第4話 人を診るということ

浅田宗一郎はセントラル病院で初期研修から勉強している医師だ。医師と言っても駆け出しの医師だし、半人前と言ってもいい。一体何年経てば一人前になるのかと言われればそれは難しい話ではあるが、医師になって3年目の後期研修医は、まだ一人前というには難しい。そんな浅田だが、彼の和漢的な知識は類を見ないほど優れており、東洋医学科の後期研修ではすでに外来を担当している。そこに関しては一人前と言っていい。


浅田の家は、江戸時代より将軍家に仕えた名家の血を引く、由緒正しき御殿医の家系だ。幼い頃から和漢の古典に親しみ、まるで日常会話のように「傷寒論」や「金匱要略」、「類聚方」「薬徴」などの古典を叩き込まれた少年だった。教育は厳しく、遊びも許されず、あらゆる医学知識を叩き込まれて育った。和漢の医師としての腕はすでに一人前。実際、KKCセントラル病院の和漢外来も問題なくこなしている。だがその裏に、医学そのものに対する心からの共鳴はまだない。与えられた道を進んでいるだけ――。その冷めた眼差しは、時に周囲との温度差を生み出していた。


そんな浅田が外来で担当している78歳の女性患者。かつてリウマチの診断を受け、生物学的製剤(免疫を調子する薬)を使用していたが、強い副反応が出たために中止となった。現代医学の治療に限界を感じた主治医は、東洋医学科への紹介を提案した。彼女は骨粗鬆症による圧迫骨折の既往もあり、腰に慢性的な痛みを抱え、膝関節も著しく変形していた。歩くのは困難で、いつも娘が付き添って外来に受診をしていた。


初診時には、現代医学の薬が何種類も処方されており、彼女の薬歴は混沌としていた。だが浅田は、まるでピースの欠けたパズルを見抜くようにその症状の本質を捉え、必要な漢方薬を選び抜いた。処方は合理的で、無駄がなかった。彼女の痛みは少しずつ自制内に収まり、現在では浅田が処方する漢方薬のみで体調を保てるまでに回復していた。


「すごいわね、浅田先生って」

看護師たちはよく言った。確かに浅田の診察は早く、的確だった。問診、脈診、舌診、腹診。どれをとっても、迷いがなかった。将軍家に召し抱えられる医師の家系で、本人の希望とは無関係に幼い頃から英才教育を受け、国内外の論文を詰め込まされてきた彼の知識と技術は、もはや無意識に呼吸するように治療へとつながっていた。症状は当然、改善する。患者はよくなる。それが彼の「当たり前」だった。


だが、その患者の診察の終わりぎわ。付き添っていた娘が、何か言いたげな面持ちで、一度診察室をでてから、一人で再び入って来た。


「あの…先生の薬、本当にすごいんです。母も、前とは比べものにならないくらい元気で…。ありがとうございます。」


一礼して帰ろうとした彼女が、ふと振り返って口にした。


「でも…なんだか、母は先生のこと冷いって感じてるみたいなんです。人間味がないというか…。母、家では言わないんですけど、“診てもらってる”というより、“流れ作業みたい”って。そう感じること、あるみたいなんです。」


その言葉に、浅田は思わず瞬きをした。

冷たい? 人間味? 治療効果は出ている。それだけで十分ではないか。医師の仕事とは、病気を治すことだ。それ以上、何が必要だというのか。


そう思いながらも、娘の言葉は棘のように心に残った。

当たり前のことを、当たり前にしている。それがなぜ「冷たさ」に映るのか。

何かが、わからなかった。


いや──わかりたくなかったのかもしれない。


彼の頭の中には、正確な診断名、効果のある方剤、その次の選択肢、そればかりが明晰に浮かび上がっていた。医師の仕事は病気を治すこと、それに関しては自信すらある。 だが、「患者がどんな気持ちでそれを受け取っているか」など、考えたことがなかったのだ。


