暖簾の向こうで

うたた寝

第1話


 燃え尽きた……。真っ白に燃え尽きたぜ……。

 何かもうホントそのまま灰となって風で吹き飛ばされてしまいそうなほどに疲れ果てた様子のスーツ姿の女性が自宅へと続く軽い傾斜の坂をえっちらほと懸命に上っていた。もう一度言うが、『軽い傾斜』のため本来そんな気合いを入れて上るようなものではないが、疲れている新卒社会人にとっては中々苦難の道なのである。

 新卒で偶然だろうとまぐれだろうと奇跡だろうと、大手企業に内定が決まった時はそれはもう大げさでもなく一族総出で喜んだものだった。将来安定、そんな風に思っていたものだったが、まー人使いが荒いこと荒いこと。あれだけ人が居て人手不足とは何たることなのか。ロクに研修も受けずに現場に放り込まれ、右も左も分からずてんやわんやである。

 大手ということもあり、労働時間の管理に厳しいらしく、日々深夜まで残業して大変、ということはないのだが、それでも定時内の8時間が濃すぎる。

 パワハラ、セクハラ等も今のところは無いため、ホワイトな職場と言える。そのため、彼女の言っていることは甘え、と言われてしまうかもしれないが、彼女は言いたい。甘えて何が悪い、と。ホワイトな職場だろうが残業が少なかろうが、新卒の人間が慣れてもいない労働をさせられたら疲れるものは疲れるのである。

 あー、今日も社会人をして疲れた、と坂を上っていたところ、

「おっ?」

 坂の途中で食堂を見つけた。見慣れないな、最近できたのだろうか? と思ったが暖簾の感じからして結構年季が入っているらしい。どうやら大分前から坂の途中にあったらしい。出社時も帰宅時も通る道なのだが、今までこの店に気付く余裕も無いほど社会人としての初仕事に疲れ果てていた、ということであろう。

 気付ける程度には私も社会人として成長したな、と思い、気付いたついでに満身創痍の体を引きずって暖簾の近くに設置されている台に置かれているメニュー表をちょっと眺めてみる。

 文字だけのメニュー表であったため、ビジュアルまでは分からないが、品書きを見ているだけでもちょっとした飯テロである。ただ文字を見ているだけで涎が出るほどに凄く美味しそうに感じてしまうのは流石に疲れているのだろうか?

 値段も比較的リーズナブルな方ではある。だがしかし。新卒の一人暮らしの社会人に外食する余裕なんてあると思うなよ? 気にはなったものの彼女は無視して店の前を素通りしようとする。

「………………」

 素通りしようとする。

「………………」

 素通り……、しようと……、

「………………」

 あ、足がピクリとも動かない。外食する余裕なんて無いとちゃんと理解しているハズなのに。散歩に疲れた犬かのごとく足が動かなくなった。お腹もグーグー鳴り出して腹減ったー、のアピールをし出した。ちょっと止めなさい、淑女として恥ずかしい、となだめてみるが、腹減った、のアピールは止まらない。

 いや、そりゃ美味しそうなのは分かるけどもお金がね……、と世知辛いことを頭では考えているのだが、体は吸い寄せられるように暖簾をくぐろうとする。何だ? この暖簾。妙な吸引力があるな。止めろ、まだ入るとは言ってないぞ、と抵抗していたのだが、

 ガラガラガラ、と気付いたら戸を開けてしまった。開けてからやっぱなしで、というわけにもいかない。まーたまにならいいか、ともう開き直ることにする。入ってみると食堂、というよりは居酒屋よりの感じであった。

 あ、まずい、下戸なんだけどな……、と思って店内を見渡してみると、すでに大分出来上がっていると思われるおじさま・おばさまたちが居る。常連さんなのか、店主と思われるおばちゃんと楽しそうに話している。

 これは一見さんお断りの雰囲気か? と思っていると店主のおばちゃんと目が合い、

「いらっしゃい。空いている席に座りな」

 常連で馴染みのあるお客さんならいざ知らず、彼女のように一見さんのお客さんに対しての接客としては、おざなり、と言われそうな雑な扱われ方だが、そんな悪い気がしないのはおばちゃんのキャラクターゆえだろうか?

