冠の無い王(3)


 王宮に隣接された神殿内に、溶け込むように存在している店がある。出入口には広めのオーニングが設置されており、この国特有の強い日差しを和らげている。窓枠には硝子が嵌められ、店の中は観葉植物などで飾られており、黒で統一されたテーブルセットが並ぶ。

 その外の席で、ネフティスがティーセットを用意し、対面に座るホルスへとカップをひとつ、差し出した。中身はこの国でも馴染みのあるハイビスカスティー。花の香りにホルスは表情を緩ませ、そっと持ち手を指先で摘んだ。


「いつか来てみたかったんです。ご配慮いただき、感謝いたします、叔母上」


 このカフェは、通常ならば王宮で働く者達が利用する場所だ。勿論、人も神も分け隔てなく利用できるのだが、ホルスだけは立場というものがある。密かに憧れていたのだ。

 ネフティスは膝の上で指先を絡めては戻し、照れ臭そうに微笑んだ。


「いつでも、言って頂戴……ホルス。……こんなことで、良いのなら……」


 今回は特別に店を貸切とし、ネフティスとふたりだけのティータイムとなった。普段は大きく賑わうこの場も、今は静かな時を刻んでいる。


「なんでも、店内のインテリアは叔母上が選んだものだとか……」

「そ……、そうなの。私のセンスが良いからって、姉様が……。変、かしら……?」

「いいえ。華美過ぎず、落ち着いた雰囲気がとても素敵です。ここでなら、どんなに忙しく過ごしている者でも、癒されるでしょう」


 ホルスの言葉は、決して世辞などではない。それでもやはりと言うべきか、ネフティスは謙虚に、そして自信なさげに頷くばかり。ホルスが幼い頃からこうなのだから、ある程度は彼女の性格なのだと受け入れるしかない。

 ホルスは母イシスと、叔母ネフティスのふたりに育てられたようなものだ。その頃には父オシリスは不在で、彼女達とホルスは、王座を乗っ取ったセトに追われる身だった。だからこそ、ホルスはネフティスに親しみを持っているし、感謝の念も抱いている。


「叔母上……、こんな話は、したくはないのですが……、申し訳ありません……」


 貴女に疑いを掛けています、と。そう話を切り出すのも、勇気がいる。しかしそんなホルスを見て、まるで大丈夫よと言うように、ネフティスは笑みを絶やさずにいた。ホルスの胸が小さく痛む。しかし務めを果たす為にもホルスはネフティスと向き合い、口を開いた。


「セトが逃げ出したと聞いた時、どう思われたのですか」


 ほんの一瞬、静寂が訪れた。

 ネフティスは顔を俯かせ、声量こそは無いものの、良く通る声でハッキリと応える。


「やっと贖罪の機会が与えられたと、思ったの」


 予想通りの、言葉だった。

 ホルスは無意識のうちに、自らの緑と赤、二つの色を持つ眼で叔母の表情を見る。真実を映すその眼は、ホルスが例え望んでいなくとも、目の前の彼女を天秤に掛けてしまう。


「私は……ずっと、あのひとから逃げてきた。ずっと、ずっとよ……。でも……」


 表情を無くし、独白のように、懺悔のように。

 ネフティスは話を続けていく。


「私はずっと、セトのことが、おそろしかった。血塗れの白い手が、怖かった」


 戦神であるセト。争いを好まぬネフティス。

 その二柱が夫婦となったのは、悲劇とも言えるのかもしれない。


「昔から、ずっとよ。あのひとが、戦に出る度に。私は怯えていた。ただ大人しく帰りを待つ、良き妻でありたかったけれど、出来なかった」


 その言葉にも、偽りはない。

 ホルスは口を挟むことなく、ネフティスの言葉を拾い集めては、彼女を確かめていく。


「だから、兄様……、オシリスの優しさに甘えて、焦がれて……私は彼を、裏切った……」


 ホルスは口を開きかけ、一呼吸、息を飲み込むことで耐えた。

 ホルスの眼は、彼女の嘆きさえも映す。それは、冷たい真水を長時間浴びているかのような。冷たさが激痛に変わるまで、半永久的に続いている、彼女が抱えているもの。そんな姿さえ、ホルスは視えてしまうのだ。――視える、だけだ。


