拝啓 親愛なるおとうさん様

みつば

拝啓 親愛なるおとうさん様

この街『幸咲街』≪さちざきまち≫には”ループ”という超常現象が日常的に起こる。そこは日本のどこかに存在する独立都市だ。

──誰もが生きやすい世界を。

を実現する為に幸咲街には表と裏の顔が存在する。そんな二面性があるのが幸咲街の特徴だ。


表の幸咲街は”安穏”≪あんのん≫という住民の安心安全を守るエリート組織が機能する平和と秩序の街。

裏の幸咲街には法がない。自由と快楽が蔓延る実力主義の街だ。表と裏、自分の生きやすい世界を選び、幸咲の住民は生活している。


さて、ループとは何か。

一言で言えばなんでもありの超常現象だ。

それを幸咲の住民は受け入れて生活している。そしてこの超常現象に慣れた。そのくらい日常的に様々な現象が起こるのだ。晴れていたのに突然雨が降り出す。そのくらいには日常的な超常現象。

人の心の声が聞こえたとか、同じ日が何度も続いたとか、空から宝石が降ってきたなどなどたくさんだ。宝石なんてものが頭上に落ちてきたら大惨事だ。だがそれが幸咲街が幸咲街である前から今に至るまで続いていた。流石にもはや日常だ。「またか」という感覚である。「今日はこれか」である。天気予報を観るのと同じ感覚。

昔の人は同じ日が何度も続いたことからこの超常現象に”ループ”という愛称をつけた。それがループという名の超常現象だ。正式名称は幻想未知的超常現象≪げんそうみちてきちょうじょうげんしょう≫。うん、長い。皆が、幸咲街以外では起こらないこの不可思議な現象をループと呼ぶ。


そのループが今、少女の前で起きていた。

彼女の名は、コードネーム『ソワン』という。


──

ソワンは裏の住民だった。最近表に家ができた。家族で過ごす為の大きな家だ。ソワンは仕事を終えて家族の待つその家に帰る、はずだった。しかし目の前に広がるのはソワンの知っている街並みではなかった。

「ここは……?」

ソワンは現在一人。それでもこぼれてしまう一人ごと。その位訳の分からない状況。ソワンは今、裏での仕事を終えて表へと帰る為に梯子を登り終えた所だ。

幸咲は表は地上、裏は地下にそれぞれ独自の世界が存在する。裏で仕事を終え、梯子を登って表へ出て住宅地へと続く道を少し歩けば家はすぐそこだ。裏で仕事をし、表の家へと帰る毎日のサイクル。仕事へのアクセスの良さを考えて今の家を買った。


ソワンはキョロキョロと周りを見る。が、しかし。いくら周りを見ても、ここは”幸咲街ではない”。正確にはソワンの知っている幸咲街ではない。

表は木組みの家が多く、ガラス張りのビルなどもあり現代的な印象がある。明るくて賑やかで優しい。そんなお祭り好きな住民の居住区。

ここは、どちらかというと裏に近いかもしれない。

空のない地下である裏の世界はごちゃごちゃとした屋台がずらーっと並んでいる。そんな中、中世のような洋館が立ち並ぶのだ。オレンジに染まる提灯の灯りと、がやがやした雰囲気。天井に向かって続く階段の先には社がある。その周りは一段とオレンジだ。

しかし、ここは裏でもないのだ。なぜならソワンは表へと繋がる梯子を確かに登り終えたのだから。

ここはいわゆる和風ファンタジーのような世界観に見える。レンガ造りの家に、怪しい提灯が至る所にある。このお祭りを連想させる部分は裏と同じだ。しかし、決定的に違うこと。それは。ここには空がある。雲が流れている。でも不思議なことに空には太陽も月もない。紫色の照明が辺りを照らすのみ。やはり慣れ親しんだ裏の世界ではなかった。

「ゾディ……?」

ソワンは仕事を共にこなす女性の名前を口にする。ソワンはまだ十七歳。生きる為に仕事をするしかなかったが、まだ大人ではない。いつも共に居てくれる女性、ソワンの言うゾディ、すなわちコードネーム”ゾディアック”がいない心細さが全身を駆け巡る。とりあえず一歩、また一歩とこのよく分からない街を進んでみている。あまり広くはないようだ。

不安に覆われた心が悲鳴を上げている。今にも泣き出したいくらいだ。ここは一体どこなのだろう。

ソワンは気が弱かった。実力主義の裏で生きるには優しすぎるくらい、繊細で。

だからこそ、”ここに迷い込んでしまった”。


「お嬢さん」

びくっと身体が強ばる。ソワンは声のした方向に顔を向ける。ギギギと錆ついた絡繰が音を立てて動くようなぎこちなさでゆっくりと。すると。

「お嬢さん」とまた声がした。女性の声だ。錆びついた首を回し終え、やっと振り返ったソワンの目の前には女性の姿。キッチンカーがあった。その中でカウンターに肘をついて頬杖をつく怪しい雰囲気の女性だ。赤い瞳がこちらを見ている。

「……っ!!」

声にならない音。怯えるソワンに「あなたですよ」と女性の口元が弧を描き怪しく微笑む。

進んだことで先程まで見えていなかったキッチンカーが現れていたのだ。女性はそのキッチンカーの中の椅子に座っている。

「ル、ループですか……?」

現状がよく分からないソワンの口から出た言葉はそんな言葉だった。か細くて今にも消え入りそうな声でかろうじて質問するソワン。ゾディアックが傍にいないことがこの上なく心細い。

「はい。そうかもしれませんね」

「?」

「私の目の前に突然現れたのはお嬢さんの方ですから」

それはソワンにとっても同じだ。そうだ!とソワンは思い出す。

「ゾディに連絡して…っ」

とにかくこの訳の分からないこの場所に知らない人(怪しい)と二人は心細い。と言うか正直怖い。ソワンの小動物並みの警戒心は危険信号を鳴らしている。すぐに携帯端末をポケットから取り出すとアドレス帳を開き、『ゾディ』と登録された欄を指でタップする。しばらくしてコール音が続く。プルルルルル、プルルルルル……。

「おかけになった電話番号はただいま電波の届かな……」

「え、そんな……」

諦めるにはまだ少し早い。だがしかし。不運なことにメッセージアプリを起動してメッセージを送ってみても送信されることはなかった。

「……詰みました」

呆然と遠くを見つめるソワン。今できることはそのくらいだろうか。

「端末は使えませんよ。お嬢さんはここでは”よそ者”なんですから」

「へ?」

「ここは幸咲であってあなたの知る幸咲でない場所ですから」

「それってどういうことですか?」

「幸咲にはループが起こること知っていますか?」

「はい」

幸咲街という大きな括りの中には無数の世界が存在することをその女性は教えてくれた。

「それがループによって『お嬢さんのいる幸咲街の世界』と『私のいる幸咲街の世界』が交わった、という所でしょうか」

二つの交わらない世界がループが起きたことで干渉してしまった、ということらしい。何とも難しい話だ。しかしループが存在する以上驚くような事でもない。何故って?ループはなんでもありだからだ。

「起こるループの数だけ超常現象があって、同じだけ世界がある、ということです」

「私はここでは、よそ者、なんですよね?」

「はい」と女性は笑顔で答える。確かにここはソワンの知っている幸咲街ではない。表でも、似ているが裏でもない。女性の話に納得するしかなかった。

「ここはどこなんですか?」

「幸咲ですよ」

「……そうですか……」

あっけらかんと答える女性にずーんと肩を落とし落ち込むソワン。期待していた情報ではなかったのだ。

「どうやったら元の世界に帰れるんでしょうか……」

ソワンはへたりとその場に力なくしゃがみこむ。足の力が抜けてしまった。腰から下に向かって花開くようなフリルのついたピンクのワンピースドレスと、ふわふわとした色素の薄いクリアな長い髪が地面に広がる。

「汚れてしまいますよ。お嬢さん」

女性は心配するように椅子から腰を浮かしキッチンカーのカウンターに手をつくと下を覗き込む。

「ううう……」

もう一度ループが起きれば戻れるだろうか?いや確証はない。ループは気まぐれなのだ。

「ゾディ……」

口にしたのはいつも行動を共にする仕事仲間であり、家族である人の名前。今にも泣きだしてしまいそうなソワンを見て女性は困ったような笑みを浮かべては、キッチンカーからこちらへと降りてくる。しゃがみ込むソワンの傍にしゃがんだ。

「お嬢さんお名前は?」

「え?」

すっと顔を上げるソワン。

「私は結≪むすび≫といいます。お嬢さんのお名前はなんですか?」

「……コードネーム、ソワンです」

「ソワンさん、ですね」

コードネーム。ソワンがゾディアックと共に裏で仕事をしている時に使用する偽名だ。仕事内容は自由。好きに仕事をとってきて、成功すれば依頼金が入るシステムだ。依頼として指名された仕事を引き受けることもある。

ソワンとゾディアックは『ombre』≪オンブル≫という異能力持ちが集まる裏の組織に所属している。異能力は"コード"という。とある方に認められれば心臓を核に魔法陣が刻まれ、与えられた異能力を扱うことができる。ombreは、またはその系統のコード使いの集う組織はその超能力を使って依頼をこなす。

依頼はソワンがとってきてゾディアックとともにこなす。ゾディアックは剣の扱いに長けている。敵を一掃するのが得意。ソワンはコードを使ってゾディアックをサポートすることが多い。

「ソワンさんは早く帰りたい、ですよね?」

「はい……」

「でもどうすれば良いのか……」とソワンは俯く。ソワンの使うコードではこの世界から抜け出すことは出来ない。

「簡単ですよ」

結の声は明るかった。またもやあっけらかんとした口調。

「え?」

「ソワンさんのような方がよくここに迷い込むんです」

「そう、なんですか?」

僅かに顔を上げるソワン。「はい」と結は答える。


「ここには強い想いを抱えている人しか迷い込めないんです」

「私はここで生活しているのでよくソワンさんのような方と話すんですよ?」と結は口元に人差し指を当てて笑みを浮かべる。

「ここは手紙の街なんです」

「手紙の?」

「はい」と結は静かに頷く。そのまま説明を続ける。

「幸咲街の中のどこかの区域、”便”≪たより≫という地区です」

「知らない名前の地区です」

「そうでしょう?」と結は声を上げて楽しそうに笑った。「私ともう一人とで付けた地区名なんですよ?」と結は説明してくれた。

「私は表とか裏とか分かれてる幸咲は見たことないです」

「なんで、見たこともないのに知ってるんですか?」

「この世界で少しだけ。手紙で、やり取りをした人がソワンさんの世界の人だったんです」

その人もよそ者だったらしい。

「手紙で?」

きょとんと首を傾げるソワン。ここに迷い込んだのなら目の前にその人はいたはずだ。それでも手紙のやりとりをしたらしい。結はそっと胸に手を当てる。とても大切な思い出を思い出すように。

「その方も、ソワンさんと同じようにここに迷い込んだ人でした」

結が初めて異世界の住民と知り合った人物。試行錯誤の末に元の世界に帰る方法を一緒に探したのだという。

「その期間に少しだけ、手紙のやり取りをしました」

結はキッチンカーの中へと視線を向ける。中の机の上には何通かの封筒が置いてある。ソワンが来る前に読み返していたのだろう。封が開いているものがある。

結は優しくあたたかい表情をしていた。胸に当てた手をそっと下へ撫で下ろす。耳も頬も桜色に染まっていた。

「好き、だったんですか?」

ソワンは恐る恐る質問する。そうすると「……はい、きっと」と結は優しく笑った。


「「もう一度──」」

ソワンと結の声が重なる。

「‼」

ソワンと言葉が重なったことに結は驚いたような声を上げた。

「もう一度、言葉を交わしたいんですよね?」

「……ええ」

「私に、元の世界へと帰る方法を教えて下さいませんか?」

試行錯誤して、その人とはもう会えないのならその人物はもう元の世界に帰ったのかもそれない。

「もちろんいいですよ」

結はにっこりと笑い、首を傾けて笑った。明るい紫色の肩くらいの長さの髪がさらりと揺れる。

「ここには──」

「待ってください」

結が説明しようとした言葉をソワンが遮る。

「帰り方が知りたいのではなかったのですか?」

きょとんと目を丸くする結。

「それでは駄目です」

「私にだけ利があり過ぎます」と続けた。

「と、いいますと?」

「依頼にしませんか?」

「依頼?」

「ombreでは対価に見合った働きを返します」

「依頼主はソワンさんということになりませんか?」

「はい。そうなります」

ソワンはこくりとゆっくり頷いた。

「生憎、私はお金をとってここに迷い込んだ人達に帰り方を教える商売はしていませんよ?この世界はお金も必要ありませんし」

「ここ、都合いいんです」と笑う。

「私が対価を払いたいんです」

「え?」

ソワンはまだまだ少女だ。しかし生きる為には働かなければならなかった。運良くombreに出会い、そのombreの長から紹介されたゾディアックと組むことが出来なければここにはきっといなかっただろう。

「ただで教わるなんて出来ません。私もこれでもちゃんと働いているんです。対価の価値くらい、分かります」

「と、いいますと?」

ソワンの返したいという気持ちを汲み取ってくれた結。

「元の世界への帰り方の対価に、その想い人を私が見つけます」

「!!」

息を吸うように驚く結。でも開きかけた口を閉じようとして。「でも」と続けた。

「あなたがその人を探してくれても、その人をここに連れてくるのは不可能ですよ」

「どうしてですか?」

「ここには手紙に強い想いを抱いた人でなければ来ることはできないからです」

そう言い切る結。過去に導いた人がきっとそうだったのだろう。

「そうなんですね……」

しょぼんと肩を落とすソワン。

「なので、お気持ちだけいただきますね」

「なら!」

「?」

「お手紙書いて下さい。私がそれを届けますから」

胸に手を当てて真っ直ぐ結を見るソワン。結は面食らったような表情をしたが、ふっと笑顔を浮かべる。

「お返事、まだだったんです」とふんわり笑った。


──

「元の世界に帰る前に私とお話をしましょう」

そう言う結にソワンは「ん?」と疑問を示す。

「どうしてですか?」

結は答える。強い想いを抱くほどの手紙を受け取った人が、そのお返事を書くことで帰る条件が満たされるのだと教えてくれた。

「あなたにもあるんじゃないですか?嬉しかったこと、胸がきゅっと苦しくなるようなやりとり。強い想い入れのある大切な手紙のやりとりが」

「あ……」

「あります」と答えようとして、それは声にならなかった。代わりにでた言葉は

「分かりません」

そんな言葉だった。

「ソワンさんはまだその強い想いに向き合いきれていないのですね」

「……はい」

軽く下を向くソワン。結はソワンの手を取るとゆっくりと上下させた。

「なら、尚更私とお話しましょう」

「付き合って下さるんですか?」

「ええ。もちろんですとも」

にっこりと笑う結。ソワンは問う。

「なんで、そこまでして下さるんですか?」

「私はただここに迷い込んだよそ者です」と言うソワン。「別に大した理由はありませんよ」と結はソワンの手を離すとゆっくりと立ち上がった。

「他にやることが無いからです」

「え?」

「ここ、私しか住民居ませんから」

辺りを見回してみるソワン。確かに人の気配が見当たらない。怪しい紫色の光が辺りを照らし、レンガで出来た家はたくさんあるが、それでもこの狭い世界に人は見つけられなかった。

「ここは、私が作り出した私だけの世界なんです」

「結さんの……?」

「ええ」

「高校を卒業した頃からこの世界にいました」

「どうして世界が複数あることに気がついたんですか?それを何故、受け入れられたんですか?」

ソワンの問いに「んー」と言葉を探す結。

「私も一度他の世界にいた記憶があるからです」

「生まれ落ちたのが便ではないんです」というと続ける。「私は文字を覚えてから手紙が大好きになりました」と語る結。

相手を想い、心で感じ、言葉を選ぶ。届くまでの心のソワソワ、手元に残る想いの結晶。

「そんな手紙が好きでした」

だから、と紡ぐ。

「この世界が出来てこの世界に一人取り残されても未練なんか……ありませんでした」

大好きに囲まれた自分だけの世界を生み出した。きっとそれもループが関係しているのだろう。

「なるほど」

「だから他にやること、ないんです」

爽やかに笑って見せる結。ソワンもつられて表情が和らぐ。

「じゃあ、私の昔話に付き合ってもらってもいいですか?」

「長ーい昔話です」とソワンは言う。結はにっこりと笑う。

「もちろんです」

結はキッチンカーの方へと戻っていく。カウンターの奥の椅子、元いた定位置に腰かけると、ポンポンと隣の椅子を優しく叩く。隣に座れ、ということらしい。

「お茶でもしながら話しましょう」

「何がいいですか?」とキッチンカーに積まれている小さな冷蔵庫を開けている。ここに一人しか居なくても衣食住はなんとかなるらしい。流石、自分の世界。流石、ループ。なんでもありのご都合展開だ。


「では、紅茶はありますか?」

そう言いながらソワンはそーっと促された椅子にこじんまりと座る。

「ありますよー」と結は紅茶を準備し始める。

ソワンは思った。

結がここへ迷い込んだ人の手助けをしているのは、確かに時間を持て余しているからかもしれない。

けれど。

初めて出会った好きな人との思い出を、それを忘れたくなくて、繰り返し思い出しているのかもしれない。そう思った。

「はい、紅茶です」

結はソワンの前にカップを置く。「ありがとうございます」とお礼を言った。

「何から話しましょう」とソワンはクスっと笑う。「では」と続けた。

「まずは、私の大切な人。私のおかあさんのような存在でありpartenaire≪パルトネール≫……あ、仕事仲間です。仕事仲間のゾディのことと、おとうさんの話から──」

ソワンは今の家族がまだ家族になる前の話から始めることにした。


──

ゾディアックとは裏で酷使されていたソワンを拾った今の職場であるombreの長に紹介されて出会った。ゾディアックは面倒見が良く、まだ当時十五歳の少女であるソワンをpartenaireとして受け入れてくれた。ombreの長に救われ、ゾディアックと共に生活するようになってから奴隷のような生活が一変した。血は流れないし痛くもない。食べ物や飲み物にも困らなくなった。”人として”扱って貰えた。


ゾディアックと生活するようになってから二年が経過した。変わることの無い穏やかな日常。時に仕事で剣を抜くこともあるが、歴戦の騎士であるゾディアックがいた為、生命の危険はなかった。


そんな生活にも変化は起きていた。ゾディアックに言い寄る男性が現れたのだ。

ゾディアックは美しい容姿をしていた。肩あたりでバッサリ切られた真っ直ぐな青い髪。切長な目にメリハリのある身体。右目にモノクルをしているのが特徴だ。いつもステッキに見せかけた隠し武器である刀を得物として身につけている。

「ゾディアックさんこんばんは」

仕事に向かう途中の道でゾディアックとソワンはその男性、静寂啓明≪しじまけいめい≫に声を掛けられる。ぴたっと歩みを止めるゾディアック。それに合わせてソワンも足を止めた。

「今日もお仕事ですか?」

「ああ。そうだが」

啓明の質問にゾディアックは淡々と答える。「お忙しいですねー!」と啓明は続けた。

「今日は何のお仕事なんですか?あ、守秘義務とかあります?それなら無理に話さなくても大丈夫なんで!」

「はあ」

『静寂』という苗字にしてはよく喋る人だなとソワンは思った。それよりも気になったのは

「ゾディ、時間が……」

「ああ、そうだな」

ゾディアックは軽く髪をかきあげる。「そろそろ仕事の時間が近いので失礼するよ」と言うと啓明の前を歩き出す。ぽてぽてとソワンも後に続いた。

「ゾディアックさんでも時間、気にするんですね」

啓明が驚いたような表情でそんなことを口にする。

「ゾディアックさんには”時間なんて関係ない”のに」

ぴたっとゾディアックが歩みを止める。興味深そうに口元に笑みを浮かべると、ゆっくり振り返っては啓明の方に視線を向ける。

「私のこと、調べたのかな?」

「はい、もちろんです。好きになった人のことですから」

「知りたいの、当然です」と爽やかに笑う啓明。人懐っこい笑みだ。

「『時間』と『加速』の二つのコードを操る騎士様、ですよね」

ある方から認められれば得ることのできる異能力、コード。人の持てるコードはせいぜい一つが限度。しかしゾディアックは二つのコードに耐性があった。

「時間を止めたり、自らや味方の攻撃を加速させたり、逆に相手を減速させる戦闘スタイル。初めて見た時は痺れました!」

啓明は純粋な好意を向けてくる。

「私が強者だから興味があるのかな?」

「いえ、違います」

啓明ははにかむように笑うも、真っ直ぐに言葉を、好意を伝えてくる。

「一目惚れです!」

「ふむ、そうか」

しかしゾディアックは鈍かった。

「(こんなにも好意を全開でぶつけているのに頬一つ染めないなんて、流石ゾディ、鈍感さんです)」

ソワンがそんなことを思っているとゾディアックも口を開く。啓明もさほど気にしてはいない様子だ。伝わるまで伝える。そんなことを思っているのだろう。

「私もお前のことを調べたよ」

「ホントですか!」

やっと自分を認識してくれたのだと、それが啓明には嬉しく感じたようだ。

「Hirundapus caudacutus ≪ヒルンダプス・カウダクトゥス≫通称”ツバメ”」

幸咲の隣町、繋留町。歴史的な建造物が多くどちらかと言うと自然が多い小さい静かな町だ。

「本当に調べてくれたんですね」

「よく会うからな」

よく会うのではない。啓明は時間を作って会いに来てるのだ。ゾディアックを落とすために……。

「ヒルンダプス……長いな、ツバメの戦闘員だろう?」

幸咲街でいう”安穏”≪あんのん≫が繋留町でいう”ツバメ”という立ち位置となる。どちらも街の為に仕事をする公務員だ。啓明の部署はレスキュー課。

「長いなって、ゾディアックさんのコードネームだって長いじゃないですかー」

けらけらと楽しそうに笑う啓明。「ね?」と優しい声を出す。

「les signos du zodiaque≪レ シーニュ ドゥ ゾディアック≫さん」

「そこまで知っているとは私も有名になったものだな。なあソワン」

「……はい?」

急に話を振られたこともあり、返事に困って変なイントネーションになってしまった。

「ゾディ、時間が」

「おお、そうだったな」

ソワンがもう一度告げるとゾディアックは思い出したというようにそう答えた。ひらりと衣装をたなびかせては悠々と歩き出す。右手を上げて合図する。

「では私達は仕事へ行ってくる」

「行ってらっしゃい!ゾディアックさん。そっちの子はソワンちゃん、だよね?」

「!」

まさか自分のことまで調べているとは思っていなくて息を吸うような変な声が出た。

「行ってらっしゃい。頑張ってね」

ひらひらと手を振ってくれる啓明。ソワンは咄嗟に一礼すると既に前を歩いていたゾディアックに小走りで追いつく。

ソワンは表で生きた期間が短い。裏では仕事などの事務的な事はできるが、基本的には極度の人見知りだ。コミュ障と言っても良い。

「あ」

とゾディアックが何かを思い出したような声を上げる。

「?」

「?」

背中を追いかけていたソワンと背中を見送っていた啓明がきょとんとした顔をする。

「よく会う仲だ」とゾディアックは前置きする。

「私のファンの君が少し気になった。今度、茶でも飲みながら話てみないか?」

「!」

「いいんですか!」と啓明は食い入るように身を乗り出す。それにゾディアックは「ああ。良いとも」と頷く。ソワンだけが口をあんぐり開けていた。

「これを機に、お前さんから私達に依頼が来るかもしれんしな。縁は大事にせねば」

「ビジネスでも持ちつ持たれつと行こう。ツバメの”明鏡止水”静寂啓明殿」

「はい!今はそれで十分です!」

「いずれ落としてみせますから!」と胸に拳を当ててカラッと笑って見せた。

「私達の仕事受け付け用の携帯番号は知っているか?」

「はい!もちろんです!」

ゾディアックもソワンもその携帯端末に依頼が来る。啓明は「そこに連絡したらゾディアックさんと繋がるかもしれないと思って既に登録してあります!」と下心を隠さずに伝える。いっそ清々しい。

「出るのはソワンだ」

そんな啓明を一蹴するゾディアック。「そんな気はしてました!」と笑う啓明。

「頼むからストーカーにだけはなるなよ?私に切られたいなら話は別だが」

したり顔でゾディアックはそんな事を言う。その、いつもは見せない表情にズキューン!と効果音が鳴りそうな啓明の反応。ばっちりハートを撃ち抜かれたらしい。

「本望かもしれません……」

そんな啓明を華麗にスルーしてゾディアックはソワンを見据える。

「今度茶をするからな。あいつの電話番号を登録しておいてほしい」

依頼用携帯端末に啓明の番号を登録したいらしい。

「ゾディがいいならいいですが」

「何があっても私には勝てんさ。安心して良い」

依頼用携帯端末は仕事をとってくるソワンが管理している。ソワンは携帯端末を持って啓明に近づく。仕事なら人見知りはしないのがソワンだ。それに傍にゾディアックもいる。

「……番号、教えて貰ってもいいですか?」

恐る恐る口にすると、啓明は優しく目線を合わせるように屈む。携帯端末の画面を操作して番号を見せる啓明。ソワンは素早く画面をなぞって番号を登録する。

「ばっちりプライベート用携帯です!」と自信満々に告げる啓明。

「ではまた後日会おう。静寂殿」

またも華麗にスルーして啓明と分かれる。


「一歩前進、かな」

残された啓明は登録済みの番号を見てはそんなことを独りごちるのだった。


────

お茶会当日。お互いのスケジュールと相談して決めた今日の時間。ソワンは不思議と緊張していなかった。依頼相手と話す感覚に近いのかもしれない。

普段”表”では人見知りの激しいソワンだが、啓明には不思議な温かさを感じていた。心地が良いのだ。

何度かゾディアックの前に姿を現した啓明。ゾディアックに対する恋心は優しく素直で温かい。しかし、啓明はソワンにも同じ対応をとってくる。下心には忠実だが、人によって態度を変えないその姿勢に、好感が持てたのもあるだろう。


午前十時。ゾディアックの行きつけの喫茶店にて待ち合わせ。

「十時ぴったりですね」

時計の針は十時丁度を示している。啓明はその時間よりも早く来ていたようだ。

「時間のコードを司る者でな」

ゾディアックは淡々と答える。「そういうお前は早いのだな」と少しだけ笑う。

「早く会いたくて」

そう答えた啓明は人懐っこく笑った。


立ち話も何なので三人は店内へ入る。「何名様ですか?」と問う新人らしき店員さんに「三名」とゾディアックは答える。

案内されたのは窓際の角の席。日差しが適度に入るゾディアックの好きな席だ。

「へえ。ここ、本が置いてあるんですね」

啓明は置かれている本を一冊手に取る。ミステリーものの文庫本だ。ペラペラとページをめくっている。

「なかなか良いだろう?」

ゾディアックもしたり顔だ。それに「はい!」と啓明も頷く。ソワンは落ち着かない様子で指と指を絡ませてはソワソワしていた。

「さて。今日はお茶会にお誘いいただいてありがとうございます」

「私のファンなのだろう?少しはファンサというものをしてみようと思ってな」

「嬉しいです」

「それで」と啓明は続ける。

「それで俺、今日あなたに伝えたいことがあって」

「あ」

ソワンは思った。ちゃんとこの人は本気なのだと。真摯で真っ直ぐな瞳はしっかりとゾディアックを捉えている。

「俺──」

あなたのことが好きです。きっかけは──

そう切り出そうとする。しかしそれは言葉になる前に散ることになる。

「私、見合いがあるんだ」

「……え」

「え?」

ガツンとくるワードだったのだと思う。ソワンですら聞いていなかった情報だ。自らの想いを口にする前に切り出されたそのセリフに啓明は言葉を失った。

「み、見合い、ですか」

「ああ」

ソワンは気づいた。ソワンに、そして自分のファンだと思っている啓明にその事実を伝える為に今日この場を設けたのだと。

「お前は私のことを調べただろうが、それでも全てではないだろう」

「お前は運がいいな」とゾディアックは笑う。

「タイミングが良い。私がこれを話そうと思ったのはソワンとお前くらいだ」

「なんでだろうな」とまた笑った。

「(ゾディ……もしかしてこの人の気持ちに気づいて……?)」

ゾディアックは多くの物事に踏み込まない。器が大きく、大抵のことを受け止めてくれる。それを少し鈍感な所があると思い込んでいた。いや、少しはそういう所はあるのだろうが。

この二年ですら知らないゾディアックが見える。ソワンよりゾディアックと居る期間の短い啓明は尚更だろう。ゾディアックは自分のことは語らない。

「これから話すのは私の家のことだ」

「今までは隠していたんだが」と前置きする。ソワンにも隠し事がしたくてしていたのではない。”素性”を隠していたのだ。

ゾディアックはメニュー表を開く。「飲み物がきてからゆっくり話そう」そう言ってコーヒーを指差して選択する。

「俺もコーヒーで。ソワンちゃんはどうする?」

「え?」

啓明は既に話を聞く準備が出来ているらしい。肝の据わった人だと思った。いや、”受け入れる準備"をしたのだろう。

「飲み物にする?お腹は空いてない?」

「え、いや……」

「あれ?距離詰めすぎちゃいましたかね?」

少し眉を下げて代わりにゾディアックに問う。

「ソワンは仕事以外では他人と話すのが苦手でな」

「ああ。そうだったんですね」と啓明は笑う。「ゆっくりでいいよ」と言葉を付け足した。大丈夫だと思ったのに、とソワンはきゅっとフリルの多いスカートを握る。すっと息を吸って少しだけ顔を上げる。

「私……」

「ん?」

優しく聞き返してくれる。喋りやすいように促してくれる。それに安心したのかソワンが口を開く。

「カフェ、初めてで……」

恐る恐る口にするソワン。「そうなんだ」と啓明は少し驚く。しかし変わらず優しい口調で続ける。

「決められない感じ?」

「……はい」

「ソワンは仕事以外はずっと家にいるんだ。人が多い所も苦手でな。ここは比較的人の少ない穴場で、一人じゃないから大丈夫だと思ったんだがな。まだ少し早かったか」

「んー」と啓明は顎に手を当てて考える。

「じゃあ俺たちとお揃いでコーヒーにする?」

「あ」

「ソワンはブラックコーヒーは飲めたか?」

「……いえ」

砂糖とミルクを入れるか聞こうと思ったが啓明はソワンの視線に気づく。

「クリームソーダは?」

「え?」

「女の子、好きかなって思って」

にこっと笑う啓明。ソワンがメニュー表を見る時にクリームソーダの写真を見ていたのを見逃さなかった。

「じゃ、じゃあそれで……!」

「うん」

そういうと啓明は近くにいた店員さんを呼んで三人分の注文をする。

「じゃあ飲み物がきたら話そうか」

ゾディアックのその言葉から注文した飲み物がくるまでにそう時間はかからなかった。


──

ソワンはクリームソーダを一口ストローで吸い込む。シュワシュワ、パチパチの感覚がソワンにとっては新しい。爽やかなメロンソーダの甘みとバニラアイスの濃厚な甘みが溶け合っている。アクセントの真っ赤なチェリーが可愛らしい。

「私の家は長庚≪ゆうずつ≫と言ってな。昔から剣の道に触れてきた歴史のある家だ」

「ユウズツ!?」

「?」

ピンときていないソワンと対照的に啓明は驚いたようにゾディアックの言った言葉を繰り返す。「幸咲じゃ有名な家ですよね」と思考をまとめている。

「隣町にお住いなのにユウズツを知っているんですか?」

ソワンの質問に「うん」と啓明は頷く。その後にあれ?と首を捻る。

「幸咲史でやらない?」

幸咲史とは幸咲の歴史をまとめた歴史の授業だ。中学校から習い始める。

「えっと……」

「ソワンは訳あって学校に通っていなくてだな」

「そうなんですね」

啓明はそう穏やかに飲み込むと「幸咲の歴史の授業だよ。それで出てくる有名なお家なんだ」と噛み砕いて説明した。

「ほへー。そうなんですね」

難しいことはよく分からないがゾディアックが凄い家の人だということは分かった。

「幸咲が幸咲になる前から剣技を極めていた凄い家」とさらに情報を教えてくれた。ソワンはそれにうんうんと大きく頷いている。


幸咲では武器所持が許可されている。基本的には自衛の為だが、幸咲には表と裏の顔がある。表は平和で秩序ある街。裏は自由と快楽の実力主義。

少し前に、表のトップと裏のトップが対面したらしい。場所は日の暮れた公園。それまでは表でも好き勝手する裏の行動に安穏は参っていた。偶然にもトップ同士の対面。そこで前安穏リーダーは裏のトップ、”カレノ”の長に『裏では自由にしていい代わりに表では表のルールに従って欲しい』と告げる。ならば、実力で示せば呑んでもいいとなったらしい。物分かりの良さに驚く前安穏リーダー。しかしすぐに納得することになる。なぜなら、カレノの長は既に泥酔していたから……。

酔って思考回路も実力も低迷していたカレノの長に前安穏リーダーは圧勝だった。それで表では平和が保たれるようになりつつあるとのことだ。カレノの長は妻に回収され、その妻が条約を呑んだ。呆れた様子で連れ帰られたとどこかの情報サイトで見た事がある啓明。それでも裏の住民は自由だ。表でも裏と同じ行動をする人もいる。当然だ。条約一つで全て解決できる訳ではない。その為の安穏だ。そのような裏の住民から武力のない表の住民を守るのも仕事の一つだ。しかし、安穏も手の届く範囲しか守れない。そんな人が自衛する為に幸咲では武器所持が許可されていた。

