状況を招いたのだ。


 友梨奈は変わってしまった。あの清楚で、優しくて、本が好きだった彼女はもうどこにもいない。代わりに現れたのは、派手な化粧をし、タバコをふかし、見知らぬ男に身を委ね、かつての恋人に平気で暴力を振るい、汚い言葉で罵る、冷酷で残忍な悪魔のような女だった。そして、その変化の引き金を引いたのは、紛れもなく自分なのだ。


 圭太はとめどなく流れる涙の中で、かつての友梨奈の笑顔を思い出そうとした。図書館で一緒に本を読んだ日々。彼女が作ってくれた温かい食事。夏祭りで見せた、浴衣姿の美しい微笑み。それらは全て、もう二度と戻らない、遠い過去の幻影だった。


「う……ああ……ああああ……あああああああっ……」

 言葉にならない呻き声が、圭太の喉から漏れ出た。それは絶望の叫びであり、自己嫌悪の慟哭であり、失われた愛への挽歌だった。


 周囲の喧騒も、時間の流れも、圭太にはもう感じられなかった。底なしの絶望と、自分自身への激しい憎悪だけが、彼の心を支配していた。友梨奈の冷たい視線と言葉、頬に吐きかけられた唾の感触、頭皮の火傷の痛み、背中と脇腹の激痛は、生涯消えることのない、おぞましい記憶として、圭太の魂に深く深く刻み込まれたのだった。


 陽が傾き始め、キャンパスに夕闇の帳が下りる頃になっても、圭太はまだその場から立ち上がることができなかった。彼の心は、友梨奈が吐き捨てたタバコの吸殻のように、踏みにじられ、焼き尽くされ、打ち捨てられていた。そして、その絶望の淵から這い上がる術を、圭太は何一つ見つけ出すことができなかった。彼の青春はあの夏祭りの夜に終わりを告げ、無惨なまでに完全に死んだのだった。

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圭太の絶望 写乱 @syaran_sukiyanen

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