「ずっと、彼から逃げていたわ。怖くて、怖くて、目を背け続けていた。なんて卑怯な女と自分を罵りながら、今までずっと、逃げていたの」


 ネフティスは体を丸め、両腕で自分の体を抱く。寒さを凌ぐかのように。砂漠の国であるこの場は、汗ばむほどの陽気だというのに。


「でも……、もう、逃げられない。私は彼と、向き合わなくちゃ」


 しっかりとした、芯のある言葉。これもまた、偽りなどではない。だが、彼女の心は、天秤は、カタカタと小刻みに震え、揺れ動く。


「逃げては駄目と……、そう言い聞かせているのに……」


 か細い声が、続いたかと思うと。

 ネフティスは頭を左右に振り、秘めた思いを吐き出すように、言葉を続けた。


「私、私は……姉様のように、貴方のように……! 彼と向き合う勇気が出ない、強くなれない……! 今だって、私が彼と会う前に。貴方がセトを捕らえて、監獄に連れ戻してくれたら良いって、思ってるわ。そうすれば、もう、逃げる必要なんてないんだもの……」


「っ、叔母上……」


 まるで慟哭だ。彼女の心は、もう壊れる寸前なのだ。抱え込む業と、葛藤と、矛盾と。それらが組み合わさって、それぞれが別の方向に、容赦なく引き裂こうとしていた。

 ホルスには、どう言葉を投げかけて良いか、わからない。正しきことを言うのであれば、逃げるな、強くあれ、とでも言うのだろうか。もし己が強き王ならば、そう言えるのだろうか。そんなことを考えてしまって、ホルスは拳を強く握り込む。何故自分は、こんなにも無力なのか、と。

 その間は、ほんの短い時間だったと思われる。ゆるりと、ネフティスが頭を持ち上げた。目尻は紅く染まり、睫毛は濡れ。唇は殆ど紫に近い。儚くも見えるその表情のまま、ネフティスは口をちいさく動かした。


「……ごめんなさい、ホルス……。私……」


 声が、途切れる。嗚咽が混じる、一歩手前の、声。

 じくり、と。ホルスの左眼が古傷をえぐるかのように痛み出す。ネフティスの謝罪の言葉を聞いただけで、視界が黒く歪んだ。


「私じゃないわ。セトを逃がしたのは」


 天秤が完全に片方に傾き、そして、その重みで崩壊した。がしゃん、と派手な音が、ホルスの脳内でだけ、響き渡る。


「でも、私が向き合うべき、もうひとつの――」


 ネフティスが完全に言い終える前に、ホルスの全身に悪寒が走る。痛々しいほどの、まるで鋭い槍を口から喉へと突き刺そうとするような、真っ直ぐで強い殺意――。


 黒い影がホルスに飛び掛かる。ホルスは瞬時にベルトに仕込んだ護身用の小剣を引き抜き、襲撃者からの一撃を防いだ。銀色に輝く刃同士が弾かれ、鋭い音を立てる。


「くっ」


 そのまま襲撃者と揉み合いになる。襲撃者の顔は黒い仮面で隠され、ホルスとの体格差は殆ど無い。力は互角のようにも見えたが、ホルスのが若干上回った。揉み合いの末、ホルスは襲撃者の胸部に拳を叩き込み、その体ごと突き飛ばす。

 一瞬、視線が交差する。感情の無い絡繰のようなそれに、既視感を覚えた。襲撃者は勢い余って地面に転がるも手にしたナイフは固く握り締めて離さず、体勢を立て直すと再びホルスへと向かってくる。

 ホルスは冷静に半歩下がり、――己の小剣を地面に捨てた。ホルスの眼は、襲撃者の正体を見破っている。仮面の奥に隠された、冷たき怨嗟の念すらも。

 故に、その一撃を受け入れるかのように、無防備な姿をとった。ホルスがその名前を口にする前に、ネフティスの泣き叫ぶような声が響き渡った。


「やめなさい――アヌビス!!」


 その声に、襲撃者の手が一瞬、止まる――。

 ホルスはそれを見逃さなかった。素早く相手の懐に潜り込み、両肩を強く掴んで突撃の勢いのまま押し込むようにし、片膝で腹部を蹴り上げた。襲撃者はその一撃に耐えきれず、背から倒れ込む。そして、その衝撃で仮面が外れた。からからと音を立てて地を滑っていき、やがて止まる。


