色のない白鳥と踊る

冬野瞠

凪沙と昴

 白鳥のようだ。

 スバルと初めて会ったとき、私は瞬間的にそう思った。

 凛とした風を纏った立ち姿。ボブにまとめられた、色素の薄いつややかな髪。しなやかな首筋に支えられた、怜悧な頭脳。

 頭の先から爪先に至るまで、張りつめた緊張が一本の柱となって彼女を貫いている。それが、空気を孕んだブラウスと細身のブラックデニムの上からでも分かった。まるで筋書きが用意されていたかのように、自分と彼女の視線が同時に絡んで。

 私はその刹那、凍てついた湖を思わせる昴の瞳に、心すら射抜かれたのだ。



 技術的特異点シンギュラリティに到達するとされた年を間近に控えたその春、昴と私はお互いに大学の理工学部に入学したばかりだった。だから、我々の初対面の場が学内のどこかであったのは疑いようがない。けれど彼女の圧倒的な存在感の前では、背景などという些末な事柄はいつだって意識の隅に追いやられてしまう。私は未だにそこが何であったのか、微塵も思い出せないままでいる。

 美しい。そんな形容詞が、出会ったばかりの生身の人間に対して、胸の奥から自然に沸いてくるのは初めての経験だった。

 あれは偶然だったのだろうか。白鳥が水面をつうと泳いでくるように歩み寄ってきた昴は、

矢藤ヤトウ昴。君は?」

 簡潔にそれだけ言い放った。私はやや呆気に取られながら、

「……圓井ツムライ凪沙ナギサ

 やっとのことでそう返すと、昴はそれを聞いて雪解けのように柔らかくほほえんだ。この人は笑ったりするんだ、と失礼なことを考えたのを覚えている。

「そう。よろしく」

 気づけば、ひんやりとした相手の右手と、私はいつの間にか握手を交わしていたのだった。

 私たちは学部が一緒で同性という共通点こそあったものの、ベン図でいえば円の端がかろうじて重なっているだけで、それ以外はかけ離れた存在だった。私が大学卒業後すぐに警察官になったのに対し、昴はその後博士課程まで進み、人工知能の研究者となったことからも推察できるだろう。ありふれた容姿と凡庸な頭脳の持ち合わせしかない私とは違い、昴はただそこにいるだけで目を惹く存在だった。雪に閉ざされた湖を一羽で泳ぐ、気高い白鳥のごとき雰囲気や仕草に、誰しもがほうとため息を漏らした。

 そして、運命との示し合わせがあったかのように、彼女の好きな音楽もまた、チャイコフスキー作曲の白鳥の湖なのだった。

「クラシック音楽が殊更好きというわけではないの。この曲だけが、特別」

 澄んだ声で囁く、昴の伏せられた長い睫毛を覚えている。

 白鳥に変えられたオデット姫と、彼女にそっくりな悪魔の娘・オディール、そして王子と悪魔が織り成す愛の悲劇。その物語はあまりにも昴に似合っていた。彼女はあまりにも完璧で、完成されすぎていて。この世の人ではないみたいだった。

 私は彼女に特別な感情を抱いていたし、昴の少し冷えた唇の感触と柔らかさも知っていたけれど、ついぞ本当の気持ちを伝えることはなかった。

 ついぞ、というのは。昴は既に亡くなっているからだ。

 ほんの数日前の出来事で、しかも自殺だったらしい。昴がもうこの世にいない事実を、私はまだうまく飲み込めていない。



 私は通夜にも、葬儀に参列しなかった。

 これだけ人間の生活にAIが入り込んでいても、旧来的な葬儀の形式はほぼ変わっていなかった。真っ黒い服に身を包み、生前の彼女は素敵だった、一緒にあんなことをした、棺の中の顔だって眠っているみたいに綺麗、そう声を潜めて皆でしとどに頬を濡らす。あんなに高潔で美しかった昴に対して、そんなのなんだか、違うんじゃない? 今頃昴のしなやかな肉体は焼かれ、もうかさかさに乾いた骨だけになってしまっているだろうか? いつでも冷ややかな彼女だから、炎に身を焼かれるのは耐えがたかったのではないか、と思う。

