胎動(2)
アヌビスを先導させ、ホルスはその後に続く。
デシェレトの荒々しい風に立ち向かうように歩みを進めるも、砂塵で視界が塞がれ、道どころか互いの姿を確認するのもやっとだ。これが人同士なら、布や縄でお互いを括り付けて歩くのだろう。実際、デシェレトに向かう人々はそうしているようだ。
ホルスは砂に足を取られぬよう慎重に歩きながら、腰に携えた長剣の、黄金に塗られた柄に触れる。これから目指すべき場所に意識を向けつつも、ホルスはアヌビスの背に話しかけた。
「ねぇ、アヌビス。叔母上のこと、君は知っていたんだろう?」
ぴたりと、アヌビスの歩みが止まる。
振り向いたその顔は、疲労や諦めといったものが伺えた。だが、決して負の感情ばかりではない。
イシスが取り乱した様を見た時から、ホルスはアヌビスに意識を向けていた。当然、アヌビスにとってネフティスは母なのだから、消えたと聞けばイシスほどではなくとも心を乱す筈。
が、そのような感情の乱れはホルスの真実の眼では見えず、だからこそあの場では口にしなかった。なるべくイシスを刺激しないよう、離れた場所で聞いた方が良い、と判断したのだ。
「……お前に隠し事など通用せぬか。その通りだ。母は、我にだけ言葉を残し、出ていったようだ」
アヌビスは肯定し、再び前を向く。
話の続きは歩きながらで、ということらしい。風の音で聞き逃さぬよう、ホルスはアヌビスとの距離を縮め、耳を傾けることにした。
▲▲▲▲
謹慎期間が終わり、アヌビスにデシェレトでの捜索が命じられた、その直後のこと。
ネフティスはデシェレトの方角を見つめ、ぼんやりとすることが多くなった。勿論、女神としての仕事はこなしているが……、時折、運ばれてくる風に含まれる魔力を指先で掴み取り、編むような真似までする。
それは何かの術なのか、それともただの手遊びなのか。アヌビスにはわからなかったが、母ネフティスが何を思い、耽っているか。それくらいは、わかるつもりだった。
「母上……もし、貴女に望むことがあるのなら。
どうか、我のことは気にせずに」
故に、そう切り出した。
ネフティスは飛び上がるほど驚き、おろおろと視線をさ迷わせる。
「アヌビス、私は……」
両手を胸の前で組み、迷わせた視線は地面を見つめ。叱られることを恐れているような、そんな態度ではあったが。
アヌビスが根気強く、ネフティスを見つめ返していると。ネフティスは震える唇を一度キュッと引き締め、胸に手を当て、大きく深呼吸を繰り返した。
「私……」
そして、意を決したように、口を開く。
「私、セトの所に行きたいの。漸く貴方と向き合えたのに、こんなこと、すぐに思うような……母親でごめんなさい……」
アヌビスは首を左右に振る。そして、甘えるようにネフティスの脚へ、自身の犬の頭を擦り付けた。
「今はどうか、我のことを気にせず。貴女の思いを、教えてはくれませぬか」
充分擦り付けた後、顔を上げ、アヌビスは願う。
その様子を見て、ネフティスはほんの少しだけ笑みを浮かべた。悲しみと、葛藤と。そういった感情が、今この瞬間、和んだのだと。ネフティスは気付いた。
息子の優しさに触れ、ネフティスはそっと手を伸ばす。今迄、後悔ばかりが邪魔をして、出来なかったこと。アヌビスに触れ、頭を撫でる、ただそれだけの行為を。ゆっくり、ゆっくりと、傷付けてはならないものに触れるかのように、手を動かす。
「私も最初は、ただ赦されたいのだと思っていた。
償いをしなければならないと、思っていたの。でも、違うの。そうじゃ、ないの」
心地良さそうに目を細めるアヌビスと、ネフティスの静かな語らいが、その場の空気を優しく包む。
ネフティスの目がもう一度、デシェレトの方角を向いた。
「私は……彼と向き合いたい。逃げずに、もう一度……彼を、知りたい……」
その言葉だけは、風に溶けゆくものにはならなかった。消えてはならぬ、決意だった。
それを受け止めたアヌビスは、瞼を伏せ、持ち上げた尻尾をぱたん、と音を立てて地面に落とす。