「ああ……、そうか、君が……」


 ホルスは乱れた呼吸を整えながら、押し倒したその者の正体を見た。

 その顔は、髪色や目の色が異なるものの、ホルスに良く似た、少年の顔であった。


___


 神の感じる、時の流れに例えるなら。瞬きひとつ前の出来事。

 冥界の奥底、たったひとりの荒神の為に作られた監獄で、格子越しの会話が続く。


「貴方は知っている筈。裏切ったのは、どちらが先か」


 随分と愉快だと言うように。暗いこの地では似合わぬような、慈しみさえ感じられる声が響く。


「だからこそ、我は今ここで問う」


 格子の向こう側。拳を強く握り締め、昏い感情を抑え込んだ声が問い掛ける。


「一体誰が、王になるべきだったのか」


 罪人が嗤う。その問いは愚問であり、今すぐ腹を抱えてしまいたくなるほどのものだ。


「オシリス神は善良なる方だった。だが彼は優し過ぎた。それ故に貴様という弟に裏切られた! そしてオシリス様の実子であるホルス神が仇を討った。だが民衆は何年時が経とうとも彼に冠を授けない! 未熟な王だと罵るだけで」


 格子が激しく音を鳴らす。本来ならば、外に出せと喚くものが掴み、激しく揺らすもの。

 今は、逆。向こう側のものが、まるで縋るように、音を鳴らしている。


「ならばセト神よ、貴様が王位を継いだままでいるべきだったのか? 太陽の敵は全て打ち負かす、圧倒的な力を持つ貴様が」

「おや、貴方はお気付きでない?」


 まるで、幼子が、親に頭を撫でられた時のような。

 もしくは、迷子が、親を見つけた時のような。

 澱んだ瞳の奥に、光が差す。


「なんの、ことだ」

「貴方の話に、足りない事があるという話ですよ」


 ゆるりと、伸ばされた白い手。鎖に繋がれてはいるものの、暗いこの地では美しくも見える。


「教えて差し上げましょうか」


 柔らかい声が、目の奥を熱くさせる。痛む胸を、僅かに癒す。

 その手に縋るように。声に導かれるように。固く閉じられていた格子の門が、開かれる。


「お前も、王たる器となりえる。――そういうことですよ」


 強い風が、赤い髪を揺らした。


 ___


 ホルスは閉じた目を開く。そこに映るのは、やはり自分と良く似た顔。ホルスの髪色は陽の光に照らされたように明るい茶色だが、アヌビスの髪色は獣形態の時と同じく艶やかな黒色。目の色もまた、ホルスの緑と赤とは全く違う、黒曜石を嵌め込んだような輝きを持つ。ただ、今その瞳は酷く澱み、本来の光を喪っている。

 ホルスが何か言い掛ける前に、背を地につけたままだったアヌビスが動いた。両脚を持ち上げ勢い良く下ろし、その反動で上体を起こす。その体の上に乗っていたホルスは退こうとするも、アヌビスに両の手首を捕らえられた。


「我は王の、オシリスの子だ」


 捕まれた手首が熱を持つ。ホルスはただ、アヌビスと見つめ合うしかない。吐き出される言葉が、どんなに重いものでも。彼の天秤が、母ネフティスと同じように、壊れようとしていても。


「だが、母は泣くばかりだ。不貞という罪を裁かれず、我のことも切り捨てることも出来ず。もしも、正しき形で我が産まれていたのなら。母は苦しまずに済んだのか?」


 視界の外で、息を呑む気配がした。

 アヌビスは人型の姿でありながら、犬歯を剥き出しにし、吼えるように言葉を続ける。それは余りにも痛々しい、砂漠に捨てられた哀れな子犬の姿であった。


「もし、父の跡を我が継げたのなら、正しき王になれるのなら、冠の無い未熟な王を、打ち倒せるのなら――!」


 アヌビスの両腕がホルスの体を突き飛ばし、ナイフを構えた手を大きく振り上げる。続く言葉は、予想出来る。

 母を救える筈だ、と。

 銀色の凶器がホルスに迫り来る。だが、彼は目を逸らすことはなかった。だいじょうぶ、そう口を動かす。


「アヌビス!」


 ネフティスの腕が、アヌビスの体を抱き締めたのは、刃がホルスの鼻先に届くか届かないか、その寸前のことだった。


「ごめんなさい、アヌビス……! 貴方をこんなに追い詰めてしまって、ごめんなさい……!」


 ネフティスの両目からは、大粒の涙が流れている。我が子を強く抱き締めた、ただそれだけのことだった。それだけの、ことが。この母子には、ひどく難しいことだった。アヌビスは両目を見開き、息を詰まらせる。直ぐに母の温もりを受け入れることが出来ず、その腕の中で藻掻く。


「離してくれ、母上! 我はもう、戻れない!」

「いいえ、戻れる、戻れるわ! もう私は、貴方から目を背けない……!」


 どちらも引かず、アヌビスが振り回したナイフがネフティスの頬を掠める。紅い血が流れても、ネフティスは我が子を抱く腕の力を緩めない。それに怯んだのか、アヌビスの動きが鈍くなる。山犬の唸り声が、主人に許しを乞うような高音のものに変わる。