 心に重く堆積していくのは、就職以来昴と疎遠になってしまった日々への後悔や、もっと連絡を取っていればこんな事態にはという自責の念、自分が昴の行動を変えられるなんて思い上がりに過ぎないという相反した無力感、どうして何も言ってくれなかったのだという恨み言、それら負の感情の混合物だ。言語化できない胸のもやもやを握り潰すように、パトカーを自動運転から手動に切り替え、アクセルを慎重かつ大胆に操作する。助手席の後輩警官がちらりと視線をよこしたが、結局何も言ってはこなかった。

 心のしこりはそれだけで晴れるはずもなく、自宅に帰ってすぐ、ベッドにうつぶせに寝転ぶ。明かりを点けるコマンドを口に出す気すら起こらない。脳裏に過るのはやはり、昴との「あの夜」のことだ。

 それは触れれば害される、けれどほのかな光でもきらきらと輝く、毒性のある鉱物に似た――ある意味では甘美な――思い出だ。

 学部生時代、私と昴を含む同じ学科のメンバーでしばしば宅飲みをした。この習慣は大学生という生き物の習性みたいなもので、その時の部屋の主は昴だった。彼女の普段の雰囲気とは違い、一人暮らしをしている部屋はこざっぱりとして、親しげな空気すら漂っていた。深夜零時を回ったところで、私以外のメンバーは続々と帰路につき、二人きりの部屋は急に静かになった。私はなんとなく昴と話し足りなく、というのも彼女に対してひとかたならぬ想いを抱いていたからだが、相手がうとうとし始めても、帰ろうとはしなかった。

 私はこれ幸いと、無遠慮に昴の端正な顔を眺めた。睫毛の長さ、くっきりした鼻梁、雪でできているみたいに白い肌、とても自分と同じ人種とは信じがたかった。眠る姿すら清廉な淡いヴェールを纏っているようで、きっとこれが現代に生きるオデット姫なのだ、と臆面もなく確信する。と同時に、そのなめらかな素肌に触れてみたい、という強烈な衝動が喉元を突いた。

 昴に対する気持ちが友情のそれでないと気づいたのは、そしてしばしの葛藤ののちに受け入れたのは、いつであっただろう。自覚していないだけで、澄んだ瞳に射抜かれた瞬間から、その感情は変質していないのかもしれなかった。

 行き場のない想いだった。広大な海をあてどもなく泳いでいるうち、身に相応しくない海流に乗ってしまった、死滅回遊魚のように。

 目の前の昴はいよいよ、クッションに顔を預けてすやすやと寝入っている。幾筋かの髪が乱れて頬にかかっているのが、途方もなく蠱惑的に思えた。私は自分の行動を信じられないまま、昴の唇に己のそれを近づけ、そのままそっと押し当てていた。

 自分の内側で、名の知れぬ大輪の花々が花開いたような気がした。甘い疼きに似たときめきに突き動かされ、私は一度だけ彼女の下唇をはむ、とんだ。顔を離すと、昴は薄目を開けてこちらを見上げていて、心臓が止まるほど驚いた。

 そこに非難や、問いたげな色はなかった。むしろ、湖の底へ誘うような、透徹した光がちらついている。が、昴は何事もなかったかのようにまた、半透明かと錯覚するほど白い瞼を下ろした。

 私だけがその場に取り残された。私はそのまま、昴のカーディガンやその下のシャツまで暴き、深奥の生身の肌に触れることもできただろう。もっと深くまで唇を重ね、お互いの熱を与えあうこともできただろう。しかし私はそうしなかった。にわかに怖くなったのだ。

 これ以上昴に触れたら、後戻りできなくなる。彼女の複雑で繊細な完璧さを、私がめちゃめちゃにしてしまうかもしれない。それはエルミタージュ美術館に収められているという、巨大な金の孔雀のからくり時計のごとき優美な完璧さだ。胃の腑が冷える感覚を覚え、私はその場から逃げ出した。

