異世界オーミクス 〜転生した私はゲノム解析で魔法の真髄を解き明かす〜

神楽木アイ

第一章:転生した私は魔法が分析できる

暗闇の中で、最後に見た実験室の風景が徐々に遠ざかっていく。


「失敗した…。」


神坂瑞希の意識はかろうじてそれだけを捉えていた。情報生命科学研究所の地下実験室。DNAの新たな解析手法の実験中に起きた予期せぬ反応。警報音と赤い非常灯。そして何かが弾け、全てが白く染まったところまでは覚えている。


死とはこういうものなのか。思考だけが宙に浮かぶような感覚。瑞希は科学者として死後の世界など信じていなかったが、明らかに何かがおかしい。自分がまだ「考えている」という事実そのものが。


「目を覚ませ、子よ」


突然、優しくも威厳のある声が暗闇を震わせた。瑞希の意識は引き寄せられるように、光の方へ引っ張られていく。


---


「ん…」


重たい瞼を開くと、木漏れ日が差し込む天井が見えた。素朴な木組みの梁。研究所の無機質なコンクリート天井とはかけ離れている。


「正気に戻ったか?よかった…もう二日も眠っていたからな」


視界の端に人影が動き、老人らしき人物が近づいてきた。長い白髪と髭を蓄え、何かの衣装のような派手な青いローブに身を包んでいる。


「私は…」


言葉を発しようとした瞬間、瑞希は自分の声の違和感に気づいた。高く、か細い。少女のような声だ。


「鏡を」


老人は静かに頷き、小さな手鏡を差し出した。そこに映っていたのは見知らぬ少女の顔。銀青色の長い髪と、紫がかった瞳。うっすらと真珠のような光沢を持つ白い肌。十二、三歳くらいだろうか。


「これは…冗談じゃない」


瑞希は鏡を握りしめた。しかし映る顔はどう見ても自分のものではない。それでいて、意識は間違いなく神坂瑞希のものだ。


「お前は森の中で倒れていた。名前も素性も分からぬままだったが、その髪と瞳の色から、おそらく『転生者』だろうと思っていた」


「転生者?」


「そうだ。時々、異世界から魂がやってくることがある。ほとんどは前世の記憶など持たぬまま、ただの赤子として生まれるのだが…稀に、君のように成長した状態で現れ、前世の記憶を持つ者もいる」


瑞希は頭に手を当てた。これが夢なのか現実なのか、まったく判断がつかない。しかし感覚はあまりにも鮮明だった。木の香り、窓から入ってくる風の感触、手鏡の冷たさ。全てがリアルだ。


「ここは…どこ?」


「ここはテラノヴァ大陸、マギステリウム王国の片田舎じゃ。私はロバート・ホークアイ。この村の薬師兼魔術師だ」


魔術師。瑞希の中で何かが引っかかる。


「魔術…ですか?」


「ああ。この世界では当たり前のことだ。お前はどうやら魔力の気配を強く感じる。今まさに目覚めたところだろう」


老人—ロバートは手を上げると、指先から淡い青白い光を放った。部屋の中の小瓶が数本、ふわりと宙に浮かび上がる。


瑞希の科学者としての思考回路が急速に動き出した。重力に逆らって物体が浮く。物理法則の矛盾。しかし、そこにエネルギーの流れがあるとしたら…


「見えます」


「何が見える?」


「エネルギーの流れ…いえ、違う。もっとパターン化された何かが…」


瑞希は無意識に手を伸ばした。するとロバートの指先から瓶へと伸びる青白い光の糸が見えた。まるでDNAの二重らせん構造に似た複雑なパターンを描きながら。


「おや、これは興味深い。転生者の中でも、初めからこれほど魔力の流れを見ることができる者は珍しい」


瑞希は混乱していた。しかし、研究者としての好奇心が彼女を支えた。死んだはずの自分が異世界に転生したという非科学的な状況。しかし、目の前で起きている現象は明らかに何らかの法則に基づいている。観察できる以上、分析できるはずだ。


「ロバートさん、その…魔術について教えてください」


老人は微笑んだ。「もちろんじゃ。だが、その前に名前を聞かせてくれないか?」


「神坂瑞希です。あ、でも…」瑞希は自分の体を見下ろした。「この世界では…」


「新しい名前が必要だな。お前の髪と瞳は珍しい色をしている。銀青色の髪は月光のよう、紫の瞳は夜明けの空のようだ…」


「ミーシャ…」瑞希は突然、頭に浮かんだ名前を口にした。「ミーシャ・ルミナリア。なぜかしっくりきます」


「良い名前だ。それでは、ミーシャ・ルミナリア。これからお前に基礎的な魔法について教えよう」


---


それから数週間、瑞希—いやミーシャは、ロバートから基礎的な魔法の扱い方を教わった。この世界では「マナ」と呼ばれるエネルギーが遍在し、それを操ることで様々な現象を引き起こせるという。


ミーシャはすぐに気づいた。マナの流れには明確なパターンがあり、それは彼女が前世で研究していた情報生命科学のモデルと驚くほど類似していることに。


「これは…」


小さな光の球を手の上に浮かべながら、ミーシャはマナの流れを注視していた。光の中を走るパターンはまるでDNAの配列のように情報を持っている。


「驚くべきことに、魔法には遺伝子のような情報構造がある。これを分析すれば…」


ミーシャは村の近くの森で採取した植物や鉱物を使い、簡易的な実験道具を作り上げた。前世での研究方法を応用し、マナの流れを記録し分析する方法を編み出そうとしていた。


「おお、これは見事じゃ」


作業を見守っていたロバートが感嘆の声を上げた。


「君のような才能は王都の魔法学院で学ぶべきだ。アルカディア魔法学院は大陸一の魔法研究機関。そこなら君の才能を開花させることができるだろう」


「魔法学院…」


ミーシャは手元の実験器具を見つめた。原始的な環境でできることには限界がある。もし本格的な研究設備があれば、この世界の魔法の原理をもっと深く解明できるかもしれない。


「行きます」


決意を固めたミーシャの目に、研究者としての光が宿った。前世では叶わなかったブレイクスルー。今度こそ、生命の神秘と魔法の本質を解き明かしてみせる。


たとえそれが、二つの世界の境界を揺るがすことになるとしても。


---


アルカディアへの街道を行く馬車の中、ミーシャは窓の外の景色を眺めていた。テラノヴァ大陸の自然は地球のそれと似ているようで違う。わずかに色調が違う植物。見たことのない形の雲。そして、時折空気中に見えるマナの煌めき。


「情報生命科学と魔法オーミクス…」


ミーシャは小声で呟いた。前世で彼女が追求していた生命情報の全体的な解析と、この世界で彼女が見出しつつある魔法エネルギーの分析。二つは根源的に繋がっているような気がしてならない。


「魔法オーミクス…」


それは彼女が新たに名付けた研究分野。魔法の流れる構造をゲノムのように捉え、その全体像を解析する学問だ。


馬車が揺れる中、ミーシャは小さなノートに研究計画を書き記していた。魔法学院では何を最初に調査すべきか。どのような実験器具が必要か。どんな魔法素材を集めるべきか。


「この世界での研究者人生、始まりだね」


それは不思議な運命だった。しかし科学者として、未知の現象に出会えることほど興奮することはない。ミーシャは静かに微笑んだ。


遠くに見え始めた壮大な塔群。それがアルカディア魔法学院の象徴だった。

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