 しかし、座れ、とは言われてもどこに? と彼女が店内を見渡していると、

「何だい? そのまま突っ立って店の置物にでもなる気かい? そんな可愛くもないでかいだけの置物要らないよ。粗大ゴミに出されたくなかったらさっさと座りな」

 ひでー言われようである。粗大ゴミにされてはたまらないので彼女は適当に空いてそうなカウンター席に腰を下ろすことにする。

 メニュー表も眺めてみるが、とりあえずお店に来たらこう聞くべきではないだろうか? というわけで、

「おすすめってありますか?」

 と、気軽に聞いてみたところ、

「おすすめじゃないものメニューに並べるわけないだろ」

 スパァァァンッ! と無慈悲に即座に斬り捨てられる。おすすめのメニューって大体どこのお店にもないだろうか? 何かポップとかで推しをアピールしてたりしないだろうか? しかしまぁメニューに出している以上、全部おすすめ、はその通りか。これは聞き方が悪かったな、と反省した彼女は、

「どのメニューが人気ありますか?」

 おすすめが無かろうと、人気の優劣くらいあるだろうと思い聞いてみると、

「そんな統計いちいち取っちゃいないよ。大体、取ってたとして、他人が何頼んだか、なんて気にして何になるんだい、自分の食いたいもん食うんだよ」

 いや、まぁ、そりゃそうなのだが、何となく人気のあるもの食べたくならないだろうか? 折角来たのだから? ……まぁでも確かに。人気なのが自分の口や気分に合うとも限らんしな。聞いといて頼まない、というのも気まずいし。

 どーしよーかなー、とメニュー表を眺めていると、横からいい匂いがしてきたのでチラッと覗いてみる。右の人はグツグツ言っているカツ煮を食べている。ほう、美味しそう。左の人もチラッと覗いてみるが、こちらは晩酌という感じで刺身とビールのセットである。美味しそうではあるが、下戸の彼女的にはあまり参考にならないかもしれない。いや、ビールをご飯に変えればいいのか。

 いやでも刺身とご飯ならスーパーとかで刺身買ってきて、パックご飯チンしても似たようなことできるしなー。お店で食べるならやっぱり家で用意するのが面倒なやつがいいかなー。まぁなんかでもそれ言い出すと、昨今大体冷食でカバーできてしまう気もするな……。

 うーん、困った、と彼女はメニュー表を閉じて手を頭の後ろで組んで考える。思えば外食も大分久しぶりなので、メニューの決め方を忘れてしまったかもしれない。

 いつも晩御飯のメニューってどう決めてたっけな、と普段こんな高度なことしてたっけな、と思い返してみるが、そういえば、普段はもう何か胃に入れればいいや、っていうテンションで安いやつか作りやすいやつなどで適当に決めていた気がする。『何食べようか』を真剣に考えたのがずいぶんお久しぶりかもしれない。

「アンタ、あれかい? 『何食べたい?』って聞かれた時に『何でもいい』って答えるタイプかい?」

 しびれを切らしたのかおばちゃんがカウンター越しに言ってくる。その指摘は鋭く半分当たっているのだが半分外れている。

 というのも、『何でもいい』というと、聞いてきた相手がブチギレてくることがあったため、途中から意識的に言わないようにした。なので、昔は言っていたが今は言わないようにしている、というのが正しい。

 そういえば、そういう時、彼女はいつもなんて答えていただろうか? ふと思い返してみて、

「おまかせで」

 ぶっちゃけ、ほぼ『何でもいい』と同じ意味なのだが、『何でもいい』より投げやりな印象を持たないのか、相手が勝手に『センスのいい貴方に任せます』みたいなポジティブな意味に受け取ってくれるのか、こう言うとあまり怒られないのである。

 が、おばちゃん露骨に『面倒くさい子だね……』という顔をしている。が、いつまでも決めずにウダウダされる方が面倒くさいと思ったのか、おばちゃんは特に何も言わずに引き下がったのだが、去り際ポロっと、

「……メニューの端から端まで持って行ってやろうかね」

 と、不吉なことを言っていたので、不穏な気配を感じたら彼女はいつでも逃げれるように準備することにした。



『お任せで』と言った以上、メニューの端から端まで持って来られても文句は言えなかったのだろうが、幸いと言うべきか、無事にと言うべきか、運ばれてきたのは単品のハンバーグ定食であった。