「母上、我は、我は……!」

「私は母親を名乗る資格はないと思っていたの。貴方と向き合うのがただ、怖かった……貴方を苦しめるつもりなんて、なかったの……!」


 アヌビスは大きく頭を振る。母の、ネフティスの言葉を聞きたくない、という意味なのか。それとも、母の言葉自体を、否定するものなのか――。


「アヌビス、私をまだ、母と思ってくれるのなら。……いいえ、例えそう思ってくれなくとも――、貴方が傷付くのなら、貴方を守り、貴方を慈しみ、貴方を癒し、貴方を愛します。だからどうか、もう苦しまないで。私に、なんでも相談して……私は、貴方の味方であり続けるから……。

 こんな、当たり前のこと。遅過ぎるかも、しれないけれど。……上手く、出来ないかもしれないけれど……」

「……はは、うえ……」


 からん。

 アヌビスが手にしていたナイフが遂に、地に落ちた。ホルスはそれに視線を向けた後、ふたりの姿を、改めてその両眼に映す。

 天秤がふたつ、均衡を取り戻す。正しき姿を、取り戻す。そんな、母子の姿が、映る。

 ホルスはそれを見て、眩しそうに目を細めた。その口元は、僅かに緩んだものの……、己を厳しく責めるように、下唇を噛む。鼓動が早鐘を打ち、その時はまだだ、と。己に言い聞かせる。

 これで解決などでは無い。


 ホルスは立ち上がると身なりを整え、アヌビスへと近付いた。


「僕が憎い?」


 短い問い掛け。どんな刃物よりも鋭く、冷たいもの、なのかもしれない。すっかり脱力してしまった体をなんとか支え、アヌビスは母の腕の中から抜け出した。膝を着いたまま、ホルスの方へと向き直る。偶然か必然か、太陽はホルスの背にあり、対比するふたりの姿はまさに、光と影のようだった。


「わからない。だがあの時、我は……悪神の声に耳を傾けてしまった……! 故に我は奴を逃してしまった、こんな愚行に身を任せたいが為に!」


 アヌビスは頭を抱え込み、強く目を閉じる。後悔、という簡単な言葉で片付けてはならない、己自身を許してなるものか、という、心からの叫び、祈り。

 ホルスはそれらを全て受け入れ、自らの胸に手を当てた。一定のリズムを刻む、生の証。そして、ホルス自身の感情の波を知らせてくれる場所。

 もう大丈夫。

 ホルスは今一度、その言葉を口にした。


「僕の所へ来てくれてありがとう、アヌビス。君は、裁かれたいんだね」


 がばりと、アヌビスが顔を上げた。その目尻は僅かながら濡れている。

 こんなにも良く似た顔で。呪いのような顔を持って。彼はずっと、未熟な王を支えてくれていた。例え、悪神の声に耳を傾け、愚行に走った事実があったとしても。


「君は君の姿のまま生きて。僕が冠を被るその瞬間を見届けてほしい。それが君への罰だよ」


 ホルスは静かにそう告げた。

 呪いの姿のままでいろと、残酷な言葉を。

 ホルスとアヌビス。イシスとネフティスが良く似た姉妹のように、彼等の顔が似ることも、不思議では無い。何より、父親は共通している。

 無論、これから先も。ホルスはアヌビスを兄とは呼べず、アヌビスはホルスを弟とは呼べぬまま、過ごすこととなるだろう。ホルスが王であるということは、そこに上下関係があってはならない。つまり。

 “冠を被るその瞬間まで見届けろ”というのは、ホルスの優しさのようで、そうではない。ついさっきの出来事のように、余計な手を出すな、という意味だ。お前は王たる器では無いと、暗に告げている。

 どれだけホルスが未熟な王と、その目に映ることがあっても。今まで通りでいてくれという、罰。


「……承知した。我らが王よ。我は、何時いかなる時も、お前の傍らにいると誓おう」


 アヌビスは両手を顔の前で組み、深々と頭を下げた。そして静かに、涙を流す。

 罰を受け入れること。それが、彼等の救いとなる。


「ありがとう、ホルス」


 柔らかな風が、彼等の頬を撫でた。



 ホルスはひとり、王宮内の長い廊下を歩く。

 今回の件。アヌビスの独断ではあったが、ネフティスが自らにも責任があると強く訴えた為、母子共に謹慎処分となった。彼等は今、離宮へと移っている。ホルスは見送ることを望んだが、配下達はそれを許してはくれなかった。未遂で終わったとはいえ、命を狙われたのだ。ここでもまた、王という肩書きに感情の邪魔をされる。

