第6話 古典は生きている

「少陰病、下利清穀、裏寒外熱、手足厥逆、脉微欲絶、身反不惡寒、其人面色赤。或腹痛、或乾嘔、或咽痛、或利止脉不出者、通脉四逆湯主之。」


春の最後のひんやりとした風が通り抜ける中、KKCセントラル病院のすぐ隣にある吉祥寺公園を通って病院に颯爽とやってきた白髪交じりの男は、そのまま東洋医学科の医局に直行した。

名は道山真澄(どうざん ますみ)――大学時代は“歩く漢籍ライブラリ”と恐れられ、時に親しまれている人物である。


彼は、東洋医学科のスタッフステーションに現れるなり、いきなり東洋に詰め寄った。

「少陰病、下利清穀――この条文、覚えているかね?」


吉桝は驚いて、持っていた「金匱要略」を落としそうになった。

だが、問われた東洋は眉ひとつ動かさずに答える。

「傷寒論、少陰篇、通脈四逆湯の条文です。まあ、朝の挨拶には少し重たい条文ですね。」


道山は満足げにうなずいた。

「素晴らしい。最近の若い医者は、保険エキス剤にない条文なんて覚えてないやつばかりなのに、君はしっかり覚えているんだな。」


朝からまさかの条文バトル。そのシュールさに、さすがの吉桝も白鳥も一瞬凍った。吉桝は大学で一緒だった時期もあったので、またあれか、という雰囲気だった。一方東洋は初めて会うこの男に、自分と同じ風を感じていた。

――二人の間には奇妙な熱気が漂っていた。


道山は、古典中毒とでも呼ぶべき男だ。

文献を読まない日は蕁麻疹が出るレベルであり、『和漢三才図会』や『医心方』を読みながら朝食をとるという。

ただし、臨床はあまり得意ではない。患者に話しかけるときも、つい「傷寒論によればですね……」と始めてしまい、患者をポカンとさせることもしばしばだった。


一方の東洋は、文献よりもまず患者の顔色を見て判断するタイプ。

「舌より顔が先だろ」「脈があっての条文だろ」とでも言わんばかりのリアル臨床主義者である。


そんな二人が、いきなり条文で挨拶し合い、火花を散らしている――

それを見た白鳥は、朝からどうなるものかとヒヤヒヤした。


だが、道山は心の奥で密かに感心していた。

(……これは只者ではないな)

東洋の弁証論治は自分の察証弁治とほぼ同じであるが、ここまで見事に体現している若者がいるとは。


「ふむ、これは退屈せずに済みそうだ」

ニヤリと笑った道山は、持参した分厚い漢籍の束を、ドスンと机に積み上げた。

すべて手書きの注釈入り。しかも今日だけでなく、毎日持ってくるつもりらしい。


東洋医学科に、新たな混沌――いや、賑やかな春が訪れた瞬間だった。


     *


内科外来の廊下を、若い女性が不安げな面持ちで歩いていた。

名は神岡咲良(かみおか さら)、22歳。半年前から続く腹痛と下痢に悩まされ、何度も検査を受けたが、どこにも異常は見つからなかった。医師たちは「過敏性腸症候群」と診断し一定の治療を行ったが効果が見られず、心療内科への受診を勧めた。自分がまるで精神を病んでしまったようなことを言われたのかと思い、彼女はどうしても納得できずにいた。


そんな折、担当医がふと言った。

「……もし興味があれば、東洋医学科を紹介しましょうか。」

半信半疑ながらも、咲良はその提案にすがる思いで頷いた。


そして今日、東洋医学科の診察室。

白衣を着たDr.東洋が、優しい声で問いかけた。

「最近、ストレスを感じることはありましたか?」


咲良はうつむき、ぽつりぽつりと語り出す。

仕事のプレッシャー、上司との軋轢、そして、体調不良への不安。

東洋は静かに頷きながら、脈を取り、舌を診た。


「これは……肝脾不和(かんぴふわ)だな。」

肝気が鬱滞し、脾胃の機能を傷つけている――東洋はそう判断した。


処方されたのは、柴胡疎肝湯(さいこそかんとう)。

だが、彼女は普段から胃腸が弱く、通常の処方では脾胃を補う力が足りないと考えた東洋は、六君子湯(りっくんしとう)を合わせて処方した。


薬を服用し始めて一週間。

咲良は「すごく楽になった気がします」と笑顔を見せた。

腹痛も軽減し、表情も明るくなった。


だが、さらに二週間が経ったころ。

腹痛はないものの、前触れもなく下痢が出現するようになってきた。それに伴い、倦怠感や、食欲の低下も出始めた。


「また、前と同じかもしれない……」

咲良は不安を抱えながら、再び東洋のもとを訪れるのだった。



咲良の再診の日。

診察室の空気は、どこか重たかった。


東洋は、再び脈を取り、舌を診た。

微かな脈の沈み、湿り気を帯びた舌苔。

うーん……肝脾不和だけでは説明しきれない。


そこへ、白衣をふわりと翻して道山真澄が現れた。

「おや、患者さんかね?」

興味津々に覗き込みながら、手を差し伸べる。


東洋がためらう間もなく、道山は咲良の手首に指を当てた。


神岡は突然入ってきた白髪の男性が白衣を着ているので、医師だとわかった。


「ふむ……脈は沈んで微細、舌は湿潤。手足の冷え、腹痛もある、と。」

にやりと笑って、彼は言った。

「これは柴胡剤の証じゃない。少陰病のパターンだよ。」


東洋が眉をひそめた。

「少陰病、ですか?」


道山は懐から小さな文庫本サイズの古典を取り出し、ぱらぱらと捲った。

「《傷寒論》、少陰病の条文だ。『少陰病、下利清穀、手足逆冷、脈微欲絶者、通脈四逆湯主之』…… これじゃないか?」


一瞬、空気がピリリと引き締まる。

道山は畳みかけるように続ける。

「つまり、柴胡疎肝湯のような“和解少陽(わかいしょうよう)”ではなく、少陰の虚寒に対して“回陽救逆(かいようきゅうぎゃく)”を考えるべきなんだよ。」


東洋も負けじと反論する。

「確かに今の症状は少陰に寄っていますが、最初の腹痛は明らかにストレス発症型でした。柴胡疎肝湯合六君子湯で一度は改善したんです。初発は肝気鬱結から来る肝脾不和だったはず。」


