Episode 3: Before the Howl - “Echo”
ロサンゼルス——
年中晴れが続く街。乾いた空気と強い日差しが当たり前のように日常にあった。
だが、エリック・モリスの世界はその明るさとは無縁だった。
荒れた家庭。
母親は日中仕事に出かけ、夜には疲れ果てて帰ってくる。
継父は、その疲れに苛立ちをぶつけるように、酒を煽り、怒鳴り声を上げる。
テレビの音、食器の割れる音、罵声、ため息——
音が溢れているのに、誰の声も彼に優しく触れることはなかった。
居場所を求めて、エリックが足を運んでいたのは、アパートの地下にある共有倉庫だった。
人の出入りもなく、ほこりと錆びた金属の匂いが漂う空間。
倉庫には壊れた扇風機や不要になった家電が積まれ、薄暗く、ひんやりしていた。
だがその隅に、埃をかぶったポータブルラジオが転がっていた。
ダイヤルを回せば、かすれた音がスピーカーから漏れる。
ノイズ混じりのFM。音楽とも言えない、切れ切れの旋律。
けれどその“混ざった音”こそが、彼の心をなだめた。
声が潰れた歌手のシャウト。割れたギターのフレーズ。
途切れがちなドラムの低音だけは、コンクリートの床を伝って彼の身体に響いてきた。
何を言っているのか、どんな曲なのかもわからない。
ただ、「音」が生きていた。
それだけでよかった。
音は壁に跳ね返り、低く鳴って、空間を巡る。
そしてまた彼の胸に、静かに戻ってくる。
まるで世界が、かすかに彼の存在を反射してくれるようだった。
彼はまだ、自分が音楽を必要としていることにも気づいていなかった。
この頃の“エコー”は、ただの「反射」だった。
生まれた声が、何も変わらずに戻ってくるだけの存在。
誰かの音に、自分がどう応えていいかもわからなかった。
それでも、倉庫の片隅でノイズに耳を澄ませる時間だけが、彼の「自分でいられる場所」だった。
彼が音楽と出会うのは、もう少し先のことだった。
中学三年の春、母親は離婚を決めた。
エリックにとっては「やっと」のような、「いまさら」のような、それでいて「すべてが変わる」出来事だった。
今までの生活を捨てるように、母と二人、小さなスーツケースだけを抱えて、ロサンゼルスを離れた。
新しい暮らしは、シアトル。
母の実家、祖父母の家に身を寄せることになった。
ロサンゼルスの陽射しとは違う、重く冷たい灰色の空が続いていた。
空気は湿り、雨粒が静かに降り続く。
舗道は濡れ、葉はしっとりと光を吸っていた。
街がまるごと、水の中に沈んでいるような感覚。
そこに差し込む音はすべて、柔らかく、曖昧で、時折、はっきりと低く響いた。
祖父母の家は古くて広く、物が多かった。
物置がわりになっていた地下室には、木の階段を下っていく。
湿気のせいか少しカビ臭く、蛍光灯の灯りはちらちらと明滅していた。
ある日、彼はそこで見つけた。
埃をかぶった黒いケースを開けたとき、そこには長い沈黙を抱えたベースが眠っていた。
触れた瞬間、世界が微かに震えた気がした。
無音だった日々に、初めて音が差し込んできた——そんな感覚だった。
祖父の古いベース。名前も知らないその楽器は、
今のエリックにとって、何よりも確かな「声」だった。
地下室の静寂の中、ぽんと弾いた低音が空気を揺らす。
それは自分の内側に反響し、跳ね返ってきた。
誰にも届かなくてもいい。ただ、自分の存在が、ここにあると証明するように。
無音の世界に、音が生まれた。
やまびこのように——確かにそこにいた、という証として。
「それは、じいちゃんのだったんだよ」と、祖母が言った。
「昔、ジャズやっててね。今はもう弾く人もいないけどね、いるなら持っていきな」
かつて、ロサンゼルスの倉庫の隅で聴いた「反響(エコー)」が、
今、彼の手の中で生まれ始めていた。
高校に進学しても、エリックは変わらずベースを手にしていた。
それは、シアトルに引っ越してから唯一、自分で選び取ったものだった。
祖母の家は静かだった。
優しいが、疲れやすく、耳もあまりよくない。
エリックはその静けさを乱したくなかった。
だから放課後になると、ベースを背負って家を出た。
廃工場の一角、崩れかけた屋根の下。
そこは誰も来ない、音を隠すにはちょうどいい場所だった。
雨の多いシアトルでも、そこだけはわずかに乾いていた。
アンプは使わない。
祖父の古いベースをそのまま抱えて、指先だけで音を鳴らす。
骨を伝って響くような低音。
自分だけに聴こえる音楽だった。
その日もいつも通りのはずだった。
だが、気配に気づいて顔を上げると、誰かが立っていた。
黒のレザージャケットに、細身の体。
目深にかぶったキャップの下から、鋭い目がこちらを見ていた。
そして、口元に浮かぶ笑みにはどこか余裕がある。
「悪いな。変な場所で音が聴こえたもんだから、つい覗いちまった」
「……どこから来たんですか」