「……しかし、セトの元へ行けば、御身がどうなるか、わかりませぬ」
「ええ。彼は、まだ私を憎んでいるかもしれない。あるいは呆れて、もう私に興味すらないかもしれない……」
「それでも……彼の元へ行くことを、望まれるのですか?」
「……貴方は、止める……?」
警告はしなければならない。それは母を思うが故に。
だが、アヌビスの心はもう決まっている。ネフティスがそうであるように。
「……いいえ。我が願うのはただ一つ。母上が嘆くことなく、悔いなく、心安らかであることだけです」
アヌビスは一歩下がると、四足の獣形態を解き、人型へと姿を変える。二つの足で立ち、ジャッカルの化身として耳は頭に残るものの、その顔はホルスとよく似た、凛々しい少年のもの。
胸に手を当て、目上のものにするように頭を下げる。忠義を誓う騎士のように、アヌビスは言葉を続けた。
「だが……貴女がもし、傷付くようなことがあれば。我は、どんな者が相手だろうと、貴女の為に刃を振るうでしょう」
まさしくそれは、誓いの言葉だったのだろう。
アヌビスの眼は瞼で隠されてはいたが、そこには強い光が宿っている。そう、思えた。
「ありがとう、アヌビス……愛しているわ。どうか忘れないで。離れていても、私は貴方の母。そして、貴方は私の可愛い息子よ。どんな場所にいても、私は、貴方の味方だから」
「……母上……どうか、お気を付けて」
そうして、ネフティスは王宮から姿を消した。
▲▲▲▲
「……母上は、自らの意思でセトの元へと向かった。贖罪の為ではなく、今度こそ悔いなき選択をする為に。もし、我等がこれから向かう先で彼女と出会ったとしても。もう、母上は王宮へと戻らぬだろう」
ネフティスの決意を語るアヌビスの横顔を眺め、ホルスは視線を前に戻す。
彼女が前へと進もうとしたのなら、そしてそれを見送った者がいるならば。自分もまた、前へと進まねばならない。
「……そう。ありがとう、教えてくれて……。僕は……嬉しく思うよ。辛くないと言えば、嘘になるけど……それはきっと、君も同じだろうから」
「イシス様は、納得するだろうか……」
「ふふ、暫くかかるだろうね。根気強く、付き合っていこう」
あれだけ取り乱したイシスの姿を見た後だ。アヌビスが不安に思うのも無理はない。ホルスも笑ってはみせたが、これから先、苦労するのも理解っている。
だからこそ、姉であるイシスのことを良く知るネフティスは、イシスに何も伝えずに出ていったのではないのだろうか。引き留められる、ならまだ可愛い方で、下手をしたら監禁まがいのことまでやらかしたかもしれない。
実の息子であるホルスでさえそう思うのだ。過激な母の愛情を知るからこそ、だが。
「アヌビス?」
ほんの一瞬、己の思考へと意識を向けた。その僅かな間に、隣にいた筈のアヌビスの姿を見失う。いや、それどころか、気配すら無い。ホルスの眼を使っても、彼の姿を砂塵の向こうに捉えることが出来ない。
嫌な汗が、背を伝う。長剣の柄を握り、いつでも剣を抜ける姿勢をとった。
「あぁ……あぁ、あぁぁあぁぁ」
呻くような、女の声がする。
ホルスは脚を軽く開き砂を踏み締め、デシェレトの嵐に対抗すべく自身の力で風を巻き起こした。
鷹、もしくは隼の化身と呼ばれる彼は、風を操る力を持つ。ホルスは王であるが故に、宇宙、太陽、天空、時、と司るものが多い。その中でも、彼は天空の力を得意とした。
その力は、砂漠の嵐を吹き飛ばすほど。彼の周囲のみではあるが、砂塵で遮られた視界が晴れ、辺りが見渡せるようになる。
「貴女は……」
「我等が主人の邪魔はさせんぞ、小童め」
ホルスを待ち構えていたのは、長い黒髪と暗い眼をした、ひとりの女神であった。
その髪は蔓のように畝り、腰まで伸びている。見開かれた眼は何処までも昏く、深淵そのものを映しているかのよう。
