赤い雄牛

灰の子

赤い雄牛

今日もミスをした。言うまでもなく仕事の話だ。


この職に就いて早数ヶ月。一向に慣れない業務に四苦八苦する内、職場では「ダメなヤツら」の仲間入りを果たし、私と関わるような内容になると大抵の人たちは面倒そうな顔をする。

私自身も妥当な評価だと思うけれど、その度に自己嫌悪でどうにかなりそうになるからやめてほしい。


20時を過ぎて他の人が片付けを始めても、私はまだ帰れない。

終わらない本日の業務をみて、上司は未だ不器用な私の様子を静かに優しく見守っている……フリをしている。

当然、早く帰りたいだろう。

当然、自分の仕事だけに集中したいだろう。

だが、それを妨げているのが今の私なのだ。

隣の席で静かな上司も、あまりのダメさに閉口しているだけだろう。


結局、居心地の悪い椅子から立ち上がったのは20時20分。

皆様の貴重な時間を強奪した窃盗犯こと私は、忍び足で執務用居室から逃げ出すように居なくなった。

帰路の上でも私は惨めなままで、乗っている電車がたとえ時速何十キロで街を置き去りにしても、自らの恥という感情からは逃れられない。

どうやら恥にも慣性はあるらしかった。



普段の生活拠点に着くと、柔らかい電球の光が点いていて、半開きになった引き戸の向こうから声が飛んでくる。

「おかえり〜遅かったね」

彼女は亀のように首だけを部屋から出して私を見上げた。

靴を脱いで無言で荷物を置くと、居間へと踏み出した。

「じゃあ準備するから、一緒にご飯食べよっか?いや〜今日もまた疲れてるね、まったくおつかれさまだよ」

彼女は誇らしげに給仕をする。

私はひとこと感謝の言葉を吐き、用意されたシチューを頬張る。

彼女は先月から私の家で生活している。

おもしろそうだからという理由だけで住処を決めるフットワークの軽さが私には羨ましくて、断る気も起きぬまま共同生活をしている。


「しかしねぇ、何もできない人間はどうやって生きればいい……か」

この手の話題はもう何度も食卓に上がり、その都度着地点のない不毛な時間を押し付けてしまう。

それなのに自重できない自分の弱さにここでも嫌気が差す。

「まぁわかるよ、そういう気持ちになることもあったし」

結局、私自身も能力至上主義社会に生きる差別者で、淘汰されるべき弱者でしかないはずなのだ。

「いつにもまして深刻だねぇ……いつも通りというべきかもしれないけど。まぁ、難しく考え過ぎだと思うよ」

彼女は武道の達人よろしく脱力した左手でもって、銀色のスプーンを軽やかに揺らす。

「でも、それも良さというか君の個性ではあるからね」

柔和な印象を与える眉毛と口角の笑い皺を携えて、匙を優しく舐め上げる。

まただ、なんなんだよ個性って。

理解できない言葉が通り過ぎて、あとに認めたくない感情だけが残る。

私だけがこの会話の速さについていけていない感覚。

「君はそのままでもいいんだよ」

何を呑気に……そんなの、良くないに決まってるだろう!

……駄目だ。処理しきれない。またこのまま未解決問題として帰結することになる。

私は感情の洪水に呑まれて、徐々に喋る気勢をそがれていく。


「あーそういえば、何かいい趣味とか見つかった?」

わざとらしく話題は変更され、相手のこちらを気遣うような表情が目に入る。

そうだった、いま私は生の人間と会話をしていたんだった。相手にも価値があるような話をしなきゃ。

さっきまでの問題がどうでもよくなって、わざと思ってもないことをそれの回答とした。少し場が緩み、軽い笑いが起こる。

「またまた嘘がお上手だね~シュミって大事だよ~」

本当にウザい。この時だけは偽りなく嫌悪感を顔に出す。

「ただ、シュミって所詮は趣味だからねぇ……具体的なソリューションがないとずっと辛いままだよね」

だから私はそれを……あぁ、もういいかコレ。やっぱりひとりで考えよう。

手早く皿上の残飯をかき集めると乱暴に口にいれ、彼女の安っぽい肯定と一緒に嚥下した。

アルコールも程よく回り、シャワーを浴びようとすると彼女も服を脱ぎだした。

狭い浴室内には良く通るコエが反響し、互いに身をキレイにしあうと風呂から上がった。



身体のほてりも冷め、口に含んだ水と薬を飲んで横になる。

大きなベッドの端っこにうずくまっていると、彼女は後から薄い肌掛けに潜り込んできた。背後から腕を巻き付け、私の後頭部に囁きかけてくる。

些細ささいでもなんでも話してよ、気にせずにさ」

私はやはり頭がおかしいのかもしれない。こんな親切そうな彼女の言葉が面倒くさくなるし、軽蔑に似た気持ちすら抱く。

「わかってあげたいし、わかり合えるとも思うからさ」

私はやはり頭がおかしい。共感を求める彼女の言動に馬鹿の一つ覚えじみた浅はかさを感じる。


彼女側へ顔を向けずに頭の中でぐるぐるしている言葉を叱り続けていると日付も変わり、彼女も既に寝息を立てていた。

手持ち無沙汰に明日のアラームをかけなおして寝ようとするも、意識だけがはっきりとしたまま時間だけが溶けていく。

どうやって助けを乞えばいいのかという目下の悩みは、今日も私の腹にまとわりつく手のように離してはくれなかった。

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赤い雄牛 灰の子 @tike_ash

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