 翌日顔を合わせても昴は昨晩の私の痴態には一言も触れず、かりそめの友情は私が学部を卒業するまで、何事もなかったかのように続いた。

 昴はなぜ自ら命を絶ったのだろう。彼女は美貌も頭脳も、何もかも持ち合わせていたのに。

 昴との思い出ばかり回想していた私でも、それから数日のうちに、仕事で彼女と再び関わることになろうとは想像もしていなかった。



「矢藤昴の死に所属会社が関わっている可能性があるって、これ……本当ですか」

 捜索令状を渡してきた上司を、信じがたい心持ちで見返す。上司は苦虫を噛み潰すほど口を曲げ、話しづらそうにしながらも、説明する。

「もっと上の方からのお達しなんだ。俺も今朝いきなり連絡を受けてな。事件性も何も考えてなかったから驚いたよ」

「すでに遺体は火葬してしまったのでは? なぜこのタイミングなんです」

「俺にも分からん。とにかく圓井、お前に行ってほしいとの指名だ。人員は割いていいから、すぐ向かってくれ」

「了解しました」

 指令は、昴の所属会社の強制捜索だった。矢藤昴は人工知能の尖端技術を研究・実用化するベンチャー企業に勤めており、その会社が昴の死と関わりがある疑いがかけられているという。卒業後は疎遠になってしまったため知らなかったのだが、彼女はつい数ヶ月前に同僚と結婚していたらしく、あまりにも昴と「結婚」という言葉がミスマッチに感じられたこともあり、私はかなり動揺した。夫である同僚が、彼女の死に関わっていると目されているのだろうか。それにしても、事件性の検証にすら携わっていない私が指名されるなんて、妙な話もあるものだ。いったい誰の判断なのだろう。

 会社は高層ビルの一角にあった。部下を伴いながら、警察手帳の立体映像を呼び出して受付に見せる。受付の人物は少しも驚く表情を見せず、むしろにこやかにどうぞ、と我々警察官を促した。

 捜査の手がこれから入るというのに、社内の空気には少しも乱れがなく、人々も落ち着いている。私はそこに不気味さを感じ取った。まるで全員が、これから起こる事態をすべて理解しているかのようだ。

「圓井凪沙さんですか」

 不意にフルネームで呼び止められ、肩をぴくりと震わせながら振り返る。そこには同い年くらいの、おっとりした雰囲気の女性が立っていた。警官の階級でもなく下の名前まで呼ばれ、昔からの知人を見るような、ほとんどフレンドリーといっていい温かい視線を注がれ、ややうろたえる。

「はい、本官が圓井ですが」

「弊社の矢藤から、あなたへの言伝ことづてを受け取っております」

 狼狽が巨大な波涛となって、自分の心臓を、全身さえも揺さぶった。生前の昴が、私宛の文言を頼んでいたのか。それはつまり、遺書ということだろうか。

 言伝の内容は、社内の指定する部屋へ来い、というものだった。しかも、一人で。

 警察官は本来、単独行動は禁じられている。けれどただならぬものを感じ、少しなら重大なお咎めはないだろう、と昴からの指示に従う。

 言伝にあった部屋は社内の他の部屋と比べて極端に広く、そして暗かった。フロア全体がひとつの部屋になっているらしく、空間の四隅は闇に沈み、距離感覚を失いそうだ。たくさんの蛍がとまっているかのように、床や壁が青緑の光の点滅でちらちらしている。部屋の中央には円形のステージめいたものがあって、そのさらに中央にはぼんやりした光の柱が浮き上がっていた。

 その光に導かれるままに歩みを進めると、背後でがちゃんと重たい金属質の音がした。鍵をかけられた、とはっとして振り向くものの、自身の不用意さを恨む余地もなく、

「やあ、凪沙。久しぶりだね」

 唐突に声が空間を走り抜ける。指の先から爪先までが、一瞬で硬直した。体の末端は冷え、内部の芯あたりだけがかっと熱くなるような感覚。その懐かしい響きは間違えようがない。

 ごくりと喉を鳴らしながら、声の発生源、つまり部屋の中央へゆっくり首を回す。

 光の柱だったところ、そこに昴がいた。

「す、ばる……」

 呆然としながら、幽霊でも目の当たりにした心境で、彼女の姿を頭から爪先まで見つめる。

「そんな幽霊でも見るような顔をしないでほしいな。せっかく何年かぶりに再会したっていうのにさ」

 私の心を読んだように、昴が的確に指摘する。小首を傾げた昴の髪が揺れる。そこで私は気づいた。そこにいるのは――いるという表現も正しいか分からないが――昴そっくりのホログラムであることに。

 昴の姿を真似た何かは、雪が解けるような優しい笑みを浮かべる。

「招待状、受け取ってもらえたんだね。嬉しいよ」

 私の頭は僅かだけ冷静さを取り戻しつつあった。招待状とは、あの不可解な捜索令状を指しているのだろう。目の前にいる相手が、どうにかして各機関に指示を出したに違いない。そう確信した。

「招待状って、どういうこと? ちゃんと説明してほしい。それに、あなたは誰」

 己の問いは切迫した調子を帯びる。相手は小さく頷き、「自分の正体から説明した方がいいだろうね。ここにいる存在は、矢藤昴そのもの」と滔々と説明を始める。

「自殺した矢藤昴の全脳の機能が失われないうちに、そっくりそのまま電子的に移植して、ネットワーク上に再現しているんだ。これは自分が開発したAI技術を用いていて、ある種の人工知能といえる」

 矢藤昴の、再現。私は流水のごとき言葉にくらくらした。これが、この相手が、昴本人?