道山はうんうんと頷きながら、ニヤリと笑った。

「最初はね。でも、病勢は刻々と変わる。今、目の前の証は何だ?」


しばし沈黙。

東洋は改めて咲良を見つめた。

冷たい手。腹部の柔らかさ。よく見れば顔色の蒼白のなかに頬骨のあたりが僅かに赤らんでいる。

ああ、道山の言う通りだ。

今、この瞬間、咲良が見せているのは……明らかに“少陰”の像だった。


東洋は深く息を吐き、静かに頷いた。

「……なるほど、確かに。肝脾不和から、少陰病に遷延した可能性がある。」


「でしょう? 現証を見るのが弁証の基本だよ。」

道山は満足げに笑いながら、本をパタンと閉じた。


東洋はカルテに「通脈四逆湯」と処方を打ち込みながら、思った。

古典だけを振りかざす道山だと思っていたが、彼は“今”の患者を見て、古典を生きた臨床に引き寄せている。

その手つきは、東洋自身が実践している“弁証論治”そのものだった。


「道山先生、ありがとうございました。」

そう素直に言うと、道山は肩をすくめた。

「いやいや、私も勉強になったよ。やっぱり、臨床は教科書の外にあるなぁ。」


二人は顔を見合わせ、微笑んだ。


通脈四逆湯を処方した翌週。

咲良は再び東洋と道山の前に現れた。


「……先生、下痢がだんだん大丈夫になって来たんです。何年も、ずっと苦しかったのに。」

そう言うと、咲良の目に涙が滲んだ。


「よかったですね。」


そう言った東洋は驚いていた。

たった三味——乾姜(かんきょう)、附子(ぶし)、甘草(かんぞう)——それだけの組み合わせが、彼女をこれほどまでに救うとは。


東洋の胸に、じわりと温かいものが広がった。

同時に、心の奥底で葛藤が渦を巻く。

(なぜ、あれだけ柴胡疎肝湯にこだわっていたのか……)


彼は改めて思い知った。

文献は知識ではない。

"生きた証拠"であり、今まさに目の前で起きているこの現象を、はるか昔の先人たちが言葉にして残してくれたものなのだ。


「……本当に、すごいですね。」

東洋は小さく呟いた。


後ろに控えていた道山は嬉しそうに咲良を見つめたあと、ふと遠くを見た。

その横顔には、これまでの年月の重みが滲んでいた。


「私ね……実は、臨床にはあまり自信がなかったんだ。」

ふいに、道山がぽつりと打ち明けた。


「患者さんと直接向き合うと、つい、頭の中で文献のページばかりめくってしまう。言葉も、表情も、ぎこちなくなってしまうんだよ。」


東洋は驚きながらも、静かに頷いた。

道山ほどの人でも、そんな悩みを抱えていたのか。


「でも今日、初めて思ったよ。」

道山は咲良の笑顔を見つめながら続けた。


「書物の中だけにあった知識が……現場でこうして血肉となって動くのを、初めて実感できた。

こんなふうに、人を救う力になれるんだなって。」


道山の目が、ほんの少し潤んで見えた。


咲良も長年悩んでいて、どんなに治療をしてもうんともすんとも言わなかった腹痛と下痢が、変化があっただけでも驚いているのに、今では腹痛は鳴りをひそめ、排便もうまくいきつつある。

「今後はどうしたらいいんですか?」


東洋は今後の見通しについて話した。


「病気というのは積み重ねなんです。悪い状態が毎日少しずつ積み重なっています。神岡さんの症状も半年前からでてはいますが、その芽は以前から積み重なっていると考えられます。もう薬を飲まなくてもいいようになるには、病気だった期間と同じくらい時間がかかります。ですから、今度はもうちょっと間隔を空けてもいいので、数ヶ月から1年くらいは通院していただけるといいんじゃないかと思います。 」


「そうなんですね。漢方薬って長く飲まないと効かないって聞いてましたけど、こんなに早く良くなって嬉しいです。」


「でも、ある程度の範囲の中でよくなったり悪くなったりします。それを続けていくと、薬を飲むことさえ忘れてしまうくらいに…なったら嬉しいです。」


「そしたら私も嬉しいです!」


そう言って神岡は次回の予定を1か月後に入れて、深く一礼し軽くなった足取りで診察室を後にした。


咲良が診察室を出て行った後、東洋は道山に深く一礼した。

「先生の知識がなければ、私は目の前の患者さんの変化に気づけませんでした。」


「いえいえ、私はただ、古典の言葉を口にしただけさ。」

道山は照れたように笑ったが、その表情には確かな誇りが宿っていた。


「文献がなければ、臨床は地図を持たずに旅をするようなものです。」

東洋は続けた。


「でも、地図を持っていても、目の前の景色を見なければ道は誤る。今日、それを改めて学びました。」


二人は、互いにもう一度、深く頭を下げた。


そして、自然と笑いあった。

「これはまた、面白くなりそうだな。」

「ええ、本当に。」


診察室に柔らかく降り注いでいた。

東洋と道山、ふたりの医の旅が、静かに、しかし確かな一歩を踏み出した瞬間だった。


(第六話 了)

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