第十八章 記憶の中の味

第十八章では、ふたりの関係が確かに前へと動き出す一方で、過去の影がそっと忍び寄ります。

香月の中に芽生え始めた記憶が、ある“味”をきっかけに急速に輪郭を持ち始める——

そんな、転機となる章です。




翌日、香月は一人で「Kino」を訪れた。

昨日のことが夢のように思えて、目覚めたときにまず確かめたのは、胸の鼓動だった。


(……ちゃんと、俺の気持ちだったんだ)


そう思えたから、香月は足を運んだ。

ただ涼月に会いたくて。


店に入ると、柔らかな香りが出迎えた。

バターと甘酸っぱい果実の香り——


「あ、今日、焼いてたんですね」


カウンター越しに涼月がうなずく。


「……ああ。久しぶりに作ってみた。どうしても手が勝手に動いててな」


香月はその匂いを吸い込んで、胸の奥に微かなざわめきを覚えた。

懐かしい、とも、切ない、とも違う。

けれど、何かを知っている感覚が、確かにあった。


「香月。ちょうど今、焼き立てだ。……食べるか?」


「……はい。食べたいです」


カフェの一番奥、窓際の席。

白いお皿に載せられたストロベリータルトが、目の前に置かれた。


一口食べた瞬間——香月の中で、何かがはじけた。


——甘酸っぱい苺の下に隠れた、バニラのような優しいカスタード。

——しっとりとしたタルト生地。

——そして、それを食べる誰かの笑顔。


(……俺、これ、知ってる)


視界がふっと揺れる。

まるで誰かの記憶を、香月の意識がなぞっているようだった。


その“誰か”は、確かに涼月を見ていた。

楽しそうに、どこか甘えるように。

あたたかい声で、「やっぱ、涼月のタルトが一番うまい」って——


「香月、大丈夫か?」


涼月の声で我に返る。

気づけば、スプーンを持った手が止まっていた。


「……これ、懐かしい味がするんです。なぜか分からないけど、前にも食べたことがある気がして」


涼月の目が揺れた。


「そうか……。でも、初めてのはずだよな。香月がここに来たのは、まだ最近だし」


「はい。でも……俺の中の“誰か”が、これを知ってるみたいなんです」


心臓が、静かに鳴っていた。

その鼓動に、何かが応えるように疼く。


「記憶、また……見たのか?」


「……断片的に。でも、すごく鮮明で、温かくて。……名前は出てこないけど、涼月さんのことを見つめる視線で」


涼月の表情が強張る。


けれど、彼は言葉を選びながら、静かに言った。


「それでも、俺は——“いま”のお前を見てる。

“誰か”の中のお前じゃなくて、香月っていう人間として」


香月の胸に、まっすぐその言葉が落ちた。


過去と現在が、交錯しようとしている。

けれど、まだ決定的な答えには至らない。


「……ありがとう、涼月さん。俺も、そうでありたいと思ってます。

誰かの代わりじゃなくて、“香月”として、あなたのそばにいたいって」


その日、香月はひとり、店を出た。


胸の中で、記憶と感情がせめぎ合っていた。

けれど、どちらにも嘘はなかった。


自分の心臓が、誰のものだったとしても。

いま、自分が誰を好きになっているかは——ちゃんと自分で決めたい。


そう思えたことが、香月にとっての一歩だった。



夜、ふとベッドの上でまどろんでいた香月の耳に、またあの声が響いた。


——「涼月、俺、やっぱり、お前が作るタルトが好き」


目を開けたとき、頬には知らぬ間に涙が伝っていた。


名前のない記憶が、また少し色を帯びた。




※次章では、香月が“記憶”の正体を探り始める出来事が起こり、

ふたりの関係にも新たな選択が迫られます。

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