第3話『迷子の校章バッジ』

―帰る場所があるということ―


放課後の教室は、少しだけ時間が止まったように静かだった。廊下から聞こえる部活動の掛け声や笑い声も、遠くの世界の出来事のようで、宮本遥は机に頬杖をついたまま、意識を漂わせていた。


今日は妙に気分が落ち着かない。

心に何かが引っかかっているような感覚。

──何か、忘れている。けれど思い出せない。そんな感じ。


チャイムが鳴り終わり、誰もいない教室に立ち上がった遥は、いつもとは違う方向へ歩き出した。職員室でも部室棟でもなく、地下にある旧保健室跡──今は「落とし物保管庫」として使われている部屋へと。


その部屋の扉を開けた瞬間、ふわりと埃の匂いが鼻をくすぐった。金属棚に整然と並べられた箱、箱、箱。その中に、かつて誰かが落とし、そして思い出すことのなかったモノたちがひっそりと眠っている。


遥はその中から、ある小箱に目を止めた。透明なプラスチックケースの中に、ひとつの校章バッジが入っていた。高天原高校の制服に付属する銀色の楯。目立った傷もなく、どこか誇らしげに見えるそのバッジに、なぜか遥の胸が締め付けられる。


ポケットからKOTOHA端末を取り出し、そっとケースの上にかざす。

センサーが微細な磁気変化と表面履歴を読み取り始める。

やがて、骨伝導イヤホンから、かすかな“声”が漏れてきた。


――ここ、どこ……?

――あの人の、胸に戻りたい……さみしい……。


その声は、ほんの少し震えていた。高音で幼く、不安に満ちている。まるで、迷子になった子どもが泣き出す一歩手前のような、ぎりぎりの感情。


遥は無意識にケースを胸に抱いた。

この小さなバッジは、誰かの制服から落ちて、それっきり放置されていた。

けれど、確かに「帰りたい」と願っていた。

それだけのことが、こんなにも重く感じられるなんて。


その夜、遥は生徒名簿と部活動名簿を照らし合わせ、最近校章を無くした生徒の情報を洗い出していった。KOTOHAの解析データによると、バッジは比較的新しい制服のもの。傷も少なく、使用期間はせいぜい一年未満。


そして、翌朝の登校時。通学路で一人、下を向いて歩いていた一年生の男子がいた。制服の左胸──そこには、ぽっかりと“何もない”スペースがあった。


遥は意を決して声をかけた。


「ねえ、それ……落とした?」


男子は驚いたように立ち止まり、遥の差し出したケースを見る。

中の校章バッジを見た瞬間、彼の顔に張り詰めていた表情が崩れた。


「……これ、俺の……」

声が、震えていた。

「探してたけど、どこにもなくて……諦めてたんだ」


遥はそっと微笑む。


「戻りたがってたよ。君のところに」


男子はバッジをケースから取り出し、制服の胸元に丁寧に付け直した。

その瞬間、KOTOHAの端末が最後の音声を再生する。


――ただいま。ありがとう。胸が、あたたかい。


遥はその声を聞いて、小さく頷いた。


たとえ誰にも知られずにいたとしても。

こんな小さなモノにも、帰る場所があり、そこに戻れるという喜びがある。


校庭には朝の光が差し込み、濡れた地面に映る影が、少しだけくっきりと長く伸びていた。


モノの声を聴くことで、救われるのは人だけじゃない。

モノたちもまた、自分の居場所を探している。

遥は今日もまた、その声に耳を澄ませながら歩き出す。


誰にも気づかれない“さみしさ”を、ひとつずつ、拾い上げるために。

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