あとは、それを取り締まる安穏の存在も大きいだろう。安穏は上記した通り住民の安心安全の為に戦闘することがある。戦闘員は安穏の花形だ。憧れ、目指す人も多い。その為に武力を磨く習い事があるくらいには。なりたくてなれる安穏ではないのだが。

「安穏の花形である戦闘員を目指す人は多くいる。私の家の道場にもそれなりに人は来る」

「だがな」とゾディアックはコーヒーを一口、口に含む。ゆっくりと飲み込んだ。

「今は様々な武器が存在するだろう?それだけ刀を選ぶ人も減るんだ。今は銃なんかが主流だろうか」

後は前安穏リーダー、同じく現安穏リーダーが使う槍なんかが人気が高い。

「それでな。家の発展の為に銃を教える名家の長男と見合いをすることになった」

「そういう経緯が……」

啓明は口元に手を添え、考える。頭に浮かんだ疑問をそのままゾディアックに問う。

「長庚の家柄の娘さんってことは、ゾディアックさんて──」

啓明は真っ直ぐゾディアックを見据えて、その言葉を放つ。

「名前、刹那さんですか?」

「!」

ゾディアックは目を大きく開く。ソワンも息を呑んだ。

「本当に、よく知っているな」とゾディアックは、刹那は笑う。

「繋留町に居ても俺、幸咲とも外交するんで学んだんですよ」

「お見合い、受けたんですね」

ソワンがそう口にする。

「確かに。ゾディアックさんは自由って感じがイメージしやすいです」

裏での刹那は剣を振り、カジノなんかにもよく通っている。ソワンは掛け金に財産全額ベットしたと聞いた時は冷やりとしたものだ。まあ、刹那は勝って帰ってくるのだが。それがソワンには謎だったりする。仮に全額消えても刹那は一瞬で取り返せる実績があるのだが。やりたい事をやりたい時に、それができる今の生活を刹那は気に入っている。

「まあ、家は出ているんだがな」

アンニュイな表情をする刹那。「ですよね」とソワンが頷く。

家を出て、連絡も返さない。それが今までの刹那だ。

「普段なら、あんな家二度と戻らんさね」

「でもな」と言う刹那の声は優しくて。きっとそれが家との連絡手段を絶たなかった理由なのだろう。

「祖母のことを、思い出したんだ」


──

今から十九年前。刹那が七歳の時のことだ。家の流派の剣技を習うこと約二年。刹那は神童だった。

教えられた技の型を呑み込んでは高速で、美しく披露することができた。だから。どんどんと、求められる難易度は上がっていく。今の刹那に求められている技術は中学生辺りだろうか。パシィン。「違う」と竹刀が道場の床を叩く。

最初こそ純粋に、剣技を楽しんでいた。しかしどんどんと厳しくなる稽古に楽しさを見いだせなくなっていく。それから十年が経ち、刹那は十七歳になった。

高校は未蕾学園≪みらいがくえん≫という進学校に通っている。難易度は高いが制服が可愛いとかで目指す女子も多いのだとか。女子の制服は白いブレザーに黒色のシャツ、グレーのチェック柄のネクタイと膝上のスカート。男子はそれがグレーのチェック柄のズボンになる。

学業に部活動にと力を入れている充実した高校生活を送れる学校だ。

刹那は剣道部に入っている。それ以外に選択肢は無かった。重く真っ直ぐな美しい青い髪は腰まで伸び、それを後ろでポニーテールに束ねている。少し退屈そうな雰囲気は男女ともに好評で。付いたあだ名は”未蕾の姫”。

しかし、今の刹那は剣技に楽しさを見いだせていない。教えられた通りに日々、刀を振るだけ。そこに抱いていた純粋さはいつしか過去のものとなっていた。


家に帰ると刹那は父親を訪ねる。いつもの道場にその姿はあった。

「私、天文学部に入りたいんだ」

刹那は道場の長である父親にそう切り出した。帰ってきた答えはNO。

「刹那、お前は神童だ。この道場を継ぐのはお前なんだぞ」

長庚の家の子供は長女のみ。つまり刹那だけということだ。母親はもう子供が産めない身体になった。

「私は、星が好きみたいなんだ。それを望遠鏡で見てみたい。日常を楽しむのならカメラを嗜みたいんだ」

自分のやりたいことを真っ直ぐに伝える。それに「よく考えなさい」と父親は言う。

「私達の子供はお前一人だ。お前が継がなきゃこの道場はどうなる」

「よく考えなさい」

もう一度そう言い残すと父親との会話は終わる。父親は扉の向こうへと姿を消した。

父親は真面目な人だった。そして、剣技が、この長庚の流派が好きだった。守りたかったのだ。それは痛いほど伝わっている。十分な程に。それでも。


「私の意思は、どうでもよいのかね」

そう思ってしまうのもまた仕方のないこと。刹那はまだ十七歳。大人でも子供でもない多感な時期。知ったことか、と思っていた。思ってしまった。

「刹那ちゃん」

父親が去ってから刹那の前に現れたのは刹那の祖母。

「話、聞くよぉ」

そう言って手招きする。「縁側行こうねぇ」と穏やかな笑みを浮かべていた。少し毒気が薄れた刹那は「……ああ」と少しだけ笑ってみせた。

刹那の家は大きな日本家屋。その縁側でまったり陽に当たりながら刹那とその祖母、節子はよく会話をしていた。


「そうかぁ。刹那ちゃんはカメラに、星に興味を持ったんだね」

「ああ」

縁側に日本茶を入れて持ってきては、そこに二人で腰を下ろす。

「刹那ちゃんは家を継ぎたくはないのかね?」

それに刹那は首を横に振る。「よく分からんのだ」と少し俯いた。「私は」と続ける。

「真っ直ぐに剣に想いを抱くことができない。できなくなった」

うんうん、と優しく頷く節子。

「私は、」

そう言って口篭る。きゅっと口の端を結んだ。そんな刹那に節子は「言っていいんだよぉ」と刹那の手にその手を重ねる。温かい体温が伝わってくる。

「もっと、自由に生きたい」

「良いと思うよぉ」

「え?」

まさか肯定されるとは思っていなかった為、短い言葉がそのまま音となった。

「刹那ちゃんの人生なんだ。刹那ちゃんの好きに生きなさい」

「良い、のか?」

そのまま疑問を返す刹那。「うんうん、いんだよぉ」と節子は穏やかに笑う。

「剣技を続けても続けなくても。カメラに触れてみたり、星を学んでみたり。恋をして結婚したり、好きに生きていんだよぉ」

「だから」と節子は刹那の手を握る。優しく、そう優しく。

「刹那ちゃんの結婚式にはおばあちゃんも呼んで欲しいなぁ」

そんな節子の言葉を聞いていると、不思議と固まっていた刹那の気持ちがほぐれていく。そうか、良いのかと。

「ああ。その時は必ず呼ぶさ」

そういうと刹那は年相応に笑って見せた。

──

「祖母も、もう良い年だ。生きているうちに式を見せてやりたいんだ」

「でもそれって……お家の為の結婚ですよね?」

心配するような表情の啓明の言葉に「ああ、そうだ」と刹那は短く答える。

「相手は?好意を少しでも抱けた人なんですか?」

「いや、全く知らん奴だ」

あっけらかんと答える刹那。「それで!」と啓明は少し声を荒あげる。その声と叩かれた机の音にびくっとソワンの肩が強ばる。それに気づくと「あ……」と口を開き、ソワンに優しく「ごめんね?」と謝った。

「それでゾディアックさんは幸せになれるんですか?」

「大好きな祖母に晴れ姿を見れられるだけで十分幸せさね」

どこか儚さを、切なさを感じる表情に、胸がきゅっとなる啓明。

「良い機会だからな。家の方針にも了承した」

そう言って刹那はコーヒーを飲み干す。

「それを伝えたかったのだ。今日は時間を使わせて悪かったな」

そう告げると刹那は席を立つ。家柄の為の望まぬ結婚。それを受け入れる刹那の姿が目に焼きついた。そんな表情、させたくなかった。されたくなかった。ぎゅっと拳に力が宿る啓明。

「ゾディ」

ソワンは静かに発音する。

「ん?どうした、ソワン」

「先に、帰っていてください」

ソワンは基本的に刹那と行動している。別行動を口にしたことは今までにない。今回が初めてだった。

「大丈夫なのか?」

心配そうに見つめる刹那にソワンは笑う。

「少し、静寂さんとお話してみたいんです」

「俺と?」

啓明は自分に人差し指を向けてきょとんとする。それに「はい」と静かに頷くソワン。少し緊張している。

「他の人ともお話できるようになるかもしれません。練習したいんです」

「せっかくの機会ですし」とソワンは言う。

「……分かった」

刹那は短くそう言い残すと「静寂殿、ソワンを頼む」

そう言って刹那は自分とソワンの分のお代を置いてその場を後にした。


──

「それでソワンちゃん。話って?」

「ゾディのお見合いのお話です」

「ああ。さっきの」

啓明は少し俯く。刹那の行動を理解し、呑み込もうとしている。好意を抱いた人の決めた道だから。

「悔しくないんですか?」

「え」

意外な言葉に啓明は顔を上げる。ソワンはきゅっと膝の上で拳を握る。フリルのついたワンピースの裾を強く握りこんだ。

「好き、なんですよね?」

「……うん」

啓明は優しい表情で頷いた。愛しいものを見る目だ。

ソワンは人の動きをよく見ている。人の機微を読み取り行動する。それが裏で生き抜く為に得たものだ。そこは啓明も通ずるものがある。観察眼が鋭いのだ。そんな啓明はぎりっと歯を食いしばると

「悔しいよ、そりゃ」と吐露する。

「どこの誰とも知らない相手に、好きな人取られるんだから」

あー、と背もたれに体重を預ける。

「失恋かあ」

「そのことなんですけど」

「ん?そのこと?」

少し迷うような素振りを見せても、ソワンはしっかり目を見て提案する。

「作戦会議、しませんか……っ!」

「え?」

「ゾディの結婚相手を決める作戦会議です」

「私、」とソワンは続ける。

「私ゾディが大好きです。私とずっと一緒にいてくれて。私お荷物なはずなんです。ゾディは一人でも戦えます。生きられます。それでも、私を支えてくれて。だからっ」

ソワンは意思を宿した瞳で啓明を見る。

「私ゾディには幸せになって欲しいんです。幸せになってもらわなきゃ困るんです」

「その為なら何だってする覚悟です」とソワンは言う。目を合わせているのが辛くなったのか、自信がないのか、少し視線を下げるソワン。

「私、ゾディの結婚相手は静寂さんがいいんです」

「え?俺?」

急に話の中に自分が出てきて驚く啓明。それにソワンは「はい」と静かに頷いた。

「いや、嬉しいけどさ。俺でいいの?俺だってゾディアックさんからしたらよく知らない相手だよ」

「勝手に一目惚れして、勝手に調べて。ストーカーって思われてない??」

場を和ませようとそうおどけて見せる啓明。けらけらと笑った。

「ゾディはそんな風に人を思いません。器の大きな優しい女性です」

「知っているでしょう?」と言いたげにソワンは笑った。

「訳ありの私を受け入れてくれる位には優しいです」

「静寂さんは」とソワンは続ける。

「静寂さんは本当にゾディを想ってるのが良く伝わってきました。嘘じゃないって信じれます」

人をよく見るソワンが言うのだから間違いはない。

「ゾディだって静寂さんのことが気になったから調べたんです。そういうこと、ほいほいするような人じゃないです」

「だから……あの、その……っ」と一生懸命訴えかけるソワン。啓明は少し笑うと

「知ってるよ。そんなの」

そう伝えてソワンの頭を優しく撫でた。少しくすぐったそうに笑うと、

「ゾディ奪還計画、立てませんか?」

と問う。

「いいね。乗った」

啓明はソワンの手を取る。それに少しだけ驚いたような顔をするソワンだったが、啓明の手を両手で優しく握ると「秘密の計画です」と少し心を許して笑ったのだった。

──

数日が過ぎ、刹那の見合い当日となった。あれから思考回路を働かせ試行錯誤した日々が溶けている今日。

今は長庚家の家の門の前にいる。刹那の出ていった家。今日ここに刹那はいる。

「作戦通りいきましょう」

作戦はこうだ。電話で刹那を家の前へ呼び出し説得する。作戦としては拙すぎる。しかし、関係者でもないので長庚の家には入れない。今日が見合いとなれば道場も休みであろう。刹那と接触するには呼び出す他ないということに話は落ち着いた。

「刹那さんと話し合おう」

刹那のことも見合い相手のこともまだよく知らない今、出来ることはそのくらいだ。あとは見合いまで時間がなくこのくらいしか案が出せなかった。

ソワンが電話をかける。プルルルルル、プルルルルルと呼出音がなる。

「出ませんね」

ソワンは啓明を見る。「見合い中なのかな」と啓明は言う。少し遅かったのだろうか。見合いの時間も知らなければ相手も知らない。これでも早くにここに来たつもりだったが遅かったのだろうか。

呼出音が鳴り響く。留守電に繋がる少し前に「どうしたソワン」と刹那の声が電話越しに聞こえた。

「今、お見合い中ですか?」

「いやこれからだ」

「少し、外に出れますか?」

ソワンの問いに「外?」と聞き返す刹那。

「お見合い前に話がしたいんです」

「大事な話です」とソワンは言う。刹那は少し考えた後に「今行く」と言って電話を切った。

それから少しして刹那は長庚家の門の前に姿を現した。

「それで、話とはなんだ?」

高価で綺麗な青い着物を身にまとった刹那。シャツにスキニーパンツスタイルのいつも格好と違っていてなんだか新鮮だった。

「お見合い相手の話です」

「私」とソワンは続ける。

「将来”おとうさん”と呼ぶなら静寂さんがいいんです。ゾディは仕事仲間であって私の、おかあさんみたいな存在だと勝手に思っています」

「!」

真っ直ぐ述べられたソワンの言葉に刹那は啓明と顔を見合わせる。そして「そうか」と刹那は優しく笑った。

「あとは静寂さんから聞いてください」

ソワンは啓明を見る。ゆっくり頷いた。啓明はそれを合図に話し始める。

「俺、あなたのことが好きです」

「きっかけは──」とあの日話せなかったことを話すのだった。

──

啓明は幸咲街の隣町、繋留町の自警団”Hirundapus caudacutus”、通称”ツバメ”の一員だ。

啓明の家は貧しかった。家では父親の怒号が飛び交い無関心の母親と暮らす小さな家。

父親の機嫌次第では怒号と共に暴力なんて日常的に起こった。啓明の母親は啓明の父親と話すことなんてしなかった。結婚した当初は優しかったのだという。しかし啓明が生まれてからお互いに自由がなくなり、家庭は一変した。望まれぬ子だった。

父親は部屋に引きこもり、母親はそんな父親と離れるようにずっと仕事で家をあけていた。そのお金は全て母親が生きる為に使われる。そしてこの生活にも限界はくる。

貧しい生活の中お金の為に啓明を売る話がされたのを夜聞いた。珍しく父親と母親が話している現場を見た夜だった。ここにいる意味はない。そう思った啓明は少ない荷物をまとめて家を出たのだった。

「ばいばい」

それが啓明が十六歳の頃の話。

行くあてもなく夜の町をさ迷っていた。そこでツバメの隊員に声を掛けられる。

「君、一人?」

その隊員は今のツバメの隊長だ。

「夜だから未成年は家に帰りなさい?」

齢十六の啓明が出歩いていい時間ではない。そう言われるのは必然だった。

「家出たんで帰る場所なんてないっす」

淡々と言葉を返す啓明。表情も死んでいた。それに「そうか」とツバメの隊員は考え込む。「話聞かせてくれるかな?」と隊員と啓明は近くにあった公園のベンチに腰掛けた。啓明は話す。父親は暴力と暴言が酷いこと。機嫌を取らなければならないこと。母親はそんな父親に嫌気がさしてずっと仕事で家に居ないこと。お金は母親が自分の為に使うこと。離婚の話が出ていること。話し合いが更新されない為離婚の話が進まないこと。自分が父親の生活費の為に売られる話がでたこと。そこに居場所なんてなくて家を出てきたこと。

「一人で生きていくの?」

「自分で生きていくしかありません」

幸いにも啓明は十六歳。バイトができる年だ。そこで生活費を稼いでなんとか生きていく他ない。家も借りなければならないのでお金が必要になる。高校は辞めることにした。

「じゃあツバメに来なさい」

「え?」

驚いて啓明は隊員の顔をじっと見た。「子供一人放っておいて自警団が務まると思うかい?」とその隊員は快活に笑った。

「ツバメに寮がある。そこに住んでうちで働きなさい」

「そうして自分のしたいことを見つけなさい。君の人生なんだから君の為に生きなきゃ駄目だよ」

諭すような優しさに「はい」と考えるよりも先に答えていた。


ツバメで働いて七年が経った。啓明は二十三歳になった。時系列は今に至る。

啓明の任されている部署ははレスキュー課。それとは別に安穏でいう戦闘員もこなしている。ツバメではそれを序列風切という。

啓明は外交でよく幸咲街を訪れていた。提携関係の為定期的に行われる安穏との会議だ。特産物ことや景観でのビジネスなんかを話し合った。会議は思ったよりも早く終わる。

「次の仕事までまだ時間あるな」

腕時計を確認するとそんなことを独りごちる。足は自然と動きだした。幸咲を少しぶらついてから帰ることにした。いつもは表の街を見ている。

「そういえば幸咲には裏の街もあったっけ」

自由と快楽の実力主義の町。「たまには行ってみるか」と啓明は地下へ続く梯子を目指したのだった。


梯子を降りてみると空の無い年中やっているお祭りのような世界が広がっていた。

「なんだここ。すごいな」

表とは全く違う顔。ごちゃごちゃと屋台が並び、提灯の灯りがそこらかしこを照らしている。それなのにある建物は全て洋風で。人も自由に行き交っている。

「おーーーっ!!」

歓声が上がった。「なんだ?」と啓明は声のした方へと視線を送る。人だかりができていた。そこへ足を運ぶ。人と人の隙間から野次馬が見ている景色をみる。そこでは刹那が仕事をこなしている最中だった。美しく艶やかな剣技。人間業ではない速度。「あ」と口があいてしまう。魅入ってしまう。

「あれは一体何ですか?」

啓明は野次馬の一人、近くにいた男性に質問する。男性は知らないのか、といった顔をした。

「ゾディアックだよ。知らないの?ombreのles signos du zodiaque」

ゾディアック?ombre?知らない単語ばかりだ。後で調べてみるとしよう。それよりも

「すげえ」

啓明は感嘆する。すると男性は「コードっていう異能力使いだよ」とさらに情報を教えてくれた。しかし啓明は別にコードという異能力が凄いと思った訳ではない。確かに目で追うのが大変な速度だ。ゾディアックは遊んでいるように見えたのでこれが最速ではないのだろう。きっともっと速度は上がる。目では追えない凄まじい速度。それを抜きにしても速い攻撃と流派に忠実な美しい剣技を凄いと思ったのだ。ツバメで武力に触れた啓明にはそれがわかった。

「ゾディアック、か」

啓明は早く帰ることにした。くるりと踵を返し、降りてきた梯子を目指す。早く帰って詳しく調べることにしたのだ。この興味が一目惚れだったということに気づくのはもう少し先の話。

──

「これがあなたに好意を抱いた俺の話です」

啓明は真っ直ぐに刹那に伝える。隠しなどしない。これが啓明の伝えたかった刹那への愛のきっかけだったから。

「……そうか」

刹那は短くそう答えた。「だから、よく会いに来てくれたのだな」とも告げる。「ゾディ」とソワンも口を開く。

「ん?」

「ゾディのおばあさんの為に結婚式を上げて、晴れ姿を見せたいんですよね?」

「ああ。そうさね」

「誰でも、いいんですよね?」

「……ああ」

今度は少し迷いがあった。見合い。結婚。晴れ姿。この条件を満たすことがたまたま家の為の結婚という形なだけだった。

「静寂さんじゃ、駄目なんですか?」

「……」

今度は答えない。刹那は考え込む。本当は、答えが出ているのに。

「俺は落としたいひとは自分で決める」

啓明はこの上なく真っ直ぐな瞳で刹那を見据える。逸らすことなどない視線。刹那も自然と視線を絡める。逸らしたくなかったのだ。

「たとえあなたがこの見合いを呑んだとしても俺は、諦めませんから」

「必ずあなたを迎えに行きます。必ず、幸せにしますから」と啓明は人懐っこい笑顔でそう言ったのだった。

「そうだ。誰でもいいのかもな」

刹那はそう口にする。正式に家を出た訳では無い。ただの家出だ。跡取りは自分しかいない。この道場を守るのも発展させるのも刹那だ。そんな中、意中の相手が出来たからといって、その人を選べば家からの圧力がその人にのしかかるかもしれない。大切な人に重くのしかかるかもしれない。それは、避けたかったのかもしれない。刹那にとって他人でいること。それがその人を守るということだった。「でもな」と刹那は前置きする、

「仕事でどれだけ功績を残して、ギャラリーから歓声があがっても気にならなかった。しかしな」

刹那もまた啓明から視線を逸らさなかった。

「真っ直ぐ向かってくるお前の好意を、お前との時間を嫌だと思ったことは一度もないよ」

刹那は問う。仮に家から啓明に強い圧力がかかっても啓明の負担にならないかを。それだけが心配だった。「大丈夫です」と啓明は答える。

「俺のあなたへの愛の方が重いんで」

「それこそ刹那さんの負担になりませんか?」と気遣う啓明。「嫌だったら切ってる」と刹那は笑った。くるりと踵を返す、

「見合いは”受ける”としか言ってない。お開きにしてくる」

刹那は堂々と歩きだす。もう迷いは見られなかった。くるっと顔だけをこちらに向けるように振り向いては儚げに笑うと「私をもらってくれるかい?」と啓明に言葉を向ける。直接的な言葉に「!」と啓明は息を吸う。それから愛しいものを見るような目で、表情で「もちろんです」と笑ったのだった。

──

刹那の見合いは破綻となった。

見合い相手に気持ちを伝えたのだ。形だけの見合いなこと。自分は家を出ること。道場は継げないこと。銃と刀を教える道場に自分は関われないこと。他に好きな人が初めてできたこと。

「せっかく来ていただいたのに申し訳ない。気持ちが固まる前に話を呑んだ。しかしこのような気持ちであなたとの婚約をすることはもっと失礼なことになる」

そう告げる。相手は少し残念そうな顔をしたが、「自分も同じです」とそう言った。

お互いに長男長女。家の発展の為の結婚であったこと。自分も心から好きになった人と結婚したいこと。

「今あなたを見てそう思いました。あなたのように」

そう話終えると見合いはお開きとなった。


着物からいつものシャツとスキニーパンツスタイルに着替えてから刹那は久しぶりに縁側を訪れた。見合いはお開き。祖母はこの結婚を楽しみにしていただろうか。そんなことを考える。

「刹那ちゃん」

懐かしい声がして刹那は声のした方を見ようと振り返る。そこには節子の姿があった。

「おばあちゃん」

「お見合い、断ったんだ」

「……ああ」

節子は刹那の近くまで来ると「よいしょ」と腰を下ろした。「隣、座りなぁ」と優しい声で言う。刹那も隣に腰を下ろした。

「久しぶりだねぇ刹那ちゃん」

「もっと美人さんになって」と嬉しそうに笑った。

「好きな人、出来たんだろう?」

「……!」

「刹那ちゃんは真面目だから家の結婚を呑んだんだろう?」

「……」

「でもおばあちゃんは嬉しいよ」

「え?」

節子は刹那を優しく見つめる。後ろで一つにまとめた白い髪。優しくて温かい瞳と声。懐かしい。

「刹那ちゃんが家との連絡を完全に絶たなかったのは家を勝手に出たと思ってるからだと思ってねぇ」

「……ああ」

自分の為に家を捨てたのだ。父親の気持ちを遠ざけた。

「いいんだよぉ」

「え」

「刹那ちゃんの人生なんだから刹那ちゃんのしたいように生きなさい」

「大丈夫」と節子は刹那の手を取る。

「お父さんもおばあちゃんも応援してるから」

「父も?」

「うん」

節子は語る。刹那が家を出たあと家族会議が行われたこと。道場の今後のこと、刹那の気持ちのこと。

「お父さんは立場上ああ言ったけど、刹那ちゃんのこと応援してるって言ってたよぉ」

「……」

それはよく分かっている。絶たなかった連絡も「戻ってこい」とも「道場を継げ」とも言わなかった。「いつでも帰ってきて良い事」「元気でやっているか」「身体は壊していないか」「暑くなってきたから」または「寒くなってきたから体調に気をつけるように」などメッセージがぽつりぽつりと送られていた。分かっていたのだ。刹那の気持ちを無視しているわけではないことには。

「本気で好きになった人は良い人かい?」

「ああ」

刹那は表情を和らげる。

「ぐいぐい来るやつだ。やたらうるさいし切られるのも本望と冗談を言うくらい明るくて優しくて、一緒にいて楽しいやつだ」

「そっかあ。良かったねぇ」と節子は目を細める。

「楽しいって気持ち、思い出せたんだ」

「うん」

「その人との結婚式にはおばあちゃんも呼んでくれるかい?」

「まだ付き合う前だが、その時が来れば必ず呼ぶさ」

「うんうん。刹那ちゃんのペースでお相手様との愛を育みなさい」

「おばあちゃん」

「ん?」

「私、家を出るよ。正式に」

「……そっかあ」

「まあ、たまに帰ってくるから。皆で」

「うん。待ってるよぉ」

そう言って刹那は家を後にした。

──

刹那とソワン、啓明は長庚家の門の前で合流する。

「見合い、どうなりましたか?」

「破綻」

「そうですか」

少しほっとしたような息を吐く啓明。「もし相手がごねるようなら俺その場に出ようかと思いましたよ。ちょっと待ったあー!って」

「やめろ恥ずかしい」

「はーい」と啓明は笑う。

「これからどうします?」

とりあえず歩きだした啓明達。そう口を開いたのも啓明だ。「これからとは?」と刹那が返す。

「俺、三人で一緒に過ごす時間が欲しいです」

「え?」

そう声を上げたのはソワンだ。「私お邪魔じゃないですか?」と弱々しい声で聞く。

「そんなことないよ!これからゾディアックさんと、いや。刹那さんと居られるようになったのはソワンちゃんのおかげなんだよ?」

「そう、なんですか?」

「もう娘みたいな感覚だからさ」と啓明は明るく笑った。

「では表に家を買おう」

そう刹那が切り出す。「え?」と啓明は声を上げる。「裏じゃなくていいんですか?」と。

「二人ともお仕事は裏でしょう?」

「三人で平和に暮らしたい。仕事を辞めるわけではないがまったり暮らすのなら表のが良いだろう。裏の梯子に近い場所に家を買おう」

そう悪戯っぽく笑ったのだった。


──

刹那もソワンも啓明も仕事をしている。家を買うなんて造作もないこと。そんな理想の日々はすぐに訪れた。「立派なお家ですね」とソワンは家をまじまじと見てはそんなことを言う。

「私達の家なんですね」

「そうだよ」

「さあ中に入ろう」

そう刹那が言う。三人がそれぞれ持つ家の鍵。刹那はそれを使って玄関の鍵をピッと開ける。電子カードキーだ。中に入ると真新しい、これから家族で過ごすリビングが広がっていた。家具も全部揃っている。すぐにでも生活を始められるようになっている。各々荷物を部屋へ置いてリビングに集う。お昼時だ。

「そろそろ昼食にするか」

「何食べます?」

「静寂殿は……」

刹那はそう口にすると言葉を紡ぐのを辞める。「ん?」と啓明は不思議そうに首を捻る。

「これから先を見据えると話したばかりだったな」

刹那は少し照れたような笑みを口元に浮かべると「啓明殿は何が好きなんだ?」と質問した。

「刹那さん」

「ん?」

「トキメキで死にそうです」

「そうか」

「ホントにスルースキルお持ちですよねー」と啓明は笑った。

「あの!」

「ん?」

ソワンの方に啓明は顔を向ける。優しく聞き返した。

「あの……その……」

もじもじするソワンに刹那は「トイレか?」と聞いた。

「それなら扉を出て右に曲がると……」

「いやトイレじゃないでしょ刹那さん」

「ゆっくりでいいよ」と啓明はソワンに向き直る。たっぷり時間を使って勇気を振り絞るソワン。

「わた、私も!その……静寂さんのこと、”おとうさん”って呼んでもいいですか……?」

最後に向かってどんどんしりすぼみになっていくソワンの言葉に「!」も啓明は目を開く。ちゃんと全部聞いていた。聞こえていた。

「あ、その駄目なら……いいんです……」

両手を前に出して振るソワン。「変なこと言いました」と自信なさげに笑う。

「駄目なんかじゃないよ!」

啓明はソワンの頭を撫でる。くしゃくしゃにする感じだ。

「是非そう呼んで!ソワンちゃん!」

「!はい!」

安心したようにソワンは嬉しそうに笑った。


──懐かしい響きだな。

とソワンは想い出にふけるのだった。


──

啓明の好きな食べ物は唐揚げだという話に戻り、三人で近くのスーパーまで買い物に向かった帰り道。鶏のもも肉を買い、付け合せのサラダに使う野菜、スープの具材などを買い込んだ。これは夜ご飯。昼食はスーパーに行く前にファミレスて済ませた。スープドリンクバーのスープをソワンが大変気に入ったらしく何度もおかわりをしては「また皆で来たいです」と言うくらい。

「料理はソワンちゃんがしてくれるんだよね」

そう帰り道で話しかけると「はい!」とソワンは元気よく答える。

「ゾディも料理は出来ますが、家事は私が基本的にしています」

「そっかそっか。家庭的だね」

啓明は想いを馳せるように空を仰ぐ。

「将来はいいお嫁さんに──……」

そこまで言うと啓明は急に言葉に詰まる。「啓明殿?」と刹那が言葉を挟む。

「今からソワンちゃんがお嫁に行くことなんて想像したくない!!」

頭を抱えてそんなことを言い出す啓明に「親バカになったものだな」と淡々という刹那。

「当たり前じゃないですか!!突然こんなに可愛い娘が出来たんですよ!?」

「お雛様も片付けません!」と力強く言い放つ啓明。

「ソワンが幸せなら良いだろう……」

そんなやり取りに「あはは」と口元に手を添えて笑うソワン。その時だった。ドクンと心臓が跳ね上がったのは。

「ソワンちゃん?」

ソワンの様子に啓明は視線を向ける。異変に気づいたらしい。ドクン、ドクンも大きく脈打つ心臓。これは『共鳴』だ。

「──おい」

その時だった。背後からそう声を掛けられたのは。知っている声。いや。その声が少し低くなった声。

「あ」

啓明がそう声を上げた時にはもう”遅かった”。腹部に熱を感じる。そう感じて視線を下げる。啓明の腹部に刺さるナイフ。血がどんどん流れていく。冷や汗が止まらなかった。「え?」と疑問の言葉を最後に啓明はよろめく。片膝を地面についた。「啓明殿!」とそんな啓明を支える刹那。

「お前、コマチの何だ」

ドスのきいた敵意のこもった声。

「は、あ?」

少年がナイフを抜くとさらに血が流れた。「大丈夫か!」と刹那が声をかける。

少年のことをソワンは知っていた。少し大人びた知っている容姿。

「お兄ちゃん……」

ソワンは目の前に立つ少年のことをそう呼ぶ。ソワンの実の兄が目の前に現れたのだった。

──

「やっとみつけた」

ソワンが「お兄ちゃん」と呼んだ少年はソワンを見据えてそういった。色素の薄い、グラデーションに色味の抜けるクリアな髪。整った顔立ちはまさに美少年。鍛えられ引き締まった体。

「やっとって……?」

痛みに耐えながら啓明は少年に問う。

「ずっと妹を探してたんだよ」

「それの何が悪い」と敵意のある声が告げる。

「一度”売られた”コマチを裏で見かけたんだ」

売られた、とはどういうことだろう。コマチ?ソワンは刹那とpartenaireとして一緒に仕事をしているのではなかったのだろうか?いや、詳しくは知らないが裏にいた時のことだろうか。刹那と出会う前、ombreの長と出会う前のこと。

「コマチの情報を集める為に裏で自分を売って働いた。入手した情報ではコマチはombreの長に拾われてゾディアックと組んだって」

それは啓明も知っている情報だ。「この二年、ombreの長もゾディアックもコマチに危害を加えることはなかった」と少年は言う。「少しは信じてもいいのかもしれねぇ」とも。

