嘘の香り
sui
嘘の香り
その香水店は、裏通りの石畳を抜けた先にある。看板もなく、店主の名前も誰も知らない。ただ人々はその店をこう呼んでいた。
「La Vérité」——“真実”。
けれど、そこで売られている香水のひとつにだけ、奇妙な噂があった。
**“嘘の香り”**という名前の、決してラベルの貼られない香水。
それをつけて話すと、どんな嘘でも人の心に「ほんとう」のように響く。
恋人を安心させるためのやさしい嘘。
自分を保つための小さな嘘。
誰かを守るための重たい嘘。
――すべてを、美しく香らせてしまう魔法。
ある日、青年が店を訪れた。
痩せた頬に疲れを滲ませ、けれど眼だけがひどく澄んでいた。
「“嘘の香り”をください」と彼は言った。
店主は一度だけその目を見て、小さな瓶を差し出す。
「これは嘘を飾る香りではなく、嘘を優しく抱きしめる香りです。よろしいですか?」
青年は静かに頷き、瓶を受け取った。
その夜、彼は遠く離れた町に住む妹を訪ねた。
病に伏せる彼女に、青年は笑顔で告げる。
「手術は成功して、父さんも元気で、母さんは来月には戻るって」
妹はうっすら目を開けた。
そして、ふわりとした香りに包まれながら、こう言った。
「嘘、ついてるでしょ。でも、いい匂い。すごく、あったかい」
青年の肩がふるえた。
彼女は知っていたのだ。父はもうこの世にいないことも、母は心を壊して帰れないことも。
けれど、「香り」はそれらすべての痛みを包み込み、たしかにそこに“愛”があったことだけを、静かに伝えていた。
青年は何も言わず、そっと妹の手を握った。香りはゆっくりと薄れていく。
けれどその部屋には、確かに“嘘から生まれたほんとう”が残っていた。
——La Vérité、“真実”の香水店は今日もどこかにある。
そして誰かがまた、自分にも他人にもついた「やさしい嘘」を、そっと香らせに来る。
嘘の香り sui @uni003
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