第十三章 あの日、苺の香りの中で
第十三章では、涼月の「過去」に焦点をあてます。
香月と過ごす日々のなかで、心の奥にしまい込んでいた“マサキとの記憶”がふいに蘇る——
それは優しく、そしてどうしようもなく切ない追憶の時間。
今と過去が交錯し、涼月の中で静かに何かが変わっていきます。
午後の店内に、やわらかな西日が差し込んでいた。
香月は買い出しに出ていて、涼月ひとりだけの時間。
静まり返った厨房で、彼はふと思い立って苺を取り出した。
艶やかに光る赤。包丁を入れると、甘酸っぱい香りがふわりと広がる。
——その香りに、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
(あの日も……こんな香りだった)
涼月の心に、ふいに過去が甦る。
***
「ねえ、涼月。タルトの試作品、できた?」
「お前、またそれかよ。まだ苺切ってんだよ」
「うわ〜、今日の苺、でかいな。ちょっとだけ、ちょうだい」
「待てって、勝手に食うな!」
「……ん、美味しい。甘い。これ、タルトにしたら絶対ウケるよ」
いつものキッチン。
どこまでも自然体で笑っていた、マサキ。
他人に対しても、自分に対しても、まるで境界をつくらないような人だった。
クシャッと笑って、堂々と抱きついてきて、そして真っ直ぐに言った。
「俺、涼月のつくるお菓子、ぜんぶ好き。俺の中で、世界一うまいから」
(そんなの、ずるいだろ)
そう言って背を向けながらも、頬が熱くなった。
マサキは、そういう奴だった。
明るくて、少しおせっかいで、でも優しさだけは本物で。
——その彼が、もういない。
***
「……」
苺を刻む手が止まり、涼月はしばらく立ち尽くしていた。
(……なんで、今になって思い出すんだよ)
胸が苦しくなる。
けれど、少しだけあたたかくもあった。
香月と過ごすようになってから、忘れていた記憶が少しずつ滲み出してくる。
押し込めていたはずの感情が、胸の内側でざわついている。
(マサキ。……お前がいた時間は、確かに俺の中に残ってる)
けれど——
(今、俺の中で香月が占める場所も、確かにあるんだ)
それが、涼月をいちばん戸惑わせていた。
前を向いていいのか。
誰かをもう一度、大切にしてもいいのか。
“忘れた”わけじゃないのに、“思い出す”たびに痛むのに。
香月の笑顔が浮かぶ。
あの日、湖畔のベンチで見た表情。
どこか無防備で、でもやさしくて、どこかでマサキを思わせる影。
(香月。……お前は、誰なんだ)
苺をそっと器に移し、涼月は深く息を吐いた。
それでも——
タルトを焼こうと思った。
香月が「また食べたい」と言ったから。
その一言が、いまの自分の背中をそっと押していたから。
(俺は今、誰のために苺を刻んでる?)
答えはまだ出ない。
けれど確かに、心はまた誰かのほうを向こうとしている。
そのことだけが、静かに、確かに胸を揺らしていた。
※次章では、香月が再び「カフェKino」を訪れ、涼月の焼いたタルトを味わうシーン、そしてふたりの距離がまた一歩近づく
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