「生き別れの妹だからな。ずっと探してた。”約束”を守る為に」

「それ、お母さんの……」

「ああ」

少年は少しだけ優しい顔をしたが、すぐに眉間に皺を寄せる。

「ゾディアックと組んでるのは少し安心した。裏の大手組織だ。コードも手にしたみたいでコマチの安全面も少しはいい条件になる」

「コマチに武力は無いからな」と少年は付け足した。

「噂を耳にする度思ったよ。ゾディアックはちゃんと守ってくれてる。仲間として見てくれてるんだって」

「噂が本当かは疑わしいけど、”仕事”なら”俺たちみたいなの”も対等に扱ってくれるのかもって淡い期待もあった」とも言った。

「──でも」と少年は啓明を睨む。迫力のある眼力だ。本当に敵を見る目。

「お前はコマチの何だ?」

「何って……」

話が掴めない啓明に少年は言う。

「お前がコマチを利用する”人間”なら俺がぶち殺す」と少年は強い言葉をぶつける。

「待ってくださいお兄ちゃん!」

再びナイフを強く握った少年にソワンは声を掛ける。

「コマチ……?」

「この人達は私の大切なpartenaireとおとうさんです!」

「おとうさん?」

疑いの眼差し。「こいつが?」と目で語っていた。

「俺の知ってる情報だとゾディアックと以外組んでないってはずだけど」

「ゾディの彼氏さんです!これから三人で住むことになったんです」

「もう家族なんです」と弁明するソワン。

「お前を、利用する”人間”じゃないのか?」

優しい声音だった。兄として妹を心配する優しい声。

「信じられないなら、お前も一緒にくるか?」

啓明の提案に少年は「は?」と声を上げる。

「ずっと探してたんだろ?ソワンちゃんを。なら、やっと会えたんだ。傍に居た方がいい」

「……」

信用出来ないと言った目だ。構わず啓明は続ける。

「だから、もっとソワンちゃんのこと教えてくれよ。大切な家族になったんだ」

「俺も、ちゃんとお父さんになりたいんだ」と冷や汗を流しながら少しだけ笑ってみせる啓明。腹部を抑えながら痛みに耐える声。少年は少し考える。

「俺もcortege≪コルテージュ≫っつーコードが使える組織に所属してる。ombreと似た系列の組織だ。コードも使える。何かあったらお前を殺す。それでもいいのか?」

「ああ。もちろんだ」

脅しのつもりで言った少年の言葉に即答する啓明。「ちゃんと愛してるからな」と啓明は笑う。

「啓明殿」

少し慌てた刹那の声。血が流れすぎている。「はい、なんですか?」と安心させるように笑顔を作る啓明。

「ソワンに命を委ねられるか?」

「え?」

「ソワンのコードは相手の血を経口摂取してその人物の身体の情報を操るんだ」

「身体の情報を?」

「その血の持ち主の身体を癒したり、逆に容態を悪化させたりすることができる」

「血を入手しないと回復も攻撃もままなりません。戦えるのはゾディのおかげです」

そうソワンは説明する。刹那が戦って流れた血液をソワンが経口摂取して戦うという形になる。まあ、ソワンは刹那の血を摂取している為、刹那のステータスを向上させてるという戦い方になる。刹那は一人でも十分強いのだが。

「ソワンを信じ切れるか?」

ソワンが一度でも血を経口摂取するということは、命を一生操られる可能性に同意しなければならない。刹那の問い啓明は笑う。「もちろんですとも」と。「その方が分かりやすいでしょ」と少年の方を見る。少年は眉間に皺を寄せている。「ソワン」と刹那はソワンを呼ぶ。「はい」と返事をするソワン。

「啓明殿の血を摂取して傷を癒して欲しい」

「はい!」

そう元気に返事をするとソワンは啓明の傷口から流れる血液を掬う。そのまま口に含んだ。ソワンの瞳孔が赤く変化し、光る。ソワン特有のコードを使っている証だ。

「血流操作」

ドクン、ドクンと啓明の心臓が大きく脈打つ。みるみるうちに血が止まり、刺された腹部の傷が癒えていく。すぐに傷が塞がった。治ったというべきか。

「……」

少年はそれを見つけている。「コマチ」とソワンを呼ぶ。それに「はい?」と治療を終えたソワンが少年に振り向く。

「そいつ、大事な奴なのか?」

少年の問いにソワンは二度パチパチと大きな瞳で瞬きをすると「……はい」と優しく微笑んだ。

「何だか、懐かしいんです」

そう温かく微笑むソワンに少年は「そっか」と短く答える。ソワンの頭を優しく撫でた。そして、

「ごめんな」と小さく謝った。

──

傷も治り、四人はソワン達の家のリビングに集まった。

「これから私たちの過去、家族の話。『砌』≪ミギリ≫という種族の話をします」

「砌?」

啓明はそうソワンの言った単語を繰り返す。「はい」とソワンはゆっくり頷く。

「私たちは砌という種族。人間ではないんです」

そう言ったソワンは過去の話を始めた。

──

今から十二年ほど前の話。

砌という種族が暮らす、”秘境”という場所にソワンとソワンの兄である自彊≪ジキョウ≫は住んでいた。幸咲の何処かにある砌しかたどり着けない秘境。ループによって毎度入口が変わるが、人間ではない砌はその入口に毎回たどり着くことができる。砌にしか行けない、砌の里、秘境。

その秘境の外れにある小さな母屋。隙間風や雨漏りは酷いがそこに家族四人で日々幸せに暮らしていた。

「コマチ?」

凛としていて芯のある、それでいて優しい声。

「はーい」

当時五歳であるソワンが母に呼ばれた。とてとてと、母の元へ駆け寄っていく。母である夕未≪ユウミ≫は駆け寄ってきたソワンを抱きしめる。くしゃくしゃに頭を撫でた。

「なーに、お母さんっ」

夕未に抱きつきながら上を向き、夕未を見つめるソワン。

「これから夕食の材料を買いにバザールに行くけど一緒に来る?」

「いくー!」

よしよし、とソワンの頭を撫でると、夕未とソワンは家の外にでる。立て付けの悪いドアがギィと音を立てた。

「自彊」

「何、母さん」

「これからコマチとバザールに行くけど一緒に来る?」

「んー、俺はいいや」

「そう」と夕未は微笑む。

「じゃあ留守番、よろしくね」

「わかった」

そう返答する自彊に「知らない人について行っちゃ駄目よ?」と言う夕未。

「行かねーよ。子供じゃあるめーし」

「なーに?齢六年で大人ぶっちゃってー」

「うるせー、いいんだよ」

と少し顔を赤らめる。そんな自彊に「知らない人来ても出なくていいからね」と言って、ソワンと二人、家を出てはバザールに向かった。

「今日のご飯はなーに?」

「んー。どうしようねぇ」

そんな話をしながら手を繋いでバザールにたどり着く。「安いもので作ろっか」と笑う夕未。

家は貧しかった。それでも家族四人で幸せに暮らしていたし、裕福になりたいと思ったことも無かった。

「お父さんは?」

手を繋ぎ、バザールの野菜を見ていた夕未は「んー」と曖昧に答える。父は今日、朝からいないのだ。時々そういう時がある。

「希関≪キセキ≫は仕事よ」

希関とは父親の名前だ。

「お仕事って何してるのー?」

希関は時々家を空け、仕事をしている。家には夕未が残りソワンと自彊の傍にいる。ソワンは今まで希関の仕事を知らなかった。きっと兄である自彊も同じだ。「んー」と言葉に詰まる夕未。

「私達の為に頑張ってるのよ」とだけ言った。

「ふーん」

子供ながらに疑問を覚えながらも納得したような声を出すソワン。

「あ!コマチ!これ美味しそうだよ。買っていこうか」

「うん!」

大きく頷くソワン。そうやって買い物を済ませて家へと帰る。

「ただいまー」

ソワンが立て付けの悪い扉を開けるとそこには希関の姿があった。

「お父さん!おかえりなさい!」

ソワンは夕未の手を離して希関に駆け寄っていく。がばーっと勢いよく抱きついた。

「おーっと。あはは。ただいま」

希関はソワンを抱きとめると控えめに笑った。「コマチもおかえり」と優しく言うと「ただいまー」と元気に返事をするソワン。そこに少し違和感を感じたソワン。

「お父さん、元気ない?」

「!」と希関は驚く。それでも「そんなことないよ」とソワンの頭を優しく撫でる。まだ幼いソワンには分かっていなかったが、希関の顔は青白かった。そんな希関に夕未は小さく「ごめんね」と言った。

「父さん」

立て付けの悪いドアがギィと鳴ると、そこには自彊の姿があった。

「どうした自彊」

「なんか”人間”がこっちに向かって来てるけど」

「!」

希関はガタッと音を立てて勢いよく立ち上がる。ドアの方へと急いだ。

「父さん?」

「自彊。家に入ってなさい」

「え、」

そういうと希関は自彊の腕を引いて中へと引き入れる。それとは対照に希関は急いで外へと駆け出して行った。その背中を追いかけるように夕未もドアの近くまで移動する。ドアの隙間から外の様子を窺う。

外からは「すみません」とか「勘弁して下さい」と希関の声が聞こえてきた。

「何で人間がここに……」

夕未はギリっと歯を食いしばる。基本的に秘境には砌しか立ち入ることができない。しかし、稀に。ループの影響で人間も秘境に立ち入ることができる。迷い込んでしまう。それが砌にとっていい人間か、悪い人間かは選べない。

「父さん、仕事のことかな」

自彊は薄々、希関が人間相手に仕事をしていることに気づいている。

「……」

夕未は黙ったまだ。

「もっと”血”渡しますから……!」と必死に人間に懇願する希関。

──砌は人間ではない。

砌は特別な血が流れる種族。

その血は『変化の血』と呼ばれ、幸咲の裏で高額で取引されている。砌の血を摂取した人間はあらゆる傷がたちまち治る効能がある。摂取すれば砌の血はたちまち摂取した人間のDNAへと変化する特性があった。その人の血になるのだ。だから『変化の血』。

輸血にも使える便利な血液。傷も治るのだから血の気の多い連中からは重宝する貴重な血液。

そして、砌には人権がなかった。

人間ではないのだ。それで人間より下の存在として扱われている。砌の血や砌自身を高額で売買する”人間”もいるのだ。その人達から呼ばれる砌は『医療道具』。


「足りねえんだよ」

その人間は嘲笑う。「どうか……!どうか……!お願いします!」と希関は必死に頭を下げる。

「死にたくなかったらお前とその家族を売りな。血だけで勘弁してやるよ」

「それはできません!私だけで……!どうか勘弁してください……!」

希関はそれでも必死に頭を下げる。家族を守る為に。それを人間は聞く気がなさそうだ。どうやら砌を使う、砌にとって悪い人間と希関は血を売買していたようだ。

「あいつら……!黙ってれば好き勝手言いやがって……!」

出て行こうとする夕未の服の裾をソワンが掴む。不安そうな目で「お母さん……?」と呼ぶ。

「あ……」

夕未はソワンを抱きしめる。それから優しくソワンと自彊の頭を撫でた。

「自彊」

夕未が自彊を呼ぶ。「なに」と自彊は言葉を返す。

「コマチの事、頼むね」

「……うん」

何となく何かを察している自彊。小さな声でそう返事をする。「流石お兄ちゃんだ」と言って夕未は笑った。ドアを少しだけ開けて夕未だけが外へ出る。すぐにドアを閉めた。すぐに希関の元へ走って行った。少しだけドアを開けて自彊はソワンを抱きしめながら外の様子を窺う。何やら口論になっているようだ。

砌が人間に”使われる”のはかなり昔からのことだ。弱肉強食だった。それを”仕方がない”と多くの砌は思っている。砌には諦め癖があった。この待遇は”当たり前なんだ” ”抗っても仕方がない” ”これが運命なんだ”と。

しかし夕未は違った。従順なことの多い砌という種族にしてはかなり気が強かった。今も家族を守ろうと希関と立ち向かっている。

「生意気だ!」

人間は持っていた鈍器で希関の頭を殴った。ぐらり、とよろめいて希関は地面に膝をついた。頭部からドクドクと血が流れていく。当たり所が悪かったようだ。

「あーあ。せっかくの変化の血がもったいねえ」

感想はそれだけ。

「この…!!」

夕未は鋭く人間を睨みつける。しかし、そんなことでは実力差は埋まらない。少なくとも希関、夕未、自彊、ソワンよりも武道を嗜んでいる。裏で生きる人間だ。裏のルールを他に持ち出してしまう、可哀想な人間。

夕未は短刀を抜いた。希関と夕未は血を人間に売って生活費を得ている。その時に使うナイフだ。血を渡す為に砌はナイフを持ち歩いている。それを夕未は人間に向けてふるった。しかし、勝てる相手ではないことは夕未も希関も分かっている。だから”時間稼ぎ”。

「自彊!!」

夕未は大きく声を張る。「!」家の中でソワンを抱きしめていた自彊にその声が届く。

「コマチを頼む!」

「……!」

「時間は稼ぐから」

と虚勢を張る夕未。希関も薄れる意識の中人間の足を掴む。家族の方を向いた夕未もまた、希関同様に頭部を鈍器で殴られる。血しぶきが上がり、夕未も地面にひれ伏した。

「もういい!」

人間はそう言うと家の方へと歩きだす。

「子供らを売った金だけで満足してやる」

ドアが開く。怯えるソワンの前に自彊が立ちはだかる。

「大人しくしな。あいつらみたくなりたくなかったらな」

嘲笑うような人間に自彊は「要件は?」と問う。

「血を提供し続ければそれでいい。砌単体でも高く売れるが長く金儲けするならそっちのがいい。ま、どっちでもいいか」

「砌は”殺さない限り死ぬことはない”からな」と人間は嘲笑う。ソワンの髪を掴んだ人間は自彊の腕も掴む。引きずるように家の外へ出る。「コマチを離せ!」と凄んでも大人相手にまだ六歳の自彊が勝てるはずもなく。「うるせぇ!」と腹部に膝蹴りをくらう。

「かはっ……!」

意識が朦朧とする。ソワンは震えているように見えた。

「……ごめんね……?」

小さく声がした気がした。意識が薄れる中の夕未の声だ。

「守って、あげられなくて……」

その目には涙が溢れていた。快活で強気な母の初めて見る泣き顔だった。

──やめてくれ


「自彊、心待を守って……二人で、生きて……」


──そんな顔しないで。そんなこと、言わないで。


「二人で幸せに生きる未来を心待にしています」

希関はもう動かなくて、夕未もそれ以上しゃべることはなかった。


──壊れないでくれ。壊さないでくれ……!


それから自彊と心待は別々に裏に売られた。

希関と夕未の心待ちにした未来は閉ざされたのだった。


──

「だから。ずっと心待を探してた。血を売って雇われ兵として働いて。コード貰ってcortege入って、情報を集め続けた」

自彊はそう言う。そうやってやっと見つけだした妹なのだ。

「なら、尚更一緒にいようよ」

啓明は自彊にそう言葉をかける。

「俺のことは邪魔かもしれないけどさ。俺たち。家族になったんだ。少年も──自彊も一緒に居ないか?」

「……いい」

「え?」

「邪魔は俺の方だ」

「え、」

「俺は心待を守れなかった。父さんみたいに身体を売ってまで家族を守ったことも、母さんみたいに適わなくても立ち向かって守ったことも、母さんとの約束を守れたことも、ない」

自彊は少し俯く。

「ゾディアックが心待守って一緒にいんのも、心待がここまで安心して家族になったあんたとも、俺は違う」

「何も、出来なかったんだ」と小さく呟いた。

「心待探してたのだって全部自己満足だ。俺の居場所は、ここにはないよ」

「邪魔したな」と自彊は席を立ってリビングを後にしようとする。それを「待てって!」と啓明が引き止める。「何だよ」と振り返らず答える自彊。

「この家族を作ったのは俺じゃないよ」

「え?」

「全部ソワンちゃんがやったことだ。俺はその通りに、自分のしたいように動いただけだ」

「結果に、満足してんならいいんじゃねえの?」

「ソワンちゃんにはお前が必要なんだよ!」

「!」

振り返る自彊。

「お前も!ソワンちゃんが大事だから、家族が大事だから!今まで頑張ってきたんだろ!裏で生き抜いて、金稼いで、約束守ろうって、妹守ろうって。コードまでもらって、努力してここにいるんだろ!」

「俺は……」


「もっと!自分の為に生きろ!」

「!!」

「そうさね」と刹那も口を開く。「それに、家族は賑やかな方がいい」と不敵に笑う。そして、「あとは、ソワンに聞けばいいんじゃないか?」と。

「なあ、ソワン」

刹那はソワンに言葉を求める。

「お兄ちゃん」

「心待」

「ずっと、会いたかったです」

「!」

「もう死んじゃってたらって、もう会えないのかなって、ずっと思ってました」

「心臓が共鳴した時、砌が居るってわかったとき、嬉しかったんです。期待、したんです。そしたら本当にお兄ちゃんに会えました」とソワンは笑う。自彊の元へ歩き、両手で自彊の手を包む。戦い抜いた手を。

「私も、探してたんです」

「そう、なのか……?」そう迷う自彊に「はい」と心待は笑う。

「私、お兄ちゃんともまた一緒に暮らしたいです。新しい、家族で」

「でも……」

「邪魔じゃないよ」と啓明がそう言うと「ああ。邪魔なんかじゃない」と刹那も言葉を続けた。「お兄ちゃん」と心待も言葉を紡ぐ。

「お兄ちゃん。また、私と一緒に居てくれますか?」

ソワンの言葉に「ずるいよ、それ」と少し表情が緩む。それから「いいのなら、居たい」と小さく言葉にする。そして「お前」と啓明を見つめる。

「ん?」

「名前、何て言うの?」

「静寂啓明だよ」

「……あの時は、刺して悪かった」

そう言って自彊は深々と頭を下げる。そんな自彊に「いいよ!やめろよ!」と慌てる啓明。

「全部ソワンちゃんが治してくれたしね」

──新しい家族は四人で始めよう

「ありがとう、父さん」

「え!」

「なんだよ?心待だってそう呼んでるんだ、そういう立場なんじゃないのか?」

そう首を傾げる自彊。

「お前、可愛い仕草するな……」

「……うるっせぇ」

名前を聞かれたのでそっちで呼ばれると思ってた啓明はあははと笑う。

「私は?」

と刹那が聞くと「ゾディアック」と答える自彊に「なんだ、つまらん」と言う刹那だった。


──

朝、自彊は目覚める。

なんやかんやでこの家に住むことになった自彊。この家の一室を「ここが自彊の部屋ねと」もらったのだ。

「……」

無言で起き上がる。ベッドから降りて自室となった部屋のドアを開ける。部屋は二階なので一階まで螺旋階段でおりる。リビングに近づくほど朝食の匂いが鼻を刺激する。

「おはよ」

キッチンに立っているのは心待だ。「あ、おはようございますお兄ちゃん」と明るく挨拶を笑顔で返す。懐かしいやり取りだ。

「おはよう。自彊」

その声の主の方に振り向く自彊。リビングで既に起きていた啓明がソファに座っていた。タブレットでニュース記事を読んでいる。

「……おはよ……」

小さくそう返しておく。そんな自彊に啓明は優しく笑った。自彊は啓明に問う。

「お前、仕事は?」

「あるよ。でも今日は遅刻届け出してあるから。幸咲に家買ったからこれからはもっと早く家出ないといけないんだけどね。あ、隣町なんだ、職場」と教える。「まあ、座れよ」と促す啓明。自彊は啓明の座るソファの前にある机を挟んで向かい側の席に腰を下ろす。

「俺も……今日、仕事あるから」

ぽつりとそう述べる自彊。話してくれたことが嬉しくて啓明は「そっか」と笑った。「ご飯できましたよー」

と心待がお盆にのせて朝食を机に運んでくる。「手伝うよ」と自彊は席を立った。

「ありがとうございます」と心待は自彊にお盆を渡す。家族分の朝食を机に並べた。

「ゾディアックは?」

自彊がそう問う。

「確かに。刹那さんまだ来てないね」

そう啓明が言うと「あー」と心待は糸目になる。

「ゾディ、朝弱くて……」

「もー」と言いながら心待は螺旋階段を上がっていく。スリッパのパタパタした足音が軽快に鳴る。刹那の部屋の前まで行くとノックを三回。「ゾディー?」と声を掛けてからドアを開ける。

「もー!またお布団掛けないで寝てー。ほら、もう朝ですよご飯ですよ」

「んー」

何やら微笑ましい会話が聞こえてくる。しばらくして心待と寝起きの刹那が螺旋階段を降りてくる。刹那はまだ寝癖が直っていない。

「ほら顔洗って身支度整えてください。皆待ってますよ」

パンパンと両手を叩く心待。「んー」とまだ眠そうな刹那は洗面所へと向かった。

「俺コーヒー入れるよ」

そう言って啓明は席を立つ。「ありがとうございます」と心待は言う。

「刹那さんブラックだよね」

「はい!眠気も覚めると思いますし」

「ソワンちゃんは?」

「ミルクでお願いします」

「はーい」

トクトクと液体をカップに注いでいく。それから「自彊は?」と声をかけた。

「え?」と少し驚いたような表情。それから「コーヒー……」と控えめに答える。

「ブラック?」

「うん」

「ははっ、大人だなー」

「もう子供じゃねぇよ」

そうこうしていると「ふわあ」と欠伸を一つして刹那が戻ってくる。シャツにパンツスタイル。いつもの格好に着替えてきたらしい。寝癖もしっかり直っている。刹那も席についたところで

「ではいただきましょう」

と心待が言う。それを合図に「いただきます」と手を合わせて朝食を口に運ぶ。今日の朝食は焼いたトーストに目玉焼き。昨日の残りのサラダと唐揚げも添えられている。「美味しい、美味しい」と嬉しそうにトーストを頬張る啓明を生あたたかく見守る三人。朝食を食べ終えると、

「では私たちは仕事に行ってくる。行くぞソワン」

と心待を手招きする。「はーい」とパタパタ駆け寄っていく心待。

「俺もそろそろ出ないと」

「半休取ってるからまだ間に合うな」と腕時計を見る啓明。それに「そうか」と短く答える刹那。

「自彊は?」

と話題をふる刹那。

「俺も、仕事」

「気をつけて行けよ?」

「……うん」

「皆お仕事ですね!」と心待は言う。揃って家を出て心待がピッと鍵をかける。それから「はい」と啓明と自彊にカードキーを渡す。一つはスペアキーだったが家族が増えたのできっちり人数分。「え」と自彊だけ疑問の声を出す。

「家の鍵です。ゾディはもう持ってるんでお二人の分です」

「家族ですから」と笑う心待。

「ありがと」と心待からカードキーを受け取る啓明。自彊もそれを受け取った。

「では皆さん行ってらっしゃい」

「行ってきます」

そう言って各々仕事へ向かったのだった。

──

本日も刹那と心待は用心棒のような仕事を引き受けた。裏の組織と組織の間のいざこざがあり、武力を持って殲滅することになったらしい。その助っ人としてゾディアックとソワンに依頼がきた。

「頼みますよゾディアックさん」

「なあに。任せておけ」刹那は歩きながらステッキを華麗に回す。

「私が裏の一般組織に負けると思うかい?」

「いや、確実に勝つ為にあなた達にお願いしたんです」

「好きにやっていいんだろう?」

依頼人の方に振り返りニヤリと笑ってみせる刹那。

「はい!もちろんです!」

依頼人は心待の方を見る。「ソワンさんも今回は戦うんですか?」と問う依頼人。

「いや」と刹那が答える。

「ソワンは仕事を取ってくるのと、敵の情報を集めること、私のサポートが仕事さね」

「そう考えるとたくさんやることがあるんですね」

「私は好きに暴れるだけさね。なにも戦うだけが仕事がじゃないよ」

「なるほど!」と依頼人は感嘆する。「行くぞソワン」と刹那が歩き出す。「はい」と心待も後に続いた。


「ここが敵組織です」

小声で依頼人が指し示すのは、年季の入ったコンテナハウス。

「ちなみになんで敵対してるんですか?」

「お金が絡んでいます」

「そんな大金が……!」

裏は自由だ。よく衝突する組織はいくつもある。条約違反だとか、金銭面のトラブル、暴力的なものなど様々だ。砌のように人権なく取引される種族もあれば、人間でもお金が絡みトラブルや取り引きがされると聞いたこともある。

「どうせ貸した金を返せーと言ったところだろう」

刹那が投げやりにそういうと「はい!そうなんですよ!」と依頼人が鼻息を荒あげる。

「お金を貸しているのに返さないんです。こっちは一年待っているんですよ?なのに待ってくれ、だとか借りてないだとかいいだす始末です」

はあ、と依頼人はため息をついては肩を落とす。

「こっちもカツカツだって言うのに……」

困ったもんですよ!と声を荒あげる。それに刹那は「しっ!」と人差し指を口元に当てる。

「なんの為の奇襲だ?お前たちが相手組織は人数がいるから奇襲したいという内容の依頼だろう?」

「バレてもよいのかね?」と言うと「は!そうでした!」と依頼人は両手で口元を覆う。呆れた様子で刹那は依頼人を見る。

「まあ、私に頼んだ時点で奇襲などしなくても勝ちが確定しているのだ。大丈夫だろう」

刹那は実に乗り気でないと言った様子だ。面倒くさそうにコンテナハウスの影に身を隠している。

刹那は戦闘狂な一面があった。一対一、または刹那対多人数でもなんでも良い。とにかく強者と剣を交えることが好きだった。その戦闘でも刹那は本気をだすことはない。コードを使わず己の剣技のみで戦う時もあれば、コードを使って相手を翻弄する時もある。とにかく戦闘を楽しんでいる。

そんな刹那を武力もろくに持たない相手組織の殲滅に起用するのは実に場違いだ。

「あ、敵は殺さないでくださいね?命は大事にしないと」

「それ、殲滅ではなくないか……?」

はあ、ため息をつく刹那。別に人殺しが趣味な訳ではないが、生ぬるすぎるの依頼に興が乗らないらしい。

「ソワン、何故こんな依頼をとった?」

完全に乗り気でない刹那は心待にそう問う。心待は淡々と答える。

「依頼金が高かったからです」

「金に困ってなどいない!もっと、こう、なんて言うんだ?スリルとかギリギリの戦闘でしか味わえない高揚とか、なんか!あるだろう!」

「ゾディは本当に戦うの好きですね」

「剣技で私はできているのだ!」

家を出てからも剣だけは手放さなかった。家を出て自由に剣をふるったとき、身体が震えた。幼い頃に感じた純粋な楽しさを思い出したような気がした。

「思えばソワンで出会ったのはその頃だったな」

「へ?」

刹那はソワンとの出会いを思い出したようで。

「二年前のことですか?」

「いや違う?」

「え?」

刹那と心待が出会ったのは二年前のはずだ。それに刹那は首を振る。「いや、本当はもう少し前に会っているんだ」

刹那がombreに入ったのは七年前。刹那が十九歳の頃だ。心待と出会ってpartenaireとなったのは刹那が二十四歳のとき。

「私の右目がまだよく見えた時の話だ」

モノクルをした右目に触れる刹那。刹那はこの生ぬるすぎる仕事から現実逃避するように語り出す。遠い目でどこかを見ている。

「それ、私も聞きたいです」と依頼人まで乗り気だ。コンテナハウスの敵組織も刹那達に気づく様子もなく、ずっとボードゲームで遊んでいる様子。ワイワイ盛り上がっている。これならこんな昔話をしていても気づかれる事はないだろう。なんて緊張感のない仕事だろうか。

「あれは今から七年前のこと──」

刹那は暇つぶしに語り出した。


──

十九歳の刹那は荒れていた。

愛用していた刀は家に置いてきた。自由に剣を振るってみたかったから。長庚の神童、長庚刹那を捨てたかったから。練習で使っていた木刀だけを持って裏を歩いていた。

そこで出会ったのは裏の闘技場、コロッセオとカジノだった。

家のお金は全て置いてきた為、コロッセオで勝ち進み賞金を得たり、カジノで大勝ちをしたりしていつの間にか大金を手にしていた。カジノの勝ち方も何となく分かっていた。

コロッセオで名が通ってくると、戦闘狂共に絡まれる機会が増えた。裏では私闘もOKだ。そもそも法が無いのだから。実力主義なら喧嘩を買った時点で勝った方が正義。

刹那は木刀で敵を倒し続けていた。今まで叩き込まれた長庚の剣技が染み付いている。切れない刀でもどこに攻撃を叩き込めば相手がノックダウンするかが木刀一つで裏を歩き回って分かってきていた。

刹那は今日も木刀を手に敵と対面していた。艶やかで美しい剣技は見入ってしまうほど。いつしか刹那と絡んでくる相手との戦闘は、ゲリラ的に行われるイベントの一つとなっていた。何時、何処で、誰と刹那が戦うのか。それが目的で裏を放浪するファンも増えた。

「刹那だ!」

「ラッキー!生で戦闘シーン見れるとかついてるぜ!」

「おーい!今日は占い屋の前で刹那の戦闘が見られるぞー!」

たまたま居合わせた裏の住民が人を、また人を呼びギャラリーとなる。

「見えねぇって!」

「ちょっと押さないでよ」

ガヤガヤとした雰囲気は嫌いではなかった。

「刹那」

「なんさね」

「今日はコイツでやらねえか」

相手は”それ”を投げる。刹那をそれをキャッチする。チャキッと音が鳴り、ずっしりと受け取った手に重みが宿る。

「日本刀?」

「お前いつも木刀じゃんか。顎や首に当てれば勝ち。分かってる勝負ばっかりでつまんなくねえのか?」

「……」

「ギリギリの勝負、しようぜ」

「よいのか?」

「あん?」

「私がお前達と同じ土俵で戦うということはハンデがないということさね。それでお前達に勝ち目があるのかね?」

刹那は木刀を構える。相手は「随分な自信だな」と日本刀を構える。

「随分舐めてくれるじゃねえか」

「当然さね」

「でもよ」と相手は言う。「?」と刹那は相手を見据える。「ほお……」と相手とその奥をみる。

「多人数対刹那でやろうぜ」

その数、数百人規模。

「汚ぇぞー!」

「正々堂々やれよー!」

「刹那ちゃん!断ってもいいのよー!」

「日本刀使っちまえー!」

ギャラリーがガヤガヤと野次を飛ばす。

「これでも木刀で戦うか?」

「はあ」

と短くため息をつく刹那。

「そんなに私に日本刀を使わせたいらしいな」

「いいだろう」と刹那は木刀を捨てる。日本刀を握り、鞘を抜いた。

「相当、死にたいらしい」

「巷で有名な、刹那に勝ったって実績が欲しいだけよ」

ジリジリと探り合いが始まる。ギャラリーもゴクリと唾を飲み込んだ。先に動き出したのは相手だ。リーダーが刹那に切りかかる。その他大勢も一斉に切りかかってくる。刹那は相手の刀を受け流し、腕を脇腹を足を。剣技で一撃いれていく刹那。相手は切られた痛みで戦える者が段々減っていく。それでも相手は数百人。刹那がいくら強くても全ての攻撃を受けない、という訳にはいかない。血が流れ、痛みで動きが鈍る。そんな時だった。

「!」

相手の一撃が目に当たったのだ。右目から血が流れる。ドクドクと血液が頬を伝う。

「やった!あの刹那に一撃くらわせたぞ!」

そこからは形勢逆転。刹那の敗北が確定した。

「あれはないよ……」

「刹那ちゃん可哀想、大丈夫かな」

「倒れたまま起き上がらないけど、まさかね」

「生きてるよね……?」

ギャラリーはしばらくザワついていたが、次第に人ははけていき、刹那は一人地面の上で、空のない裏の天井を見ていた。

「いくら神童と言われても負けることはあるものだな」

刹那は独りごちる。今まで負け知らずだった。相手にならないほど。

多勢に無勢とはいえ、右目を失い、敗北した事実に刹那は独り言を言う。

「負ける。というのはよくわからん感情を抱くのか」

「大丈夫ですか?」

「!」

もうギャラリーは去ったはず。それなのに聞こえた声は間違いなく刹那に向けられていた。少女の声だ。

「お嬢さんもさっきの戦闘を見ていたギャラリーかい?」

刹那は右目を閉じ、痛みを堪えながらゆっくりと起き上がる。

「いえ。私は見ていません」

そう首を振る少女。

「どうして右目から血が流れてるのですか?」

「私と同じ奴隷以下なのですか?」と小首を傾げる少女。

「奴隷?」

「私、砌なんです」

「ミギリ?」

「特別な血を持った人権のない種族です」

「特別な、血」

「ちょっとお待ちくださいね」

そう言って少女はナイフで自らの腕を切る。

「馬鹿!何して……!」

赤い鮮血が流れる。

「お姉さんはお優しいんですね。でもこうやって血を提供することが私の仕事であり、存在価値なんです」

少女は小さなケースに血を注ぐ。「僅かですが」と刹那に血の入ったケースを渡す。

「これは?」

「飲んでください」

「は?」

「砌の血は傷を癒します。僅かなのでその目全て直せるかわ分かりませんが。時間の経った傷には血の効力がありませんので早めのお飲みください」

「私を信じられれば、ですが」そう言って少女は立ち上がる。

「そろそろ行かないと主様に怒られてしまいますので失礼します」

そう一礼すると、少女は駆け足で主様の元へと戻って行った。

「砌、ね」

刹那は残された血液を見つめる。

あの少女が嘘を言うようには見えなかった。わざわざ自分を切りつけてまで渡して言った血を、信じていないからと言って捨てる気にはならなかった。

「試してみるか」

そう言って、ケースから血を口に垂らす。とくん、と心臓が大きく脈打ったのを感じた。右目に感覚が走る。細胞が活性化するような不思議な感覚。そして不思議なことに血が止まり、痛みが引き、さきほどまで何も見えなかった右目が弱視ではあるが見えるようになった。本当に不思議だった。癒しの血を持つ砌という種族を知った刹那。