 メニュー表で文字の表記だけを見た時、彼女は比較的リーズナブルとこのお店の値段設定を評価したが訂正する。これは破格の値段である。メインのハンバーグはもちろんのこと、ご飯、みそ汁、サラダやデザートなど色々付いてでこの値段。利益出るのか? と気になるレベルである。

 ハンバーグを一口放ってみても、見た目や香りを裏切らない味だし、栄養バランスもしっかりしてそうだし、と。何か節約とかでちょこちょこ自炊していたのが馬鹿らしくなってくる。もうこの店で食べればいいじゃないか。自炊できなくなったらこのお店のせいである。

 という責任転嫁は置いておいても、味もいいし、値段もいいし、自分で作らなくていいし、洗い物もしなくていいし、と色々味を占めた彼女はそれ以来、

「何だい、また来たのかい、暇な子だね」

 ひでー言われようである。だがこんな軽口にめげているようではこの店の常連なんてやっていられない。

 彼女はほぼほぼいつもの席になりつつあるカウンター席に腰を下ろした後、机に突っ伏して叫ぶ。

「働きたくなーい」

 そう。もうすっかり常連である。入店早々愚痴る程度には常連である。何ならもう愚痴りたくて来ているくらいの常連である。仕事終わったらこのお店に行こ、をモチベーションに頑張ってるくらいの常連である。

 そんな常連にも冷たいおばちゃん。まーた言ってるよ、と言わんばかりにおばちゃんはチラッとだけ見て無視を決め込もうとしている。無視されてはたまらないので、彼女はボリュームを上げて、

「働きたくなーーーいっ!!」

「うるさい子だね。だったら辞めればいいじゃんかよ」

「そんなことしたら生活していけないじゃんかよー」

「だったら答え出てるじゃんかよ。働くしかないんだから働きな」

 ごもっともな意見である。働かざる者食うべからず、なんて言ったりするが、これは正確ではない。働かない者はお金が無いから食うことができない、のである。ゆえに、食べていくためには働かなくてはいけない、という理屈にはなるのだろうが、

「毎日朝起きて、会社行って、帰ってきて、の繰り返しでしょう? もう飽きちゃったよ」

「飽きるの早い子だね。アンタ定年までまだまだ先だろうよ」

「だって仕事楽しくないんだもん。よくみんなこんなの定年までやってるよね」

「そりゃ仕事なんだから楽しくないだろうよ」

「え~~……」

「『楽しいこと』ってのはね、お金払わなくても誰かやってくれるんだよ、楽しいからね。『楽しくないこと』ってのは楽しくないからお金払わないとやってもらえないんだよ。それが『仕事』になるんだ」

 なるほど、そりゃそうだ。ってことは、

「楽しいことを仕事にしなきゃダメなのかな?」

「それでもいいけど、アタシはおすすめしないね」

「え? 何で?」

「『楽しいこと』ってのは『しなくてもいいことを自主的にやる』のが楽しいんだよ。『やらなきゃいけないことを強制的にやらされる』と基本楽しくないんだよ。『お金を稼ぐ』って目的が入ったら基本後者になるからね。楽しいことも仕事にしたら楽しくなくなると思うよ」

「うげー……」

 確かに、気が向いた時、気分が乗った時、にやればいい趣味と、気が向かなくとも、気分が乗らなくともやらなければいけない仕事の差というのはそこだろう。

 結局、仕事というのはつまらないものなのだろうか。しかしなら、

「何故人は働かなくてはいけないんだろうか?」

 哲学のような、浅いような、あるいは働く人の永遠のテーマのようなことを頬杖をついて呟いていると、

「『しなきゃいけない』って思ってるからしんどいんじゃないかい?」

「ほえ?」

「『ただの暇潰し』って思えばいいじゃないか。やることない、って暇なものだよ。暇だから仕事行って、暇潰しできてついでにお金貰える、って思えばそう悪いもんでもないだろう?」