彼女はアスタルテ。元はウガリットと呼ばれる異国からやって来た、馬と戦車の女主人と呼ばれている。その名の通り、彼女は戦神として人々から崇められていた存在だ。しかし、セトと関わってからは盲目的な愛を爆発させ、セトの妾として悪業に手を出す事も厭わない。実際、ホルスとセトの王座争いの時も、彼女は何度もホルスの前に立ち塞がった。
その争いで、ホルスは彼女の両脚を奪った。
無論、正当な報復である。敵である以上、四肢を奪う理由も、奪わぬ理由も無い。争いの果てに起こった事だ。そこに罪の意識などない。だが、彼女からすれば、充分な憎しみの対象となる。
今、彼女の膝下は、神のものとは思えぬ形をしていた。義足、と呼ぶにはあまりにも歪で、どちらかと言えば機械仕掛けのようだ。長く砂に晒された為か、その表面には赤錆のようなものが見え――、彼女が身体を揺らす度に、不気味な不協和音を鳴らしている。
「そこを退け、アスタルテ。貴様に用は無い」
ホルスは冷えた口調で命じ、鞘から剣を引き抜いた。その切っ先をアスタルテへと向け、彼女を見据える。悪神を封じたことで、長く戦場から離れてはいたが……、剣を抜いた瞬間から走る緊張感と、独特な空気が、心地良ささえ感じさせた。
ホルスは戦神の一面も持つ。少年の姿でありながら、今の彼には隙がなく。歴戦の勇士が、そこに立っているかのようだった。
少年王のその姿を見たアスタルテは――大きく歯を軋ませ、目の奥でぐるぐると渦を巻く。深淵を掻き回すかのような、淀んだ感情を爆発させた。
「あ"あ"あ"あ"!! やはり! やはり私は!! 貴様が嫌いだ!! 何故! 何故!! セト様を害する!! 私の愛するひとを! 私の! 私の唯一を!!」
殆ど奇声のようなそれに顔を顰めつつ、ホルスは彼女の慟哭を受け止める。
なんと哀れな姿だ。
彼女は愛する男の為となれば、敵だろうが同胞だろうが関係なく、その狂気の矛先を向けるだろう。
「天を支配する鳥如き、私の弓で打ち落としてやる!! 来たれ災厄よ、赤き砂よ! 私の鉾となり脚となれ――!!」
アスタルテがそう吠えると、彼女を中心として円を描く様に大量の矢が現れた。同時に砂中から砂と同色の馬が出現し、戦女神の脚となる。アスタルテはそれに跨り、真っ直ぐにホルスへと突進した。
それと同時に、宙に浮いていた矢が一斉に放たれる。人同士の戦で見るような矢の数にたったひとりで迎え撃たんとする神の王は、誰にも届かぬ罵倒を吐いてから背中から鷹の羽根を生やし空へと昇る。ホルスがいた砂地に何本か矢が刺さりつつも、アスタルテの魔力で作られた矢は人のものとは違い、獲物を何処までも追尾する。空へと逃げた鷹を追うが、誇り高き鷹の王は矢如きでは落とせない。剣を一薙ぎ、たったそれだけで追尾してきた矢を全て払い除けた。風を纏ったホルスの剣は、馬に跨るアスタルテの頬に風刃となって衝撃が届く。
「この野郎!」
女神とは思えぬ形相でホルスを睨み、次にアスタルテは槍を形成する。馬が高く跳躍した瞬間身を翻し、ホルスに向かって空中から槍を振り下ろす。人では不可能な角度と速度。だが、ホルスは空中で前転し、風を纏った剣でその一撃を打ち落とした。
アスタルテの手から離れた槍は砂地に落ちていく。が、更に生成された矢がホルスの背後に現れ、不意を狙わんとする。
「貴様の愛とは、その程度か!」
ホルスが煽るような言葉を吐いた。謙虚な少年の姿が印象深い彼からすれば珍しくも見えるが、ここは戦場。荒々しい言動にもなる。
振り向きざま、不意打ちを狙った矢を斬り落とし、宙を蹴るようにして瞬間的な加速をする。天空の神ゆえに可能な技だ。ホルスはそのままアスタルテへと向かい、その女神の身体へ剣を突き刺さんとした。
「馬鹿にするなぁぁぁあ”あ”っ!!」
アスタルテは再び槍を形成すると、ホルスの一撃をそれで防ぐ。高く鋭い音が鳴り響き、火花が散る。
「貴様のせいで!! あの方の種を育む器すら、私には残されていない!! それならば、今この時! 彼の肉体を育む為の時間稼ぎが、私の愛!!」
――肉体?