「そういえば名を聞き忘れたな」


「ねえ」

そんな時にまたもや声を掛けられる。今度は女性の声だ。

「……」

無言で振り向く刹那。そこには知っている人物が立っていた。

「千木縁起≪ちぎえんぎ≫か」

そこにいたのは表の功績者。謎の多いループを街の利便性の為に活用できるようにした凄い人だ。それによって幸咲は近未来的な利便性を得ることが可能になった。

「あなた、ombreに入らない?」

「ombre?」

「私の作った異能力が使える人が集まる組織」

「その力を使って依頼人から仕事をとってきて異能力でそれを解決する」と縁起は続けて詳しく説明した。

「あいにく、私は異能力持ちではないよ」

幸咲には異能力を備わって生まれる者が存在する。それはこの街に日常的に起こる超常現象、ループが関係している。異能力持ちとはそのループが影響した体質持ちのことだ。ループによって日常的に些細な不幸体質となる””被害ループ体質”と、ループによって特殊な能力が宿る”加害ループ体質”がある。あいにく刹那はそのどちらでもない。ループが絡んでいない異能力持ちなら現代に唯一残る陰陽師一家くらいだろうか。

「私の作った異能力を使う人を集めてるの」

「作っただと?」

「そう」

縁起はそう怪しく笑った。

「TVや雑誌で見るあなたとは少し違う印象を受けるな」

「髪を下ろしているからか?」そんなことを質問する刹那。普段縁起は右側に髪をまとめている。しかし今はそれを下ろしている。結んでいるときには分からなかったが、左右で大きく髪の長さが変わっていて特徴的なヘアスタイルだった。怪しくどこか子供っぽい表情は”表”の縁起らしくない。

「こっちが通常運転なの」

TVや雑誌の顔はそれ専用の千木縁起ということらしい。「どれも私よ」と縁起は言う。

「それで、縁起殿の作った異能力とは?」

話を戻しておく刹那。縁起は口角を上げる。大きな瞳は細められた。今の縁起は美しい顔だが迫力と貫禄がある。

「皆はコードって呼んでるの。ループのような力を外部から後天的に刻み込むことで異能力が使えるようになる」

「ほお」

「その力と引き換えに私の作った組織ombreに加入して欲しい」

「何故?」

「今売り出し中なのよ。新しく作った組織でね、裏を代表する大手組織にしようと思って」

いつも穏やかな笑みを浮かべて、丁寧で真面目な印象を受けるTVの中の縁起とは違って、こちらの通常運転の縁起はどこか子供っぽい。

「何故その組織に私を誘う?」

「あなた、コードの素質があるから」

にんまりと笑う縁起。どこか気圧されてしまいそうになる雰囲気をまとっている。

「素質?」

「通常、コードは一人一つ宿すのが限界なんだけど、あなた、二つのコードを操れる素質がある」

「何故そんなことがわかる?」

縁起の説明に端的に疑問をぶつける刹那。縁起は変わらずにんまりと笑っている。

「私、分からないことがないの」

「え?」

「昔から分からないことがなかったの。それでつまらない人生を送っていた。でもね」

縁起は目を閉じる。記憶に、思い出に浸るように。

「ある先生に出会って、世界の見方が変わった。わかることと実際に経験したことは価値が違うと。だからより興味のあることは実際に経験しないとって思うようになった。私はループの研究を表向きにしているただの功績者。だから裏では自由になんでもやってみたいと思ったの」

「だからombreを作った。コードを作った。コード必要とする人に力を与える。その人は力が手に入って満足。私は新しいコードを作る御遊びができる。何かを創るのは嫌いじゃないって経験して知ったから」と縁起は笑み浮かべる。

「あなたも力が欲しいんでしょう?」

「!」

「見ていたのか?」と聞く。あのギャラリーのいた初めて負けた刹那の私闘を。しかし縁起は首を横に振る。刹那も思う。ギャラリーの中にあの千木縁起がいたら目立つ。すぐにわかるはずだ。

「言ったでしょう?私はなんでもわかるって」

口元に人差し指をと添えて首を傾げる縁起。

「負ける悔しさを知って、でも何も行動しなければ変化は訪れない。この行動は剣技を磨いて努力するでも良し、私の誘いを受けてコードを使えるようになるも良し。また他の選択肢でもいいんじゃない?」

誘っているのに選択肢を増やしていく縁起に「私に来て欲しいのではないのか?」と聞く。すると縁起は「別に?」とあっけらかんと答える。

「だってあなたはombreに入るもの」

「!」

「気持ち、固まってるんでしょう?」

「……」

「もう一押しあれば落ちるって分かってる」

「そうなのか」

掴みどころのない人だと思った。しかしコードという能力がどんなものなのかという興味は抱いた。しかしそれで強くなってもな、というのが本音だ。

「あなたに宿すコードはあなたの剣技を活かせるコード」

「というと?」

「あなたの速い攻撃をいかす『加速』のコードと『時間のコード』よ。その二つをあなたは自由に扱うことが可能。それがあなたの持っているコード素質」

「そんなことまでわかるのか」

まさか適当に美味しい話をしているのか?とも思った。すると「疑ってる、疑ってる」と縁起は楽しそうに笑う。

「そんなにおかしいか?」

「あ、あと~」

「……」

本当に読めない人だ。縁起はその調子で続ける。

「砌の女の子がこの先ombreに入る未来があるわ。色素の薄いふわふわした髪の女の子」

「!」

それはさきほど癒しの血をくれた少女の特徴と一致する。

「その未来に辿り着きたい?」

もう一度会って、お礼を言いたい。その少女のいる理不尽を取り除きたい。その為に使える力なら手にしても良いのかもしれない。

「……ああ」

刹那は縁起を見つめる。

「ombreに加入させてほしい」

「ほら言ったでしょ?」と縁起は笑う。いくつもの膨大な未来への枝分かれを完全にわかっている。今刹那にそう言わせる未来を実現したのだ。

「あの少女にまた、会えるのだな?」

「ええ。その未来に私が辿り着かせてあげる」

「して、どうやって?」

「あの子もombre来る。今ombreの長をしてる子がその子を奴隷のような日常から救うわ。そしてその子が加入する。そしてあなたとペアつまりpartenaire……相棒って意味になる」

「ほお……」

難しいことはよく分からないがその未来の可能性は存在するということだろうか。

「そーんな未来ならどお?」

「悪くない」

「じゃ決定ね。私がその未来を実現してあげる♪」

実に楽しそうな人だ。裏で生きる人特有の自由さが見て取れる。可能性の世界を選べる人。それに賭けてみるのも悪くない。

「カジノでも私は全財産を賭ける。よい未来を期待しているよ?」

刹那はそう強気な口ぶりで縁起に言う。

「私が満足出来ない未来にすると思ってるの?」

したり顔の縁起に「一本取られたな」と刹那は笑う。不安はなかった。賭け事において刹那は負けたことがないのだから。

「あ、本名でいいならいいんだけどコードネーム、決めて置いてね?」

「コードネーム?」

「そ。ombreで仕事をする際に使う仕事用の名前。あなたは名が通ってるから無くてもいいけど、私の見立てだとあなたはコードネームを使ってombreに入る」

「御明答だ」

長庚刹那は有名だ。だがそこから逃げ出したくて家を飛び出した。別の自分になれるというのならやらない手はないだろう。なりたい自分になれる、生きたいような自分になれる大きなチャンスだ。

「考えておくよ」

その刹那の回答に縁起は満足げに微笑むと「表の館にきてちょうだい」とい言った。

「館?」

そんなものはたくさんある。どの館なのかを問うと「すぐわかるわ」と縁起は言う。

「『カレノ』」

「!」

それは聞いたことがある。裏組織のトップ。異能力を使う家族マフィア。表と裏の条約が結ばれる前までは好き勝手して安穏を困らせていた自由組織だ。

「私そこの医療班なの」

「研究者だけどカレノではお医者さんなのよ♪」と縁起は言う。

「分かった。近いうちにコードネームを決めたら伺うよ」

刹那は何となく思った。カレノの長は神室泰斗≪かむろたいと≫。すなわち裏のトップ。だがしかし裏というもうひとつの幸咲の世界のトップは間違いなく縁起なのだと。

「それがソワンとの出会いであり、私がombreに入ったきっかけだ」

「そうなんですね」

と依頼人はうんうんと大きく頷く。「ソワンさんは解放される前も怪我した人に血を配っていたのですか?」と聞く。

「主様にバレないようにですけどね」とソワンは困ったように笑う。「勝手をすると怒られてしまいますから」と。

「ではリスクを犯してまでなぜ人間を助けたのですか?」

それはごもっともだ。砌は人間が嫌いで怖いはずなのに。

「できることを当たり前にしてはいけないのですか?」

帰ってきたのはそんな純粋な善意。「はわわ、なんて清らかな方なんでしょう。どうして私の敵の殲滅なんて依頼を受けてくださったのか……」と感嘆と疑問を抱く依頼人。

「ついさっき殲滅の依頼では無くなったがな」と刹那は言う。そして助けた数ある中の一人の人間、だったからソワンは私を助けたことを覚えてなかったのだな、と納得する。

「でも本当に縁起さんの言った通りの未来になりましたね」

心待はombreの長に救われ、先にombreに入っていた刹那とpartenaireを組む。

「あの時は、ありがとうな。ソワン」

あの時のお礼を今言えた。感慨深いものだ。

「そして依頼人」

「はい?」

「もう突撃でいいか?」

「私の武力なら奇襲などしなくても勝てる」とソワソワしだす刹那。

「殺さないでくださいね」

「後味悪いので」と付け足す依頼人。

「もう私は剣が振れればそれでよい」

ステッキの隠し武器を握りしめている刹那。戦闘狂スイッチが限界のようだ。

「お金のやり取りはしっかりしないとですね!」

ソワンの言葉に「そうですとも!」と依頼人は言う。

「今日こそお金を返して貰います!」

「おー!」

依頼人の言葉に心待は右手の拳を天井に向けて突き上げる。ここまで騒いでいても敵組織はボードゲームに夢中だ。刹那を雇ってまで返してもらいたいお金。刹那は興ざめだが働くことにした。

「百三円返してもらいます!」

「百三円!?」

刹那は驚きのあまり大きな声を出す。「お金はお金ですよ?」とソワンは首を傾げる。

「百円あったらもやしがたくさん買えます!」

心待は仕事であれほど稼いでいてもかなりの倹約家だ。スーパーでも値引きシールを率先して買うほどにお買い物上手さん。一人の仕事は必ず一律五百円で受ける謎のこだわりもある。

「……私を雇った方が高くつくではないか……」

刹那は裏でかなり名が通ってきている。かなりの赤字になるだろう。そんなことを思い、生温い仕事をこなしたのだった。

──

啓明はループ空港に向かう。幸咲は日本の何処かにある独立都市。隣町といえどループを利用した公共機関に乗らなくてはたどり着けない。ループを利用した次元を超える為の公共機関。それがループ空港。啓明は繋留町行きの電車に乗った。空港といえど電車もバスもある。電車に揺られること約一時間。そこで啓明は電車を降り、繋留町の地面に足を下ろす。そこからバスに揺られればHirundapus caudacutusはすぐそこだ。

「おはようございまーす」

啓明がそう挨拶をすると「はよー」と返される。タイムカードを切ってから啓明は自分のデスクに腰を下ろす。

「啓明」

とツバメの隊長が声を掛ける。「はい?」と返事をする啓明。

「これやっておいてもらえるか?」

そう渡されたのは事務仕事の書類。「あー、いいっすよ」と啓明はそれを受け取った。「悪いな」と隊長は言う。そうこうしていると仕事開始のチャイムが鳴った。

啓明は午前中はその書類仕事に勤しんだ。パチパチとキーボードを叩く。電話が鳴る音がした。女性職員が電話対応をしている。少ししてからその女性職員は「静寂さん」と声をかける。「はい?」と返答した。

「水難事故で救助要請です。今出れますか?」

繋留町では大雨警報が出ていた。川が氾濫したらしい。古い繋留町では防災対策が全てに適用できているとはいえない。啓明はレスキュー課だった。

「はい。行けますよ」

啓明は事務仕事で使っていたPCを閉じる。途中なものはツバメに帰ってきてからやるつもりだ。

啓明は救助に必要な道具を持って「静寂、出ます」と言ってツバメの建物を出る。専用の自動車に乗り込んで現場に向かった。

救助はスムーズに行われた。幸いにも氾濫は小規模。念の為の避難要請。それもすぐに解除された。その地区の住民もすぐに家に帰れるだろう。手助けが必要な人の避難の手伝いをして避難を促す。

「静寂さんありがとう」

小さな女の子にお礼を言われる。「気をつけてねー」と小さく手を振る啓明。運命に導かれるようにツバメに入社したがこの仕事は嫌いではない。人と触れ合うことのできるこの仕事はむしろ好きだった。良い事を当たり前にできるから。

そのあと啓明はツバメに戻り、途中だった事務仕事を終わらせる。残業にはなったが夜にはPC作業も終わり「お先失礼します」と啓明はツバメをあとにした。

バスに揺られ、幸咲街と繋留町を繋ぐループ空港に足を踏み入れる。次元を超える電車に揺られ、あとは徒歩で家へと帰るのだった。

──

仕事を終えて家に戻ってきた刹那と心待。遅れて啓明も戻ってきた。その時間夜の十時。

「おかえり」

リビングのソファに座る刹那にそう声を掛けられる。白いシャツに腰にはアクセントの青の腰巻。お尻が隠れる後ろが長いタイプの腰巻だ。それに白いスキニーパンツ。まだ仕事着だった。

「ただいま戻りました」

そう返答をする啓明。啓明もオレンジの繋ぎで仕事着だ。ダボついたズボンにカッチリしたジャケット。啓明にはこんな日常のやり取りは憧れの中でしかなくて。だからそんな当たり前の日常を当たり前にくれることが何より嬉しかった。同棲して良かったと思う。前は寮に人は居たが、部屋では一人。休むだけの部屋だったから。

「聞いてくれ啓明殿」

刹那は今日行った仕事現場が間抜けだった。生ぬるかった。スリルが足りなかったと愚痴る。こんな刹那を見た事がなかった啓明は少し嬉しかった。気を許してくれているんだな、と。少し子供っぽい一面を見せてくれた刹那の話を刹那が落ち着くまで聞く。十数分位で満足したようでいつもの大人っぽい刹那に戻った。そこで啓明は抱いて居た疑問を口にする。

「ソワンちゃんは?」

今日は刹那と一緒に仕事に出かけたのを朝見届けたはずだ。その心待の姿が刹那の傍に見当たらない。いつも刹那の近くにいるはずだが。

「お前と自彊の帰りを待っていて眠ってしまったよ」

そういう刹那はソファを指さす。啓明の角度からは背もたれで腰掛ける部分が見えなかったので回り込む。そこにはソファに丸くなって眠る心待の姿があった。すーすーと小さく寝息を立てている。

「健康優良児なんですね」

と啓明が言うと「私と出会ったときから早寝早起きだ」と刹那が教えてくれる。

「愛らしいなあ」と感じた気持ちを声にだすと啓明はしゃがむ。「ただいま」とそっと頭をなでた。すると「ん」と小さく声を出して片目を開く心待。

「おかえりなさい。おとうさん」

寝ぼけているのか、本気でそう呼んでくれているのかはわからないがそんなことは些細なこと。心待に「おとうさん」と呼ばれるのが嬉しかった。

「お兄ちゃんは?」

むくりとゆっくりソファから身体を起こす心待。ふあぁと眠たそうに欠伸をする。しばらくぼーっとして目を覚まそうとする心待。心待の質問に刹那は首を傾げる。

「まだ帰ってないな」

そういって刹那は壁掛け時計を見る。もう十時十五分になる。

「cortegeってそんなに仕事、長引くんですか?」

「……いや」

「ombreとcortegeは姉妹会社だ。partenaireを組むかソロで働くかくらいしか違わん」

刹那は端末を操作すると裏の地図をみせる。そこに落書き機能で赤い丸を描く。刹那からの情報だと裏のごろつきがたむろする、表でいう犯罪エリア。

「cortegeに依頼して自彊の行方を知ろうと考えていたところだ」

「ソワンを連れてな」と刹那は心待を優しく見つめる。「?」と心待はよく分かっていないという顔をする。確かに自彊と心待はよく似ている。cortegeが駄目でも「この子に似た男の子を探している」聞き込めばチャンスはあるという考え。

「まあ、裏にプライバシーはないということだ」

そう言うと刹那はソファから立ち上がる。「行くぞ」と言って玄関へ向かい、靴を履く。まだほんのり眠そうな心待と心配する啓明もあとに続いた。

三人は夜の裏の街へと歩きだした。


──

今は夜の十一時と半分が過ぎた頃。三人は自彊がいるであろうエリアに到着する。cortegeに自彊の行方を聞いた。依頼という扱いをとり、心待の兄を探していると説明する。依頼金を渡し、代わりに情報を得たのだった。

「ここ、か」

裏の表通りから奥へと潜んだコンテナハウス。ここが自彊の今日の仕事場所。入口しか中を窺えそうな隙間がない。

「どこからか中の様子を窺えないすかね」

入口は堂々とある。しかし窓は一つもない。裏でも有名人の刹那と心待のpartenaire、隣町だが名の通ってる啓明は敵に見つかったら最後。応援を呼ばれるか逃げられるかだろう。応援であれば刹那と啓明が居れば大丈夫だろうがそれは敵さん次第。

「それに、ソワンちゃんは戦えないしね」

「いや」

刹那が言葉を挟む。それに「え?」と啓明は首を捻る。

「ソワンちゃんの戦い方って血液の経口摂取で相手の容態を操るんですよね?」

「ああ、そうさね」

「でも武力がないから刹那さんが切り込んで得た血液を摂取して攻撃したり、既に摂取済みの血液情報を使って刹那さんのステータスを向上させてサポートするんですよね?」

「ああ、そうさね」

「?」

一体どうやって一人で戦わせるんだろうか。「戦うだけが戦いではない」と刹那は言う。

「敵の情報が知りたいのだろう?」

「はい」

仲間がどのくらいいるのか。逃げ道はあるのか。戦闘するにおいて知りたい情報を集めたいのだから。

「まあ、刹那さんがいれば関係ないか」

「もう突入しましょう」と歩き出す啓明に「待て」と刹那は啓明の肩を掴む。

「それでは自彊の仕事に支障がでるかもしれん」

「あ」

cortegeの自彊に依頼した仕事をombreのゾディアックが解決する。それなれば自彊への依頼が減るかもしれない。任務失敗の肩書きがつく。

「なら俺が交渉して──」

外交官もしている啓明は口が回る。「それでも同じことだ」と刹那が言う。それが仕事を代わったombreのゾディアックか隣町の明鏡止水 啓明に代わるだけの話。

「じゃあ一体どうすれば」

ここに自彊がいるかも分からない。居たとして苦戦しているかもしれない。朝から仕事に出て今の今まで帰っていないのだから。

「そこでソワンだ」

「え?」

「ソワンは極度の人見知りだ」

そう言う刹那に「知ってます」と頷く啓明。

「その結果習得したスキルがソワンにはある」

「それは?」

ゴクリと唾を飲み込む啓明。そんな啓明にしたり顔で刹那は言う。

「潜伏スキルだ」

「潜伏、スキル……?」

刹那の口から放たれた言葉をそのまま繰り返す啓明。

「ソワンは気配を消して人に見つからないように情報を集めることができる」

砌は人が怖い。そんな砌の中でも人に恐怖した経験があり、人見知りまで持っている心待は気配を消すスキルを身につけた。その成功率は八割。大抵の人は気づかない。それが刹那と出会って極めた二年間の重みの潜伏スキル。

「よくそうやって敵の様子を探って私に情報を流すんだ」

ソワンは情報屋のようだ。

「まあゾディは敵が多いって言っても構わず一人で殲滅しちゃうんですけどね」

「ソワンちゃんの情報を活用してくださいよ!」

「活用している。それがあるから私が自由に動けるのだ」

そう言って刹那は心待の頭を撫でる。くすぐったそうに心待は笑った。

「行けるか?ソワン」

「はい!」

ふぅーっと息を吐く心待。音も立てずに物陰を渡って移動していく。今日は家を出る前に黒いパーカーをピンクのドレスのようなふわふわのワンピースの上に着てきている。そのフードを被っているので長くてふわふわした色素の薄い髪もバッチリ隠れている。このパーカーはombreの長に拾われて短い期間仕事を共にした時に貰ったパーカーだ。これを着てきたということはこういうことを想定していたのだろう。どんどんと、堂々と心待はコンテナハウスの奥へと足を進める。中を移動する度に心待がどこにいるのか分からなくなっていく。

「本当に、消えてるみたいだ」

そう感嘆する啓明をよそに刹那は携帯端末の画面を見ている。

「刹那さんは何をしているんですか?」

そう聞くと刹那は無言で画面を傾けて見せてくれる。横から刹那の端末の画面を見る啓明。どうやら心待とビデオ通話を繋いでいるらしい。心待が潜伏し情報を刹那に流している。

携帯端末越しに鈍い音が響く。1回、2回と続けて鳴るその音に「(なんだ?この音……?)」と啓明は思考を回転させる。男らの笑い声も終始入っている。心待が画面を傾ける。敵に見つからないように”それ”を映した。

そこには拘束された自彊と男女複数人が自彊を中心に囲うように佇んでいる。天井から吊るされたロープと自彊の手首が繋がっている。足に力は入っておらず、膝を地面につけていた。

「なんだ、これ」

啓明の中の怒りの感情が滾っていく。きっと隣で無言で見ている刹那も同じ気持ちだ。瞳に静かな怒りが宿っている。

「まるでリンチだ」

ギリっと歯を食いしばる啓明。噛み締めた奥歯が欠けそうなほど。

「行きましょう刹那さん。もう関係ない。今すぐ乗り込んで──」

「大丈夫、だろうか」

「え?」

「大丈夫なワケないでしょう!」と声を荒あげる。エキサイトしている奴らには啓明の声は届かなかった。

「私らが助けにいって、その行動を自彊が”借り”と感じた場合、この先の自彊の行動を狭めないか?」

刹那は迷っている。怒りに任せて自分のしたいことを押し通して良いものか。

「私らに”助けられた”から。そう思ったら今後の自彊の行動に不自由を与えないか?」

刹那は俯く。本当に大切だと、もう家族だと思っているからこそ迷っている。

「助けてもらったから、ソワンが心を許しているから、家族になって欲しいと思われているから。借りがあるから応えるしかない。そんな理由で私達の家族になることを選ぶのは、望むのは、私としてはして欲しくない」

”借り”。これは自彊を縛ることになる。

「確かにあいつはそう思うかもしれません」

「……ああ」

「でも俺は、人が、あいつは砌だけど、あいつが傷つく所なんて見たくない。”恩だ”って思わなくていいって説得してみせます」

まっすぐ言い放つ啓明に刹那は目を大きく開く。そのあとでクスッと笑うと「そうか、そうだな」と目を閉じた。

「お前はそういう奴だよな」と言って歩き出す。啓明の前まで歩くと「迷いが晴れたよ」と背中越しに言う。

寂しいけど、今の自彊にとって啓明たちはやっと出逢えた生き別れの妹の、心を許した人という関係。それを借りと感じてしまう関係だ。「それなら」と啓明は笑う。

「そんな関係飛び越えて、あいつとも、いや、自彊とも家族になろう」

「ふふっ。そうさね」

「ゾディ」

小声で心待が携帯端末越しに話しかける。

「全部で十名程です。武力はほとんどないと思われます。手に鈍器を持っている男性一名。後ろにライフルが一つ。女性はお兄ちゃんの容姿をひどく気に入っているようです」

端的に的確に情報を述べる心待。それを黙って聞く。

「お兄ちゃんを自分のものにしたくて依頼を通してお兄ちゃんと接触したようです」

それで任務完了と伝えに戻り、依頼金を受け取る際に複数人がかりで拘束されたようだ。

「そうか」

と静かに言う刹那。「女性がお兄ちゃんを欲しいって言ってます」と心待は付け足す。

砌というプレミアの価値に加えて、整った自彊の容姿は魅入るほどに美少年だった。砌の扱いとしてはメジャーな人権なしの物扱い。自分のモノになるまで暴行を加えるつもりらしい。しかし、自彊はいくら暴行を加えられたとしても意思を変えるほど軽い想いの持ち主ではない。これではジリ貧だ。

「十名か」

と刹那は口に出す。

「朝飯前さね」

「刹那さん今、夜ですよ?」

「いや、零時を回った。もう朝さね」

「それもそうか」

と啓明も笑った。

「突撃する」

短く伝えると「はい」と心待からの返事が聞こえた。ゴーサインだ。堂々とコンテナハウスの入口を通過する刹那と啓明。

「やあやあ、君達何してるのかな?」

「あ?」

啓明の声に気づいた男女十名が一斉に振り返る。それから「誰だテメエ」と凄んでくる。

「隣町の自警団です」

と軽い調子で言う啓明。すると男は「こいつ知ってるぞ!隣町の自警団ツバメの明鏡止水 静寂啓明だ!」と叫ぶ。

「よく知ってるね」とオーバーに驚く演技をする啓明。

「テメエの出る幕じゃねえよ!ここは幸咲だからな」

「私もいるがな」

そう言う刹那を見ると「げ!」と苦い顔をする男ら。すると直ぐに「やべえ!ゾディアックだ!」と声が飛び交った。

「依頼もないのになんでこんなとこいんだよ!」

「依頼がなくても裏くらいうろつくが?」

「くっ!い、いくらゾディアックでも砌は渡さねえぞ!裏なら砌を入手したって良いんだ!なんたって自由の街だからな!」

動揺を隠すように声を張る男。「なら」と刹那が続ける。その真面目な顔には迫力があった。

「私がこの砌を奪っても問題ないだろう?」

「俺も裏なら自由に動いていいよね?」

「郷に入れば郷に従えって言うしね♪」と言ってのける啓明。刹那はステッキ型の隠し武器を抜く。啓明も腰に装備している刃のついたブーメランを構えた。トクン、と二人の心臓が高鳴った。心待のステータス上昇のサポートだ。

身体が軽い。疲れが遅い。いつもより速く動ける。

「もう諦めて逃げようよ」と女性は男性に泣きつく。「お前が欲しいって言ったんだろ!」と泣きつかれた男性は声を荒あげる。

「仲間割れですか?」

いつも間にか背後に立っていた心待に「!?」と驚きの反応を見せる男女。

「こいついつの間に!?」「さっきまであいつら二人だけだったよね!?」と慌てる男女に「ずーっといましたよ?」と言う心待。持っていたナイフで自彊の拘束を切る。がくっと地面にへたり込む自彊。

「自彊」と刹那が呼ぶ。霞む視界で視線を刹那に注ぐ自彊。

「自分で決めろ」

刹那の言葉によろりとよろめきながらも立ち上がる。

「逃げ道は俺らが塞ぐ」

啓明も戦いながら自彊にそう言う。刃のついたブーメランが空中を踊り、敵を切り裂いていく。

「なんで……?」

疑問が隠せない自彊に「お兄ちゃん」と心待が声を掛ける。「心待」と自彊は妹の名前を呼ぶ。

「皆、お兄ちゃんを心配して来たんです。砌が欲しいとか、お金が欲しいとか、思ってないんです」

ソワンは手に持っていたナイフをしまう。あいた両手で自彊の手を包む。殴られて傷ついた兄の手を。

「皆お兄ちゃんに貸しを作りたくてここにいるんじゃないんです」

「……」

「ゾディとおとうさんは私たちを人間として扱ってくれます」

「お兄ちゃん」と心待は続ける。

「守るとか、助けるとかがお兄ちゃんの仕事じゃないんですよ。頼って頼られて。それでいいんです」

「兄妹ですから」と心待は笑う。「きっと」と続ける心待。

「お母さんもそういう風にお兄ちゃんを縛りたくて言った言葉じゃないと思います」

「!」

──自彊、心待を守って

「支えて、支えられて。そうやってまた家族として私達と過ごしませんか?」

心待は目を閉じる。優しく自彊の手を撫でる。砌の特性で少しずつ痣が自然治癒されていく。砌は傷の回復も早い。

「少なくとも私は、ゾディは、おとうさんはそう思ってます」

ゆっくり目を開く心待。ふんわりと目を細めて笑う。

「あとはお兄ちゃんが決めてください?」

「(ああ、殴られた箇所が鈍く痛むなあ。まだ鼻血も止まんねえ)」

ははっと自彊は笑う。心待は自彊の流した血を両手で掬った。そのまま経口摂取する。トクン、と心臓が高鳴った。自己治癒とは違う心待による血流操作が身体を巡る。血が止まる。傷が癒えていく。

──自彊、心待を守って 二人で生きて……

──二人で幸せに生きる未来を心待ちにしています


ああ。父さん、母さん


「殴られた分、お返ししねえとなあ」

怪我の治った自彊は下半身に力を込める。

「……っ!!」

男女からは怯えか見て取れた。一歩、一歩と近づいていく。

「く、来るな……!」と腰が引ける男女。


──俺、心待にも ゾディアックにも あいつにも 守られたよ。

──でもさ、俺も、ちゃんと守ってやれたかな?


腰を落として足に力を込める。拳を強く握った。


──これからは ちゃんと 心待を守るから

──でも、でもな。父さん、母さん


──俺も頑張ったんだよ……?


「血流操作ぁ─────っ!!」

全身の血を巡らせる。その血液の効果を変化させられるのが自彊のコード。自彊はその血を炎へと変化させた。握った拳に炎が、熱がまとわれる。


──頑張ったね、自彊


「! 」

ふと、両親の声が聞こえた気がしてはっとする。しかし視界に映ったのは両親の姿ではなく倒れた男。

「女は殴る趣味ねえからとっとと失せろ」

ドスのきいた声で自彊がそう言うと「はい!」と言って倒れた男を引きずり、刹那と啓明が足止めしていた仲間に「いくよ!」と声をかけて一斉に逃げていった。

「ったく優しすぎんだよ」

ぽそっと言った啓明の言葉は自彊には届かなかった。


──

「なんで、来てくれたんだ?」

自彊は心待が言ったことが本当か知りたくなって啓明にそう尋ねた。皆、何も言わずに帰路につく。四人で寝たあの家に向かっている。「んー?」と啓明は言うと「お前の帰りが遅いから心配になって」と普通のトーンで言う。

「心配、か」

心配されるなんて懐かし過ぎて、良く思い出せないが悪い気はしない。「なあ」と自彊は続ける。

「ん?」

「俺も心待と……ゾディアックとお前と一緒に居てもいいかな……?」

「あ、」

自彊の口からその言葉が聞けたのが嬉しくて口が開いてしまった。そのあとで「もちろんだよ!」と啓明は笑った。ふふっと刹那も笑みを浮かべる

「じゃあ改めて家族四人で暮らしていこう」

「よろしくな。自彊」と刹那は言う。「よろしく」と控えめに言葉を返す自彊。

「お兄ちゃんとまた一緒に暮らせるなんて夢みたいです!」と心待も嬉しそうに笑った。そんな心待に自彊は声をかける。

「心待」

「はい?」

「なんですか?」と純粋な疑問を瞳に宿らせる心待。

「あの時、十二年前。守れなくて、ごめん」

「そんなこと……!」

「でも俺も頑張って力つけたからさ。これからはちゃんと──」

守るから。そう言いかけて辞めた。

「持ちつ持たれつでいこう」

「……!はい!」

心底嬉しそうに心待は笑った。

「じゃあ皆帰ろう!今度家族創立記念でパーティしよう!」

浮かれる啓明に「浮かれ過ぎだろう」と刹那に却下される。「えー……」しょぼんとする啓明。「気が向いたらな」と付け足す刹那。「流石刹那さん!」と何が流石なのかわからない反応を示す啓明。

「お前も、その……」

啓明に向かってそう口篭る自彊。顔を赤らめては

「ありがとな」

と言った。自彊は真っ赤になって照れていたが、からかったりはしなかった。

「おう!」と満面の笑みを返す啓明。だって、嬉しかったのだから。

──

四人で家族になってから数週間が経った。心待は朝六時ぴったりに目を覚ます。ピピピっと携帯端末のアラームアプリが朝を知らせている。画面をタップしてアラームを止めた。

「んん〜」

と両手を天井に向けて大きく伸びをする。パジャマが少し上に引っ張られた。ベットを降りて少しだけ歩きクローゼットを開ける。いつものフリルのたくさんついたワンピースを手にとった。ombreの長から貰った、ピンクのワンピース。リボンもついている。いつしかこういう衣装ばかりを手に取るようになった。衣装はカレノ系列の衣装店で購入している。顔なじみの店だ。

慣れた手つきで着替えを済ませると心待はとたとたと螺旋階段を降りて洗面所に向かう。長くふわふわした色素の薄い髪にブラシをかける。うん。もっふもふだ。これまたombreの長にやってもらって定着したヘアアレンジをしていく。三つ編みのハーフアップだ。これもまたお気に入り。

「よし!」

身支度を整えた心待はキッチンへ向かった。これから朝食を作るのだ。炊飯器から白いもくもくが出ている。お米の準備はばっちりだ。コンロの下の扉から鍋を取り出す。使う前に軽くゆすいだ。水を入れて温める。味噌汁を作ろうとしている。味噌と出汁を用意して頃合いをみて投入する。具は豆腐とワカメとネギにした。その次に卵を割って菜箸でよく解いていく。四角いフライパンに溶き卵を流し込んでは層を作っていく。卵焼きだ。ほんのり甘い味付けが好み。フライパンに油をしいてウインナーを焼く。タコさんにはしなかった。また時間のある時に作るとしよう。その間にグリルで魚を焼いた。今日の朝食は和食だ。刹那が好きな献立。

「はよ」

二階から自彊が降りてくる。「おはようございます」と元気に挨拶を返した。

「今日の朝飯、和風にしたんだ」

「はい!」

「いいな」と自彊は笑う。そのまま心待の頭をくしゃくしゃに撫でると心待はくすぐったそうに笑った。

「ゾディアックはまだ寝てんのか」

自彊は心待の頭を撫で終えると螺旋階段の上の刹那の部屋に視線を送る。

「もー、ゾディったらー」

心待はぷりぷりと螺旋階段に向かう。「仕事がないからってダメです!規則正しく生活しないと!」とスリッパをぱたつかせていた。

「じゃあ俺が起こしてくるよ」

自彊の言葉に「へ?」と振り返る心待。でも「お願いします」と穏やかに笑った。とたとたと自彊はまた螺旋階段を登る。自彊はスリッパは好みではないので素足だ。その間に心待は家族分の朝食を用意する。お米をよそって、プレートに作ったおかずを並べる。お味噌汁もお椀四つに注いでお盆に乗せて机に運ぶ。それをリビングの机に持っていった所で自彊と刹那が降りてくる。

「ゾディ、おはようございます」

「ん、おはよう」

まだ寝ぼけている。寝癖もついたままだ。

「ほら、顔を洗ってきてください」

「んー」

そう返事をして刹那は洗面所に向かおうとして足を止める。視線はリビングの机の上に落とす。そこにはお椀が”四つ”。どれも湯気が出ていて温かそうだ。出来たてを用意してくれている。……がしかし。

「ソワン」

「はい?」

「啓明殿は……」

そう遠慮がちに指摘する刹那の言葉を「ん?」とクエスチョンマークを頭上に浮かべるも直ぐに理解する。「あ」と短く声を出す心待。

いつしかの会話。

──お前仕事は?

