光
紫陽花の花びら
第1話
「捕まえた」
瑞花は小さく呟いた。
俺は、しゃがみ込む瑞花の傍で息を呑み、
持ってきた空き瓶の蓋開ける。
「くすぐったい! もそもそしてる」
瑞花は無邪気に笑っている。
俺が瓶を近づけると、瑞花が瓶の上で合わせた掌を静かに広げた。
「早く早く蓋!」
光はスーッと夜空の星と混ざり合って行く。
「あぁ~徹の下手っぴ」
「俺か? みっちゃんがもっと瓶にちか」
俺の口を柔らかな唇がそっと塞ぐ。
見つめ合いながら、草むらに横たわる俺達は、暗闇に優しく光るなかで、静かに熱く溶けあっていった。
桜は散り、東京の大学に通う俺と、田舎で就職した瑞花に、距離と言う物理的な壁が立ちはだかる。
携帯やパソコンは、誰でもが持てる時代ではなかった。
覚悟はしていたものの、俺たちを繋ぐ手段が、電話か手紙だけなんて、やっぱり辛過ぎた。
俺はバイト代を貯めては逢いに帰った。
瑞花を片時も離さず、この腕に抱き締めているときが幸せだったのに。
時が残酷なのか、それとも俺の心が薄汚れていったのか。
遊びたい! 遊びたい! もっと楽しみたい。
働く目的は、いつしかすり替わって行った。
少しくらい羽目を外したからってバレる訳ない。
時間があわない。疲れて手紙が書けないのは嘘じゃない。
頻繁にかければ電話代がかさむ。
着信を知らなければ、かけ直すこともないと、留守電を解除した。
俺の勝手な屁理屈が、瑞花を鬱陶しい存在へと変えて行った。
封も開けない手紙が、テーブルの上にたまって行く。
どうでもいいダイレクトメールなかに、瑞花は埋もれて行った。
あの日バイトは休みだった。
珍しく呼び鈴が鳴った。
「美幸か? 鍵開いてるぞ」
ドアが開き、冷たい風が濁った空気をほんの少し動かした。
「なにふざけてんだよ」
「ふざけてないよ」
部屋に小さく響いた声が、俺の体を弾き飛ばした。
「美幸さんじゃなくてごめんね」
俺はうわずる心を辛うじて押さえ込み、
「来るなら来るって連絡しろよ、突然過ぎるんだよ」
と言い放った。
「書いたよ。徹字読めなくなった?」
瑞花は能面のような顔で俺を見つめている。
「手紙に、何度も電話してって書いた。せめて電話留守電にしてとも書いた。
相談があるんだって何度も何度も書いた」
「悪いけど忙しくて読んでない」
俺はテーブルに積んだままのダイレクトメールに見つめていた。
瑞花は小さく溜息をつき、
「読んでないのは判っていたし、終わるのも仕方ないって思う。けど、理由も言わないなんて勝手だよ。私にも心があるの」
「悪かった。ほんと悪かった」
俺は畳におでこを擦りつけ、何度も謝った。
「徹、顔上げて。謝って欲しい訳じゃない。今日はけじめを付けに来たの。あのね、正式に別れてください」
「正式っ」
絶句する俺を見て瑞花は吹き出した。
「そんなに驚くこと? 瑞花がそんなこと言う訳ないって?」
「いやそれは…」
「私前に進むことにした。徹も進んでいるんだもん。人生これからこれから! 今までありがとう! じゃ元気でね」
瑞花は俺の返事を聞かずに立ち上がると、振り向きもせず出て行った。
思考停止状態の俺は、瑞花の後ろ姿をぼんやり見送っていた。
言葉が目の前で散っていく。
受け止めることさえ拒否されているように思えた。
突き放された俺の心は、帰る場所を見つけられず汚い畳に転がっている。
突然すべての光を失ったことに気づいた。
今更引き留めるすべはない、が、今追いかけなければ絶対に後悔する。
俺はとにかく部屋を飛び出し走った。
バス停のベンチに、うずくまる人影が見えた。
瑞花だ!
「みっちゃん! 瑞花!」
俺は夢中で呼んだ。
人影はこちらに走り寄ってくる。
瑞花が俺の名前を呼んだ。
瑞花を抱き締め何度も何度も謝る俺の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくる瑞花。
あの夜、つなぎ止めることが出来た光は、
今も俺の傍で可愛い寝息を立てている。
思い出を辿る夢。
二十年も昔のことなのに、記憶は薄れるどころか、今も瑞花のすべてが俺を包み込んでくれる。
カーテンをそっと開けると、静かに瞬く星がなんだか心細そうに見えた。
「瑞花、今年は久しぶりに蛍を見に帰ろうか」
終
光 紫陽花の花びら @hina311311
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