その言葉に、互いに武器を押し付けあった状態で、ホルスは思考の波へ落ちる。
そもそも、不可解な点がある。
肉体を喪ったセトが、地上にいるということ。
ホルスの父、オシリスを例に出すのなら。オシリスはかつて、セトによって身体をバラバラに切断された。その身体を全て回収し、イシスとネフティス、そしてアヌビスが力を合わせて復活させた……というものがある。
だが、その身体には足りないパーツがあった。その為オシリスは長く地上に留まることが出来ず、冥界の王となることを決めた。
オシリスでさえ、死した後、地上へと復活するには完全な身体を必要とした。だが、セトはどうだ。ホルスが知らない訳がない。彼自身が、かつてセトの肉体を滅ぼしたのだ。
ぶるりと身体が震える。怯えているのか、とホルスは自問する。いや、そんなはずはない。
ならば、今――、彼女の言葉から推測するならば。
かの神殿には、セトの肉体が在るとでもいうのか?
「私はあの女とは違う!! 私が、私こそが! 彼の隣に立つのに相応しい!!」
アスタルテは高々と叫ぶと槍を跳ね上げるようにし、ホルスの剣を弾き飛ばした。弾かれた剣は何度か円を描いて空を舞い、砂地へと突き刺さる。
「くっ、」
「その羽根で二度と飛べぬよう! もぎ取ってやる!」
機械仕掛けの馬が嘶き、再び跳躍し高度を上げる。アスタルテの槍が狙うのはホルスの背中、神々しい輝きを放つ鷹の羽根。
槍が雷の如く勢いで放たれ、剣を失ったホルスは咄嗟に身を守る為に周囲に風を巻き起こすも、一歩間に合わず。
致命傷こそ避けたが、槍は確実にホルスの片翼を貫き。鮮血が溢れ、数枚抜け落ちた羽根が辺りに散らばる。
「どうした、鷹の王! 貴様の力は、その程度か!」
似たような煽りを返され、腸が煮えくり返るが。
ホルスは唾でも吐きたくなる気分を抑えつつ、残る片翼で出せる可能な限りの速度で滑空し、砂地へと落ちていた剣を引き抜いた。
その際にも、追撃はやってくる。制限の無い弓矢の雨。片翼を負傷した今、迎え撃つならば空ではなく地上だ。
着地するも勢いは殺せず、流れるように滑っていき地面に二本の線を作っていく。漸く踏ん張りがきいた頃には、弓矢の雨は目の前に迫っていた。
ホルスは剣を眼前に構え、防壁を張る術を唱えようとして――、背中に走る激痛に顔を顰めた。先程の一撃が、思ったよりも深い。
悔しさに奥歯を噛み締めたその時、アスタルテの弓矢の雨を弾き返す、もうひとつの大量の矢が現れた。それらは見事に全ての矢を射抜き、弓矢の雨を無力化する。
「――アヌビス!!」
「遅くなった、ホルス! 今より加勢する!」
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