第12話「“のの”、翔馬と結婚するって」
姉の桜佳から、一応のお墨付きをもらった翔馬は、その日の夜、自室のベッドに寝転びながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
室内は静かで、隣の部屋からは香音の歯磨きする音がわずかに聞こえてくる。
あの姉が『まあ、いいんじゃない』と言ってくれたのだ。それはほとんど奇跡に近い言葉だった。あの桜佳が彼女を認めるなんて。
(……これ以上のチャンス、ないよな)
翔馬は手元の引き出しをそっと開け、中から小さなリングケースを取り出し、ゆっくりと立ち上がると、洗面所に向かう香音の背中を見つけ、呼び止めようとした。だが、どう声をかければいいのか、迷っているうちにタイミングを逃してしまう。
* * * * *
翌朝。
香音が朝ごはんを作っている。その姿を見て、翔馬は思った。
(今だ……!)
「なあ、香音。その……ちょっと、大事な話があるんだ」
香音が振り返る――否、振り返ったのは“のの”だった。
「のの、いま、おりょうりちゅう!」
満面の笑み。エプロン姿。なんとも愛らしいその姿に、翔馬は一瞬たじろいだ。
(まさか、“のの”だったとは……でも、もう言っちゃった……!)
ののはうんうんと力強くうなずく。
半ば勢いで動いていた翔馬は今さら引くこともできず、言葉を続けてしまう。
「結婚、してほしい」
その瞬間、“のの”の目がきらきらと輝き、飛び跳ねんばかりに喜び始めた。
「やったー! おくさんになるーっ!」
“のの”はプロポーズを受けたのが自分だと思い込み、そこから完全に“奥さんモード”に突入してしまった。香音に人格が戻ろうとするたび、「やだっ! いまおくさんだから! かのんにはもどらないのっ!」と拒否。
「お願い、ちょっと香音に戻ってくれない?」と懇願しても、「いや!」の一点張りで、翔馬は頭を抱える。
(まずい。完全に拗らせた……)
その日から、翔馬の“プロポーズなかったこと大作戦”が始まった。
まずは“おままごと作戦”。
「“のの”、あれは“ほんとのけっこん”じゃなくて、“ままごと”だったんだよ」
「ちがうもん! あれ、ほんきのぷろぽーずだったもん!」
失敗に終わる。
次に“パペットショー作戦”。動物の手人形を持ち出して、“のの”の前に立つ。
「ぼく、しょうま。じつは、ぷろぽーずはゆめだったのです!」
「うそつきー! ゆめじゃないもんっ!」
瞬時に撃沈する。
最終手段は、“お姫さまの呪い作戦”だった。
「プロポーズした相手が“ほんとうのおくさん”じゃないと、王国にばつがくだるって!」
「“のの”、ばつうけてもいい! しょうまのおよめさんになるの!」
以上、すべて打ち砕かれる。
香音には戻らず、“のの”は自分の立場を堅守する。
その夜。翔馬はリビングのソファに沈み込み、顔を覆った。
(……俺、なんでこんなに真剣に、子ども相手にプロポーズの訂正してるんだ)
そして思う。
(いや、俺が悪い……)
翔馬はふたたび立ち上がる。
その様子を見ていた“のの”がふわっと笑って誇らしげにうなずいた。
翔馬は、その小さな笑顔に、罪悪感と愛しさと、どうしようもない感情が入り混じった胸の中で、次の一手を考える。どうすれば、この誤解をやさしく解けるのか。“のの”の気持ちを傷つけずに、香音と向き合い直せるのか。
だけど、言葉はうまく見つからなかった。視線をそらした瞬間、“のの”が「ねえ、けっこんしきってなにきるの?」と無邪気に問いかけてきて、翔馬は返事の代わりに曖昧な笑みを浮かべた。
* * * * *
そうして、その日から、翔馬の受難の日々がはじまった。
「しょーま、これ、けっこんしきのれんしゅーね!」
小さな手で折り紙の指輪を作って差し出すののに、翔馬は笑顔を貼りつけたまま、心の奥で悲鳴をあげていた。
(あああ……かわいいけど違うんだって……!)
どうにかして、誤解を解かなければ。でも、“のの”は今、「自分が奥さんになる」と信じて疑っていない。それを否定したら、どれだけ傷つけてしまうか。
「“のの”、その前に……ええと、ちょっとだけ、香音とお話しできる?」
「やだ」
にこりと笑って、ののは即答した。その目には、ほんのりとした不安と、独占欲のようなものが滲んでいる。
「かのんにもどっちゃったら、しょうまは、“のの”とけっこんしてくれないでしょ?」
図星すぎて、翔馬は沈黙した。
(そうだけど……そうだけど、違うんだって!)
しかも、“のの”の“新妻ムーブ”は日を追うごとに加速していった。「ごはんできたよ!」と炊飯器の前に仁王立ちして、ボタンを押しただけで得意げになる“のの”。「しょうま、あしたのシャツ、これがいい?」と聞いてきて、出してくるのは彼の服ではなく、なぜか香音のワンピース。
(いや、それは俺、着ないけど!)