「………………」

 なるほど、その発想は無かった。そっか、暇潰しか。

 もっと意識の高い人なんかは経験を積む、技術を磨く、などもっと前向きな理由や目的で頑張るのだろうが、生憎彼女にそんなものは無い。8時間労働して、給与が貰えるのであればなんでもいいのである。出世なども別に望んでいない。

 だからそんな前向きなモチベーションを聞いても全然ピンと来なかったのだが、『暇潰し』って言葉でいいのであればピンと来る。家で一日中ダラダラしているくらいなら、気分転換に会社でも行くか、くらいのテンションでいいのか。

 どこかすっと落ち着いたような気分になりつつ、ふと、彼女は聞いてみる。

「おばちゃんもじゃあこのお店暇潰しでやってるの?」

「じゃなきゃこんな値段で提供してないよ。儲けようと思ってないから値段設定も気軽なもんさ。赤字にならなきゃいい、で設定しているからね」

 なるほど、異様に安いと思ってはいたが、儲けようと思ってない、暇潰しでやっているくらいだからこの値段設定なのか。

「まぁ、暇潰しだからその内飽きて辞めるかもしれないけどね。そういう意味じゃ開いているうちにいっぱい来ておくんだね」

 またまたぁ~、とその時は彼女も笑い飛ばしたものだった。そうしていつも通り、お任せのメニューを持ってきてくれ、それをいつも通り平らげる。明日も、明後日も、こうやっておばちゃんのお店で食事しているのだろう、と何も疑っていなかった。

 しかし……、



 会社帰り、いつもの調子で彼女はお店に寄ろうと思ったのだが、お店の前に人が集まっていた。常連になったこともあって、顔馴染みも何人か居る。

 みんな店の前にたむろして、何しているのだろうか? と思って彼女もお店の前に行ってみると、店のシャッターが閉まっていた。閉まっている理由を説明する張り紙などがある様子もない。

 どうしたのだろう? と彼女は自分よりも歴が長い常連さんに事情が分かるか聞いてみるが、『事情は分からないが、たまに閉まることはある』と特に気にしていない様子だった。他の常連さんたちもそれなりに慣れているのか、特に気にしている様子は無い。

 たまにあること、なのであれば、それほど気にすることもないのだろう。だが、彼女はどこかで胸騒ぎがして不安になった。この前の『暇潰しだからそのうち辞めるかも』というおばちゃんの冗談とも本気とも取れない言葉が今になって耳に蘇ってくる。

 その言葉も、普段言っている言葉なのだろうか? 気にしなくてもいいのだろうか?

 常連さんに聞いてみようかとも思ったが止めた。その答え合わせが怖かった。『ああ、いつも言ってるよ』と笑い飛ばしてほしい気もしたが、『えっ? そんなこと言ってたのっ?』と返されるかもしれないことが怖かった。

 次の日も会社帰り小走りで店へと来たが、店は開いていなかった。次の日も、その次の日も、お店は開いていなかった。数日開いていないことも珍しいことではないらしく、常連さんたちは『まだ開いてないのね』くらいの軽い感じであったが、彼女はどうも胸騒ぎがする。

 このままずっと開かないなんてことないよな? 私もう自炊しなくていいやー、って調理道具一式売ったんだぞ? 今さら自炊しろってか? おいこら私のご飯どうしてくれる?

 ほとんど八つ当たりのような感じでシャッターにへばりつく彼女。ふと、シャッターに郵便受けがついていることに気付く。これ開ければ中見れるんじゃね? と郵便受けの部分をパカっと開けて中を覗こうとしていると、


「なーに人ん家の前でコソコソ怪しいことしてるんだい」


 懐かしい声が背後から聞こえたので振り返ると、そこには元気そうなおばちゃんが居た。



「で? アタシの店の前で何してたんだい? 売り上げでも盗もうってかい? 困った子だね、そんな盗めるほどの金も無いよ。まぁでも犯罪は犯罪だからね。今から警察呼ぶからそこで大人しくしてな」

