第8話「きみの不満と俺の不安」

 自宅のベッドで目覚めた朝、香音は、どこかぽかんとした顔をしていた。


「……おはよう、翔馬」


 声は穏やかで、笑みもやさしい。それはまぎれもなく“香音”だった。少なくとも翔馬には、そう見えた。


「おはよう。……体、だいじょうぶ?」


 隣で寝ていた翔馬がそばによると、香音はゆっくりとうなずく。


「うん。頭、ちょっと重いけど……よく寝たみたい」


 ――ここ数日、彼女は“香音”ではなかった。冷静で、皮肉屋で、香音に似ても似つかないだった。いや、似ていないと思っていたのに、どこか既視感がある話し方や癖。それは、あの久我慶太に重なるものだった。

 翔馬の胸の奥には、まだそのざらつきが残っている。


「ごめんね、いろいろ心配かけたよね」


 香音が眉を寄せてきく。


「……ううん。大丈夫だよ。とりあえず、香音が戻ってきてくれて安心した」


 そう言いながら、翔馬はその体を包み込む。香音は一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに微笑んで、もたれかかった。


「ただいま、翔馬」

「おかえり」


 短く交わしたその言葉だけで、なぜだか胸がいっぱいになる。だけど――心のどこかでは、まだ拭いきれない引っかかりがあった。


『きみには、香音を幸せにできない』


“ナナシ”の言葉が、脳裏にこびりついて離れない。


* * * * *


 日常は、元通りに戻っていくように見えた。朝、キッチンで並んで朝食を作り、昼はそれぞれの時間を過ごし、夜になれば寄り添うようにして眠る。

 でも、そのすべてに、どこか違和感があった。


「翔馬……最近、ちょっと変じゃない?」


 夕食後、片付けを終えた香音が、リビングでぽつりと呟いた。テレビも消した静かな部屋。水の張ったカップを両手で包んで、彼女はテーブル越しにこちらを見る。


「変って?」

「なんか……やさしすぎる。ううん、感じ?」


 言われてみれば、そうかもしれない。翔馬自身も、どこか無理をしている実感はあった。

 洗濯物は香音に指摘される前に丁寧に干し直し、料理の味も一度試食してから出すようになった。掃除機は朝晩欠かさず、家具の下まできっちりかける。こんなこと、前はしてなかった。


「気にしすぎ、かな……?」


 翔馬は笑ってみせた。


「ううん、嫌じゃないの。嬉しいよ。だけど……」


 香音の瞳が、すっと翳る。


「何かを隠してるんじゃないかって、ちょっと怖いの」


 翔馬の手が、カップの縁で止まる。


「この前の……発作が起きる前のこと。私、そのとき何してた?」


 きた。翔馬は、心臓が小さく跳ねるのを感じた。

 香音には“ナナシ”の記憶がない。本人の中でもぽっかりと空白になっているらしく、クリニックで目覚めて以降、それとなくたずねてくることが何度かあった。


「特別、何も……なかったよ。ちょっと体調が悪くなって、倒れたってだけ」

「ほんとに?」

「……うん」


 嘘ではない。でも、真実でもない。

 言えなかった。あの数日間、翔馬が誰と一緒にいたのか。“ナナシ”と名乗るあらたな人格と過ごした日々。慶太の影が重なる彼の言葉、挑発、そして――。


「……まあ、いいけど」


 香音がふっと目を伏せる。


「どうせ言いたくないんでしょ?」


 その言葉が、妙に冷たく感じた。


* * * * *


 翌朝、香音は現れなかった。代わりに現れたのは、どこか落ち着いた雰囲気をまとっただった。


「おはよう、月岡くん」


 白いシャツに、カーディガンを羽織った姿で現れたその人格――“寧々”は、相も変わらずやわらかく微笑む。


「……“寧々”、か」

「ええ。今は、私がいちばん穏やかみたいだから」


 キッチンの片隅でコーヒーを淹れながら、“寧々”はくるりと振り返る。


「香音、少し傷ついてたわよ」


 翔馬の手が止まる。


「やっぱり、そうか」

「月岡くん、話してないわよね? 何があったか」

「……うん」

「理由は言わなくてもわかるわ。香音を守りたいからよね?」


 うなずく翔馬に、寧々はふわりと目を細めた。


「でもね、翔馬くん。香音は弱くないよ。もう、あのころの香音じゃない。私たちが一緒にいて、あなたがそばにいてくれるから、ちゃんと受け止める準備もできてる。だから、ね――話してあげて。ちゃんと、全部」


翔馬はしばらく黙っていた。


「……にしたかったんだ」

「うん」

「全部夢だったって、そうやって笑って、元通りの日常に戻りたかった。でも、ダメだった。“ナナシ”の言葉が、頭の中にこびりついて離れない。『きみには、香音を幸せにできない』って……」