その日は、いつになく診察の後に疲れを感じた。


     *


翌朝の医局は、いつもと変わらず静かだった。壁に掛けられた古びた掛け時計が、カチリ、カチリと時間を刻む音だけが響く。東洋はいつものようにソファーに座りお気に入りの紫砂壺の急須 で、今日は東方美人を淹れ、その甘い香りを嗅ぎながら小ぶりの茶碗に注いで湯気を見つめていた。


そこへ浅田が静かに入ってくる。白衣の襟を軽く整えながら、東洋の合い向かいに静かに座った。


「…東洋先生。」


東洋は顔を上げて浅田を見つめ、茶碗を渡しながら目だけで続きを促した。


浅田はふと視線を落とし、言葉を選ぶように間を取った。


「昨日、ある患者の付き添いの娘さんに言われました。…“冷たい”って。」


東洋は言葉を返さず、茶碗を口元に運び静かに啜った。浅田は続けた。


「症状は明らかに良くなってるんです。歩けなかった人が歩けるようになってる。それなのに、“人間味がない”とか“流れ作業みたい”とか…。何が悪いんですか?結果が出てるのに。」


静かな問いだったが、その奥に拭えない葛藤があった。


東洋は湯飲みを机に置き、ゆっくりと口を開いた。


「命は、データじゃないよ。人は“治る”だけじゃなくて、“癒される”ことも望んでる。」


浅田はその言葉に眉をひそめた。理屈では理解できる。しかし、それでも釈然としなかった。


そのとき、医局の隅で資料を読んでいた吉桝が、椅子を軋ませながら声を投げた。


「お前はあれだよ。病気は治しても、“患者”を診てねえんだ。」


吉桝は資料を置き、浅田の方をまっすぐ見た。


「…昔の俺みたいだな。」


その言葉に、浅田は少し目を見開いた。誰よりも頑固で理詰めの吉桝が、自分と重ねている。その意外さと重みが、言い返す言葉を奪った。


医局には再び静寂が戻る。浅田は無言のまま、どこか遠くを見つめていた。心の中に、これまでなかった小さな“問い”が芽生えていた。


     *


その晩、浅田は病院での救急当直を担当していた。救急医として、あるいは研修医としての立場を意識し、どんな状況にも冷静に対応できるように努めることが求められていた。病院の中でも、外科系の知識を持つ浅田は、その存在が重宝されており、当直の際も外科的な処置が求められる場面が多い。それでもこの瞬間、命の現場での対応は、ただの知識や技術では乗り越えられないものがある。


その夜、時計の針が23時を指したとき、救急車が病院の前に到着した。現場のスタッフが慌ただしく準備を整え、救急車から降りたストレッチャーの脇で救急隊員が心臓マッサージをしながら中へ運び込む。その患者は、浅田が外来で定期的に診ていた76歳の男性であった。彼は、3度の大腸がんの手術を経て、今は人工肛門を使いながらも元気に生活していた。浅田の処方した漢方薬のおかげで、排便コントロールや倦怠感や肩こりも改善し、良好な状態が続いていた。だが、今、この患者は心停止という緊急事態に直面していた。


浅田は慌てることなく、迅速に蘇生処置に取り掛かった。心臓マッサージ、人工呼吸、その手順を一つ一つ確実に行う。しかし、時間が経過しても、患者の体に反応は現れなかった。冷たい汗が浅田の額を伝う。手のひらから力が抜けそうになるが、浅田は必死に力を込め続けた。


そのとき、ガラス越しに見えるのは、泣き叫ぶ成年の姿だった。いつも外来に付き添ってくるその息子は、父親が倒れた現場を目の当たりにし、心の中で必死に願っているのが見て取れる。その姿に浅田の心は揺さぶられた。普段冷静でクールな浅田も、この瞬間ばかりは心のどこかが締めつけられるような感覚に襲われる。


再び心臓マッサージを繰り返し、アンビューバッグを押すが、胸骨圧迫で凹んだ胸が虚しく胸が上下動するだけだった。時が経つごとにその現実を受け入れなければならないという思いが強まる。時計の針が無情に進む。その刻々と過ぎていく時間に、浅田の手が止まる。