「ま、俺も昔はそこで音鳴らしてたクチだ。懐かしくてね」
そう言って、男はベースに視線を落とす。
「その指、なかなかいい。誰かに教わってる?」
「……別に、独学です」
「ならたいしたもんだ。生音であれだけ鳴らせるなら、筋はあるよ」
その言葉に、エリックは無意識に肩の力を抜いた。
褒められることに慣れていない。
けれど、この男の声は妙に耳に残った。
「名前は?」
「……エリック」
「そっか、エリック。いい名前だ」
男はふと遠くを見たあと、ゆっくり振り返る。
「またここに来るんだろ? そのとき、もう少しだけ聴かせてくれ」
そう言って、軽やかな足取りで倉庫の影に消えた。
エリックはしばらく、その残響のような気配を見つめていた。
あの夜、低音が初めて、世界に向かって鳴った気がした。
あの日以来、ミラーと名乗ったその男は、時折エリックの前に現れた。
倉庫街の、ひび割れたコンクリートの下に鳴るベースの音を聞きつけては、
「その運指、ちょっともったいないな」
「低音は鳴らすより、残すものだ」
そんなふうに、短い言葉で的確なアドバイスをしてくれた。
別に決まった時間があるわけでもない。
けれど、不思議とタイミングが重なる。
エリックも、いつしかその時間を心待ちにしていた。
言葉少ななふたりの会話。
でも、その空気だけは不思議と心地よかった。
ミラーは、どこか自分のことを分かってくれている気がした。
──そして、高校2年の春。
選択授業の音楽室。
ギターの調律音がかすかに響く教室に入ったエリックは、
目の前の教師を見て、思わず立ち止まった。
「……」
黒いジャケット、軽くかすれた声。
そして、あの独特な、鋭いけれど温かい眼差し。
「やあ、エリック。進級おめでとう」
先生の口元が、あの夜のまま緩く笑う。
エリックは小さく息を飲んだ。
──なんで、先生なんだよ。
言葉は喉の奥でかき消えた。
でも、その違和感はすぐに、不思議な安堵に変わっていった。
この人は、最初から「教えて」くれていた。
どんな場所でも、立場なんか関係なかった。
ミラー先生──いや、「ミラー」は、
エリックにとって初めて、
音楽の向こう側に誰かがいると教えてくれた存在だった。
音楽はただの逃げ場所じゃない。
誰かとつながる道になり得る。
このとき、エリックはようやく気づいた。
あの倉庫の下で生まれていた音楽に、ちゃんと名前があったことを。
ミラー先生とエリックの関係は変わった。
「先生」と「生徒」というラベルが付いた。
それでも、あの廃工場の一角に流れる静かな空気は変わらなかった。
外の世界の喧騒から切り離されたその場所で、
二人はただ音を鳴らし、言葉少なに息を合わせていた。
埃っぽいコンクリートの壁、錆びついた鉄骨。
けれどそこには、音楽の熱と信頼が満ちていた。
先生の指先がベースの弦を滑り、
エリックはその振動を胸に刻んだ。
「教室での顔と、ここでの顔は違うね」
ミラーはそんな冗談をぽつりと言う。
エリックは笑って応じる。
「でも、ここだけは変わらないだろ?」
二人にとって、廃工場の屋根の下は、ただの練習場所以上の意味を持っていた。
言葉を越えた共鳴の場。
ここで生まれる音が、いつか遠くまで響き渡ることを、
まだ誰も知らなかった。
ある晩、ミラー先生がエリックに声をかけた。
「今度、俺のバンドがライブをやるんだ。来てみないか?」
エリックは驚いた。
あの先生がステージに立つ姿なんて想像もつかなかったからだ。
「いいのか?」と聞くと、ミラーはにやりと笑った。
「教室とは違う顔を見せてやるよ」
ライブハウスの暗がりの中で、
ミラー先生はまるで別人のようにギターをかき鳴らし、歌った。
その音は鋭く、情熱的で、そしてどこか切なかった。
エリックは胸の奥が震えるのを感じた。
その瞬間、自分の中で何かが変わった。
「これが、音楽の力なんだ」
帰り道、雨の匂いが混じる夜風に吹かれながら、
エリックは初めて音楽に「反響」する感覚を覚えた。
そして、いつか自分も、誰かの心に響く音を出せる日が来ると信じた。
放課後の音楽室。
エリックは少し緊張しながら待っていた。
「放課後、音楽室でベースを教えてやる」
そうミラー先生が伝えてきたのだ。
時間を少し過ぎて、静かな音楽室のドアがゆっくり開く。
だが現れたのは、ミラー先生ではなく、ギターを抱えたレオンだった。
「お前、誰…?」
静かな音楽室に、二人の新たな音が静かに響き始めた。
その出会いが、エコーを“反響”から“共鳴”へと変えた瞬間だった。
二人の響き合う旋律は、やがて大きな叫びとなり、闇を切り裂いていく――
ここから、彼らの物語が始まったのだ。
──音が繋ぐ、二人の未来の始まり。
次回、「Before the Howl - Leon & "Echo"」
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