「待て待ておばちゃん。落ち着きなさいとりあえず。怪しいことしてたのは認めるけど別に盗みを働こうってわけじゃ、」

「ああ、もしもし、こちら、」

「本当に110番するバカがどこに居るーっ!? ここに居るーっ!! 没収―っ!!」

 おばちゃんの手から速やかにスマホを没収する彼女。『なんてことするんだい、アンタ』とおばちゃん不満げであるが、それはこちらのセリフである。

「しばらくお店開けてないから元気かなー? って思っただけだよ! こんな健気に心配してた子に対して110番通報なんて冷たい対応するなんてっ! 私泣いちゃうっ!!」

「よく言うよ、どうせ晩御飯のメニューに困って八つ当たりしてたんだろうよ」

「………………」

 勘のいいおばちゃんである。彼女がすっと目を逸らしていると、おばちゃんがカウンター席に立てかけている松葉杖が目に入った。見ると、おばちゃんの足は包帯でグルグル巻きになってそうである。

「……骨折? 大丈夫なの?」

「松葉杖なんて後生大事に渡されちゃいるがね。ただの捻挫だとよ。ただ歩くと痛いは痛いんでね。とても店なんて開ける気にならないってので閉めてたんだよ」

 なるほど。一人でお店を回しているとこういう時色々大変なのだろうな。

「アルバイトとか雇わないの?」

「前もチラッと言ったが、暇潰しでやっているような店で利益もそれほど上げているわけでもないからね。バイト代もそんなに出せないんだよ。そうしたら大体人はバイト代のいい方に行くだろ? 平たく言えば、募集かけてもこれくらいのバイト代だと集まらないんだよ。まぁそもそも広告を載せる金も無いんだがね」

 人を雇うのには当然だがお金が居る。募集をネットなどに乗せたいのであればそこへの掲載費も居る。募集にもお金が掛かるし、実際に雇うのにもお金が掛かる。そのお金はどこで賄う、と言われれば店の売り上げ、利益から賄うしかない。

 利益に拘らず、好きにやっていた『暇潰し』。儲けを気にせず自由にできる反面、儲けを気にしていなかったゆえに、こういうお金が掛かる場面に直面すると弱い部分もあるのだろう。

「それともアンタがバイトに来るかい?」

 おばちゃんはからかうように彼女に言った。ケラケラ笑って言っている様子からも分かるように、完全に冗談である。

 彼女は社会人。それも結構いい会社の正社員になっている。当然、時給だってその辺のバイトと比較するとずっと高い。おばちゃんも自分で言っていたが、同じ時間働くのであれば、給与がいい方を取るのは自然な話だろう。

 そうでなくても、彼女は自分で食べる料理だってロクに作りはしない。なんなら最近自炊をしないと誓って調理道具一式を売ったくらいだ。料理経験なんて家庭科の授業でちょっとやったかな、程度。○○切りだ何だと言われたところでそのほとんどにピンと来ない自信がある。

 料理初心者も初心者。自分で食べる物さえ満足に作れやしない。そんな人間が一念発起して自炊を始めます、というのとはレベルが違うだろう。

 もちろん、あくまで、バイトで雇う、という話だ。バイトにどれくらいのレベルを求めてくるか分からない。皿洗いや配膳レベルでいい可能性もあるにはあるが、結果おばちゃんが居なければ店を開けない、という状態が変わらないのであれば、おばちゃんからするとあまり雇う意味もあるまい。

 全メニュー作れないまでも、ある程度作れておばちゃんが居なくても店を回せるレベルでは欲しいハズだ。それを他のお店が支払うバイト代よりも少ないお金で要求している。

 割に合わない、という言葉が正しいだろう。要求しているスキルに給与が見合っていない、というのは恐らくおばちゃんも自覚している。ゆえに募集もしていないのだろう。本格的に将来料理人になりたく、料理のスキルを早く学びたい、みたいな人でもない限り、ちょっとバイト代を稼ごう、くらいでは応募もしまい。

 アルバイトをしたい、という志望動機で候補に入れないくらいなのだ。彼女の場合は会社員を辞めて働く、ということになる。しかも給与的に割に合わないバイトを、料理に特に熱意も無いのに、だ。

 まぁ、確かにこのお店は好きだ。常連になるくらいには好きだ。だが、好きと働きたいは話が別。それにおばちゃん自身も言っていた。好きなことは仕事にしない方がいい、と。彼女も同意見だ。

