新型感染症流行後に生じた新生活様式に関する簡易レポート

化着眠猫(かぎ・ねこ)

新型感染症流行後に生じた新生活様式に関する簡易レポート

 今や東京はケモノの街である。

 通勤電車を埋めるビジネスパーソンたちのほとんどは獣毛を身に纏い、頭の上には猫のもののような耳を生やしている。まだ多くの人は肉球をもつその指でスマートフォンを使うのになれていないようだったが、一部の人は既に最新の猫耳に対応したヘッドホンを装着し、この新しい日常に適応しているように見える。

 以前より新宿、品川、渋谷といったターミナル駅の朝ラッシュは世界的にもすさまじい密度が問題視されていたが、ビジネスパーソンたちが獣毛を持つことになってからは更にその傾向は加速した。

 獣毛に覆われた身体は暑さに弱く、服装も薄いものが一般的なものとなった。フォーマルな場ではスーツが着用されることが通常であるものの、素材は風通しのよいものが使用されるなど専用のものが開発された。可能な企業では長期間の夏休暇や在宅勤務を導入し、従業員の勤務環境を調整した。

 在宅勤務は新型感染症対策で、従来より実施されていたこともあり、導入がしやすく、多くの企業で利用されていた。ただ、導入当時はまさか暑さ対策として利用されるようになることなどは想像もされていなかっただろう。

 2020年から爆発的に流行していったこの感染症は、世界の人口を大きく減らしていった。各国の医療機関はこぞってワクチンの開発を急いだ。

 一時的に効果を発揮したワクチンも数多くあったが、感染症の変異の速度に追いつけず、それらでは根絶するには至らず、すぐに死者数のグラフは右上がりとなっていった。

 しかしながらいつまでも感染症を避けた生活を続けるわけにもいかない。一時期は外に出ることを非推奨とされながらも、次第に感染症を受容し、人々は感染に備えながらも生活を取り戻していった。

 緩やかに減っていく世界の人口に、世界中の医療機関は必死に研究を続けた。その研究に大きな進捗が出たのは2025年の夏であった。東京の大学から1本の論文が発表され、全世界から大きく注目されるとともに、世の中の流れを一変させることになる。

 この感染症に対抗するのは〝獣性〟であるとしたその論文では、人間以外の野生動物らからの感染・発症報告が極端に少ないことに注目した。メディアは毎日のように〝獣性〟について解説を行うニュースを報道し、この事実がもたらす可能性は世界の人々の希望となった。

〝獣性〟を意図的に人類に取り入れることができれば、感染症の発症を抑えることができる。それに着目し、身近な動物を元に〝獣性〟を得るべく開発された新型ワクチンの試作は半年も足らずに完成した。

 新型ワクチンには大きな副反応が確認された。それは元となった〝獣性〟、すなわち猫の形質が人間に発現してしまうというものだった。全身からは獣毛が生え、足の指の数は4本に減る。耳は頭頂部に移動し、大きく広がった耳介によって聴力が上昇する。尾骨のふもとから全身のものと同じ獣毛が生えそろった尻尾が長く伸びる。列挙するときりがないが、人間と猫の中間とも呼ぶべき姿へと変化するのだ。

 当然ながら、この副反応は大きな議論を呼ぶことになった。ワクチンを承認すべきか。他の害は生じないか。人権に反しないものなのか。世界同時多発的に連日行われたデモの数々は、皮肉にも感染を広めることに貢献し、未承認のワクチンでも接種したいという人間が徐々に増え、やがて副反応を受けた人々が人混みに紛れるようになった。初めは奇形の存在のように見られていたものの、人とは慣れる能力を備えているものなのか、すぐにワクチンを打った人間たちを同じ人間として認めるようになっていった。

 その猫人とでも呼ぶべき人々が増えるに従い、各国政府も徐々にワクチンを正式に承認することになった。変わらず反対派の運動は大きな影響力を持っていたが、政府主導で行われたワクチン接種によって世界には猫人が溢れていった。

 それから10年近い。未だに反対を掲げる人々は多くいる。だが猫人と頑なにワクチンを打たない人間との間に生まれた大きな年間死者数の差は、人類に新たな時代が到来したことを数値的に示していた。

 ここで最後に、ひとつ明記しておきたいことがある。この感染症の発症者に乳幼児は含まれていなかったという事実である。そのため、とりわけ日本では、5歳を迎える年に他の予防接種とともに新型ワクチンを投与することと決められている。それまでは人間の元の形質を持った姿で誕生し、成長することになる。

 これは、まだ仮説の段階ではあるが、人間の乳幼児は〝獣性〟を持って生まれてくるが、成長につれどこかの段階で、〝獣性〟を失ってしまうのだと私は考えている。

 我々は他の動物たち同様〝獣性〟を持って生まれてくる。しかしなぜ、〝獣性〟を成長に伴い喪失するのか。これが人間の進化の過程で生じたものであるとしたら、今後〝獣性〟を取り戻した人間たちの社会はどうなっていくのか。それは今後明らかになっていくだろう。

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新型感染症流行後に生じた新生活様式に関する簡易レポート 化着眠猫(かぎ・ねこ) @kagi_neko

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