終章

 ◇

 はじめてあがるわね。


 人魚姫が陸に上がると、足がふらつき転びました。


 勝手が違う……。


 なんとか立ち上がろうとしますが、力が入れにくいのです。

 泳ぐ時に使う筋肉と、歩く筋肉で異なるせいなのですが、人魚姫にはよくわかりませんでした。


 顔を見上げると、崖の上に城が見えました。

 近いようで、永遠を思わせる遠さでした。


 ダメ、こんなところで止まってられない。


 人魚姫は近くにあった木を杖代わりにして、城を目指しました。

 一歩、また一歩。


 徐々に歩くことになれ、希望が開けていくようでした。


 負けない。

 あの人に、会うんだ。



 ◇

 人魚姫は城についにたどり着き、大広間での謁見が叶いました。

 入ってきた男を見て、人魚姫の目が潤みました。


 ああ、あの人だ。

 遂に会えた。


 王子と目が合う。

 王子も目を見開き、少し興奮したようだった。

「お目通り、感謝します」

 人魚姫はカーテシー(貴族に対して女性がとる敬礼の姿勢)をとりました。

 沈黙が大広間を支配しました。

「……王子、なにか言われては?」

「ああ、すまない」

「無理もありません、姿は若いが杖をつき、声は老婆のよう。王子、これは魔女かなんかなのでは?」

「宰相、失礼だぞ!」

 王子の言葉にも、宰相は悪びれる様子はありません。「失礼した。それで君が僕を助けてくれたというのか?」「はい、覚えてませんか?」

 王子は眉を潜め、考えているようだったが、「すまない、恥ずかしいことに、あの時は必死だったので、記憶が曖昧なんだ。ただ、失礼ながらもっと若い声だった気がするんだが、人違いということはないか?」

 王子の声は、人魚姫に妙に冷たく感じました。


 どうして……?

 そうか、声が違うんだ。

 なにか、なにかない?

 あの人に届く、なにか。

 あ……!


 人魚姫は歌を歌う。

 かつて歌いあった歌を。

 かつてのように歌おうとするが、どこか口がもたついた。

 発音がはっきりしなかった。

 それでも想いを込めて歌った。

 歌いあった楽しさを、歌い合って出来た信頼を。

「こやつ、これはまさか呪文か……!」

「いや、待て!」宰相を静止する王子。「この歌は……」

 王子が高揚したような表情で立ち上がる。


 通じた……?

 体温が上昇するような感覚を覚える。


 王子はそのまま窓の方へ行ってしまう。


 え……?

 体の熱が、一瞬にして奪われた。


「いや、失礼。あなたの歌も素敵だが、最近よく聞こえるんだ。海の方から歌が」

 そう言いながらも、こちらの方を向こうとしない。

 人魚姫が耳を澄ますと、確かに歌が聞こえてきた。

 魔女との別れ際に聞いた、かつての自分の声に。

「もしかすると人魚なのかも知れない。ああ、叶うならマーマンになってでも会いに行くと言うのに」

「反響のせいでそう聞こえるだけです。王子はロマンチストですな」

「昔と違ってなまるようになったが、そこがまた味わい深い」


 ……そうか。

 この人が好きなのは、かつての私。

 もうこの人の好きな人は、いないんだ。

 今の私じゃ……ない……。


「……。すみません、人違いでした」

「え?」

「よくよく思い出してみれば、私が救けたのはこんなハンサムな人では、なか……、った」

 最後は言葉にならず、涙でボロボロになる。

「おい、君!」


 ボトッ、ボトッ。

 かすかな異音。

 宰相がその音の方を向くと、白い珠が転がっていました。

「その白い珠は……!」

「まさか、君は」


 涙が真珠に変わったことで、人魚姫は魔法が解けかかってることを知りました。


 ……逃げないと!

 人魚姫は足の痛みも構わず走り出しました。


『人間は野蛮で……』

 かつての教えが思い起こされる。


 どこへ逃げればいい?


 もう行く場所など、一つしかありませんでした。


 追手を振り切って城から外にでた人魚姫は、崖から飛び降り海中へと潜りました。

 もっと深く、もっと深く。

 あの人の目の届かないところへ。

 その望みが聞き届けられたのか、いつしか人魚姫は泡となって消えてしまいました。


 人魚姫はいなくなりましたが、今もその歌声は聞こえるといいます。

 どこかなまった歌声が。


 <了>

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