──これからはもっと早く家出ないといけないんだ。隣町だからね。

「これは……」

啓明の分のお盆に直ぐ手を出す心待。「余分でしたねっ!」と慌てる。いけない、いけないと心待はお盆をもってパタパタとキッチンに駆けていった。ラップをかけて冷蔵庫にしまおうとする。

「今日はゾディは単独のお仕事、お兄ちゃんもcortegeのお仕事でしたね。私は今日は一日暇なのでこれは私がお昼に食べるとします!」

「勿体ないですからね!」と空元気を振りまいて。

「……」

自彊と刹那は無言で顔を見合わせた。

あれから。自彊を助けた夜以降心待は啓明に会えていない。朝起きるのが早い心待よりも早く、啓明は起き、家を出ている。朝食はコンビニで済ませると言っていた。職場は隣町の繋留町の自警団。通称ツバメ。隣町ということはいくら次元を越えられるループ空港の、利便性が高い公共機関を使ったとて時間はかかる。ということは通勤だけでも時間がかかる。その為にはいつもより家を早く出ないといけなかった。そして啓明は帰りが遅かった。遅くまで仕事をして、時に残業をして。空港を使ってこの家に帰ってくる。ループが存在する幸咲街は特別な独立都市。隣町といえど次元を超えなければ行き来できない。日本の何処かに存在する独立都市だから。しかし、どんなに離れた街にもループ空港さえ設立してしまえば、ループで街と町を繋いでさえしまえばループ空港のあるどの場所にも公共機関を使っても行き来できる。外交も積極的に行っている幸咲には多くの人が集まり、観光し、時に移住する。

話を戻そう。そんなループ空港を使って通勤する啓明が家に戻るのは早くて夜十時を軽く過ぎる。健康優良児の心待はその時間まで起きていることが難しかった。起こすのも忍びないのでそっとしておく。だから。あれから心待は啓明と会話すらできていないのだった。


心待を一人残して仕事に出向いても大丈夫なのかと刹那と自彊は思った。

せっかく四人で家族になってもお互いに多忙。心待に至っては父親代わりの啓明に会えてすらいない。啓明の分の朝食まで無意識に用意して、それを昼に自分で食べるのなんて虚しいことだろう。


「なあ、心待」

「はい?」

「俺、昼前には今日帰れるからさ。その朝食、弁当箱に詰めといてくれるか?」

「え?」と心待はきょとんとする。「お兄ちゃんが食べるんですか?」と聞きたげな顔だ。

「昼、父さんに一緒に渡しに行こう」

「……」

少し悩んだ後に「はい」と小さく心待は返事をした。


──

どんな顔で。おとうさんに会えばよいのか分からなくなっていた。どんよりとした心の天気に気分が引っ張られていく。

お昼時より少し前に自彊は「ただいま」と言って帰ってきた。「おかえりなさい」とパタパタとスリッパを鳴らして心待が玄関まで駆け寄ってくる。表情は固かった。緊張している。

「行くか」

と自彊が言うと「はい」と心待は手にお弁当を包んだランチクロスを手にもって靴を履いた。ロリータパンプスだ。

自彊と共にループ空港に訪れる。心待はキョロキョロと周りを気にしている。心待は幸咲から出るのは初めてだ。仕事以外は人見知りなので警戒している。

自彊が選んだのは電車。空港と名がついてはいるが飛行機に電車に、乗り物は色々ある。ものによって移動速度と料金が変わるのだ。自彊と心待は繋留町行きの電車に乗り込んだ。平日のお昼時。人はそこそこ乗っていたがシートに空きもある。自彊は心待をそこに座らせ、目の前に立ってつり革を掴む。心待はお弁当の包みを大事そうに抱えていた。人見知りに緊張もあって移動中はずっと俯いていた。


時空をワープすること約一時間。アナウンスが流れた。次が繋留町だそうだ。

「降りるぞ、心待」

「……」

心待はゆっくりと席を立つ。どこか迷った表情。きゅっと自彊の服の裾を掴むと歩き出す。とた……とた……と一歩ずつ。ゆっくりと。

心待を連れて自彊は繋留町を歩く。自彊は繋留町を訪れるのは初めてじゃない。 ここからバスに乗ってツバメを目指す。バスには三十分程揺られたが、心待の表情は曇ったままだった。バスを降りる。目の前がツバメの建物だ。心待の手を引いて自彊は中へと足を踏み入れる。

「すみません」

「はい?」

受付に事務の女性が来てくれる。自彊は「静寂啓明は今いますか?」と訊ねる。それに「静寂ですね。少々お待ちください」と言うと続けて「確認しますね」と奥のホワイトボードを見ている。心待は持ってきたお弁当をぎゅっと持つ。まだ俯いたままだ。

「静寂は今出ておりまして」

そう確認してくれた女性は言う。それに「そうなんですね」と自彊はあっさりと返した。啓明はレスキュー課だっただろうか。

ツバメの”序列風切”。安穏と同じ治安を守る戦闘員も啓明は担当していると聞いている。

「静寂くんのファンかな?」

女性は優しく聞く。その目は心待を見ていた。「プレゼントなら預かって渡しておくよ?」と告げる。

「あ……」

声が、続かなかった。その様子を見て「俺たち身内なんです」と自彊が代わって話す。それに「え!」と驚く女性。啓明は今二十三歳。自彊は十八歳で心待は一つ下の十七歳。ほとんど兄と言っていい歳なので驚くのも無理はない。幾つでつくった子供なんだろう?とか連れ子とか?やっぱり兄妹?と色々考えてしまう女性。それでも「そうなんですね」とだけ言った。うん、大人だ。

「じゃあ預かるね」

そう言って女性は心待の方に両手を出した。

「……はい」

心待もお弁当の包みを女性に渡した。きっと啓明に確認を取ってから渡してくれるだろう。「身内なんです」とは言っても家族なだけで血縁ではない。ファンからのプレゼントという扱いで渡されるはずだ。表情の晴れない心待を見て、自彊は

「父さん戻るまで待ってみるか?」

と聞く。休憩スペースがあるのでそこで待たせてもらうことは可能だ。それに心待は

「……いえ」

と首を振り、「帰ります」とツバメに背を向ける。とた、とた、としょんぼりした足取りで進んでいく心待の隣を自彊もゆっくり歩いた。

帰りもまたバスに三十分。ループ空港に着いて電車で一時間揺られる。

「父さん、やっぱ忙しいんだな」

会話を振る自彊に「……そうですね」と小さく答える心待。何かを考えているように見えたのでそれ以上自彊は何も言わなかった。


──おとうさんです、って言えなかったな。


おとうさんって、静寂啓明って一体、私のなんだろう?

それが、分からなくなった。


──

「ただいまー」

夜十一時三十分。啓明が家に戻る。

「おかえり」

端的に言葉を返したのは刹那だ。

「自彊は?」

「今は風呂だ」

「あー」

「汗かいてきたんだろうな」と啓明は独りごちる。自彊は武力で解決する仕事を選んでこなしている。コードと鍛え上げた体術をメインに。

「ソワンちゃんは?」

分かっているがそう聞いてみる啓明。刹那は静かに「……もう寝ている」と答える。「そっか」と言うと「そうだよな」と視線を落とした。朝早くに起きて夜は自然と眠くなる心待。規則正しい生活をしている健康優良児。何度か「おとうさんが帰るまで起きています」と眠気と戦っていたこともあったがそれに勝利することはできなかった。それは今日も同じだが、今日はそれだけじゃない。

「今日はソワンちゃんと自彊がツバメに来たって聞いたんです」

「そのようだな」

「お弁当、ありがとうって言いたかったんだけどな」

啓明の視線はリビングの机に向けられている、そこにはラップのかけられた今日の夕食。隣に添えられたシンプルなメモ用紙には『温めて食べてください』と一言。そのメモ用紙をまじまじと見つめてしまう啓明。すると

「父さんおかえり」

と風呂から出てきた自彊に声を掛けられる。その声に反応し振り向くと自彊はタオルで濡れた髪を拭いていた。黒いタンクトップにダボついたグレーのズボンといういつもの格好。”心待だけ”が啓明との時間を更新できずにいる。

「仕事、忙しいのか?」

自彊はそう尋ねる。朝早く出て、夜遅くに帰り、職場に伺ってもその場にいなかった啓明。だからそう聞いたのだろう。

「まあ、ちょっと」

レスキュー課の仕事に序列風切の戦闘、事務作業。啓明の立場は仕事が山ずみらしい。

「少し他の者に仕事をまわすことはできぬのか?」

刹那もそう尋ねてくる。それに「できます。これからはそういうの増やそうと思ってます」と答える啓明。眉を下げて笑ってみせた。でも。

「俺、このままソワンちゃんとは会えないのかな?」

そんな弱気が口に出る。啓明もまた、家族との過ごし方は、親代わりではあるが親の立場は分からないことばかりだ。

「……」

自彊と目が合った。髪を拭き終わり肩にタオルを掛けた。啓明は「?」と疑問の眼差しを向ける。「父さん」と一言口にだすと

「ばかぁ?」

と首を傾げる自彊。その言動に「へ?」と間抜けな声が出る。

「歩み寄らなきゃ、関係なんて縮まらないよ?」

そんな自彊の言葉にふふっと刹那は笑う。「そうさねえ」と同調した。妹にもう一度出会う為に頑張った自彊が言うのは説得力があった。

「心待も今日。がんばって父さんの職場に行ったんだ」

「”会いに”行ったんだよ」自彊のその言葉にはっとする啓明。

──俺は?と考える。

刹那とお近づきになれたのも、自彊が家族になったのもそこには心待がいた。

「何かできることでソワンに歩み寄ってみてはどうだ?啓明殿」

「そう、っすね」

短く納得の声を出す。ははっと笑いがこぼれた。

「家族を繋いでくれたのは、ソワンだもんな」

そう言うと啓明はオレンジのジャケットのポケットから仕事で使うメモ帳を取り出すと1枚切り取る。そこにペンを走らせた。

──

ピピピ、ピピピ。アラームが鳴る。朝六時を知らせるアラームだ。携帯端末の画面をタップしてアラームを止める。むくりと心待はベッドから起き上がった。「ふわあ」と一度欠伸をしてからベッドを降りてクローゼットを開ける。いつものフリルのたくさんついたピンクのワンピースを身にまとい部屋を出た。少しの廊下を歩き螺旋階段を降りる。そのまま洗面所に向かった。顔を洗って、歯を磨いて、もっふもふの髪をブラシで梳かすと器用に三つ編みのハーフアップを編んでいく。「よし!」と一人声を出すとリビングへ向かった。誰も居ないリビング。まだ心待しか起きていない朝。いや、啓明はもう家を出ている。いつもの風景だ。寂しい朝の風景。慣れるしかないと思いつつも慣れるスピードはゆっくりで頭と心がチグハグだ。「はあ」とため息をつく。啓明は毎日頑張って仕事をしている。朝早くても夜遅くても。それを「寂しいから」といって認めてあげられない自分を窮屈に感じた。

「ん?」

と心待はリビングの机に視線を落とす。いつもと違う変化。今日はいつもと同じ朝では無かった。ゆっくりとした足取りで机に近づく。そこには一枚のメモ用紙が置いてあった。

「何でしょう、これ」

手に取るとそこには手書きのメッセージ。


──

お弁当を持って行った日の帰りだ。ループ空港を出て表の幸咲を歩いていた。「お兄ちゃん」と心待は口を開く。それに「んー?」と自彊は返した。

「おとうさんは、ヒーローですね」

「ヒーロー?」

町の人の為に働く自警団。見方によれば確かにヒーローかもしれない。少なくとも心待にはそう見えている。

「町の人の為に汗水垂らして働いてるからな」と肯定ともとれる言葉を返す自彊。

「私、」

──ヒーローのおとうさんが嫌いです。

「!」

心待は俯いたまま呟く。苦しそうに今にも泣き出しそうに。

「町の人の為に頑張って凄く立派だと思います」

「そうだな」

「朝も早くて帰りも遅いです」

「そうだな」

「おとうさんは、町の人が大好きなんですね」

「かもな」

「おとうさんは──」

──私のことが、どうでもいいんでしょうか……?

「そんなこと……!」

心待の言葉をしっかり聞いていた自彊は咄嗟に言葉を出したが「あ……」と続けて声を出した所で何も言えなくなった。心待の瞳には諦めと寂しさが宿っていたから。「それは違う」と言いたかった。けど、言えなかった。それを言ってしまうと自彊は啓明を肯定して心待を否定するように思えてしまったから。心待の抱いた気持ちだって本物なのに。偽物の気持ちなんてないのに。「俺は」と自彊は別の言葉を声にする。少しだけ心待が視線を上げる。

「俺は、父さんの仕事好きだな」

「え?」

「俺、何度か父さんの仕事、近くで見に行ったことあるんだ」

「……」

心待はまた視線を下げる。「最初はさ、俺も仕事でたまたま通りかかった所で父さんの仕事見ただけだったんだけどさ」と付け足す。

「ファンの子も多くてさ、一人ひとりに丁寧にファンサとかしててさ。敵と戦うのもかっこよくてさ。きっと町の人の事、大好きなんだよ。心待が言う通りさ」

「……はい」

また俯いてしまった心待に「でもな」と自彊は言う。

「同じだけ俺たち家族のことも、好きだと思う。大好きだと思う」

「心待は」と続ける。

「父さんのこと、嫌いか?」

「……!」

勢いよく顔を上げる心待。眉は困っていて口元には、瞳には迷いがあって。睨むような、縋るような複雑な感情が入り交じった表情。でも。真っ直ぐな”本音”が宿っている。

「違います!」

そう心待は答えていた。

「私……っ、私……っ!」

気持ちに言葉が追いついていない。何度も何度も言葉を吐いては繰り出してを繰り返す。最後に出た言葉は自分の本音。寂しさから自分を守る為にしまって、押し殺した心待の本音だ。

「私、おとうさんが……大好きです……」

今にも泣き出しそうなのに笑おうとしている。ぽん、と心待の頭に手を置く。優しく撫でる。

「じゃ、父さんも心待のこと、大好きだよ」

「だから大丈夫だから」と口にすると「はい……っ、はい……っ、!」と何度も頷く。ぽろぽろと大粒の涙を零して、泣きながら。

──だから、俺たちは大丈夫だから。


──

親愛なるソワンへ

いつも朝食を、夕食をありがとう。

本当は自分の口から直接伝えたかったけどまずは手紙で話します。

この前持ってきてくれたお弁当、凄く美味しかった。嬉しかったです。

これから色々改善していくから、またソワンと、刹那さんと、自彊と。家族として過ごしたい。

いつも支えてくれてありがとう。

お父さんより。

──



リビングで立ち尽くす心待。机の上のメモ用紙を開いたから。読んだから。

はらり。片目から大粒の涙が零れる心待。

「う……っ、うぅ……っ」

嗚咽が漏れてその場にしゃがみ込んでしまう。そのメモ用紙をきゅっと胸に抱いて泣き出してしまう。大切に、大切に抱きしめて。

「はよー」

と朝目覚めて降りてきた自彊。

「心待ー?」

いつも心待がいるキッチンに姿が見えなくて心待を探す。ぐるっと一周リビングを見渡すと色素の薄いもふもふが見えた。リビングの机の横で床にしゃがみ込んで、嗚咽を漏らして泣きじゃくる。「!」と心待の姿を確認すると急いで傍に駆け寄る自彊。

「おい心待!どうした!?」

慌てて駆け寄っては大きな声でそう聞く。それは二階にまで届いたらしくガチャリと刹那の部屋のドアが開く音がした。優しく心待の背中を撫でる自彊。二階から降りてきた刹那もリビングに合流する。

「お兄ちゃん……、ゾディ……」

「んー?どうした?」

刹那も優しく声を掛け、その場に膝をつく。幼い子供をあやす母親のような優しくてあったかい声。

「おとうさんは、おとうさんでした」

「うん、うん」と頷いて背中を撫でる。

「おとうさんはちゃんとっ……、ちゃんとっ……」

わんわん泣く心待が落ち着くのを二人はゆっくりと、優しく待った。

──


ゾディとも、お兄ちゃんとも。一緒にいる時間があります。たくさんあります。

ゾディは大人で、お兄ちゃんは私より一つ大人です。知らないうちに、離れてるうちに、お兄ちゃんはもっと大人になっていました。理不尽ばかりの世界にもまれて大人になっていました。

ゾディは心が大きいです。おとうさんと恋仲になって、お互い仕事で会えなくても大丈夫です。お互いに愛してるって毎日どんどん更新されていきます。


聞いちゃったんです。

ゾディが電話してる声を。

忙しいおとうさんが今日はいつもより帰りが遅くなるっていう話でした。ゾディ、間違えてスピーカーモードのまま携帯端末を耳に当てていました。だから、聞こえちゃったんです。

『すみません、刹那さん。せっかく家族になって、皆で打ち解けていく大事な時期なのに……』

「良い、良い。仕事なのだ、仕方ないだろう?」

「皆仕事があるのだ。理解はある」と刹那は笑う。

『でも俺、仕事を理由に家族に何も出来ないの、嫌なんです』

『俺、家が貧しい方で……』と啓明は言う。

『父親はずっと家に居て。でもすぐ物に当たったり大声で怒鳴って威嚇したりの自分中心の気分屋で。母親はそんな父親と一緒にいたくなくなって、ずっと仕事に出て全然帰ってきませんでした』

「そうか」

刹那はそっと相槌を打つ。

『子育ての優先度も低くて。でも離婚してやっていけるわけなくて。まあ、俺の存在が邪魔でなかなか離婚もできなくて』

どちらが啓明の面倒を見るか、親権の問題で会う度に揉めていた。

「そうか」と静かに聞く刹那。

『そのうち金に困って俺を売る話が話題に出てるの聞いて。売られる前に家を出ました。「ばいばい、じゃあね」って』

今両親がどうしてるのか、どう暮らしてるのかは知らない。知らなくていいと思ってる。

刹那はゆっくり頷きながら啓明の話を聞く。全て、受け止めるように。

『俺、刹那さんに出会って変わったと思います。毎日が楽しくなって。やっとです』

『次会ったら何話そう、とかそんなこと考えて一人で浮かれてました』と。『恋って人を変えるんすね』と笑う啓明。

『ソワンちゃんも自彊もなんかもう、我が子のように可愛くて。俺はあの子たちにとって良い親になりたい。そう思ってたんすけど……』

心待も自彊も家族を亡くしている。刹那もお家の為にと厳しく育てられ家を出た。ここは家族が壊れた家族。家族に焦がれる家族。

『なのに……』

啓明は声を落とした。

『仕事でいっぱいいっぱいなんじゃ、俺、親じゃないっすね』

そう気を落とす啓明に刹那な口を開く。

「親って、難しいものだと思うぞ」

『……』

「親も子も同じ数の時間しか一緒にいないんだ。そして私たちは親の初心者だ。まだ何年すらも経っていないだろう?」

『そうっすね』

「共に成長していこう。なあに大丈夫さね。お前には私がいる」

「そして私にはお前がいる」と刹那は優しく口にした。

「お前が真っ直ぐ私を思ってくれたこと、嬉しかったんだ。いや、嬉しいんだ。今も。だから私はお前を選んだ」

『刹那さん……』

「お前が想ってくれるのは温かい。その温かさがあればお前は、私たちはきっと大丈夫さね」

「きっと伝わるさ」と刹那は言った。

『……はい。ありがとうございます、俺、何か出来ることないか考えてみますね』

『そろそろ戻らないと』と啓明は言う。「ああ、またな」と言うと刹那は電話を切った。


──

「聞いちゃったんです。知っていたんです」

啓明が悩んでいたことを。その事実を。

「そうです、そうなんです」と心待は言う。

「私が、心が幼くて受け止められなかったんです。ゾディのように、お兄ちゃんのようにできなかったんです」

ぎゅっと心待はフリルのたくさんついたワンピースの裾を握る。くしゃくしゃになったフリルはまるで心待の心のよう。

「それを、おとうさんのせいに。家族のせいにしてしまったんですね」

──そうだとしたら。

「そうだとしたら私は──」


”最低”です。


「最低なんかじゃねえよ」

「え?」

自彊の言葉にはっと顔上げる心待。「そうだぞソワン」と刹那も言葉を紡ぐ。

「啓明殿も、自彊も、私も。誰もそうは思わないさ」

そう言って刹那は心待を抱きしめる。心待は大きく目を見開いた。

「だから」

自彊も優しく心待の頭を撫でた。

「ゆっくり時間をかけて、家族になろう」


「はい」

と心待は笑う。はらりと涙が零れた。

「もう自分を責めて逃げるのは、やめにします……っ」

震える涙声でそう言う心待。だって。

──誰もそれを望んではいないから。


「ゾディ」

「ん?」

「私にカメラを教えてください」

「ずっとやってみたかったんです」と言うと刹那は「ああ。いいぞ」と優しく言うと自室に戻りカメラを持ってリビングに戻ってくる。

「これでいいか?」

と昔愛用していたであろう年季のはいった一眼レフを手渡す。

「ゾディ、お兄ちゃん。こっちに来てください」

刹那と自彊は顔を見合わせるとふっと微笑んだ。心待を中心にして左右に並ぶ。パシャリとシャッターの切られる音がした。テクニックもまだ何も知らない、ただ撮っただけの写真。

「すぐに現像しに行こう」

そう言って三人は玄関へ向かう。幸咲は二十四時間やっている店がたくさんある。朝でも問題ないだろう。そうして写真を一枚現像し、アルバムを一冊購入して家へ戻ってくる。新品のアルバムにその写真を貼ってリビングの机の上へ置いておいた。


夜の十一時三十分過ぎ。

「ただいま戻りましたー」と啓明が家に帰ってくる。「ん?」とリビングの机の上に置いてあったアルバムに手を伸ばす。真新しい赤色のアルバム。

「刹那さん、自彊は?」

視線を刹那に移し訊ねる啓明。「仕事さね」と答える刹那。

「……ソワンは?」

試しに聞いてみる。「もう寝ている」と分かっていた返事が帰ってくる。少し肩を落とす啓明。

「そっか……」

心待だけと会えていないことを気にしている様子だ。ふるふると首を横に振ると「これは?」とアルバムについて質問する。切り替えたのだ。自分のやることは、分かっているから。

「アルバムさね」

「いやそれはわかるんすけど」と答えたかったが「刹那さんの?」と返す啓明。それに「そうだが違う」という返事が返ってくる。

「?」

ますます分からない。その様子をみて刹那は口元に笑みを浮かべた。

「ソワンのだ。正確にはソワンと自彊と私とお前のだ」

「??」

アルバムに視線を落とす。だがしかし見覚えがない。「開いても?」と確認をとると刹那は頷いた。ページを捲ると一枚だけ写真が貼ってある。

「これって……」

心待と刹那、自彊が写った写真。その隣にはいつも夕食の隣に添えられているシンプルなメモ用紙の、”温めて食べてください”と同じ筆跡で『今度は四人で家族写真を撮りましょう』と一言綴られていた。

「カメラ、教えたんだ」

じんわり目が熱くなる啓明。「ソワンの気持ちだよ」と刹那は微笑む。

──今度は四人で

「ちゃんと、届いてるよ」

啓明は目尻に涙を浮かべると顔をくしゃっとして笑った。

「俺、ちょっとソワンの部屋に行ってきます」

啓明はアルバムを丁寧に机の上に戻すと螺旋階段の方へ歩き出す。

「もう眠っているぞ」

刹那の言葉に啓明は頷く。刹那もわかっているといった顔を向ける。一応伝えた、という表情。

「いいんです。寝顔でも、会いたいんです」

「ふふ、そうか」

「なら止めんさ」と刹那は机からコーヒーカップを持ち上げると口へ運び、一口嗜んだ。


コンコンコン。とノックは三回。

「ソワン?」

一応声をかける。応答はない。少し待ってから部屋のドアをガチャリと開けた。なるべく静かに。

ベッドではすーすーと寝息をたてる心待。ベッドへと近づくとそっと、起こさないように優しく頭を撫でた。ふと視線が流れる。心待の勉強机だ。啓明がメモ用紙に書いた短い手紙が蓋の空いたクッキーの缶の中にしまわれている。きっと眠る前に読み返していたのだろう。

「こんなのまで、大事にしてくれるんだな」

ふっと優しく笑うと再度優しく心待の頭を撫でながら「ありがとう」と声をかける。「お父さんがんばるからね」と静かに言うと「おやすみ」と言ってから啓明は心待の部屋を後にした。

──

「これが、私の長ーい昔話です」

そう心待は語り終える。うんうん、と結は頷くと

「それがあなたがここに迷い込んだ理由。手紙に対する強い想いだったんですね」

結は一口紅茶を啜るとコトッとキッチンカーの机にカップを置いた。

「私もお返事、まだなんです」

心待は困ったように眉を下げて笑う。長い髪がふわりと流れる。「あの手紙はどうも捨てられなくて」と。

「さあ」と心待はぱん!と両手のひらを合わせる。

「次は結さんの番です」

「私が結さんの想いを届けます」と心待は言う。「想いだけでも届けます。見つけますから」と真っ直ぐ目を見て言う心待に結は「んー」と困ったように人差し指を口元に添える。

「本当に良いんですか?お願いしちゃって」

申し訳なさそうに言う結に「はい」と心待は笑う。

「元の世界への帰り方を教わったんです。その対価を払いたい。私のしたいことなのでどうかお気になさらず」

「私がその人に何かを伝えても何も起こらない」

ぴしゃりと心待の言葉を跳ねのける結。「意味がないんだよ」と乾いた笑みを貼り付ける。

結はこの世界に独りきり。手紙に強い想いを持つ、たまの来客と話すことだけが会話で人との関わり。それでも、と心待は言う。

「意味がないとその気持ちを抱いてはいけないんですか?」

結は黙ったままだ。

「結さんが抱いた気持ちは伝えてもいいんです。会えないかもしれなくてもせめて気持ちくらいはお伝えしても良いのではないですか?」

「伝えたければ、ですが」と心待は言う。

好き。その気持ちを伝えるのには迷いがある。それでも、もう会えないけれど、伝えたい気持ちはあったのは事実なのだ。これを伝えることで抱えてるモヤモヤが、後悔がスッキリするだろうか。

「……その人は友仁くんと言うんです」

結は気持ちに正直に、ぽつりぽつりと話し出す。初恋の話を──


──

「おや?」

怪しく灯る提灯の灯りがこの世界を照らす。レンガ造りの家。それはただの景観で、いるのは結ただ一人。手紙に強い想いのある人のみが迷い込む不思議な空間。結の世界。そこに自分以外の誰かが居たことなんて今までなかった。

趣味で毎日どこかの誰かに向けて手紙を書いていた。それは未来の自分へだったり、今は離れている両親へだったり、今の自分へだったり。

そんな静かな世界に一人の来客の姿が見えた。その人はキョロキョロとこの世界を見回している。

「誰でしょう?ここで人に会うなんて初めて……」

それが興味深くて見つめてしまう。するとその人と目が合った。

「!」

結は驚いて息を吸い込む。びくっ肩が上下した。そんな結とは対照的にその人はからっと人懐っこい笑顔を浮かべるとこちらに駆け寄ってきた。

「おねーさん、こんにちは!」

「こ、こんにちは……?」

あまりの自然さに疑問形の挨拶を返してしまう。そんな結の様子を見ると青年はけらけらと声を上げて笑った。

「おねーさんって俺より前にここに来た人?」

「なんかのループかなぁ?」と青年は顎に手を当てて首を捻る。

「俺、幸咲の表の街から来たんだ。ここって幸咲?」

「ループ絡みなら幸咲だよな?」と考える青年。それに「えっと、」と結は口を開く。

「ここは幸咲で合ってますよ。でも表か裏かは分かりません」

「ここは私の創った、私の世界ですので」と告げる結。ループが絡んでできた結の小さな世界だ。

「そうなんだ」

「きっとループが同じ幸咲である私の世界とあなたの世界を繋いだのでしょう」

「そっかあ」

その青年はキッチンカーの前にあるカウンターの椅子に自然に座る。それに結は「……何か飲みます?」と聞く。

「炭酸ある?」

「ないです」

「じゃ、おねーさんと同じもので!」

青年はにっかりと笑うと結と同じ飲み物を飲むという。結はインスタントのコーヒーをドリップする。その間、青年はどこか平安時代を感じる、それでいてどこかファンタジーな世界観を眺めている。太陽も月もないが頭上を紫の怪しい光がぼんやりと照らしている。あとはそこらじゅうに飾られている提灯の灯りがあるくらい。ほんのり薄暗い。

「どうぞ。コーヒーです」

結は青年にコーヒーをさしだす。カタッとカップとソーサーが鳴る音がした。

「ありがとう!」

と快活にそう言うとカップに手をつける。「ブラック飲めます?」と結が聞くと「……じゃあ砂糖とミルクあります?」と聞き返す。結はキッチンカーのカウンターの下から砂糖とミルクを取り出す。そのまま差し出した。青年はコーヒーにそれらを入れて軽く混ぜると一口嗜む。「んー。うまい」と言うとカウンターにカップを置く。

少しの沈黙が二人を包む。先に口を開いたのは青年だ。

「おねーさん、名前は?」

「……結です」

「そっか、結さんか」

会話が途切れる。結もコーヒーに口を付けた。

「俺さ幸咲の表ってとこから来たって言ったじゃん?」と再び青年が会話を持ちかける。「はい」と結は頷く。

「どうやったら元の幸咲に戻れるかな?」

「それは……」

結もこんなことは初めてだった。まるで思い当たる節がない。

「そもそも何で迷い込んだんだろ?結さんの世界に」と首を捻る青年。でも「あ!ループだったら何でもありか!」と一人で納得している。

「帰り方、私も知らないんです」

結はそう言うと「ここに私以外の人がいるの、初めてですから」と付け足した。

「へえ〜、そうだったんだ」

「じゃあ俺が第一号だ、結さんの世界の来客者」

にししと歯を見せて笑う青年に結は「あなた、お名前は?」と聞く。

「一条だよ。一条友仁≪いちじょうゆうじん≫!」

「よろしくな、結さん!」どう言うと友仁は右手を差し出す。

「……?」

差し出された右手を見つめる結に「握手だよ。握手」と言って結の手を取る。「よろしくよろしくー!」と元気に包んだ手を上下に動かした。少し気恥しくなった結は

「何か心当たりはないんですか?」

と質問して話題を逸らす。

「え?」

「ここに来た心当たりです」

「あー」

友仁の視線が上を向く。何かを思い出すような仕草。

「あなたはよく転送される”ループ体質”なんですか?」

ループ体質。なんでもありのループの影響による不幸体質のことだ。ループの影響で何かしらの不幸が起きる体質の人のことを”被害ループ体質”。ループの一部の力が宿り、その能力を使うことができる”加害ループ体質”が存在する。加害ループ体質の人はわざわざコードを与えられなくても異能力を使うことができる。結は前者の話をしている。

「ううん。俺そういうの全然ないや」

友仁はあっけらかんと答える。そのままぐいっと残ったコーヒーをあおる。カタッとソーサーにカップを置く。「んー」と結は顎に手を添える。指先で唇をむにゅっと挟む。「それなら」と手がかりを探していく。

「ここに来る前に何をしていたんですか?」

「悩んだりしていたとか」と追求していく結。肝心の友仁は「いやー?」と首を捻る。「んー……」と首を捻って考え込む。絞り出した友仁は「強いて言うなら……」と口を開く。