「聡明な君はもう気づいているかな。不可解な捜索令状を出したのは、自分なんだ。裁判所や警察のネットワークに侵入するなんて、今の自分には造作のないことだからね」

「……どうして、そんなことを?」

「君に会いたかったから」

 生きていた時と変わらない、凍りついた湖の瞳に、まっすぐ見つめられる。

「君はこう思っているだろう。生身の矢藤昴と、ここにいる矢藤昴は別個の存在だ、と。それは誤りだ。記憶はもちろん受け継がれているし、自己認識も連続している。凪沙。君とのすべてを、自分は覚えているよ。ここにこうして存在している自分は、君のそばにいた頃の自分と何ら変わらないんだ」

 昴の唇が動き、白い歯がちらりとこぼれ、たおやかな指が優美に揺れる。それらすべての仕草は、彼女が言うように、生前の昴と何ら変わりない。

 凡人ならば、亡くなった人間の存在を留めるために、本人の電子化という手段を取ったのだと思うだろう。しかし私は、その考えが間違っていることを悟っていた。因果関係はきっと逆だ。昴は、のだ。

「あなたと生前の昴の意識が同一かどうかなんて、誰にも検証できない。あなたは……昴本人とは言えないんじゃない?」

「そうだな――自分自身は、己が矢藤昴以外の何者でもないと思っている。けれど君の言うように、立証不可能なことも確かだ。こればかりは信用してもらう他ないね」

「あなたは……自分の体を人工知能化するために、自ら死んだというの」

「その通り」

「どうしてそんなことを? 結婚したばかりだったんでしょう」

 風格すら感じさせる余裕を纏っていた相手は、急に虚ろげな遠い目をした。

「そうだね……。結婚こそが、自分がこんなことをした一番大きい要因だったかもしれない」

「どういう意味?」

「自分は女性性というものに憎しみを持っていた」

 唐突にはっきりした声音で、昴の姿をしたホログラムが言う。やや荒らげた調子で、相手は続ける。

「ジェンダーフリーという思想が浸透したところで、肉体的に女性にしかできないことは明確にあった。子孫を生むことだ。自分はね、凪沙、ヒトに性別が備わっていることは欠陥だと思っていたんだよ。だから絶対に、自分を私とか僕とか呼ばなかったんだ――知っていたかい?」

 私は首を横に振る。

「自分は研究に身を捧げると決めていた。その他に、自分の時間を割くべき事柄など無いと。夫と婚姻関係になったのは、彼となら研究者として同志のような関係を築けると思ったからなんだ。けれど、上手くいかなかった。彼の肉親や、そして彼本人からも、徐々に女性としての役割を期待されるようになってね。苦痛だった。肉体を持つヒトという存在自体に絶望もした。そもそも胎生というのは、子にとっては生存確率が上がる戦略だけれど、母体にとっては負担がかかるだけで何のメリットもない。命を落とす可能性だってある。システムのバグとすら思えるよ」

 昴は右手を、すっと私の方に伸ばした。

「凪沙。今の自分は、肉体を持っていた自分より遥かに多くのことができる。これは進化だ。それも、ドラスティックで革命的な。我々は自然淘汰という大きな波に抗い、自らの自由意思による進化を成し遂げた、地球史上初めての生物なんだ。それならば」

 昴はそこで言葉を切る。

「肉体に負担がかかるだけの胎生というくびきから脱却して、もっと高いステージの存在となったとしても、何らおかしくはないと思わない?」

 私は圧倒されていた。それらの言葉は、人間のものとは思えなかった。それなのに、強烈に惹かれ始めている自分もいる。あらゆる生の、性の束縛から解放されて、より高次元の存在となること。それは、眩い光を放つ思想に思えた。

