第9話 旅の始まり

 ここはリエストリア王国の北西部にある地方都市、セーレン。

 人は多すぎず、魔物もそこそこ出る。冒険者にとっては、適度に刺激のある“ちょうどいい土地”だった。

 気候は温暖で、物価も安定している。


 周囲には隣国との交易路が複数あり、ときおり貴族や騎士団の視察も入ってくる。

 国全体は概ね平和だが、近頃は周辺の自治領で小競り合いが増えているようだ。

 それでも、セーレンの街まで火の粉が飛んでくる気配は今のところない。


 私は、そんなセーレンを離れて、旅に出ている。


 誰にも何も言わず、町を出た。誰かと話す気分じゃなかった。


 “木漏れ日”のパーティーメンバーの申請予定は今日だったが、

 もうどうでもよかった。ただ、ただ、あの町にいたくなかったのだ。


──────────


 ぼんやりと歩いていた。

 地図も見ず、目的地も決めず。

 顔にすら魔法陣を刻んでいるため、魔力の流れを最低限に抑えて、擬態魔装の維持だけはなんとかしていたけれど、それ以外は適当だ。

 何も考えたくなかった。考えると、あの顔が浮かんできて、また泣きたくなる。


 そんなときだった。

 不意に木々がざわめき、視界の端を巨大な影が横切った。


 熊だ。

 いや、ただの熊ではない。明らかに魔物化した個体。

 通常の倍はある体躯に、黒く変色した皮膚。鼻先をクンクン鳴らしながら、私の存在を確かに捉えている。


 それでも、怖くなかった。討伐推奨ランクはゴールドだった気がする。

 むしろ、このまま襲ってくるのなら、目の前で消し炭にしてやろうと思っていた。


 そんな気配を感じ取ったのか──魔物が一歩、踏み出したその瞬間。


 ヒュッ、と風を裂く音がして、光の矢が一本、熊の片目に突き刺さった。


「逃げて!」


 後ろから声がした。

 反射的に振り返ると、森の中から弓を構えた青年の姿が見えた。


 逃げるつもりはなかったが、これ以上騒ぎを大きくするのも億劫だった。

 私は指先をかざし、小さく魔力を圧縮する。

 パチッと火花が走り、雷が熊の体を打ち、痺れさせる。

 熊は悲鳴をあげながら森の奥へと逃げていった。


 間もなく、青年が駆け寄ってくる。

 優しそうな顔立ち。少し野暮ったいけど、まっすぐな目をしていた。


「無事ですか? ケガは……」


「……大丈夫です。助けていただいて、ありがとうございました」


 それだけ言って、また歩き出した。

 けれど、青年は隣を並んで歩き始めた。


「さっきからすごくふらついてるけど、本当に平気? 無理してない?」


 うるさい。そう思った。


「放っておいてください!」


 ぴしゃりと声が跳ねた。


 青年は困ったように笑いながらも、足を止めない。

「わかった。でも、僕もこっちの道に用があるから」


 それきり、少し距離を開けながらも、彼はついてきた。


 日が傾いてくる。気温も下がり始めていた。


「ここ、あまり人通りのある道じゃないんだ。夜に入ると魔物も多いし、ちょっと危ないよ。……今日は一緒に野営しよう」


 一方的な提案だった。

 正直、うっとうしいと思った。

 でも、無理に振り払う気力もなかった。


「……わかりました」


 焚き火を囲む。暖かさがようやく指先に届いた。


 彼は自己紹介をしてくれたが、名前はよく覚えていない。

 ただ、夜番はまかせてくれ、と言って、火の側から離れようとしなかった。


「……なんでそんなに、優しくするんですか」


 私の声は、思ったよりもかすれていた。


「だって……そんな顔してるのに、放っておけるわけないだろ。何にも荷物持ってないみたいだったし、余計にさ。なにがあったんだ?」


 その言葉が、胸に刺さった。


 つっかえていたものが、堰を切ったように溢れた。

 パーティに入ったこと、失恋したこと──全部、涙混じりに話した。


 彼は何も言わなかった。ただ、黙って聞いてくれた。


 気づけば、私は彼の隣で、深く眠っていた。


 朝になって目を覚ますと、彼は起きていて、焚き火の残り火を見つめていた。


「……夜番、本当にしてくれたんですね」


「そりゃあ、約束したし」


 にこっと笑った彼は、少し疲れた目をしていた。


「万全じゃないけど……早く町へ向かおう」


 私は小さく、こくりと頷いた。


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