 後は自室へ戻るだけだというのに、足が重たく感じられる。ホルスは徐々に歩く速度を緩め、丁度柱の影を踏むようにして、その場に立ち止まった。


「愉しめましたか?」


 ホルスの歩みが止まることを、知っていたかのように。悪神の声が、聞こえてくる。


「やはり、貴方が原因でしたか。セト」


 柱の向こう側、そこに相手はいると確信し、ホルスは視線を其方へ向ける。


「私はただ、気付かせてやっただけですよ。哀れな墓犬にね」


 姿を隠す気は無いらしく、赤い髪をなびかせながらセトが現れる。その口元はあいも変わらず、笑みを浮かべていた。

 長身のセトと向き合うと、小柄なホルスは自然と彼を見上げる形となる。憎たらしげに眉間に皺を寄せ、殆ど睨むように、ホルスはセトの赤い瞳を見つめた。


「そんな事、しなくたって。彼等は前を向けた。共に手を取り合う事だって、出来た筈だ」

「本当に?」

「……」


 疑問。問い掛け。

 悪神の言葉は、惑わす為にある。例えホルスが、心からそう願い、信じている事であっても。そこに、迷いを生み出す。


「私は、お前を愛しています」


 だからこそ、ホルスは。

 セトのこの言葉さえ、真っ向から否定することが出来ない。


「今後、お前の障壁になるだろうものを、先に排除しとくべきかと思ったんですよ。故に、焚きつけてみたら。あの犬は、あっさりと刃を握った。わかったでしょう、ホルス。お前の周りは、敵だらけだ」


 セトの言葉の通りなのかもしれない。どれだけ信じ、心を砕いた相手だとしても。悪神の囁きに抗えぬ者達ばかりだと、言うのなら。

 ホルスは強く、拳を握る。目の前の優男は、人助けが趣味だというように。そっと、優しく、その白い手のひらを、差し出す。


「怖かったでしょう? もう大丈夫ですよ。お前はそうして、王宮という籠の中で守られていれば良い」


 がちり。

 音が鳴る。ホルスが奥歯を食い縛り、その顎の強さに、歯が耐え切れなくなった為に、鳴り響いた鈍い音だ。


「さあ、私に全てを委ねなさい。お前の敵は、全て私が壊して差しあげましょう」


 悪神の囁きに。白い手に。

 ホルスは抗い、その手を振り払った。鋭い音が響く。


「僕は、僕だけは……貴方の言葉に、惑わされない。絶対に」


 ホルスの声が震えているのは、恐怖からではない。心の底から湧き上がる激情は、怒りや憎しみもある。だがそれ以上に、己の意志を貫こうとする、強い決意がもたらすものが、宿っている。


「アヌビスも、叔母上も……、貴方の言葉に惑わされた被害者だ、だが、彼等は自身の罪と今まさに、向き合おうとしている! 僕は、彼等を敵とは思わない! 貴方には……騙されない……!」


 ホルスの色の異なる眼が、焔を灯したかのように輝いた。優しき緑と、苛烈な赤。ホルスの魂そのものが、その眼に宿ったかのようだった。

 ふ、と。セトはそんな姿のホルスを見て。今迄の笑みとは違う、例えるならば、そう。酒の味に、満足したような。空気を含んだ、笑みを零す。


「残念だ。お前と手を取り合ってみたかった」


 その言葉は、偽りだ。ホルスはそれを知っている。

 彼の真実の眼は、見抜いている――、セトは本当に、“嬉しそうに”しているということを。


「貴方を今度こそ殺せと、母に言われました」


 告げるべきだと思った言葉を紡ぐ。

 冷えた空気になる筈の言葉。ホルスという善の神が、向けるべきでは無い殺意と呼べるもの。


「僕も、そのつもりです」


 こんな言葉を使うのなら、表情は厳しくなるものだ。本来ならば。だというのに、ホルスは、笑みを返してみせた。煽るようなものではなく、それは、驚くほど穏やかなもの。


「ふふ」


 その笑みを見て、セトは何を思うのか。

 少しだけ声を出して笑い、ゆるりとした手つきで自らの胸の中央に指を這わせた。


「どうぞ、この胸に。貴方の刃を」


 その言葉を最後に熱風が吹き荒れ、舞い上がった砂塵がセトの体を隠した。次にホルスが目を開いた時には、そこにはもう、セトの姿は無かった。


 ホルスは自らの胸に手を当てる。

 彼が指した、胸の跡。その仕草だけで。

 躰の中心に、熱が篭もる。


 それは確かに、愛という感情が起こす、熱だった。

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