 けれど、未だ肉体というかせを持つ者として、胸に湧き上がる違和感を昴にぶつける。

「でも昴、今のあなたは本当に生きているの? あなたはもう代謝活動もしない。自己増殖も肉体の成長もしない。それって、生きていると言えるの」

「それは生そのものではなく、生物の定義だね。自分は思考もすれば、記憶の蓄積もする。成長という点でいうと、無限に知識を増やしていける。自分は立派に生きているよ」

 昴の表情は友愛に満ちていて、寛大で、包容力を感じさせた。昴と私は、講義する教授と無知な生徒のようで。ともすれば、全知全能の神と蒙昧もうまい無知な迷える羊のようで。

 次の自分の言葉は、ほぼ懇願めいた色を帯びていた。

「昴は……私に何をしてほしいの? 話を聞かせるためだけに、こんな大がかりなことをしたのではないはず。意図を、目的を聞かせて」

 昴は効率至上主義者だから、自らの存在の変化を知らせるためだけに、こんな難儀なやり方をするわけがない。私には分かっていた。

 そう、それこそが本題だ、と昴の声に芝居がかった色が混じる。

「凪沙。君を招待したいんだ。こちらの世界に」

「招待、って」

 歌うような声音に、不穏な雰囲気を感じとる。職業柄、そういった空気には敏感だ。

「君は今、銃は持っている?」

 首を横に振る。それを受けて、昴が私の足元を指差した。そこにはいつの間にか、真っ白い銃の形をしたものが出現している。あるいは、それは最初からそこにあったのかもしれない。

「これは……」

「3Dプリンターでプリントした拳銃だよ。警察の正式銃と同じ型のものだ。もう引鉄を引けば、普通に撃てるようになっている。耐久性がないから一発しか撃てないけれど。でも、一発で充分だ」

 次に昴は、決定的な台詞を口にした。

「凪沙。自分と一緒に、ヒトという存在を超えよう。君が選べる選択肢はふたつ。自分と共に来てくれるなら、君の心臓を撃ち抜いて。そうすればここの社員がすべてを処理してくれる。それを拒否するなら、この部屋にあるサーバの電源を破壊して。自分は電源が失われればじきに死ぬ。そうして一度葬られた自分は永久に復元できなくなる。そのどちらかを選択しない限り、この部屋の鍵は開かない」

「何を言って――どうして、こんな」

 私の口の中はからからに渇いていた。手先がぶるぶると震える。選択肢の内容と、状況のあまりの非情さに。

 昴はまるで憐れむように、美しい双眸を細める。

「なぜって? 君は臆病だからだ。あの時も、君は逃げてしまったね。自分は構わなかったのに……自分も、君と同じ気持ちだったのに」

 あの夜の感触が唇に甦る。体の奥底から、わななきが全身へと伝染していく。

「自分はもう、長くはここにいられない。この会社のサーバは、自分のような存在を保持し続けるほどのスペックはないから。それに、これから世界中を駆け回って、たくさん仕事をしなくてはいけないんだ。だからこれが、最後のチャンスなんだよ。凪沙。今度こそ、自分と一緒に生きよう」

 どこかから白鳥の湖の終曲が流れてくるのに、私は気づいた。それは昴の仕業だろうか、己の脳の仕業だったろうか。私たちは劇的な音楽に包まれ、舞台の真ん中でスポットライトを浴びながら、ぐるぐると回転しているようだった。

 現実感を失ったまま、冷たい指先で重量感のない拳銃を拾い上げる。

「昴。もうひとつだけ、聞かせて。今のあなたのような有りようは、ヒトだって言える?」

「分からない。だからこれは実験だ。自分が正しいのか、間違っているのか、君に決めてほしい。――凪沙、君が決めるんだ」

 昴は澄みきった目で言い切った。

 私には、目の前でじっとこちらを見つめる白鳥の化身のような彼女が、純白の衣装のオデット姫なのか、漆黒の衣装のオディールなのか、もう判断ができなくなっていた。

 私は自らの心臓を撃ち抜き、昴の手を取って旅立つべきなのだろうか。それとも、昴の存在を永遠に、この手で葬り去るべきなのだろうか。

 昴の瞳の向こうには別世界がある。それは来世で幸せになろうと誓いあって命を絶った、オデット姫と王子の瞳に映っていた世界と、きっと同じものだ。

 短調から長調に転調した音楽がわんわんと響き渡る中、私はとうとう、引鉄に指をかける。

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色のない白鳥と踊る 冬野瞠 @HARU_fuyuno

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