 答えなんて決まっている。まぁ、おばちゃんも冗談で言っている、ということは分かっているが、一応ちゃんと言葉に出しておこう。

 彼女はそっと息を吸い、言葉を口にした。



 燃え尽きた……。真っ白に燃え尽きたぜ……。

 何かもうホントそのまま灰となって風で吹き飛ばされてしまいそうなほどに疲れ果てた様子のスーツ姿の男性が自宅へと続く軽い傾斜の坂をえっちらほと懸命に上っていた。もう一度言うが、『軽い傾斜』のため本来そんな気合いを入れて上るようなものではないが、疲れている新卒社会人にとっては中々苦難の道なのである。

 あー、今日も社会人をして疲れた、と坂を上っていたところ、

「おっ?」

 坂の途中で食堂を見つけた。見慣れないな、最近できたのだろうか? と思ったが暖簾の感じからして結構年季が入っているらしい。どうやら大分前から坂の途中にあったらしい。出社時も帰宅時も通る道なのだが、今までこの店に気付く余裕も無いほど社会人としての初仕事に疲れ果てていた、ということであろう。

 気付ける程度には私も社会人として成長したな、と思い、気付いたついでに満身創痍の体を引きずって、どれどれ? と様子を伺おうとすると、恐らく本来メニュー表か、あるいは順番待ちをする顧客の名前を書く紙を置くものと思われる台が暖簾の近くに設置されているが、その上には何も置かれていない。

 準備中? でも人は居そう? と彼が暖簾をくぐって店のドアに近付いてみると、

「まーったくもう、アンタはいつまで経っても上達しないねー。何だい? この不揃いの野菜たちは。不細工なのは顔だけにしな」

「うぅぅぅーわぁぁぁーっ! 酷いこと言ったっ酷いこと言ったっ! パワハラだっパワハラだっ! 労基に駆け込んでやるからなぁっ!」

「いっちょ前に権利主張したいなら最低限の義務果たしてからにしな」

「おばちゃんの教え方が悪いんだろぉっ!? 何だよっ? 『こんなもん』とか『こんな感じ』とかっ! 分かるかっ! そんな感覚値の教え方でっ!」

「『教え方が悪い』って言ってるうちは成長しないね。いつだって成長するのは『自分で学ぼうとするやつ』さ」

「うぐっ……っ!!」

「ったく、こんなんじゃいつまで経っても嫁の貰い手もないよ」

「ふ、ふんっ! 時代錯誤もいいところだな。昨今、結婚しない女性なんて珍しくも、」

「そりゃあんた、『いつだって結婚できる娘』が『結婚しない』って言ってるのと、『どうあがいたって嫁の貰い手も無い娘』が『結婚しない』って意地張ってるのじゃ意味が違うだろ」

「おい、口の利き方には気を付けろ? 私は今包丁を持っているぞ?」

 ……何やら凄く不穏な会話をしている。殺人現場に出くわしてはたまらないので回れ右して帰ろうとすると、それよりも先に扉に写っている陰に気付いたらしいお店の人が扉を開けた。

「なーに扉の前でコソコソしてるんだい。入るならとっとと入りな」

 半ば強引に店内に引きずり込まれる彼。店に入ってきた彼の姿を見るなり、パッ! と彼女が背中に隠したのは先ほどの会話の流れを考えるに包丁だろう。これ、今更帰ろうとしたら背後からその包丁で刺されるのだろうか?

 どうやら逃げるという選択肢が無いようである。こんなところで刺されても困る。しかし、他のお客さんも居ないし、どうするのが正解か分からず突っ立っていると、

「何だい? そのまま突っ立って店の置物にでもなる気かい? そんな可愛くもないでかいだけの置物要らないよ。粗大ゴミに出されたくなかったらさっさと座りな」

 ひでー言われようである。粗大ゴミにされてはたまらないので彼は一人でテーブル席に座ることもないな、とカウンター席に腰を下ろすことにする。

 さて何を食べようか、とメニュー表を開き彼はのんびりと考え始める。



 彼女はお店に入ってきた彼を見つめる。その姿はどこかかつての自分を思い出させ、不思議と懐かしくなる。

 このお店が貴方にとって少しでも特別なお店になればいいな、そう願いを込めて、


「いらっしゃい」

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暖簾の向こうで うたた寝 @utatanenap

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