「手紙、読んでたかも」

「手紙?」

「うん」と友仁は頷く。

「中学んと時に先生から貰った手紙」

友仁は背もたれに体重を預ける。両手を頭の後ろに持ってきて足を組む。にかっと満面の笑みでそう言ってから目を開く。微笑むように細められた瞳。

「俺めっちゃ嬉しかったんだよねー」

「宝物。一番大事!」と言って歯を見せて笑う。「手紙……」と結は独りごちる。

「それが私の世界とあなたの世界を引き合わせたのかもしれません」

「え?」

「ここは私の世界。手紙の町です」

「私、手紙が好きすぎてループ絡みですけど自分の世界創り出しちゃうくらい強い思い入れがありました」と結は言う。

文字を覚えたその時から文字が好きだった。言葉を紡ぐ時間が、書き終えてポストに投函してお返事を待つ時間が、それを繰り返すのが好きだった。

「元の世界には未練が……ないくらいです」と結は笑う。「でも」と一つ付け足した。

「自分に宛てた手紙ならまだしも、両親や他の人に宛てた手紙の返事は、帰ってこないんですけどね」

未練はないと言っていたが、ここにずっと独りきりで、大好きだった手紙に縋るしかない。結もまたここに転送されて帰り方が分からないのではないだろうか。

「……」

友仁は考え込む。「なら──」と言葉を紡ぐ。

「俺と手紙のやり取りをしよう」

「え?」

「どうせ帰り方もまだわかんないんだし」と友仁は背もたれから身体を起こす。

「俺も先生からの返事はもう、来ないから」

少し寂しそうに友仁は笑った。結を見つめると「聞いてくれる?」と言う。「何をですか?」と聞く結。

「俺の先生の話」

結が頷くのを待ってから友仁は話を始めた。温かい思い出の昔話だ。

──

「俺のことをちゃんと見てくれる先生がいたんだ」

友仁は語る。「……すっごくお世話になった先生」と。「保健の先生なんだけどさ」と笑って続ける。

「悩んだ時、迷った時に言葉をくれた先生」


クラス替えがあった二年生の春。

仲の良かった友達と別クラスになった。それに友仁は何とも思っていなかった。休み時間に話せば良い。むしろ授業中は私語厳禁。関係ないと、そう思っていた。そして友仁は社交的な性格。友達はその場で作ればいい。それもまた一つの方法だ。

案の定。クラスでは一人になった。休み時間が訪れる。友仁は席を立つ。既に出来上がっているグループに話をかける。

「何の話してんのー?」

「うおっ⁉」

しかしそのグループの男子たちは驚いたような声を上げる。話題について教えてくれたがどこか一線引かれてしまった。ならば。

次は同じように一人で休み時間を過ごすクラスメイトに話をかける。読書中だった為その生徒の肩がびくっと上下する。

「すまん!」

そう謝って会話を持ち掛かけるもどこかよそよそしい反応が返ってくるばかり。どうやら一人の方が好みらしい。休み時間が終わる。友仁は授業の為に席に戻る。

何度かそうやって挨拶や会話を持ちかけるもどこか煙たがられる印象を持つ。

どうやらこのクラスは友仁みたいなタイプが苦手らしい。

昼休み。別クラスになった友人と昼食をとる。しかし。ここでもだ。クラスが違うから見ているもの、聞いているもの、流行りの話題が違うのだ。話についていけず、段々と疎遠になる。温度差を感じる。

週に一度休むようになった。それが三日、四日と増えていく。そうした日々を送る友仁が不登校になるのにそう時間はかからなかった。


自宅に一人。電話が鳴る。

「はい。一条です」

相手は学校だ。学校に来るように、といった内容の電話。いつものことだ。ただいつもと違うのは相手が担任ではなく、保健の先生だということ。

「保健室でいいから学校に来なさい」

「俺、別に学校にいるとこないっすよ」

「ある」

保健の先生は断言する。「え、」と疑問を返す友仁。

「明日からお前の教室は保健室で、担任は俺だ」

「でも、そんなの……いいんすか?」

自分だけこんなに特別扱いされていいものだろうか。余計に浮いたりは、しないだろうか。

「お前みたいに学校に来れなくなる生徒はいるもんだ。各々、自分にあった通い方をしてる。友仁。お前も無理して皆と同じじゃなくたっていいんだ」

「だから、明日から保健室に来い。先生、待ってるから」と。そうい言って電話が終わる。そんなこんなで始まった保健室登校。それを続けて一年が経過する。友仁は三年生になった。受験の時期。大学に行くか、就職するか。それに悩んでいた。


「なあ。先生」

「どうした友仁」

「俺さ。大学いかないで就職したいんだけどどう思う?」

「どうって?」

先生は分かってて聞き返している。「もう。意地悪だな。言わせんなよ」と友仁は笑う。それから「内申点なくて普通に働けると思う?」と言葉にする。「一度あぶれたからもう何もかも選べないのかな」と弱音を吐く。先生はふーっと息を吐きだすと続ける。

「どんな世界だろうがあぶれちまうやつは必ずどっかにいるもんだ」

「お前は社交的だからどこでもやっていける」と先生は笑う。「クラスは駄目

だったよ?」と皮肉をいう友仁。

「そりゃ、ちと特殊だったんだな。それに思春期っつーこれまたイレギュラーが重なっただけ。社会に出たらそうそうそういう空気はねえから大丈夫だ」

「皆、仕事に必死だ」と先生は豪快に笑った。

「友仁、お前に向いてると思う職場があるんだ。いくつかあるんだがこことか──」


──

「あ……」

──知ってる。

「進路のことで迷ってて、そこでアドバイスくれたんだ」

「だから俺は今の職場に巡り会えた」と友仁は笑う。「すっげー世話んなった」そう語る友仁の表情は思い出を懐かしむようで。

──知ってるよ。

「おねーさんも少し前まで表に居たんでしょ?」

「表とか裏とかはよくわかりませんが」

そう言う結に「そっか」と返す友仁。「でも」と続ける。

「おねーさんのこと知らなきゃ手紙書けないからさ」と笑う。「あ、手紙でおねーさんのこと知ればいいのか!」と一人納得している。

「じゃあ手紙に書きますね」

「私の唯一の未練」と結はペンを持つ。スラスラと流れるように結の記憶を書いていった。


──

今思えば、私は虐められていたんだと気がついた。

幼稚園の頃は人の輪の中に入れず先生や大人と一緒に過ごした。小学生になって、それが段々悪化していった。発表ができない。気持ちを声にすることができない。身体が石のように固まって動けなくなる。周りの子が当たり前にできることができなかった。よく覚えているのは整列する時のこと。自分の後ろの子が自分の入るスペースを塞ぐ。その時に何も言えずにいた。先生には急かされ、その後ろの子には”なんで入れて”って言えないの?と笑われた。そうやって”できない自分”を皆笑っていた。それに涙してしまう自分が嫌いだった。

小学校高学年になった時、いや中学でもそうだったけど英語の先生にも”泣けばいいと思って”とよく言われた。違うんだよ。泣きたくて泣いてるんじゃないの。流れてしまうの。せき止めるのが困難なの。

中学生になった。担任の先生もよく見てくれてはいなかった。よく身体が固まって動けなくなってしまうことがあった。頭も真っ白で何かを考えているのにそれが分からなかった。やるべきことをやらなきゃと思ってもそれをいつどうやって何をすればよいのか、そのタイミングが分からなくて固まってしまう。皆にはきっと簡単なのだろう。それができないから”出来ない子”として見られていた。……この場所に居ては駄目だと思ったのだろう。あとはきっと受験の不安。その時は訪れた。中学三年。夏休み明けの二学期初日。朝。自転車通学をして駐輪場に着く。あとは荷台から鞄をとって教室に向かうだけ。なのに。その場から一歩も動けなくなった。

よく”恥ずかしがり屋”だと言われたけど違うのだと今は思う。ずっと不安だったんだ。

重なる小さなストレス。心が限界になって何もできなくなってしまった。大好きだった本も漫画も読めなくなった。勉強すら手につかない。受験は迫ってくる。ずっと不安だった。そんな時に手を差し伸べてくれたのがその保健の先生。「ここにいていいよ」と保健室の一角にパーテーションを設置してその囲いの中に一つの席を作ってくれた。そこで先生と過ごした時間だけが大人になった今でも思う、学生時代の唯一の温かい思い出。

「結ちゃんは絵を描くのが上手だね」

ふとそんな話になったことがある。結は美術部に所属していた。一年だけその先生が副顧問だったことがある。今思えばバランスの狂った下手な絵だ。今は恥ずかして見れたものではない。それでもその先生は褒めてくれた。それから本好きだったこともあり漫画を描き始めた。一枚のルーズリーフに描いた簡単なやつ。

「今日も新作はありますか?」

そう笑顔で聞いてくれて読んでくれる。それが嬉しかった。よく話をしてくれた。聞いてくれた。寄り添ってくれた。それが嬉しかったんだ。

教室に行けなくても卒業は近づく。寄せ書きや卒業文集を書く時間が保健室にいても巡ってきた。本が好きだった。絵を書くのが好きだった。言葉が好きだった。だから創作関係の仕事に就きたいと書いた。その先生は言う。

「ぴったりだと思う。いつか結ちゃんの描いた作品が世の中に出回ることを楽しみにしてるね」

その先生は手紙やメモをよくくれた。

先生という職業は忙しい。常に保健室には居られない。だから短いメモや手紙をくれた。そのお返事を書いたことがあった。

「結ちゃんの言葉は綺麗だね。きっと心が綺麗で温かいからそんな言葉を使えるんだよ」

違うんです。先生。

私は先生のような言葉が使えるようになりたいんです。先生と過ごせるから心が軽くなって余裕が出来たんです。温かくなった心だから素直な言葉が生まれるんです。

──全部、先生がくれたんです。


それから手紙に思い入れが強くなった。絵が、言葉がより大好きになった。


高校生で出会った友達とも疎遠になった。合わなかったみたいだ。

就職は絵から、言葉から離れたところに就職した。”大好き”を仕事にするとそれが辛くなった時に逃げ場がなくなる、という母の助言だ。

時が流れた。私は心の病気と軽い障害があることが分かった。でも少しほっとした。

私は皆みたいにできないのは私がおかしいせいじゃなかったんだ、と。


紆余曲折あったが私は絵を、言葉を仕事にしたいと思うようになった。

それが叶うならどんなに良いことか。


「そんな時に私はループでこの世界にきました」

結は過去を書いた手紙を友仁が読み終わるのを待って言葉を付け足す。

「私は先生に作品を、見せたかった夢を伝える前にここにきました」

「だから、未練……」

「はい」と結はにっこりと笑う。友仁は言う。

「なら尚更返事書かないと駄目じゃん」

「もう会えませんよ?」

少し眉を下げる結。寂しそうな雰囲気。それでも笑って見せた。これは高校生の時にバイトで習得した笑顔。

「それでも」

気持ちに、未練に区切りをつけられる。寂しいじゃない、いつ思い出しても温かい思い出にできる。そう言いたいのだ。

「……書けないんです」

「え?」

「お返事、書けないんです」

もう一度繰り返す結。「……どうして?」と友仁は聞く。「なんか……」と言葉に詰まる結。

「なんかね?」と前置きをする結。

「それを書き終えてしまうと、先生との時間が終わってしまうように感じて」

「あ……」

友仁も似た経験をしている。気持ちが分からない訳ではない。

「それに気持ちを上手く文字にできなかったんです」

「重いですね私……っ」と苦しそうに笑った。

「なら尚更!」

友仁はキッチンカーのカウンターに両手を強くつく。「!」と結は目を開く。

「俺と文通しよう!」

「友仁くん?」

「結さんの大切な人への言葉を探そう」

「え、でも……」と口ごもる結。迷った末に「いいんですか?」と遠慮がちにこちらを見上げる。

「もちろん!」と笑う友仁。「今できることって手紙書くぐらいじゃん?」と快活な笑顔を見せるのだった。

──

それから結と友仁は手紙のやり取りを始めた。

好きな物。お互いの思い出。今日感じたことなどを日記感覚で手紙に詰め込んでいく。互いに送りあった手紙が増えていく。結は思った。こんなたわいもない時間が何より楽しいと。

「結さん」

「はい?」

「俺、書いてみるよ」

「先生への手紙」そう言って友仁もまた恩師への手紙を書き上げていった。「きっともう書けますよ」と結は笑う。

「私とこんなに言葉を綴り合ったのですから」

そして思う。もうこの何気ないやり取りが終わる時間が来るかもしれないと。

「(ああ。まただ)」

終わらせたくないほど心地よい時間。

──好きだったのだと。


──


先生へ

卒業の時貰った手紙、今も大切に持ってるよ。

たくさんの優しい言葉を、時間をありがとう。保健室で何気なく先生と交わした言葉、先生からのアドバイスは俺の宝物です。

俺、先生のアドバイスのおかげでいい職場見つけたよ。先生には世話んなってばかりだ。今も先生の言葉に助けられてる。

ありがとう。先生。俺、もっと頑張るからその時はまた笑って話してくれると嬉しいな。

一条友仁。


「書けたよ。結さん」

「よく書けましたね」

「拙い文だけどね。小学生みたいだ」と笑う友仁に「素直が一番大切なんです」と結は言う。

「結さんのおかげだよ」

そう笑う友仁に結は人差し指で友仁の背後を指さす。

「友仁くん。後ろ」

「ん?」

くるりと後ろを振り向くと「あ」と言葉をこぼす友仁。そこには大きな両開きの重厚感ある扉とその近くに小さなポストが現れていた。先程まではなかったものだ。

「これって……」

「きっと気持ちに素直に。手紙に向き合ったからかもしれませんね」

「ほら」と結は友仁の背中を押す。「そのポストに手紙を入れてみて下さい」と促す。友仁はそっと書き終えた手紙をポストにいれてみる。するとガチャリと重い音がして両開きの扉が開く。きっと元の世界に繋がるループだろう。

「お行きなさい」

「結さん……」

結はこれ以上ないほどの優しい笑顔で手を振る。それに応えるように友仁は「うん。ありがと」と言ってその扉の向こうへと足を踏み入れた。

「ばいばい。友仁くん」

結は友仁の背中が見えなくなるまで小さく手を振ると、空のないこの世界に一筋の雨が降ったのだという。


──

「……素敵な思い出ですね」

と心待は言う。

「必ず伝言しますね」

「いえ。いいんです」

結は静かに首を横に振った。目を閉じて、ゆっくりと。

「何故ですか?」

「もう一度、言葉を交わしたいのでしょう?」

「私にはこの思い出があれば一人でも大丈夫です。それにまた出会えるとは思っていません。この広い幸咲で、いくつもの次元に分かれた世界があって。また出会えるなんて奇跡でも起きない限り不可能です」

「それより」

と結はぱんっと両手の平を合わせて音を立てる。

「お互いにお返事を書きましょう」

そう言って心待にレターセットとペンを手渡すのだった。

少し時間が経った。

心待が自分の想いを綴った手紙を書き終える。便箋を折り、封筒に入れる。結から借りたシーリングスタンプを使う。ゆっくり蝋を溶かしては封筒に垂らしていく。時計のスタンプをゆっくり押した。結は薔薇のスタンプ。

「お互い書けましたね」

結は少し迷うと「お願いします」と手紙を心待に渡した。

「必ず渡します」

と心待は大切に結の手紙を持った。背後には重厚感のある大きな両開きの扉と小さなポスト。心待は自分の書いた手紙をポストに入れた。

「ばいばい。ソワンさん」

「ありがとうございます」

と一礼すると心待は扉の向こうへと歩いて行った。

──

扉の中はとても眩しかった。光でよく周りが見えない。景色が認識できるようになるまで足を進めるとそこは表の街並みが並んでいた。裏からの帰り。梯子を登った直後の表の街並み。

「戻ってきたんですね」

心待の手には先程ポストに入れた手紙が握られていた。どうやら結の世界と心待の世界を繋ぐ際のICカードのような役割を終えた為手元に戻ってきたらしい。もう一通手にしているのは結から預かった手紙。きっと結はこの手紙が話していた青年に渡ることはないと思っている。

心待は住宅街へと続く道を進んで自宅へと戻る。カードでガチャリと鍵を開けると扉を開いた。

「ただいま戻りました」

そう一言いつも言う言葉を玄関で言う。そのままリビングに向かいドアを開けた。

「おかえり。心待」

「お兄ちゃん」

ソファに座る自彊を見て「帰ってきてたんですね」と心待は笑う。「ゾディアックは?」と自彊は問う。

「ゾディは単独のお仕事があるので私は先に帰ってきました」

「そっか」と自彊は言う。

「にしても遅かったな。仕事長引いたのか?」

「ゾディアックがいるのに」と自彊は疑問そうだ。

「少し話をしていました」

そう言う心待に「そっか」と優しく返答する自彊。目についたのは心待の持っている二通の手紙。

「それは?」

「大切な手紙です」

「そっか」

自彊はそれ以上は聞いてこなかった。「お兄ちゃん」と心待が自彊を呼ぶ。「ん?」と言葉を返す自彊。

「もう一度、おとうさんの仕事が見たいです」

「!」

「おとうさんに会いに行きたいです」

そんなことを言う心待に自彊は少し驚く。目を大きく開くがそれでも「そっか」と優しく受け止める。座っていたソファから立ち上がると「行くか」と二人で家を出た。


ループ空港に向かって繋留町に向かう電車に乗る。ガタンゴトンと時空をワープする電車に一時間揺られ、その後少し歩いてバス停に向かい、バスに揺られること三十分。バスを降りればツバメは目の前だ。

「あの、すみません」

と自彊はツバメの受け付けの女性に声を書ける。以前、お弁当を預かってくれた女性職員だ。

「あら、この前の」

女性は優しく笑うと「今日はどうしたの?」と聞く。

「静寂啓明はいますか?」

確認をとる自彊に「あら」と女性は笑うと「ちょっと待ってね」とホワイトボードを確認しに奥へと向かう。きっと熱心なファンだと思われているだろう。カコカコとヒールの音を鳴らして受け付けに戻ってくると「今は紐月ヒモヅキっていう地区から通報があったからそこにいると思うわ」

と教えてくれる。幸咲街の安穏同様に繋留町のツバメも戦闘員は花形だ。捕物を見に来るファンも多い。「紐月ビルの前よ」と場所を詳しく教えてくれた。

「ありがとうございます」

と自彊は一礼する。それから心待の方を見て「行くか」と促すと二人でツバメを後にした。


紐月ビルはすぐそこだ。ツバメから歩くこと約十分ほど。よくこんなにもツバメが近いというのに騒ぎを起こすものだ。いや、距離は関係なく犯罪は駄目だ。

ひゅうっと風を切る音がした。音の方へと心待と自彊は視線を写す。そこでは捕物が行われていた。

刃のついたブーメランが空中を踊る。ちょうど確保の瞬間だった。

「ほら、父さんだよ」

自彊がそう言うと心待は視線を外さずに啓明を見つめながら「はい」と返事をする。ぎゅっと手紙をにぎる手に力が籠る。

「おとうさん、かっこいいです」

心待のそんな言葉に少し目を開くと自彊は口角を上げる。

「……そうだな」

と小さく返したのだった。


啓明のファンサが終わったあと、自彊は心待の手を引いて啓明の元への歩く。

「父さん」

そう啓明を呼ぶと啓明は驚いたような顔をして振り返る。

「自彊、ソワン」

「なんでここに?」と言葉を紡いだ。

「心待が。父さんの仕事見たいってさ」

「!」

目を大きく開いた啓明だったがすぐに優しく目を細める。「そっか」とだけ言った。

「おとうさん」

心待は一歩前に出て啓明に近づく。「ん?」と中腰になり心待と目線を合わせる啓明。そんな啓明に「あのですね」と少し言いづらそうにもじもじする心待。「ゆっくりでいいよ」と頭を撫でた。

「私、ヒーローのおとうさんが嫌いでした」

「ヒーローの?」

「はい」

安穏のように、ツバメのように住民の為に働くのは良い事だ。しかしそれが家族のすれ違いになることもある。

「ヒーローが、おとうさんを連れて行ってしまうみたいで嫌だったんです」

「うん」

「でもお兄ちゃんが教えてくれました」

「自彊が?」

心待から自彊に視線を移す啓明。自彊はぷいっとわざとらしく視線を逸らした。気恥ずかしいらしい。流石お年頃だ。

「おとうさんは町の人達が大好きだって」

「だから……」と続ける心待。

「私のことはどうでもいいんだと、思ってしまっていました」

「そんなこと……!」

言葉を遮った啓明に自彊は片手をかざす。ゆっくり頷くと啓明も「ああ。うん」と落ち着きを取り戻す。

「でもおんなじくらい家族のことも大好きだって」

「自彊……」

「なんだよ」

「お前そんなこと思ってたのか!」

がばっと肩を組んで頭を撫でくりまわす啓明。「あーもー!うぜぇ!」と顔を赤らめながら煙たがる自彊。クスッと心待も笑った。

「おとうさん」

「ん?」

「お兄ちゃんの教えてくれたことは、ほんとですか?」

「…ああ。うん」

啓明は空いている方の手で心待も引き寄せる。二人の頭をくしゃくしゃに撫で回す。くすぐったそうに心待は声を上げて笑う。

「……ホントだよ」

「じゃあ」と心待は少し眉を下げる。「謝らないといけませんね」

「え?」

「おとうさん」

心待はぺこりと頭を下げる。

「自分の寂しいって気持ちを、心の幼さを、おとうさんのせいにしてしまって、すみませんでした」

「ちょ、ちょっとソワン!?」

「でも今はちゃんと分かります。おとうさんが言ってくれました。町の人と同じくらいちゃんと家族が大好きだって」

「その言葉、信じてもいいですか?」

ぎゅっと目を強く閉じる心待に啓明は優しく声をかける。「頭、上げてよ。ソワン」と。それを合図に恐る恐る頭を上げる心待。視界に入ったのは穏やかな啓明の笑顔。愛しいものを見る瞳だ。

「信じていいって、もちろんだよ。ソワンこそ、こんな仕事ばっかの俺、信じれるかな?」

申し訳なさそうな顔をする啓明に心待は笑う。「はい!」と満面の笑みを咲かせてみせた。

──

捕物の終わった紐月ビルからツバメに帰る途中に心待は「おとうさん」と声をかける。

「どした?ソワン」

「あのですね」とソワンは言うと言葉を続ける。

「人を探してるんです」

「人を?」

「おとうさんの力も借りたくて……」

啓明は繋留町のことも詳しいが外交をしている表の幸咲についても詳しい。表には最近きた心待と自彊。昔は表に住んでいたが今は裏メインで仕事をしている刹那。この中で人探しで頼りたいのは啓明だった。

「いいよ。俺が知ってることは全部教えてあげる」

「プライバシーは守れよ?」

自彊の言葉に「わ!わかってっし!」と慌てる啓明。本当に知ってること全部教えそうで危なっかしい。

「もうちょい余裕持てよ...…」

「大人だろ?」と呆れの視線を向ける自彊。

「分かった!分かった!ちゃんとモラルは守るから!だからそんな目で見ないで!?」

「ほら、いいから心待の話聞けよ」

「分かったから!」

これ以上冷めた目で見ないで欲しいと訴えかける啓明。慌てれば慌てるほど逆効果だ。「あの」と心待が言葉を挟む。

「続けてもいいですか……?」

「あーほら心待が困ってんだろー?」

「ご、ごめん……」

こほんっと口の前に手をかざして咳払いする心待。空気が切り替わった。

「一条さんという方を探しています」

「一条さん?」

「はい」と心待は頷く。

「幸咲の表の街に住む一条さんです」

「おとうさんの力を借りたいんです」と心待は言う。幸咲は広大な土地を持っている。そこから一人の人間を探し出すなんてとんでもなく大変なことだ。しかも有名人でなく一般の住民となれば啓明が知っていることはないだろう。逆に知っていたら怖いくらいだ。

「個人情報は安穏でも教えてくれないだろうしな」

「地道に探していくか裏の情報を漁るか」と言う自彊。数ある中の一人の一般人の情報を持つ裏の仕事人はいるだろうか。やはり依頼するのと自分で探すの、一から探すのことに違いは無さそうだ。とんでもなく途方もない仕事。

「……」

啓明は顎に手を当てて考える。

「一条って……?」

「はい?」

「下の名前とか分かる?」

「あー」と心待が言う。「一条友仁さんという人です」と続けた。

──「なら」

と啓明は笑う。

「知ってるよ」

「え?」

心待と自彊はぽかんとした表情をする。お互いに顔を見合わせてはキョトンと首を傾げる二人。

「自彊。ソワンは可愛いのは当たり前なんだが、なんでいつもお前はそんなに可愛い仕草をするんだ?」

「……るせぇ」

ぷいっと顔を背ける自彊。「話続けろ」と会話の続きを促した。

「そいつツバメに入社してきた新人と同じ名前」

「同姓同名かもしれないけど」と啓明は言う。

「知り合いなの?顔とか分かる?」

「いえ」

自彊の方にも視線を送る啓明。自彊も首を横に振った。昔からの知り合いというわけではないらしい。「まっ」と啓明は足を止める。

「確かめてみよう」

啓明は心待と自彊を手招きする。もうツバメに着いていた。とたとたと啓明の後ろを歩きツバメの中へと入っていく。


「一条」

啓明の後に続き受け付けを突破した心待と自彊は奥の事務室に入って行った。そこで啓明は一条と呼んだ男性に声をかける。

「はい?なんすかー?」

フランクな話し方。一旦PCから視線を外して啓明を座ったまま見上げる。

「俺の可愛い愛娘と愛息子がお前に会いたいってさ」

「え!なんでだ?」

「面識あったっけ?」と考える青年。「……たぶんだけど」と啓明が付け足すと「たぶんなんすか!?」と表情を変える。コロコロと感情が表情に繋がる人なんだなと心待は思った。

「用ってなんすか?」

「それは知らん」

「何も知らないで連れてきたんすか!」

ケラケラと腹を抱えて笑う青年。

「もー啓明さん純粋すぎー!詐欺とかあったら大変っすよー?」

「何言ってる!うちの愛娘と愛息子が詐欺なんてするわけないだろ!」

「絶対の自信ってやつっすね?」

「もちろんだ!」

と拳を胸に当てる啓明。「さっさとしろー」と自彊が野次を飛ばす。

「あれが娘さんと息子さん?」

「美男美女だろ?」

ふっと自信気な啓明に青年は考え込む。

「あれ?啓明さんって年いくつっすか?」

「二十三だが?」

「いくつの時に生まれた子っすか!?高校生っぽいっすけど……?」

「今の子って成長早いんすね」と言う青年に「高校生と同じ年頃だよ」と付け足す啓明。それに「ええ!?」とまた驚く青年。

「ま、まさか連れ子……?」

「まー間違ってはない」

「え?そうなんすか?」

「血の繋がりはないけど愛してるからいいんだ」

そんな啓明の言葉を聞いて「そうっすね」と青年はからっとした笑みを向けた。

「詳しいことは愛娘に聞いてくれ」

そう言うと啓明は青年を心待の方へと促した。


「こんにちは」

青年は席を立って心待と自彊の方へ歩いてくる。「こんにちは」と自彊はぺこりと会釈する。心待はがっつりと緊張した様子で「こ、こんにちは……っ」と挨拶を返した。

「あはは。緊張しなくても大丈夫だよー」

青年は安心させるようににかっと笑った。それでも背筋がピンっと伸びる心待。

「えっと……?」

青年は心待と自彊を交互に見る。

「俺は自彊って言います」

そう名乗る自彊。「こっちは妹の……ソワンです」と手のひらの先で心待を示す自彊。一応コードネームで紹介した。心待はぺこりと勢いよく頭を下げた。

「そっか。自彊くんにソワンちゃん」

にっと歯を見せて笑う青年。

「俺は一条友仁っていいます!よろしくね!」二人に片手ずつ握手を求める手を出す友仁。自彊が手を握ったのを見て、心待も恐る恐る手を握って握手した。「よろしく〜」と繋いだ手を上下させる友仁。

「それで俺に用があるんだって?」

「はい。ソワンの方が」

そう心待に会話の流れを促すと「これです」と手紙を一通見せた。

「ファンレター?」

ぱちぱちと二度瞬きをする友仁。「俺まだ戦闘出てないのに」と笑った。

「あ、えと……違くて……」

「あり?そうなの?」

「あはは。そっかそっか!まだまだだな俺も!」とケラケラ笑う。しかし心待が口にした言葉出今の空気が変わる。

「”結さん”……という方を知っていますか?」

「!」 と息を吸い込む友仁。そして

「結さんを知ってるんすか!?」と食い気味に心待に詰め寄る。「ひっ……」と少しびっくりしたように怯えの表情をみせる心待を見て「ちょっとすいません」と自彊が間に入って心待と友仁を離す。

「人見知りが酷くて」

と伝える自彊に「ああ、ごめん、つい……」と謝る友仁。それに「だ、大丈夫です」と言って深呼吸する心待。ふぅーと息をゆっくり吐き出すと落ち着いたようで

「私もさっき、結さんと会ったんです」

と話を続けた。

「その様子なら結さんの言う一条さんで間違い無さそうですね」

「あなた宛ての手紙です」と先程友仁がファンレターと勘違いした手紙を差し出す。

「まさかこんなに早く見つかるだなんて思っていませんでしたが」と少しだけ笑みを見せる心待。

「開けても、いいか?」

「はい。もちろんです」

心待はゆっくり頷くのを待って、友仁は結からの手紙の封筒を開ける。青と花が印象的なお洒落な便箋だった。

──

友仁くんへ

あなたが私の世界に迷い込んだ最初の男の子。

あの時あなたと手紙のやり取りをしたのをよく覚えています。

あなたと過ごした時間が、私は大好きでした。

先生には会えましたか?あなたの幸せを遠く離れた次元の世界から、心から祈っています。


手紙を読み終えた友仁は立ったまま結からの手紙を眺めている。

「ずっとあなたへのお返事が書きたかったそうです」

「俺……!」

友仁は慌てて自分のデスクへと駆け寄る。紙とペンを出しては何かを綴っている。

「手紙っ!」

かりかりとペンが高速で踊る。

「手紙に強い想いがあれば、結さんのとこに行けんだよな!?」

「結さん?」

話が読み込めていない自彊は首を傾げていたが話を逸らすようなことはしなかった。代わりに心待が目を閉じてゆっくり頷く。

「……きっと」

そう言い終わった時だった。

「!?」

自彊は、周りにいたツバメの職位は驚いた声を上げ、ざわざわとどよめく。

友仁の姿が目の前で消えたのだ。

ループ。幸咲の超常現象だ。しかし幸咲以外でそれが起こることもある。幸咲と別の場所を繋ぐ。それがループ空港の原理だから。繋留町の友仁の空間が幸咲街である別空間が繋がったのだ。繋留町ではツバメではループは日常的には起こらないのでざわざわと空気がどよめいていた。


──

バタバタと音を立てて慌ただしく小さな世界を走る。

太陽も月もない紫の怪しい照明。平安時代の祭りのような景観なのに誰も住んでない家はレンガ造り。間違いない。前に来たことのある結の世界。

「結さん!!」

友仁は見覚えのあるキッチンカーを見つけると結の名前を叫んで駆け寄った。

「え、」

聞き覚えのある声に反応してキッチンカーのカウンターから身を乗り出して顔を出す結。一度車の中へ引っ込んでから後ろのドアを開けてキッチンカーから降りてくる。

「友……仁くん?」

「なんで……」と言葉が続いた。

「手紙っありがとう!」

はあはあと荒れた息を整えて友仁は言う。結の手を両手で包む。

「ううん」

「私が勝手にしたかったことしただけ」と首を横に振った。「ソワンさんが手伝ってくれただけだから」と目を閉じる。

「ソワンさん、もう見つけてくれてたんだ」

誰にも聞こえないような音量で呟く結。少し嬉しそうに表情が緩む。

「もう、会うことはないと思ってた」

「そんなことないよ!」

「一度繋がった縁はまた手繰り寄せることができる」と友仁は言う。

「運命って、そういうものだと思ってるから」

「運命……」

結はそう口にだすと「先生にはもう会えた?」と聞く。「ううん」と友仁はふるふると頭を降った。「でも」と言葉を続ける。

「俺の中ではちゃんと区切りはついてるから」

「結さんこそ、先生のことはいいの?」

「まだ、会いたいわ。でももう会えないから」

「私はこの世界で生きている」と結は遠くを見つめる。

「そのことなんだけどさ!」

と友仁は詰め寄る。顔と顔の距離が近い。鼓動が、息遣いが伝わるんじゃないかというくらい。

「結さん、俺さ──」


──もう一度……。

「俺」


──会いたいって

「結さんが好きだ」

「!」


──交わることができたらって

「だから」


──願ってしまっていた。

友仁は結に一枚のメモ用紙を渡す。『好きです』の一言が綴られていた。

「こんなのでも一応、手紙のつもりだから」

結はそのメモ用紙を受け取る。想いが込められた文字は手紙だ。真っ直ぐ見つめてくる友仁の瞳を見つめ返した。

「俺と、一緒にいて欲しい」

「ずっと。一緒にいたい」と友仁は伝える。

「もっと知りたいし手紙だって。なんだってまたやり取りしたい」と。

「俺、今ツバメっていう職場の寮にいるんだ。繋留町に、一緒に来て欲しい」と真っ直ぐ伝えた。「それとも」と友仁は少し寂しそうに笑う。

「ここに一人残った方が結さんは良い?」

「ううん」

結は友仁の手を握り返す。「行きたい」と笑顔を作る。「ちょっと待ってね」と結はキッチンカーの中に戻る。大切な手紙やレターセットをまとめている。一枚のレターセットに手紙を綴る。ループで異次元の幸咲と繋がった大きな重厚感のある両開きの扉が現れる。その隣には小さなポスト。