「けっこんしたら、キスもいーっぱいするんだよね?」と、飛びついてこようとするののを必死で受け止める。
(……お願いだから! このまま香音に戻らないままなのはやめてえええ……)
そこで、翔馬は苦肉の策を思いついた。――それは、“のの”を説得するのではなく、香音に戻させるきっかけをつくること。
まずは、香音が好んで読む文芸書を本棚から引っ張り出し、さりげなくテーブルに置く。次に、香音お気に入りの紅茶を淹れ、「これ飲むと落ち着くって、香音が言ってた気がするなあ~」と独り言のように言ってみる。
だが――
「これ、にっがい! やだ!」
“のの”は顔をしかめてソファに逃げていき、ふてくされモードへ。
(ち、違った……逆効果だった……!)
次に思いついたのは、“香音の好きな映画を流す”作戦。
「この映画、香音が何回も観てたやつなんだよな~」
そう言いながら、翔馬はテレビをつけて、ロマンチックな文芸映画を流し始める。が、“のの”は「なんかしゃべってるばっかでつまんなーい」と言ってクッションをかぶってしまった。
(だ、だめだ……全部香音すぎて、“のの”拒否反応出てる……!)
頭を抱えながらも、翔馬は最後の手段に出る。香音との思い出が詰まった写真アルバムを、そっと取り出して“のの”と共有することにしてみた。
「ねぇ、“のの”。この写真、見てみない?」
そこには、ふたりで出かけた初デートのときの写真や、料理を一緒に作った日の笑顔、香音が不意に涙した夜、黙って手を握った記憶――いくつもの“香音との時間”が残されていた。
“のの”は最初、黙って眺めていた。けれど、ある1枚にふと目を止めた。翔馬の肩に寄りかかってうとうとしていた香音を、翔馬が愛おしさからこっそり撮った写真だった。
「……かのん、これ、うれしそう」
ぽつりとそう言ったあと、“のの”は静かにアルバムを閉じた。
「やっぱり、およめさんは、かのんがいいのかな」
「……“のの”は、香音の一部なんだよ。全部、大事な香音なんだ」
翔馬の言葉に、“のの”は少し考えるような顔をした。そして――そのまま、くたっと翔馬の肩にもたれかかった。
「じゃあ……きょうは、かのんに、かわってもいいよ」
その声は、いつもの“のの”の無邪気さよりも、少しだけ大人びていた。
翔馬は、そっと彼女の頭を撫でる。
「ありがとう、“のの”」
“のの”の体温が、ふっと翔馬の肩から離れた。次の瞬間、彼女のまぶたがゆっくりと開き、瞳の奥に、見慣れた“香音”の光が戻ってくる。
「……あれ? 私、寝てた?」
香音が目をこすりながらきょとんとする。
「うん、ちょっとだけ。……でも、おかえり」
翔馬は穏やかな声でそう言って、彼女の頬にそっと手を添えた。
香音は首をかしげて、ふとテーブルの上の紅茶や、開いたままのアルバムを見て、小さく笑う。
「なんか、いろいろ……頑張ってくれてた?」
「まぁね。“のの”との“新婚生活”が想像以上に大変だったから」
香音の頬がぴくりと引きつる。
「……え、それって……どういう……」
「……いや、なんでもない。全部、ちゃんと無事だったって話」
翔馬はごまかすように笑って、香音の髪を軽く撫でた。
香音は目を細めながらも、何か察したようにそっと翔馬にもたれかかる。
「でも……うれしい。私がいない間も、ちゃんと“私”のこと、大事にしてくれてたんだなって、わかるから」
「そりゃ、当たり前だよ」
答える声に、少しだけ照れが混じる。しばらく、ふたりのあいだに静かな時間が流れた。
* * * * *
夕暮れのオレンジがカーテンの隙間から差し込み、部屋をやわらかな光で満たしている。
「……あのさ」
翔馬がぽつりとつぶやく。
「うん?」
「このあいだ、姉貴に『変な彼女じゃなさそう』って言われたんだ。……“変”の意味がどこまでだったかは、わかんないけどさ」
香音は吹き出すように笑った。
「それって、ほめられてるのかな」
「うん。たぶん……今まででいちばん高評価だった」
ふたりで笑い合って、香音は小さく息をついたあと、真剣な目で翔馬を見上げた。
「ねぇ、翔馬」
「ん?」
「“普通”って、難しいけど――でも、いまの私たち、けっこう好きかも」
その言葉に、翔馬の胸がじんわりとあたたかくなる。
「俺も。すごく、好きだよ」
彼女の手をとり、指先を絡める。
“プロポーズ”という言葉は、まだ出さない。でも、今度こそちゃんと、香音に、正しく、心からの言葉を届けたい――。その時が来たら、絶対に。
だから今日は、ただこの瞬間のぬくもりを抱きしめていよう。夕陽の中で、ふたりの指は、そっと繋がったまま離れなかった。
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