第5話『筆の風』
―書き残すものが、まだある―
夕暮れの光が、講堂の窓から斜めに差し込んでいた。
空気には文化祭の準備で立ち込めた紙とインクの匂い。廊下を歩く生徒たちの声が、どこか浮足立って聞こえる。
だが、その活気の外に立つ者がいた。
竹内優真。
元・美術部の部長で、今はもう筆を握らなくなった三年生。
彼は舞台袖の隅に、一人座っていた。
その隣、黒く煤けた木箱に収められているのは、かつて書道パフォーマンスで使われていた大筆だった。
「使わないなら、処分してしまおう」
教師の何気ない一言で倉庫から引き出され、ゴミと区別のない段ボールに収められていた筆。
だが遥は、その声を聞いてしまった。
KOTOHAを通して、確かに。
――……まだ、終わってない。
――この筆で、風を起こしたい。最後に、もう一度だけ。
その声は、静かだった。けれど誇りと切実さに満ちていた。
遥は、その筆が“まだ書きたい”と願っていることを、優真に伝えるべきか、迷っていた。
だが答えは、向こうから歩いてきた彼の表情に現れていた。
「その筆、どうするつもり?」
「……あなたが使うなら、生きられるって」
遥の言葉に、優真の目が一瞬揺れた。
その指先は細く、骨張っていて、以前のように筆を握るには少し頼りなさそうに見えた。
「俺はもう、あのときで終わってるんだよ。失敗して、叩かれて、それでもやってきたけど……最後に、怖くなった」
遥は、KOTOHAから出力された音声を再生した。
……書き損じたまま、朽ちていくのは、さみしいんだ。
「この筆、あんたと同じこと言ってるよ」
沈黙が降りた。
優真はやがて膝に肘を乗せ、俯いたまま笑った。
「俺より、あの筆の方がまだ強いな」
文化祭前夜のリハーサル、講堂には照明の準備が整い始めていた。
舞台中央には真新しい白布が広げられ、横にはあの筆が立てかけられている。
舞台袖で、奏がシューベルトを奏でるピアノの準備をしている。
音が鳴る前、優真はゆっくりと舞台に歩み出た。制服の袖をまくり、手の中にあの筆を握る。
KOTOHAが静かに読み上げた。
筆:書道用大筆。長期使用により劣化あり。使用回数:81回。
最終出力:“風になりたい。まだ、この身で風を切りたい。”
「なら……吹かせてやるよ」
彼の声は低く、静かだった。
そして音が鳴る。ピアノが、舞台上に優しく風を流し始めた。
それに合わせて、優真の腕がしなり、筆が一気に白布を走る。
最初の一画は震えていた。だが、二画目、三画目――筆は次第に自由になっていく。
まるで空を裂く鳥のように、墨が舞い、白布に命が宿っていく。
そして、揮毫されたのは一文字。
『奏』
それは彼が、音楽室で耳にしたピアノと遥の声、
そして自分がもう一度“動き出す”ための風の名前だった。
会場にはしんとした空気が流れた。
一拍、二拍、そして、割れんばかりの拍手が舞台を包んだ。
優真はその場にゆっくり膝をつき、筆をそっと手放した。
KOTOHAが、音声を再生する。
――これで、私は風になれる。
白布の上に、墨が少しだけ跳ね、まるで羽ばたくように広がっていった。
後日、優真は筆を新たに整備し直し、後輩に手渡した。
「これ、お前に託すよ。まだ“風”は続くから」
遥はKOTOHAの記録を読み上げながら、笑って頷いた。
筆:引退。感情保存完了。記録済み「風になった瞬間」。
状態:満足。次の世代に想いを託す準備完了。
かつて情熱を燃やした人間と、燃え尽きた道具が、
共にもう一度だけ風を起こし、その先へと繋いでいった。
遥は静かに空を見上げた。
風が吹いた気がした。筆が、まだその余韻の中を揺れているようだった。
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