結はそのポストに先程書いた手紙を入れる。

「誰宛?」

「この世界に」

「もうこの世界には、誰も居なくなるから」

「なんて?」

「ありがとうって」

ははっと友仁が快活に笑う。「世界にも感謝を忘れないなんて結さんらしいや」と。結は友仁を見上げる。「そう?」と首を傾げる。「ああ」と友仁は言う。

「すっげえ、優しい結さんらしい」

「行こう」と友仁は結の手を取ると二人で扉の向こうへと歩きだした。

──


心待と自彊はツバメの待合室の椅子に腰掛けていた。

「一条さん、結さんと会えましたかね?」

「運命みたいに見つかったんだ。心配ないだろうよ」

自彊の言葉に「そうですね」と心待も笑う。そこにカツカツと足音が近づいてくる。啓明だ。休憩を取ってきたらしい。

「おとうさん」

心待がそう声をかけると啓明は優しく微笑んだ。

「ん?」

「今日はおとうさんと話がしたくてここに来たのもあります」

「半分は一条さんのことを知りたくて行き当たりばったりできましたが、どっちも解決してよかったです」と心待は言う。「俺も会えて、話せて嬉しいよ」と返す啓明。

「先程も話した話したに繋がるのですが」と前置きする心待。

「私の家族の話です。私、お父さんが先に居なくなって、お母さんも居なくなって。お兄ちゃんと離れ離れになって、家族がバラバラになりました」

「……うん」

「でもミルラ……あ、ombreの長に拾って貰って、衣食住が整って仕事もコードも貰って、ゾディとpartenaireになれて随分生きやすくなりました。縁起さんのおかげです」と心待は語る。

「おとうさんと出会って、また家族を知りました。でも」と少し言葉に詰まる。

「……おとうさんはヒーローです」

心待は少し俯く。「ヒーローはおとうさんを連れ去って行くんです」と。

「お兄ちゃんはそんなおとうさんをかっこいいって言ってました」

先程伝えてくれた、勇気を出して伝えてくれた内容だ。「だから」と顔を上げる心待。きゅっとワンピースの裾を握る。

「だから、私もヒーローのおとうさんをちゃんと見たかったんです」

「ソワン……」

ちゃんと見る為にここへ赴いた。啓明はそれが嬉しかった。その為だけにまたわざわざ来てくれたのだから。歩み寄りが足りないのは啓明もだと思っていたのに。

「でも、私の気持ちも、知って欲しくて」

「ごめんね、ソワン」

啓明はソファに座るソワンの目線に合わせてしゃがむ。

「言いづらいこと、言わせてごめん」

優しく頭を撫でる。「大丈夫。ちゃんと分かってるよ」と。

──寂しかったこと。それでも大好きであること。

心待はその言葉に満面の笑顔を咲かせる。

「これからはずっと、四人で家族で居たいです!」

顔を上げて晴れやかに心待は伝える。思わず身体が動いた。啓明は心待をぎゅっと強く抱きしめる。

「俺も大好きだよ。ソワン。愛してる」

「──おやおや。愛しているのはソワンだけか?」

ツバメの出入り口から声がした。カツカツとブーツのヒールを優雅に鳴らす歩き方。知っている音だ。間違えるわけが無い。

「刹那さん」

「どうしてここに?」と言いたげな瞳を見透かして「ただ会いに来ただけだ」と自彊を見る刹那。自彊が居場所を教えたのだ。

「全く。恋人よりも先に”愛している”と宣うとはな」

そう意地悪な表情をする刹那に啓明は「あ!そっか!」と言う啓明。しまった!と言わんばかりに慌てる。

「私はソワンも自彊も、もちろんお前も、愛しているぞ?」

「なあ?啓明殿」と試すような口ぶりに「も、ももももちろん!俺だって刹那さんのことも愛してます!!もちろん自彊もね!」

「断言できます!」と豪語する啓明に「俺ぁいいよ。こそばゆいし」と顔を背ける自彊。男同士は随分ドライだ。

「照れるな、自彊」

そう言って自彊を抱きしめる刹那。「おわ!?」と驚いたような声を上げる自彊。「やめろゾディアック!」と顔を赤らめる。「照れるな照れるな」と完全に遊んでいる刹那。

「あ!自彊!ずるいぞ!俺まだハグもしたことないのに!」

「されてぇなら譲るっての!」

そう言い合って四人で抱き合って家族となった。


「啓明。お前、今日もう帰っていいぞー」

そう言うのはツバメの隊長だ。

「え?でも俺まだ仕事残って……」

「俺らでやっとくよ」

とツバメの職員が言う。「でも悪いし……」と啓明が言うと「それに」と隊長からの言葉が続けられた。

「お前。もうちょっと家族の時間取れるように調整しよーぜ、スケジュール」

「皆で見直そう」「そうだな」という声が飛び交う。面食らったような顔をする啓明だったが「ありがとう」と素直に受け取った。

「嫁さんの尻に敷かれんなよー」とからかう仲間たち。それに笑いが巻き起こる。

「そんなつもりは無……いや刹那さんにならいいかも?」

「引っ込めドMー」

「ちょ!おい誰がドMだ!」

ワイワイとした職場に背を向けて歩き出す啓明達。「啓明殿」と刹那に呼ばれる。「はい?」と返事をする啓明。

「先程嫁という単語が出ていたがそこには触れぬのか?」

「へ?」

「結婚する気はないのか?と聞いている」

「え、いや──」

そのままオレンジのつなぎの襟を掴まれる。そのまま強く引き寄せられ頬に温かくて柔らかい感触がした。

「へ?」

「まじか!」

素っ頓狂な声を上げる啓明に、信じられないものをみるような反応をする自彊。

「チューですね」

心待は平然と見ている。ツバメの職員からは「Fooooo!!」と歓声が上がる。

「心待はなんでそんなに冷静なんだよ!」

「え?だってミルラが仕事でしてますし?」

「どんな仕事してんだその人は!」

「ハニートラップですが?」

「お、おう……。心待もそういうの、知ってたんだな……」

意外なものを見たという自彊の反応にクエスチョンマークを頭上に浮かべる心待。

「まだプロポーズをされてない」

少しむすっとした表情の刹那。これはこれで可愛い。

「いいんですか?刹那さん」

「何がだ」

「刹那さんは格式高いお方なので、そういうのはじっくり時間をかけてされたいものとばかり……」

「私が一度でもそんなことを言ったか?」

「いえ、俺の勝手な判断です」

「じゃあ──」

啓明はその場で片膝をつく。刹那の手をとった。

「俺と、結婚してください」

「指輪は今度皆で見に行こう」

「はい」

「Fooooo!!」と歓声が上がる。パチパチパチと拍手が巻き起こり、指笛まで飛び交う始末。

「あー、静寂がお嫁に行く日が来たか……。感動で泣きそうだぜ」と隊長は言う。

「俺は嫁じゃないっすよ!?嫁に来て欲しいのは刹那さんなんで!」

「寿退社かー。寂しくなるなー」

「辞めないよ!?さっき皆でスケジュール調整しようって話したばっかじゃん!」

「ほら、幸せなうちに帰れ帰れ」

「扱い雑じゃない!?」

「あはは」と自彊が声を上げて笑い出す。「父さんかっこわりぃ」と腹を抱えて笑っている。

「うそー!!さっきソワンからお前が俺のことかっこいいって言ってたって聞いたばっかりなんだけど!」

「かっこいいっつったのは仕事だよ」

「なおさらショック!」

「ほら、指輪を見に行くぞ。啓明殿」

「あ、はい!今行きます!」

ぱたぱたと走って刹那達と合流する啓明。その背中が遠ざかる。

「幸せになれよ」

啓明の姿が見えなくなってから隊長はそう言ったのだった。


──

ツバメからの帰り道。ループ空港から表の幸咲街に到着する。そのまま指輪を見に店に直行した。店は落ち着いた雰囲気でショーケースに指輪や宝石が並んでいた。

「どんなのにします?」

啓明はショーケースをまじまじと見ながら刹那に問う。

「あまり邪魔にならんデザインがいいな」

「なるほど」と啓明はショーケースから刹那の理想に合いそうな指輪を探す。

「何かお探しですか?」

じっくりショーケースを凝視する啓明らを見て店員さんが声をかけた。

「結婚指輪を探していまして」

「そうなんですね」

「ご結婚おめでとうございます」と控えめに拍手してくれる店員さん。

「結婚式はもうお決まりですか?」

「これからです」

そう話す啓明に刹那は「婚姻届もまだ書いていないがな」とボソッと言う。

「!」

「そうでしたね!」と啓明はハッとする。先程そういう流れになったばかりだ。「すぐ入手するんで!」と言うと「もう用意してある」と刹那は婚姻届を一枚取り出した。

「刹那さん……!」

あの日、家族になった時からこの日をずっと見据えていたらしい。

「なんて可愛いことするんですか!」

「……悪いか?」

少し気恥しそうに俯く刹那。しかし視線はずっと啓明に注がれている。上目遣いだ。

「いえ!滅相もない!」

そんなやり取りに店員さんはクスっと笑う。「お前がずっとアホの調子だから笑われたではないか!」と刹那は言う。「こればっかりは仕方ないんです!」と反論する啓明。

「どんなデザインをお探しですか?」

店員さんが話を戻してくれる。

「お兄さん、ツバメの明鏡止水ですよね?」

「え、まあ」

「やっぱり!」

店員さんは両手をぱんっと合わせると笑う。「かっこいいから覚えてました」とひと言。「どうも」とキラキラとしたスマイルを返す啓明。隣、刹那の方から冷ややかな視線が注がれる。「ファンサしただけっすから!」と慌てて取り繕う啓明。「まあ良い」と刹那はその視線をしまう。そのやり取りを見ていた店員さんがまたクスっと笑う。「お似合いですね」と言った。

「でしたらツバメにかけてオーダーメイドにしませんか?」

「オーダーメイドに?」

「はい」と店員さんは言う。奥のデスクから一枚のチラシを持ってくる。胸ポケットからペンを出すと持ってきたチラシに赤で丸を付ける。

「鳥の羽が指を包むデザインなんてどうでしょう?」

「お洒落ですね」

「奥様の好きなものも詰め込んでみませんか?」

そう言って店員さんは刹那の方を見る。「お好きなものはありませんか?」と問う。

「……星が好きだ」

「でしたら」と店員さんは続ける。チラシの空きスペースにペンでデザインを描いていく。簡易的なイラストだ。指を羽が包み、その羽に星々の刻印がある、そんなデザイン。

「素敵っすね」

「これじゃなくてもお二人でデザインされた指輪も作れますので」

「刹那さんどうします?」

隣にいる刹那の方を見る啓明。「私は何でも良い。これでいいんじゃないか?」と刹那は言う。

「俺も刹那さんと付けれるなら何でもいいです」

「そっちのが大事ですから」と笑う。「ではこちらのデザインでオーダーメイドいたしますね」と店員さんはタブレットを操作する。先程の簡易的なイラストがもっと本格的なデザインに変わっていく。そういうプログラムが施されたタブレットらしい。便利な機能だ。

「あ、あと」

と啓明は店員さんに続ける。「はい?」と店員さんはこちらを見る。

「もう一つ購入したいんですけど」

「はい」

「何でしょうか?」と笑う店員さん。「重ね付け出来るデザインの指輪をお揃いで四つ欲しくて」

「四つ?」

ショーケースを見て啓明と刹那の用事が終わるのを待っていた心待と自彊が揃って首を傾げる。

「さっきのオーダーメイドは結婚指輪。もう一つは家族の証で皆で付けれたらって思ってさ」

「俺らは結婚指輪と重ね付けできるデザイン」と啓明は言う。「良いのではないか?」と刹那も頷く。

「家族の証、」

心待はそう口出すと嬉しそうに笑った。

「是非身につけたいです!」

ぱああああっと瞳を輝かせる心待に「じゃあそうしよう!」と言うと啓明はにかっと笑った。

「あの、」と自彊が小さく手を上げる。

「ん?どうした自彊」

「俺の仕事、殴る感じだから指輪とか壊すかも」

「そ、そっかあ」

ずーんと肩を落とす啓明。隣で同じように肩を落とす心待。血の繋がりはないのに同じ仕草に見えるのは何故だろうか。

「でしたら首にかけられるようにチェーンをご用意しましょうか?」

店員さんの言葉に「じゃあそれで」とぺこりと一礼する自彊。啓明と心待のぱあああと輝く笑顔。これもまた一致しているのが不思議だった。

「では詳しくご案内させていただきますね」

そう店員さんは言うと四人を椅子に座るように促した。

「こちらが夫婦で身につける結婚指輪になります」

先程タブレットで完成図を出していた画像を示す店員さん。

「ダイヤモンドをあしらった指輪になります。シルバーの翼が指を包み込み、翼には流れ星の刻ざまれたデザインとなります」

「気になる点はございますか?」と問う店員さんに「いえ」と返す啓明。「素敵なデザインで気に入りました。ね、刹那さん」と促すと刹那も「うむ」と頷く。

「こちらはche'ri-joyau≪シェリ‐ジョワイヨ≫という指輪になります。che'riは最愛という意味でjoyauはより高価なという意味となります。ダイヤモンドは永遠の愛、絆という意味が込められていて」

店員さんの説明をうんうんと頷きながら聞く啓明と刹那。

「以上が説明になります。こちらで進めてもよろしいでしょうか?」

確認をとる店員さんに「はい。お願いします」と答える啓明。

「では一週間後に店頭よりお渡ししますので」

「え?」

「どうした啓明殿」

「お渡し早くないですか?」

「普通三ヶ月とかかかりません?オーダーメイドって」

「そういうものなのか?」

「幸咲ではこのくらいが普通だが?」

刹那は店員さんを見る。「ええ」と店員さんもきょとんとしていた。恐るべき幸咲のスピードだ。「続けますね」と仕切り直す。

「重ね付け兼家族用の指輪ですが」

店員さんはショーケースの鍵を開け、白い手袋を着用して指輪を取り出す。

「petit-bonheur≪プチ‐ボヌール≫という指輪になります」

シルバーのウェーブした細身の指輪に赤い宝石のついたシンプルなデザイン。「宝石はルビーとなっております」と一言添える。

「意味は小さい幸せ、となります」

「いかがでしょう?」と店員さんは笑顔で首を傾げる。

「俺はいいと思うよ。刹那さん達は?」

「私はなんでもよい」

そういうということは割と気に入っているという様子の刹那。

「そのくらいシンプルなら俺もいいよ」

「私も素敵だと思います!」

自彊と心待も良いということで満場一致だ。それを確認してから「じゃあこれを」と啓明は店員さんに伝える。「はい。かしこまりました」と店員さんは席を立つ。奥の金庫の鍵を開けると同じデザインの指輪を四つ持ってきた。

「こちらは本日お持ち帰りできますがいかがなさいますか?」

結婚指輪と共に受け取るか、今購入して持ち帰るか。それを聞いている。

「すぐに持ち帰りたい」

刹那がそう伝えると「かしこまりました」と店員さんはそれをレジへと持っていく。厳重に梱包されたジュエリーの箱にしまわれた指輪を受け取る。その場でお会計となる。刹那が財布を取り出すと啓明が手でそれを制止する。

「ここは俺に払わせてください」

「良いのか?」

「はい」と啓明は笑う。「俺も男なんでかっこつけさせてくださいよ」と言うとお会計を済ませる。

「お気を付けてお帰りください」

店員さんはそう一言添えると深く一礼する。それに軽く会釈してから四人はお店を出た。

「……早速つけます?」

啓明の言葉に心待は目をキラキラと輝かせた。刹那も「そうさね」と指輪の入った箱を各々に手渡す。自彊は少しこそばゆそうな顔をするも箱を受け取る。

自彊は左手の親指に。心待は左手の中指に。刹那と啓明は左手の薬指に。一週間後結婚指輪を受け取ったら重ね付けする予定だ。

「おとうさん、ゾディ、お兄ちゃん」

心待はそう声をかける。各々心待に視線を注ぐ。

「手を、指輪を付けた手を出してください」

言われるがままに手を出す三人。そこに自分の手を添えると心待はカメラを構える。パシャリとカメラから音が鳴る。

「記念品なので写真におさめたくて」

くすぐったそうに笑う心待。「またアルバムに貼りますね」と言ってカメラをしまう。

「そうだ」

と啓明は声を上げる。

「どうした?啓明殿」

「今度家族写真を撮りに行きましょう」

「家族写真?」

自彊が首を傾げる。「そう!」と啓明は笑う。

「ちゃんと四人で写ってる写真、撮ろうよ」

「良いな」と刹那は乗り気だ。心待は「私ちゃんと笑えるでしょうか……?」と今から緊張している様子だ。「なら」と自彊は言う。

「結婚式の前撮りもしたら?」

「それも一緒にアルバムに貼ろうぜ」

「自彊……お前、」

「いい事言うじゃんか!」と啓明は自彊の肩に腕を回して空いてる方の手で髪をくしゃくしゃに撫で回す。「おい、やめろって!」と自彊は啓明の腹を肘打ちする。「う”っ」呻き声を上げる啓明。

「おとうさん、ゾディ」

「ん?何ソワン」

涙目で心待を見る啓明。刹那も 「どうしたソワン」と一言。「大切な事、忘れてませんか?」と言う心待に啓明と刹那は顔を見合わせる。「おいおい」と自彊は少し呆れた様子だ。

「結婚式の前撮りの前にまずは婚姻届です」

「あ」

二人でそんな間の抜けた声を出す。「もう結婚してる気分でした」と言う啓明に刹那も吹き出す。けらけらと二人で笑う。それに釣られて心待と自彊も笑みをこぼす。

「じゃあ出しに行くか」

「どっちに出します?」

啓明はそう問う。幸咲の表に提出するのか裏に提出するのか。刹那や心待、自彊は仕事は裏でしている。住んでいるのは表。啓明はどちらも表に関わっている。

「表でいいんじゃないか?」

刹那はそんなことを言う。「スリルは仕事で味わえる。平和に家族で過ごすのもまた、良いんじゃないか?」と。

「俺も表でいいよ。俺、表の学校に行ってみたいし」

「え、自彊勉強できるの?」

「幼い頃、人間の言葉を父さんから教わったことがある」

砌と人間の文字は違うらしい。

「裏に売られてからもその場で知識はつけたからな。必要な勉強を叩き込んでから手続きする予定」

「お前、そんなことまで考えてたのか」

「……悪りぃかよ」

「全力で応援する!」

「ソワンも行ってみるか?」

「私は……」

仕事以外では極度の人見知りの心待。それでも思うことがあった。

「私もゾディと同じ学校に行きたいです」

「あそこは勉学のレベルが高いけど大丈夫?」

啓明の言葉に俯く心待。そんな心待に刹那は言う。

「まあ記念入学でも良いではないか。制服が可愛いという理由だけで入学した者もいた。頑張る理由なんてなんだって良いのだ」

女子の制服は白のブレザーに黒色のシャツ。グレーのチェック柄のネクタイとスカート。男子の制服はそれのグレーのズボンになる。

そんな刹那の言葉に「そうっすね!」と軽く応じる啓明。

「勉強は俺と刹那さんで教えられるし」

大変な生い立ちの砌だ。今からでも青春というものを謳歌してもらいたい。

「今は学校のことより婚姻届だろ?」

自彊にそう促されて安穏に向かう四人。

窓口で婚姻届の必要な欄に情報を書き込んで行く二人。

「この度はご結婚誠におめでとうございます」

そう安穏の窓口の担当の人に言われ、婚姻届を提出する。

「確かに預かりました」と書類を受け取る安穏さん。ぺこりと一礼してから安穏を後にした。

──

「あとは結婚式の前撮りと家族写真か」

啓明はそんなことを思いながら空を見上げながら帰路につく。

「他にやりたいことある?」

「この際全部やろう!」と啓明は愛する家族へと振り返って笑う。

「……新婚旅行」

ボソッと口したのは刹那だ。「いや、先程婚姻届も出した事だしな」と口篭る。

「私、旅行に行ったことがないんだ」

刹那の家は剣の道場だ。厳しい剣技を叩き込んでいた。厳かな家だ。家族旅行なども行ったことが無いらしい。

「家族皆で行ってみたいんだ」

「いいですね」

そんな刹那の小さな夢に啓明は笑う。「行きましょう皆で!」

「俺たちも旅行したことないよな」

と自彊は心待を見る。「はい」と心待は頷いた。

「旅行どころか仕事現場と家とスーパーくらいしか行ったことないです」

「それはどうかと思うぞ心待……?」

そうこう言いながら家へと戻る。カードキーでガチャリとドアを開けた。ぞろぞろとリビングに入ると各々好きな席に座る。

「家族旅行、どこ行きましょうか」

「幸咲内の国内旅行でも広大な独立都市だから楽しめると思うし……海外のがいいのか?」と首を捻る啓明。自分の知っている観光スポットに思考を巡らせる。

「割と近くでいいんじゃないか?」

刹那の提案でループ空港を使わない国内旅行をすることになった。あとはどこに行くかを決めればいい。各自近くの家族の行楽地を検索していく。砌は瞳が特徴的なので水族館や映画館、ゲームセンターみたいな暗がりは避けることにした。砌は暗がりで瞳が光る性質がある。そうやって砌を区別し悪意ある人間は砌を利用するのだ。

「遊園地とかは?」

啓明の提案に「遊園地ってなんですか?」と心待が問う。生い立ち的に遊園地なんて縁遠い行楽地に心待は行ったことがないし、知識もなかった。

「アトラクションがたくさんあるらしいぜ」

知識はあるようで自彊が心待に説明する。「あとらくしょん?」と目をぱちくりさせる心待。

「すっげー速い乗り物があったり」

「ゾディより速いですか?」

「いや、ゾディアックのが速えよ……」

「なーんだ」とがっかりする心待。ゾディアックは加速のコードを持っている。速度はいくらでも上げられるのだ。その速度を心待も体験している。刹那のコードを使って移動なんてした際には目と口をぎゅっと閉じないといけない。

「あとは回るアトラクションなど様々だ」

いまいちピンと来ていない心待。「あとは」と刹那が続ける。

「お化け屋敷とかな」

「お化け屋敷?」

「化け物がでる薄暗くて脅かされる場所だ」

「まあ怖いところだな」と刹那は淡々という。「呪われたりしてな」と少し意地悪な顔をする自彊。心待は「!」と自分を抱きしめて身震いする。「遊園地は辞めましょう!」と手をパタつかせながら一生懸命発言する。

「まあお化け屋敷は暗いから砌は入れないかな。危ないし」

と啓明が言うとほっとしたような顔をする心待。自分の胸に手を当てて一息つく。

他のテーマパークも似たようなものでこれと言った案は浮かばない。温泉宿も男女で分かれることがあるので家族仲を深めるのには……となり今回はパスとなった。また今度行くとしよう。体を動かす系も向き不向きがあってなしになった。

「ここは?」

と自彊が携帯端末の画面を見せる。ゆったりとした時間が流れそうな牧場だった。

「小動物と触れ合ったりできるって」

のどかな牧場。自然に包まれ、動物達を見ることで癒される。餌やり体験もできるようだ。

「俺ここのソフトクリーム食べたい」

「自彊」

「なに」

「前々から思ってたけどなんでたまに可愛いことすんの?」

「可愛くねえっつーの!」

照れ隠しで携帯端末の角で啓明の頭に一撃加える。「あでっ」と情けない声を出す啓明に「今のは啓明殿が悪い」という刹那。

「え!自彊の味方なんですか刹那さん!?」

「当然さね。こんなに可愛い息子が出来たのだから」

そう言って自彊にバックハグする刹那。

「結局可愛いって言うのかよ!!」

「離れろ!」と手を振りほどこうとする自彊。明らかに啓明に一撃いれた時と行動が違う。優しい抵抗だ。「女の子に優しいですこと!」と啓明はまだ携帯端末の角が当たった箇所を両手で抑えている。

「なんで男に優しくしねーといけねーんだよ」と軽口を叩く自彊。それに「はいはい」といじける啓明。そんなやり取りの中、心待は自彊の提案した牧場の情報ページを見ていた。

「濃厚ソフトクリーム、自分で作れるんですね」

「そうみたいだな」と自彊は答える。刹那は振り払ったらしい。

「ここにしませんか?」

と言う心待。自彊も興味を示したのだ。NOという理由はないだろう。

「じゃあそうしよっか」

そうして家族旅行の目的地が決まったのだった。あとは各々スケジュールを合わせるだけだ。自ら仕事をとるombreとcortegeは予定は空けやすい。啓明も家族の時間が取れるようにスケジュールと仕事量を調整したので各自時間をとることができた。

その分前倒しになった仕事をこなしながら、結婚式の前撮りと家族写真を撮る予約も済ませた。家族旅行の方が先である。

──時は流れて旅行当日が訪れる。


電車とバスに揺られ、裏に近い表の住宅地から自然の多い田舎方面へと近づいていく。幸咲街は広大だ。人で賑わう繁華街と自然豊かな田舎方面とここでも二面性を持つ。

田舎方面の外れにある、牧場にたどり着いた。

「着いたね」

啓明はそう言ってバスを降りる。後に三人も続いた。

「まず何しよっか」

とりあえず受け付けに向かおうとする啓明。「待ってください。おとうさん」と心待が呼び止めると「んー?」と振り返る。

「入口で写真が撮りたいです」

「記念写真です」と心待は刹那のお下がりである一眼レフを構える。

「良いけど、ソワンが撮るの?」

「え?はい」

「私じゃ力不足でしょうか?」と眉を下げる心待に「いやいや違くて」と付け足す啓明。

「せっかくなら四人で映ろうよ」

「四人で?自撮りですか?」と首を傾げる心待。「ちょっと待っててね」と言うと啓明は近くにいた観光客声をかける。

「すみません」

「はい?」

「ちょっと家族で写真撮りたくて。シャッター押してもらえませんかねー?」

啓明のキラキラの営業スマイルに声を掛けられた観光客の女性は目がハートになっている。「やば!明鏡止水の静寂啓明だ!」「かっこいい〜!」などと黄色い歓声があがっている。そうこうしているうちにシャッターを押してもらえることになったようで啓明は一眼レフを観光客に託すと家族の元へ戻ってきた。

「シャッター押してくれるって」

「父さんが浮気してる」

「おとうさんが浮気してます」

「違うって!」

「刹那さんは分かってくれますよね!?」と刹那に縋る啓明。そんな啓明に刹那は「さあ、どうだか」と告げる。「えぇ!」と驚くと「そんなぁ」としなしなになっていく。そんな啓明を見て刹那と自彊が吹き出す。

「父さんだっせえ」

「同じくだ」

「おとうさんってダサいんですか?」

「やめて!皆でそんな目でみるのやめて!」

ケラケラと声を上げて笑っていると、「撮りますよー?」と観光客から一声かかる。

「はーい」

表情もほぐれたことで四人で牧場の入口の前に並ぶ。パシャリと切られたシャッター。「こんな感じになりました」と観光客から一眼レフを受け取る啓明。「撮り直し必要なら言ってくださいね!何枚でも付き合いますから!」と観光客は笑う。それに「ありがとう」と声をかけると観光客からは黄色い歓声が、身内からは冷ややかな視線が。温度差で風邪を引きそうだ。とりあえず一眼レフの液晶画面から撮ってもらった写真を確認する。

「うん。いいね」

「ありがとうございました!」

と観光客に笑顔でお礼を言うと一眼レフを心待に返す。

「いい写真だったよ」

「ほんとですか?」

心待が一眼レフの液晶画面を確認する。そこには柔らかい笑みで写る新米家族の姿があった。

「ほんとですね」

と心待は微笑む。少しの間その写真を見つめていた。

「じゃあ中に入ろうか」

啓明を先頭に受け付けに向かう。料金を支払って入場チケットを購入する。それをそれぞれに手渡す。それを改札口にいるスタッフに見せて中に入った。

「何からする?」

「とりあえず何があるかぐるっと回ってみるか」

「動物でも見ながらな」と刹那が提案する。それに皆頷いた。

案内標識通りに牧場を進んでいく。「独特の匂いがしますね」と心待が刺激された鼻からの感想を口にする。草と獣の匂いがする。牛や羊、山羊などがのんびりと過ごしていたり、観光客から餌を貰っていたりとのどかな光景だ。

「私たちも餌やり体験でもするか?」

「えぇ、怖いです」

「指まで食べられたらどうしましょう」と怖がる心待に「大丈夫だよ」と啓明が頭を撫でる。

「俺もやる」と自彊が餌を売ってる出店に向かう。

「自彊がやってるの見て恐くなかったらやってみる?」

「はい!」

そんな会話をしていると自彊が出店から戻ってくる。迷わず山羊に買ってきた餌を与え始めた。もぐもぐと餌を吸い込んでいく山羊。それを無心で見つめる自彊。

「お兄ちゃん」

「んー?」

「恐くないですか?」

「全然」

「やってみるか?」と山羊の餌を手に取り心待に差し出す。ゴクリと唾を飲み込む心待。恐る恐る自彊から差し出された餌を手に取ると山羊に差し出した。心待の差し出した餌ももぐもぐも吸い込んでいく。終始緊張していた心待だが無事に餌をあげ終える。

「ふぅ〜」

止まっていた呼吸をして息を吐き出す心待。「もっかいやる?」と自彊に聞かれると「いえ、もう満足しました」と答える。「そうか」と自彊は言うと残りの餌を無心で山羊にあげ続けた。

餌やりが終わり、新米家族はまた案内標識通りに歩き出した。次に目に付いたのは乗馬体験だ。

「やってみますか!」

と啓明が言うと四人分の料金を支払い列に並ぶ。順番が来ると四匹の馬にそれぞれ跨る。心待は馬に振り回されていた。「うわわわわ!落ちます……!落ちます〜〜〜っ!」と慌てており、インストラクターの方にサポートして貰っている。自彊は既に乗りこなしていた。馬に乗ったまま心待に近づき、乗り方を教えている。啓明もまたインストラクターの方に教わった通りに乗りこなす。ふと、刹那の方を見ると啓明は固まってしまう。

そこには騎士様の姿があった。危ないのでステッキ型の刀は預かってもらっているが、武器がなくても既に高貴な感じが拭えない。シャツに白いスキニーのパンツスタイル、差し色の青い腰巻。気高い雰囲気。正しく騎士様だ。

「刹那さん」

「なんだ?」

「美しすぎます……」

きゅんっ、とした心の言葉をそのまま口にする啓明。すると刹那には「一度馬に蹴られたらどうだ?」と言われる始末。「褒め言葉のつもりなんですけど」と言うとふんっと自信げに笑う。どうやら褒め言葉だとは伝わっていたようだ。心做しか嬉しそうだ。そんな愛しい人を堪能していたら背後から「きゃー」声がする。なにごとだと啓明が振り向くと心待が落馬したあとだった。「いててて」とお尻をさすっている。

「心待大丈夫か?」

心配そうに馬と共に心待に近づく自彊。馬から降りて膝をつき、手を差し出す。

「愛息子はまるで王子様だな」

「ソワンは姫か?」

「あはは。似合いますね」

そんな会話をしていると乗馬の時間が終わる。「ありがとう」と馬を撫でてその場を後にした。


続いては小動物と戯れられるエリアに到着した。うさぎにモルモットなどの小さな動物を抱っこしたり撫でたりできるエリア。中に入ると愛らしい小動物がわんさかいた。

「こんにちは」

とスタッフの方に話しかけられる。「こんにちは」と啓明は挨拶を返す。

「今は生まれたばかりの子うさぎちゃんと戯れることができますよ」

そう言ってスタッフの方は近くから赤ちゃんうさぎを抱き上げる。

「お嬢さん、抱っこしてみませんか?」

「え!」

子うさぎに見つめられる小動物・心待。意見を求めるように啓明を、刹那を、自彊を見る。啓明はゆっくりと頷いた。

「抱っこしてみたら?」

「は、はい!」

強ばった手で子うさぎを受け取る。指先で優しく頭を撫でる心待。

「可愛いです」

「俺はそんなソワンを見れてることが癒しだよ」

「そうですか?」

よく分かっていないといった顔で「ありがとうございます」と言う心待。自彊は近くに寝そべっていたカピバラにご執心だ。

「さっきの山羊は撫でちゃ駄目だったのかな?」

「なんだ。気に入ったのかあの山羊」

「めー子な」

名前まで覚えてきたらしい。「噛まれる恐れもありますので……」とスタッフの方が言うと「そっか」と短く納得する。

「俺ソフトクリーム作りたい」

と自彊はカピバラから手を離す。「そうさね」と刹那も出入口に向かう。

「ほらソワン。うさぎさんスタッフさんに返してね」

「ありがとうございました」

「はーい。可愛がってくれてありがとうね」

ぺこりと頭を下げる心待。「行くぞー」ともう既にソフトクリームの気分になっている刹那と自彊の元へと駆け出していく。啓明も軽く会釈をしてから刹那達に合流した。


牧場の出入口に戻ってくる。そこにソフトクリームを売ってる出店があるのだ。

メニューが黒板にチョークで書かれている。バニラアイスにチョコレート。いちごに抹茶にチョコミントなど様々なソフトクリームがある。

「おすすめはバニラアイスのようだな」

刹那は屈んでメニューを凝視している。「ふむ」としばらく悩むと「私は抹茶にする」と決めたようだった。

「私はラムネがいいです」

今日は少し暑い。さっぱりしたラムネは美味しいかもしれない。

「俺コーヒー」

ちょっとビターなソフトクリームを選ぶ自彊。

「ソフトクリーム食べたかったのにバニラじゃないんだ」

「甘いのは苦手なわけじゃないけど、甘過ぎんのは無理」

そういう自彊に啓明は糸目になる。学校に通うようになって人間の文化を知った時にきっと困るだろう。なぜなら、自彊は美少年だからだ。外見もよく性格も良いとなれば大変だ。引く手あまただ。女子が群がることだろう。今いる牧場でも自彊の容姿に目を奪われている女性は沢山いた。

