第9話 忘れる時間をください
当主直々の、しかも嫡男との縁談を断ったのだ。いくら許すと言われても、厚顔に今まで通り居座るわけにはいかない。
かといって侯爵に別の縁談をお願いするのも憚られ。
だからジョゼットは、あの翌日には実家に手紙を出して、訳あってゼンゲン侯爵家とは独自に縁談を用意して欲しいと願い出たのだ。
もちろん、手紙を出してすぐに、侯爵夫妻には意志を伝えた。気にしなくて良い、それならばこちらでよい縁を探そうと引き留められ、夫人には泣かれてしまって、ジョゼットは居た堪れなかったが、押し通した。
頼ってしまっては、侯爵夫妻は必ずよい相手を紹介してくれるだろう。それでは、ジョゼットの目論見も上手く行かないかもしれない。
そういえば夫人は、この従姉妹とは親子というより歳の離れた姉妹のように仲がいい。十中八九、夫人から話が伝わったのだろう。
それを、従姉妹はわざわざジョゼットのいない時にランドリックに話したらしい。
余計なことをするとよくランドリックに怒っている従姉妹も、実は大概おせっかいなのだな、とジョゼットはぼんやり思った。侯爵家の人々は、皆、心根が温かい。
「ジョゼ! ジョゼ、嘘だろう、いなくなるなんて。実家に縁談をお願いしただって?」
応接室の開け放たれた入り口からジョゼットが入ると、気がついたランドリックが、一足飛びに迫ってきた。
目の前でふわりと淡金の髪が揺れて、ランドリックの香りがジョゼットを包む。
先日、もっと間近で吸い込んだ時には、肌に馴染んだ温かな香りだったことを思い出した。
「私も十八になるので、どなたかには嫁がないといけません」
ランドリックに引き止められて、予想よりも喜んでいる自分に、ジョゼットは驚いた。
ジョゼットに依存しているかのように頼っていても、ランドリックは必要な時はいくらでも冷静に線引きができる。貴族令嬢にとって嫁ぐことが重要な務めだというのは、教本にも載っていること。ランドリックも、知っていることだ。
だからきっと、最後には見送られてしまうけれど。
それでも、一度でも引き止めてもらえたことに、じわじわと、胸に温もりが広がった。
嬉しかった。
男女ではなく。おそらく女性としても従姉妹よりは遠く、癒やしをもたらす犬を愛でるような関係に過ぎなくても、手放すのは惜しく思ってもらえたのだと。
けれど、ジョゼットは、いずれ自分が夫に女として見られないことに不満を募らせ、寂しさに苛まれるようになるのが、とても恐ろしい。
大貴族である侯爵家の夫人として何一つふさわしいものを持たないジョゼットだ。夫にすら真の意味で求められていないとなれば、心の疲弊は大変なものになるだろう。
きっとランドリックに八つ当たりをして、当惑させて、全て嫌になって、時間を積み重ねて作ってきた関係をすべて壊してしまうかもしれない。
そうして、結局ランドリックは
そんなことは、許せない。
許せないのに。
そんな激しさが自分にあると、ジョゼットはしっかり理解していた。
自分で自分を制御するには、ジョゼットは自分に自信がなく、そして恋をしすぎている。
引き止めてもらえて温まった心で、ジョゼットはいっときのお別れです、と言った。穏やかに、言うことができた。
「あの、一度結婚はしますが、その後は、侍女として侯爵家で雇っていただければなと思っています。私、家で大人しくしているより、外向きに働いて生きていく方が合っていると思うので」
「一度、結婚? 侍女?」
「はい、どなたかと結婚して数年経つか、嫡子を産んだら。その後なら、好きなことをしていいと言ってもらえるかもしれません」
父親の悪友の男やもめや、もっと年上で妻を自分の靴に例えるような老人が、そんな事を言うとは思えなかったが、ジョゼットだって黙って押し込められるつもりはない。最悪、どうにかして婚家から逃げ出そうと思っている。そのために、侯爵家ではなく実家を頼ったのだ。
自由のために足掻くのだ。侯爵家の嫡男の執務室での耳学問が、役に立つかもしれない。いや、やってやろうと思うし、できる気がしている。
少なくとも一度嫁げば社会的に大人と目される。自分の意志を強く示すことができるはずだ。
ジョゼットが諦めなければ。きっと、いつか。
だから。
もしも、恋心が色褪せて、今の健全で適切な距離を保つ穏やかな関係を、ジョゼットが心から受け入れられるようになったなら。
今度はもっと長く、一緒にいられる関係を見つけられるかもしれない。
「待って。好きなことをしたいってこと? 好きなことって、うちで雇われることなの? それなら今すぐでいい」
「未婚の貴族女性を、貴族家では雇いません。ゼンゲン侯爵家にも既婚であることが雇用の条件にあったはずです」
「なら俺が個人的に雇う。それなら、そんな条件はない」
ジョゼットは困り顔になった。
「貴族男性が個人で女の使用人を雇うと、愛人だとみなされます。男性が独身のうちは、そういったことは外聞が大変悪く、男性側も社交界で爪弾きにされてしまいます。まして、仮にも貴族女性を雇うなんて、その後一生、まともな貴族として見てもらえないかもしれません。だから、ダメですよ」
マナーの教本には不道徳すぎて載っていないのだろうが、わりとよくある話。とはいえ、これをランドリックに説明するのは、気が進まなかった。おそらく、彼基準の合理性に照らし合わせれば、すべてが納得や理解の外だろうからだ。
どう話すか、実際の判例や事件はあるか。せめて少しは準備してから説明したかった。
けれど、こうなっては仕方ない。言い募るしかない。
「それに、私は使用人の経験はありませんので、家の切り盛りを経験するか、別のお家で経験を積んでからでないとお役に立てません。なので、雇っていただけるのでしたら、十年以上先の……」
言いながら、ジョゼットの言葉は尻窄みになった。
ランドリックの顔が、恐ろしく渋い。世界で一番嫌いな食べ物を食べている子供のようだ。鼻の頭に、シワまで寄っている。
四年で一度も、見たことのない表情。
「必要な配慮なことはわかった。わかったが、……君の結婚は」
ランドリックは絞り出すようにそう言った。
渋い顔が時間と共にどんどん渋くなっている気がするが、すぐに「ジョゼが言うなら」と受け入れてくれるだろうと、ジョゼットは予想した。
これまで、ずっとそうだったように。
だが、ランドリックが呟いたのは。
「やっぱり、嫌だな」
それきり、むすりと黙り込んでしまった。
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