 翔馬はコーヒーの入ったマグを手に、ゆっくりとソファに腰を下ろした。


「俺、やっぱり不安だったんだよ。慶太みたいな完璧な人間と比べられたら、自信なんて持てない」

「……月岡くん」

「でも――」


 視線をあげた。


「それでも俺は、香音と一緒にいたい。この先に何が起きても、全部ちゃんと向き合って、乗り越えていきたいと思ってる。だから、話すよ。ちゃんと、伝える」


“寧々”は、何も言わずに微笑んだ。その笑みに力をもらうように、翔馬は立ち上がった。


* * * * *


 日が傾きはじめるころ、香音が戻ってきた。久しぶりに彼女らしい表情を浮かべて、テーブルに座り、素直に夕飯を待っている。

 翔馬は、少し早めに支度を終え、香音の向かいに腰を下ろした。


「ねえ、翔馬」

「ん?」

「ここ数日……何があったの?」


 香音の声は穏やかだったが、どこか探るような色を帯びている。

 翔馬は、迷いなくうなずいた。


「話すよ。今日は、ちゃんと全部話すって決めたから」


 香音の目が、少しだけ見開かれる。

 翔馬は、できるだけゆっくりと、順を追って話し始めた。

 久我慶太との偶然の再会。香音が会いたがっていたこと。人格統合についての相談。そして、現れた“ナナシ”のこと――冷静沈着で、理屈っぽくて、でもどこか香音を気遣っていた“ナナシ”。翔馬と暮らした数日間のこと。カフェでの発作。そして、立花クリニックでの出来事。

 ひとつひとつ、言葉を選びながら。

 香音は途中、何度か口を開きかけては、黙り込んだ。やがて、ぽつりと漏らす。


「そっか……そうだったんだ」

「驚いた?」

「ううん。なんとなく、身体が重たかったし、胸の奥がざわざわしてた。でも、“ナナシ”って……」


 香音はそこで、ふと目を細めた。


「……ごめんね。私、何も覚えてないの。なのに、きっと心配かけたんだよね」

「……覚えてなくてもいいよ。でも、伝えたかったんだ」


 翔馬はゆっくり、香音の手に触れた。今度は、拒まれなかった。


「“ナナシ”のお小言、うるさかったな。干し方が甘いって怒られて。洗濯物、毎日きっちり整列させないといけなくてさ」

「ふふっ……」


 香音が、声を漏らして笑った。


「……でも、それでも全部やる翔馬、えらい」

「誉めてくれるの?」

「うん。ほんとに、ありがとう」


 手を握ったまま、翔馬は息を整えた。そして、もうひとつ、心に引っかかっていた言葉を口にする。


「“ナナシ”が言ってた。『きみには、香音を幸せにできない』って」


 香音の瞳が、ゆっくりと翔馬を見つめた。


「それ、無理だね」

「……え?」

「だって、これ以上幸せになんて、なれないもの」


 言葉が、ふっと翔馬の胸に落ちてきた。

 香音は微笑んで、翔馬の手を握り返した。


「翔馬がいてくれるだけで、私、こんなに幸せなのに。それ以上って……どんな感じなの?」

「……それを、これから俺が見せてあげるよ」


 翔馬は、香音をそっと抱き寄せた。やわらかく、たしかに存在するその体温が、すべてを包み込んでくれるようだった。

 夜の気配が、部屋の隅々まで満ちていた。カーテンの隙間から、街灯の明かりがうっすらと漏れ、ふたりを淡く照らしている。

 ソファの上、香音は翔馬の胸にもたれながら、ゆっくりとまばたきを繰り返していた。


「ねえ、翔馬」

「ん?」

「私、本当は……すこしだけ、怖かったの」

「……何が?」

「しあわせって言ったら、終わっちゃう気がしてた。ずっと前から、何かを得ると、何かが壊れた。だから、こんなに満たされたら、また……って」


 翔馬は黙って、彼女の髪に指を通した。


「でも、違ったね。翔馬は壊れない。ちゃんと、そばにいてくれる」

「そりゃあもう、ずっといるよ」


 香音が小さく笑った。少し鼻にかかるような、甘えた声で。


「ふふ……もう一回、言って?」

「え?」

「『幸せにしてみせる』って。あれ、もう一回、聞きたい」


 翔馬は頬をかすかに染め、それでも真面目な顔で香音を見つめた。


「俺が、香音をもっとしあわせにする。絶対に」


 香音の目尻に、涙が一粒、光った。それでも泣かずに、彼女はそっと身体を起こすと、翔馬の頬に両手を添え――ゆっくり、唇を重ねた。


 「……ありがとう、翔馬。だいすき」


 そう囁いた香音は、微笑みながら、そのまま彼の肩に顔を埋めた。

 部屋の時計が、やさしく時を刻む音が聞こえる。

 これ以上は、もう望めない――そう思っていたはずの夜が、少しずつ、次のしあわせを連れてきてくれる。ほんの少しだけ、未来を信じたくなるような、そんな夜だった。

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