「バレンタイン、気をつけろよ……?」

「なんだそれ?」

「啓明殿は何にするんだ?」

もうレジの前に立っていた刹那が少し声を張って啓明に問う。

「バニラで!」

「父さん甘いの平気なんだ」

「まあね」

そうして店内にいる心待と刹那の元に合流する啓明と自彊。そこにはソフトクリームを作る機械があった。セルフで出来るやつだ。

「ほら、ソフトクリーム作れるぞ」

「やる」

自彊はアイスのワッフルコーンを店員さんから受け取る。「どうも」と見つめられた女性店員からはハートが湧き出ていた。

ぐにゅーっと出てくるアイスをワッフルコーンに乗せていく自彊。それ終えて戻ってくる。

「意外と難しかった」

少し形の崩れたソフトクリーム。

「食べてしまえば一緒さね」

「そうだな」

あっさりとした二人だ。刹那もワッフルコーンに抹茶アイスを乗せていく。続いて心待もラムネアイスをぐにゅーと巻きとっていく。どれも少し歪なソフトクリームになった。啓明もそれに続く。バニラアイスがワッフルコーンの上に乗る。美しい形を保ちながら巻き終わる。

「啓明殿」

「はい?」

「やったことあるのか?」

刹那の問いに「いえ、初めてですけど」と答える啓明。

「おとうさんすごいです」

「え?そお?」

愛娘に褒められて嬉しそうな啓明。「ああすごい」と刹那も頷いた。

「ほんと無駄な才能多いな」

自彊の言葉に「なんだと!」と反応するも「うん」と頷いた心待と刹那の様子を見て「え!?皆もそう思ってるの!?」と驚くと、ずーんと肩を落とす。

「……器用貧乏」

ボソッといった自彊の言葉に「誰だ!今器用貧乏って言ったの!」と反論する啓明。

「そんなことどうでもよいではないか」

そう言って刹那は抹茶ソフトクリームを一口頬張る。「溶けるぞ」と言うと「そうだな」と自彊もコーヒーソフトクリームに口をつける。「あ。美味しい」と心待もソフトクリームに夢中だ。啓明もソフトクリームを口に含む。

「……美味しい」

啓明のモヤモヤもバニラの甘さが絡めとって溶かしてくれたような気がした。


時間はすっかり夕方だ。

「そろそろ帰りますか」

と皆が思ったタイミングで牧場を後にする。機会があればまた家族で訪れたいと思う思い出となった。


──

心待は今日、ombreの長であるミルラの家を訪ねていた。表にある大きな御屋敷。大きな庭には薔薇園が広がっている。心待はインターホンを押した。『はい』と少女の声がした。

「コードネーム”結果”《ユイカ》です」

「はい。今開けますね。姉様」

大きな門が自動で開く。ゆっくりと薔薇が咲き乱れる入口を進む。少しの段差を上り終えるとこれまた大きな両開きのドア。ガチャっと鍵の解除される音。

「姉様。いらっしゃい」

そう心待に声をかけるのは占課センカだ。

「今日は天下テンカさんと烈火レッカさんはいらっしゃらないのですか?」

「ええ。今日は遊びに出ているわ」

テンカ、レッカ、センカは心待同様にミルラに拾われた少女たち。名を持たなかった、またはコードネームを持たなかった少女たちにミルラが名前を与えたもの。ユイカもまだコードネームが無かった心待に最初にミルラがくれた名前。

「ミルラならリビングにいるわ。私はちょっと買い出しに行くから」

「じゃあね」とセンカは小さく手を振ると心待と分かれる。心待は靴を脱いで玄関に上がる。

「ミルラ」

リビングのドアを開け、ミルラの名前を呼ぶ。桃色のふわふわした髪が揺れる。赤いドレスに身を包んだその女性、コードネームミルラがゆっくりと振り向く。耳を飾る揺れる薔薇のピアス。

「ユイカ」

ミルラは優しく微笑むとソファをぽんぽんと優しく叩く。ここにお座りなさい、とのことだ。心待は促された席にちょこんと座る。

「今紅茶を入れるわね」

そう言ってミルラは席を立つ。キッチンへ立つと戸棚から高価なティーカップを取り出すと動きが止まる。

「ユイカ」

「はい。何でしょう」

「紅茶って、どこにしまってあるのかしら?」

いつも家事やお茶の準備をしているのはセンカだ。ミルラは詳しいことは分からない様子。

「戸棚です。カップがあった戸棚の右隣ですよ」

心待はソファから立ち上がりミルラの元まで歩く。心待の身長では上の戸棚には手が届かない。指で場所を示すと「ありがとう」と言ってミルラは紅茶を取り出す。

「ついでに紅茶の入れ方も教えてくれる?」

「私がやるので大丈夫ですよ」

「ミルラは席に座っていてください」そう言って心待は紅茶の準備をする。ミルラが好きなのはミルクティーだ。「ありがとう」と眉を下げて笑うとミルラはソファに腰を下ろした。


「ミルクティーです」

コトッとカップとソーサーをテーブルの上に置く。「ありがとう」とミルラはカップを手に持つ。香りを楽しんで一口嗜む。

「うん。美味しいわ」

「よかったです」

「それで」

ミルラはカップをソーサーに乗せてテーブルに置く。

「今日はどうしたの?」

「急に会いたいだなんて言い出すんだもの」とミルラは笑う。

「これを」

テーブルの上に封筒を置く。すっとミルラの手元に滑らせる。

「これは?」

「招待状です」

「招待状?」

ミルラはその招待状の封筒を開ける。すると、ふんわり笑った。

「あら」

「そういうことね」と招待状をしまう。「おめでとうと、伝えてちょうだい」とミルラは笑う。

そう。心待が今日ミルラの家を訪ねたのは、刹那と啓明の結婚式に招待する為。郵送で、とも思ったのだが恩あるミルラには直接渡したかったのだ。

「式はいつ?」

「来週の日曜日です」

「そう」

ミルラは穏やかに頷く。そして「式は盛大に行うのかしら?」と問う。

「それならombre一同で盛大に盛り上げるけど?」

「関係者のみで行う予定です。でもミルラにはombreの代表として来て欲しいと、話は落ち着きました」

それにミルラは「分かったわ」と目を閉じて頷く。

「当日は私だけで出るわね」

「ありがとうございます!」

「では、私はこれで」と席を立つ心待。もうすぐ昼食時だ。買い出しに行ったセンカも遊びに出かけているというテンカとレッカも帰ってくるかもしれない。邪魔をしないようにと玄関へ向かう。

「ユイカ」

すると背後から声がかけられる。それに「はい?」と振り向くとミルラは手に持っていた”それ”を心待に手渡す。

「これは……?」

「ループタイよ」

「ユイカにあげる」とミルラは微笑む。心待は手に持ったループタイをまじまじ見る。大きな丸い青の宝石から茶色の紐が垂れている。

「どうしてこれを私に?」

「ユイカはすぐ私の元を離れて、ゾディの元へ行ったけど私は変わらずあなたのことを愛らしく思っているわ」

「今私があなたの為にしてあげられることは少ないけど大切なpartenaireを祝うあなたに、やっと家族を築けたあなたに送りたいと思ったの」とミルラは心待の頭を優しく撫でる。

「あなたは意思が強いわ。それは砌では珍しいのかもしれないけどとっても素敵なこと。自分の為に、自分の大切な家族の為に生きるのよ」

「私たち家族みたいにね」とミルラは笑う。桃色のウェーブ髪が揺れる。

ミルラも、テンカもレッカもセンカも家族を失った者。だから家族の温かさを大切にしているのかもしれない。だから心待を受け入れてくれたのかもしれない。

「今の家族は幸せ?」

幸せが壊れた心待に問う。心待は強い意思をもって答えた。

「はい!」

「ふふっ。ゾディにも、その新しい家族にも。おめでとう。お幸せにって伝えてくれるかしら」

「承りました!」

そう笑顔で返事をしてから、ミルラの家を後にしたのだった。

──



そしてまた時は流れる。時の流れは早いもので。

今日は写真館に行く日だ。

結婚式の前撮りと家族写真を取りに行く。刹那と啓明の式は家族会議により洋式にすることになった。その前に一大イベントがある。

──ドレス選びだ。

これまた家族会議で話し合った(主に啓明の主張だったが)結果、ドレスはレンタルでなく購入するという話に落ち着いた。その為今は『胡乱』《うろん》という衣装店に来ている。千木縁起の姪っ子の営業する店だ。

「私の普段着やミルラの仕事用ドレスなんかもこのお店で揃えています」

心待の情報を元に表の外れにある怪しい洋館である『カレノ』のすぐ近くを訪れた。そこに胡乱があるのだ。

お洒落な外観のお店のドアを開ける。すぐ目の前に手打ちのアンティークなレジ。中世で使われていそうな電話なんかも置いてある。

「コンセプトにこだわりを感じるね」

啓明はキョロキョロと周りを見回す。主にロリータ服を扱っているようだが、スッキリとしたフォーマルドレスなんかも扱っている。

「お!男物なんかも少しだけど取り扱ってるんだ」

「へえ」とまじまじとその衣装を見る。

「ソワンもこういう衣装だし自彊もこういう服とか……」

「着ねえ」

「速えーよ。即答?」

「俺は服は楽ならなんでもいい」

「でも式に出る服は買うだろ?」

「まあ」

「ならここで揃えちゃおうよ」

「せっかく来たんだし。ソワンの紹介だし」と言うと「じゃあここで決めるわ」と割と落ち着いた服を見始める。

「今は店主さんは不在のようですね」

「え、居ないのに店開けてていいの?」

「危なくない?」と心配する啓明に心待は「全然大丈夫です」と言う。視線は服を見ている。

裏といえども安全なんだなーなんて思っていると心待が続ける。

「裏のトップ組織『カレノ』の切込隊長さんが店主です。下手に手をだしたら殺られるのはその方達ですので」

「あらーお強いノネー」

「ゾディー。ウエディングドレスはこっちですよー」

心待はウエディングドレスが並ぶエリアにずんずん進むと刹那を手招きする。「んー」と刹那はゆっくり歩いていく。刹那も新しいものを見るような目でキョロキョロしている。

「ゾディは背も高くてスラッとしてるのでマーメイドウエディングドレスなんてどうでしょう?」

「私はフリルが多くなければなんでも良いぞ?」

「とりあえず試着してみましょう」

「おとーさーん」と奥の試着室に向かいながら啓明を呼ぶ。「なーにー」とりあえず同じように返してみた。

「ちょっとゾディのウエディングドレスを合わせて来ますのでお願いがあります」

「お願い?」

「ゾディの着るお色直しのドレスを選んでおいてくれませんか?」

「え?俺が?」

「おとうさんとゾディの結婚式です。ウエディングドレスはゾディに選んでもらいますが、お色直しはおとうさんが決めてください」

「ささ、行きましょうゾディ」と心待は刹那の背中を押して試着室に入っていった。ウエディングドレスは一人で着るのも大変だろう。この手の服を着慣れている心待が一緒なら店主が不在でも大丈夫だ。

「さて」

啓明は自分の着るタキシードと刹那の衣装を選び始める。が、その前に自彊の元へ向かった。

「なんかいいのあった?」

「まあ」

落ち着いた色かつ地味すぎないそんな衣装を選び終えていた。

「センスいいなあ」

「そうかあ?」

自彊はもう自分の買い物は終わったとばかりに携帯端末をいじっている。

「仕事?ゲーム?」

「どっちでもねえ」

「じゃあなんだろ?」と考える啓明に「メッセージアプリ」と伝える自彊。

「友達と話してる」

「あ」

今日を迎える前に自彊は刹那の通っていた学校、未蕾学園に通い始めた。元々少し人間の世界の勉強をしていたこと加え、裏で生き抜く時に色々学んでいたらしい。学校で習うような計算や漢字などは一通り分かった。あとは刹那と啓明でぎゅぎゅっと詰め込んだ編入対策をして合格したのだ。自彊は覚えも早かった。まだまだ足りない部分は多いが自彊ならカバーしていけるだろう。

「そっか。もう友達できたんだ」

自彊は啓明の思った通り女子にモテた。甘いルックスに落ちた女子が多く人だかりができるほど。自彊はそれに気づいていない。裏で生きてきた時にそんな視線は死ぬほど浴びてきて最早日常である。それを嫌味に感じさせない性格から男子とも溶け込めた。今はバスケ部に所属している。そこでの友達のようだ。

「父さんはもう服、選んだの?」

「いや、これから」

「タキシードならこっちにあったよ」

自彊はずんずん進んでいく。「あとお色直しの服も見たら?」とフォーマルな衣装が掛けてあるエリアを指さす。

「おう。サンキュ」

啓明は自分で着る衣装は好きな形と色だけで判断しさっくり決めた。問題はそこじゃない。

「なあ自彊」

「なに?」

「刹那さんのお色直し、どんなのがいいかな?」

「そんなの父さんとゾディアックで決めろよ」

「それが難しいから助けを求めてるんだろー」

「頼むよー」と両手を擦り合わせる啓明。「はあ」と自彊はため息をついた。

「ため息つくと幸せ逃げるらしいぞ?吸っとけ」

「はいはい」

啓明の軽口に付き合わず女性向けのドレスコーナーへと移動する。

「チャペルに合うドレスにするとかさ」

今回決めたチャペルは特別なチャペルだ。星が好きな刹那のことを考えて、表の街一番のプラネタリウムを貸し切って行うことにした。千木縁起も今回の結婚式に来るらしく特別なプログラムを組んでくれるとの事だ。縁起は表ではループ研究の功績者と一流ゲームプログラマーとして有名だ。エンターテイナーだ。

「星は、入れたいな」

そういう啓明に自彊はいくつか掛かってるドレスを手に取る。

「『ラメがついてて星の煌めきを表現した一品です』だってさ」

「なにそれ」

「店主からのコメント」

「ここの服のデザインは店主がしてるらしいよ」とドレスにタグとしてコメントが付いていた。

青いAラインのドレス。上から下にいくに連れて色が淡くなり、何層にもなったスカートには星座と流れ星をイメージしたラメが施されていた。

「これにしようかな」

「なあ、父さん。」

「ん?]

「俺思ったんだけどさ」

「うん」

「俺、学校の制服で良くね?」

「あ」

「でも記念だし、せっかくだし自彊の選んだその服でもいいんじゃ……」

「着る機会なんてねーから制服で」

ぴしゃりと啓明の言葉は遮られ、自彊は選んだ服を元に戻す。

「かっこいいのに」

ダメ元でそう言うと自彊は啓明を見つめる。無言の笑みだ。しつこいとのことらしい。それに啓明は「はい……」としおれながら返事をした。

手に持った刹那用のドレスに視線を注ぐ。ふっと表情が和らいだ。……別に自彊に振られたから刹那を思い出したとかではない。結果として癒されたが決して違うことをわかってほしいと一人で伝明する啓明。

……話を刹那に戻そう。刹那のドレスだ。きっと刹那に似合う。そう思った。すると丁度試着を終えた心待と刹那が戻ってくる。

「決まりましたか?」

「うん。バッチリだよ」

「じゃあお会計しましょう」

購入する衣装を持ってレジに行く。バーコードを機械で読みとり、パネルのボタンを押していく。

「店主が居ない時は現金は使えないので」

そう言うと刹那はカードを出す。機械に読み込ませて会計を終える。啓明も同じように会計を済ませる。

「ソワンもなんか買ったのか?」

心待の私服ならドレスコードに引っかかることはないだろうが、「はい」と答える辺り何か購入したらしい。

「写真館でのお楽しみです」

四人はこれから向かう写真館に向かう為に胡乱を出る。


写真館ではまず家族写真を撮ることにした。その後に時間のかかる結婚式の前撮りを撮るらしい。心待は先程買った服で写真を撮りたいとの事で更衣室へと入っていった。残った三人は私服で写るつもりだ。いつも通りが一番いい。それが自分達家族なのだから。

「お待たせしました」

「ソワン、それ」

いつものピンクのロリータ服ではない。鮮やかな水色ベースのロリータワンピースにゾディアックを思わせる腰巻。胸には青い大きな宝石のループタイ。

「はい!」

「どうですか?」と心待は言うとくるりと回って見せた。ふんわりと何層にも重なったスカートが空気を含んで揺れる。

「私のニュースタイルです」

今は四人で家族。心待の心境の変化を表す。新たな生活を始める為の心機一転。

「か……」

「か?」

刹那と自彊は顔を見合わせる。すると啓明が叫びだす。

「かわいいいいいいいいいいいい!!」

大きな声で叫ぶ啓明に「うおっ」と驚く刹那と自彊。啓明は心待の頭を撫で回す。これから写真を撮るのでくしゃくしゃにしないように丁寧に。

「愛娘は何着ても似合っちゃうなあ!ね!刹那さん!自彊!」

「そうだな」

「そうだけど騒ぎすぎだろ」

「カメラマンさん困ってるし」と自彊はカメラマンに頭を下げる。女性のカメラマンさんだったので今のできゅん!とハートを撃ち抜いたのは間違いないだろう。

「並んでくださーい」

心待と自彊を真ん中にして、サイドに刹那と啓明が立つ。

「撮りまーす」

パシャリとシャッターが切られる。「うん。すごく良いですよ」

とカメラマンさんが画面で撮った写真を見せてくれる。穏やかに笑う四人が写った一枚。幸せな家族の形を切り取ったみたいだ。

「では次、前撮りしましょう」

メイクさんが刹那をメイクルームへ連れていく。啓明も着替える為に更衣室へ向かった。心待と自彊は待合室でぼんやりしている。

「心待」

と自彊は心待を呼ぶ。「はい?」と返事をする心待。

「俺ちょっと用事あるから先帰ったって言っといてくんないか?」

「ご用事ですか?」

「ああ。大事な用なんだ」

「わかりました」

「じゃあ」と軽く手を上げて写真館を出る自彊。スマホに視線を落としている。

「……学校に行って彼女でもできたんでしょうか」

そんなことを考えていると時間が経っていた。メイクルームから刹那が出てくる。

「あ」

マーメイド型のウエディングドレス。純白が刹那を包み、余計な装飾はなく、ほんのりメイクもしていて。それが刹那の美しさをより引き立てている。

先に着替え終えていた啓明と合流する。啓明も白いタキシードに身を包み、前髪を片方流して固めている。

「刹那さん」

ゆっくり啓明の方を見る刹那。閉じていた目を開く。啓明と目が合った。

「すごく、お綺麗です」

「ありがとう」

「お前もなんだ、その」

少し目を泳がせるも真っ直ぐ目をみて、微笑んだ。

「男前になったな」

「それはいつもだと嬉しいんですが」と軽口を叩く啓明。刹那は手を前に出す。その手を啓明が取った。

「撮りまーす」

刹那の腰に手を回し、自分の方へと引き寄せる。お互いの顔を見合ってくすぐったそうに笑うとカメラの方を見る。そのタイミングでシャッターが切られた。

「すごくいい写真ですね!」

「幸せが伝わってくる写真ですよ!」とカメラマンさんは褒める。

「あれ自彊は?」

写真を確認する前に心待の元へ歩いてきた刹那と啓明。今データを画面に移してくれている。

「用事があるって言って帰りました」

「そっか」

「お写真こちらになりますが、如何なさいますか?」

カメラマンさんは刹那と啓明に問う。心待も含めて三人で写真を確認する。

「わあ」

思わずそう声がこぼれた心待。満面の笑みで笑うと「とってもお似合いです!」と自信をもって言ったのだった。


──

それからまた時間が流れた。

あれから自彊は仕事が忙しいらしく、日中から夜にかけてと大半を外で過ごしていた。

そして式の当日を迎える。


厳かな雰囲気が招待客を包み込む。参加者はombreの長ミルラにカレノの中核千木縁起、ツバメの職員に結の姿があった。そして長庚家。自彊とソワンも最前列に座っている。

広いプラネタリウムを貸し切ってバージンロードが敷かれている。そのバージンロードが刹那と啓明を繋いでいる。重い鉄の扉が開く音がした。招待客のざわつく声が聞こえ始める。

ベールを被った刹那は父親と共にバージンロードを歩く。

「刹那」

「なんだ」

「あの時は道場のことを考えていた」

ぽつり、ぽつりと話し出す父親に

「知っている」

と短く返した。

ゆっくり。ゆっくり。歩いていく。

「お前の意見ももっと聞いてやりたかったが、なんだ。その……難しかった」

「……」

「お前にまで苦労をかけてすまなかったな」

「!」

「道場のことは気にするな。当主である私が何とかしなければいけなかったんだ」

父親の声のトーンは落ち着いている。刹那もまた落ち着いた声で話す。刹那だってちゃんとわかっている。あの時とは違う。もう大人なのだから。

「一人で、抱え込むなよ?」

「ああ」

少しの沈黙。それを刹那の父親が破る。

「刹那」

「なんだ」

「剣は、嫌いになったか?」

「……いや」

刹那は笑った。優しい顔で父親を見る。

「今も習った剣技は私を支えている。やりたいことをする為にその剣技に救われているんだ」

「だから」と言葉を区切る刹那。父親は刹那の方をしっかり見る。そして言葉の続きを紡ぐ。

「──ありがとう。お父さん」

「!」

父親は面食らったような顔をしたが優しい表情をした。

「幸せになれよ」

その声は少し湿っていた。


刹那は啓明の元へたどり着く。二人の視線が絡み合う。

「刹那さん」

「なんだ」

短い言葉だが、それで十分だった。

「好きになったのが刹那さんでよかった」

「私も同じ気持ちだ」

だって。


──愛しているのだから。


そのまま溶け合うような優しい誓いのキスが交わされる。

客席からは拍手が巻き起こる。シャッターの切られる音。この光景を動画に収めている人もいる。

ゆっくりと。唇を離すと刹那と啓明は照れたように頬を染め、はにかむように笑いあった。


式は披露宴という名のついた宴会に変わる。

招待された人達のお祝いの余興が始まった。楽器の演奏やマジック、作成されたお祝いムービーなんかが流れた。この手のお祝いはツバメの隊員なんかが披露してくれた。

「続きまして──」

とアナウンスが流れると照明が暗転する。ざわ、ざわ。と客席がどよめく。

「千木縁起さんのプログラムによる流れ星の演出とプロテクトです」

「刹那さん」

「なんだ」

啓明は刹那に耳打ちする。「プロテクトってなんですか?」

「プロテクトは千木縁起の得意とするコードだ」

何かから守りたいものを守る時に使われる見えない障壁だ。それを今発動した。千木縁起の足元が光る。魔法陣が現れるとプラネタリウムの内側をプロテクトというコードで覆った。オーロラのようなきらめく膜に見える。

「何が始まるんでしょう。お兄ちゃん」

心待はキョロキョロと周りを見る。ガタッと自彊は席を立つ。

「お兄ちゃん?」

突然立ち上がる自彊を不思議そうに見上げる心待。このタイミングでお手洗いだろうか。

「ちょっと行ってくんな」

ぽん、と心待の頭に手を置くと。ステージに舞台袖からわーっと人が集まってきた。見ると皆高校生だ。未蕾学園の制服を身にまとっている。自彊が真ん中に立つと指先を鳴らす。すると室内に花火が上がった。火花からプラネタリウムを守る為のプロテクト。ステージを吹き出した花火が彩る。ドンドンと身体に響く音楽が鳴り出す。すると高校生達は一斉にキレキレの歌とダンスを披露する。軽快なステップに身体の使い方を分かっているしなやかなダンス。センターで踊るのは自彊だ。

「これが大事な用、だったんですね」

客席からは手拍子が起こり始める。啓明はあんぐりと口を開けていた。そんな啓明の様子を見て、刹那は吹き出して笑う。

自彊はコードを使った。自らの血に様々な効果を付与できる血流操作。己の血を炎へと変化させる。自彊の最も得意な炎と熱のコード。メラメラと暗闇で炎が輝く。それを花火へと変換させた。自彊を中心にパチパチと火花が散り、大きな火の花を咲かせる。そこに千木縁起がプログラムした流れ星の演出がプラネタリウムの天井を駆け巡る。最後に派手に花火を打ち上げて曲が止まる。「オオオオオオオオオ!!」と歓声があがった。

「特別ゲストの未蕾学園、バスケ部とダンス部でした!」

自彊がそう言うと「ありがとうございましたー!」と一斉に高校生が頭を下げる。

「末永くお幸せにー!」と舞台袖にはけていく。

「一通りの演目は終了いたしました!次はケーキ入刀とブーケトスで以上となります!」

ケーキが運ばれてくるまでの間、刹那と啓明は自彊と心待の席に駆け寄る。

「自彊!」

「ん?」

はあはあと肩で息をする自彊。タオルで汗を拭っている。

「あんなのいつ考えたんだよ!」

啓明はもう泣きそうだ。「嬉しかったぞー!」と肩を組む。

「学校行き始めて、結婚式盛り上げるなら何が喜ばれるか聞いたんだよ」

「そしたら友達がダンス部と繋がってる奴いて皆でダンスすることになったんだ」

ふぅ。と息を整えた自彊は背もたれに体重を預ける。

「今まで家にいなかったのは仕事だからではなかったんだな」

「凄かった」と刹那は笑う。

きっとたくさん練習してくれたのだ。スケジュールに空きを見つけては仲間と共にこれほどのパフォーマンスに仕上げてくれた。

「ありがとう」と刹那と啓明は笑う。その表情を見て自彊の表情が緩む。安心したのもあるが、達成感が自彊の瞳に宿っていた。すると、

刹那と啓明の後ろにガラガラと台車の音と「ケーキ来ましたよー」とスタッフの方の声がする。

「ほらもう戻れって」

気恥ずかしさを誤魔化すように自彊は刹那と啓明に向こうへ行けと手で促す。それを汲み取って二人は促された席に戻る。

「でっけーケーキですね」

「そうだな」

「ケーキ入刀は長庚家のお嬢さんがいるということで包丁ではなく刀で行いたいと思います」

パチパチと拍手が巻き起こり、スタッフから長庚家の管理する名刀が手渡される。それを二人で握る。

「それでは!ケーキ入刀です」

「じゃあせーので……」

せーのでいきましょう、と言おうとした時だった。刹那は目にも止まらない速さでケーキを両断する。スパン。

「え」

啓明はその場に固まる。

「えええええええええ!?」

会場がどよめく。啓明は刹那に詰め寄る。

「刹那さん!?」

「なんだ?」

「なんだじゃないですよ!知ってます?!ケーキ入刀!」

「知っている」

「ケーキを半分に切れば良いのだろう?」とあっけらかんとした、堂々とした態度。

「そうです!そうなんですけども!これ二人でやるんですよ!?」

「お前が遅いのが悪いだろう」

「んんんっ、刹那さん速いもんなあ……!すんません!俺が遅かったです!」

両断された大きなケーキの断面はこの上なく綺麗だったという。


「刹那ちゃん」

そう、穏やかな声が掛けられた。

「お祖母様」

「ブーケトスの前に少しだけおばあちゃんに時間をくれないかなあ?」

次の流れはブーケトスで締めくくられる予定だ。腕時計を見る。まだ時間に余裕はある。

「ああ。大丈夫さね」

「ありがとうねぇ」と刹那の祖母、節子はそう言うとバッグから一通の手紙を取り出す。白い和紙でできた手紙だ。

「手紙、書いてきたんだぁ」

そう言うと封筒を開いて折りたたまれた便箋を開く。

「読んでもいいかな?」

「……ああ」


刹那ちゃんへ。

お見合いの為に家に帰ってきたぶりですね。

あの日は家の為にって思ってくれてありがとう。刹那ちゃんの優しさは、真面目さは離れていても変わっていなくて嬉しかったです。

それでも自分で自分の幸せを見つけようと家柄同士のお見合いを選ばないでくれてありがとう。

刹那ちゃんには刹那ちゃんの為の幸せな日々を送ってほしいです。

そして今日この手紙を渡したということは刹那ちゃんにとって大切な人を見つけたんだね。

その人を支えて、支えられて。なんでもない小さな幸せに喜びを感じながら日々を過ごしてください。

最後に。おばあちゃんに晴れ姿を見せてくれてありがとう。とっても綺麗だよ。刹那ちゃんはおばあちゃんの自慢の孫です。愛しています。

節子おばあちゃんより。


節子は手紙を読み終えると便箋を二つ折りにし、封筒に戻す。刹那の手を優しく握って手紙を渡す。

「おばあちゃんに素敵な姿を見せてくれてありがとう」

刹那は眉を下げる。「遅くなったが。少しは恩を返せたかい?」

声が湿っている。鼻にかかった声。

「恩なんて思わなくていいんだよぉ。おばあちゃんはおばあちゃんのしたいことを刹那ちゃんにしてるだけだから」

「おばあちゃん……っ」

「刹那ちゃんの拠り所がおばあちゃんのところだけじゃなくなってよかった。泣きたいときはおばあちゃんの所でも旦那さんの所でもどこでも自分で選んでいんだよぉ」

刹那は駆け出す。節子を強く抱き締めた。ぎゅっと。強く。節子は背中に手をまわすと。とん、とん、と優しく刹那の背中を叩く。

「刹那ちゃん。今日はありがとうねぇ」

「ありがとう。ありがとう」と何度も節子は言う。

「おばあちゃん、大好きだ。愛してる」

「おばあちゃんも愛してるよ」

「ほら」と節子は刹那を促す。背後には啓明の姿。「旦那さんが迎えにきたよ」

刹那はゆっくり節子から離れる。その目からは清らかで温かい涙が流れていた。

「孫を。刹那をよろしくお願いします」

「俺の方がいつも刹那さんの存在に救われてます。不束者ですが精一杯二人で。いや家族四人で幸せになります」

その言葉を聞いて節子は「うんうん」と頷いた。

「刹那さん。ブーケトス、いけそうですか?」

「ああ。問題ない」

刹那は目尻の涙を拭うと歩き出す。ブーケトスの前にお色直しという流れだと聞く。


啓明の選んだラメの輝く青い星のドレスを身にまとう刹那。金色の星が刻印された裾に向かって広がるスカートが歩く度に揺れる。ブーケを手にする刹那。ギャラリーに背を向けて数秒。それを高く放る。綺麗な放物線を描く。それを受け取ろうと人混みが蠢く。それでも手に取ったのは、自然とキャッチしたのは結だった。

「結さん。おめでとうございます」

心待が結にそう声をかける。「きっと上手くいきますね」と心待が笑うと少し照れたように結は笑う。「この世界で友仁くんと生きてみたい」とブーケを大事そうに胸に抱えた。


式が終わる。

プラネタリウムは片付けが開始されていた。普段着に着替えた刹那と啓明。晴れて夫婦になったのだ。自然と握られた手に輝くのはオーダーメイドのリング。片付けも一通り終わると四人は帰路についた。

「つっかれたー」

自彊は右肩を回す。蕾未学園の制服からすっかりいつもの格好に戻っている。黒のタンクトップの上にゆったりしたグレーのパーカーとズボン。式のあとに着る普段着も持ってきていたらしい。

「家に帰ってゆっくりしよう」

そんな会話をしながら歩いていた。

「おとうさん」

「ん?」

「私のお手紙のお返事、受け取ってくれますか?」

「お返事?」

「おとうさんがくれたお手紙のお返事です」

「持ってきてるんです」と心待はバッグから一通の手紙を取り出す。結の元で書いたお返事。それに加えてこっちの世界に戻ってきてから書き足した一枚の小さなメッセージカードも一緒に封筒に入れて持ってきていた。

「読んでもいいですか?」

「……うん」


背景 親愛なるおとうさん様

あの日のお手紙、ありがとうございます。すごく嬉しかったです。大切に大切にしまってあります。宝物のクッキーの缶にしまってあります。たまに読み返していたりもします。その度に温かい気持ちになるんです。 私にこんな素敵な気持ちをくれてありがとうございます。

これからは私たち家族で居られる時間が増えるのを心待ちにしています。今なら素直に言えます。私はおとうさんが、ゾディが、お兄ちゃんが大好きです。愛しています。


続きです。

おとうさん、ゾディ。ご結婚おめでとうございます。おとうさんが、ゾディが、お兄ちゃんが家族で幸せです。私に幸せをくれてありがとうございます。

心待


「ソワン……」

手紙を封筒にとしまう「これが私からのお返事です」と手渡す。「受け取ってくれますか?」と。

「もちろんだよ!」

ぎゅっと心待を抱きしめる啓明。

「寂しい思いさせてごめん。それでも俺たちを繋いでくれてありがとう……!」

「おとうさん、苦しいですよ」

それでも啓明は強く強く心待を抱きしめる。心待もそれを受け入れる。ポンポンと啓明の背中を優しく叩く。

「自彊、私たちも混ざろう!」

刹那は勢いよく啓明と心待を抱きしめる。珍しく子供っぽいことをする。「まあ、今日くらいはいいか」と自彊も家族に手を触れる。

小さな新米家族だけどこれからたくさんの幸せを生み出していこう。そう思った。


家のカギをガチャリと開ける。そこに心待が足を踏み入れる。玄関に背を向けてくるりとを回る。

「おとうさん」

心待は啓明を見る。「うん」と穏やかな顔をする啓明。

「ゾディ」

ゾディアックを見る。「ああ」といつもの余裕のある態度。

「お兄ちゃん」

自彊を見る。優しい表情をしていた。

心待はこの上なく幸せに満ちた笑顔でこう言った。

「──おかえりなさい」

「ただいま」

三人は声を揃えて言う。

「ソワン」「心待」

「おかえり」

ああ。私。ずっとこれが言いたかったんですね。

「──はい!ただいまです!」


こんな日々をずっと心待ちにしていたんですね。



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拝啓 親愛なるおとうさん様 みつば @53710

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