ガラスの向こうで叫んでいた息子を処置室に通し、経過を説明した。これ以上の蘇生は効果が見込めないと伝え、一緒に死亡確認をしてほしいと提案した。

息子もガラスの向こうでは叫んでいたが、土気色になった父親の顔を見てこれ以上の蘇生が見込めないということに納得したようだった。



説明を終えた後、浅田は力尽きたように当直室の壁にもたれかかった。彼はそのまま、腕をだらりと下ろし、深く息を吐き出した。心の奥底で何かが崩れ落ちるような感覚に襲われる。外来であんなに元気だった患者さんの姿が瞼の裏に浮かぶ。そのとき、ようやく彼は小さくつぶやいた。


「……死って、こんなに、重いのか。」


その言葉は、まるで彼の冷徹な外見を覆すような、本音のようだった。普段は理論とデータで物事を判断してきた浅田が、目の前にある命の重さに圧倒され、初めてその無力さを痛感していた。どんなに冷静に振る舞おうとしても、目の前で命が消えていくその瞬間、無力さに打ちひしがれる自分を否応なく感じてしまう。


静寂の中、浅田はただひたすらにその感情と向き合うしかなかった。


     *


数日後、春の陽気が続くある午後、あの女性患者が娘と一緒に浅田の外来に現れた。いつものように静かに椅子に腰かけ変わらぬ調子で「こんにちは」と微笑む姿に、浅田はどこか安堵するものを感じていた。


血圧、脈拍、腰痛や指のこわばりの様子。カルテの画面を見ながら淡々と進む診察の終わり際、ふと、浅田は手を止めて顔を上げた。椅子が回転し女性の方を向いて口を開いた。


「そういえば、この間、娘さんとお花見に行かれたとか。どうでしたか?」


それは診察メモにも残していなかった、ふとした会話の断片だった。女性は一瞬きょとんとした顔をし、やがて驚いたように目を見開き、口元を綻ばせた。


「…あら、先生。そんなこと覚えてくれてたんですね」

女性は付き添いの娘と顔を見合わせた。


浅田の照れくさそうに笑うその顔には、以前には見られなかった柔らかさが宿っていた。


「なんだか、前よりずっと話しやすくなった気がします。」


その言葉に、浅田は思わず目をそらし、苦笑を浮かべた。何かを意識してそうしたわけではない。ただ、あの夜の出来事が、自分の中の何かを変えたのだということだけは、確かに感じていた。



診察を終え、医局に戻った浅田は、少しだけ肩の力を抜いて歩いていた。

ソファでは東洋が高山茶を丁寧に淹れており、台湾茶らしい香気が漂っていた。ケトルを置きながら東洋がふと声をかける。


「患者さん、いい顔して帰っていったな。」


浅田は白衣を脱ぎながら軽く頷く。


「ええ。…ほんの少しだけ、“治療”以外のことを話してみたんです。」


東洋は茶碗を手渡しながら微笑む。


「お前の言葉じゃなくて、“気持ち”が届いたんだろうな。」


すると、隣のデスクでカルテを整理していた吉桝が顔を上げ、片眉を上げながら茶化すように言った。


「お前もようやく“医者”らしくなってきたんじゃねえのか。」


浅田は少し目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

普段の自分なら軽く受け流したかもしれない。だが、今はその言葉の重みを、素直に感じていた。


「…そうかもしれません。」


一息ついたあと、吉桝が東洋に向かってつぶやく。


「なんだか最近、お前の茶、前よりうまく感じるな。」


東洋は肩をすくめて笑う。


「茶は同じでも、飲む側が変わったんじゃないのか?歳々年々人同じからずってね」


「……ま、そうかもな。」


春の陽射しがカーテン越しに差し込み、穏やかな沈黙が流れた。

“治す”ことと“癒す”ことの間にある小さな境界線を、三人はそれぞれの形で越えはじめていた。


浅田が「診る」ということの、その本当の意味に──ようやく触れはじめた春の午後だった。



(第四話 了)

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