第2話
雨上がりの午後だった。
街は濡れていて、空気だけがやけに澄んでいた。
ロゼは、古書店「青雨堂」のシャッターを開ける。
通報者から預かった鍵は、少しだけ錆びていた。
中に入った瞬間、彼は違和感に気づく。
空気が“死”を拒んでいた。
まるで、そこに死があったこと自体が
設計された痕跡のように綺麗だった。
床板は擦れていない。
カウンターの椅子は、引いたまま微動だにせず。
レジ横の棚には、文庫本が一冊だけ前にせり出していた。
そして、紙が一枚。
ビニールに包まれ、まるで遺体の代わりのように置かれていた。
ロゼはそれを拾い、静かに目を通す。
「名前を呼ばれたことのない花は、香りだけで答える」
「声を持たない者の言葉を、あなたは信じるだろうか」
「選ばれた正義より、静かな狂気に憧れた」
「今夜、ひとつだけ光が消える」
この詩を、彼は知っていた。
いや、“この呼吸”を知っていた。
あいつだ。
間違いない。
店主は、60代の男性。
客商売には不器用だったが、古書の知識は深く、リピーターも多かったという。
死因は心不全。争った形跡も毒物反応もなく、警察は「自然死」と判断して処理した。
だがロゼは、ここに“死ぬための舞台”があると感じていた。
椅子の足元に、かすかに香る気配。
香水でも花粉でもない、微かに甘い乾いた香り。
床に手をついて覗き込むと、うっすらと瓶の跡が残っていた。
「……あったんだな。花が。」
詩の一行目と一致する“香り”。
だが花は消えていた。警察も回収していない。
つまり、犯行後に誰かが持ち去っている。
ロゼはファイルに付箋を貼る。
「演出された香り」
「設置された空間」
蛍光灯にも違和感があった。
レジ上のひとつだけが抜かれていた。
天井の穴は新しく、他の器具より“浮いて見える”。
光を消す。
詩の最終行と一致。
ロゼは確信を深める。
これは偶然の死じゃない。“再現された死”だ。
彼は店を出て、通報者の証言を拾いに回る。
階下の老婆が言う。
「黒い帽子の、痩せた男だったよ。
背中が猫みたいに曲がってて……ずっと中を覗いてた。」
上階の若い女性は、違う話をした。
「白いロングコートでした。背が高くて……たぶん女の人。
香水がすごく強かった。」
向かいのクリーニング屋の店主はまったく別のことを言った。
「誰も来てないと思うよ。シャッター閉まってたし。
中に誰か入ってたなら、俺、絶対気づいてる。」
ロゼは無言でメモを取りながら、静かに驚いていた。
誰もが“違う何か”を見ている。
けれど、全員が“見たような気がする”と証言する。
それは、偶然ではない。
事務所に戻ったロゼは、詩のコピーを51枚目のファイルに追加する。
そこには、同じように“証明されなかった死”の記録が並んでいた。
「詩と空間は、完璧に一致していた。
なのに、誰も“あいつ”を見ていない。」
いや、正確には——
「誰も“同じあいつ”を見ていない。」
あいつは花を置き、光を消し、詩を残した。
それなのに、姿形だけはすべて異なる証言に塗りつぶされている。
あまりに計算されすぎている。
これは、“あいつがやった”ということを
**“俺にだけ分かるように残した”**のではないか?
ロゼは詩の一行目を見つめる。
「名前を呼ばれたことのない花は、香りだけで答える」
誰の目にも届かず、
誰の記憶にも残らず、
ただ一人の探偵にだけ届く殺意。
「どれだよ、あいつは……」
ロゼは静かに言った。
「どれも違うのに、全部“あいつ”だって分かってしまう。
……だったら、“分かる理由”を探さなきゃいけない。」
次に調べるのは、“あいつの過去の詩”だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます