17. カーンプルの反乱
五月十日に起きたメーラト基地の反乱は、十二日には場所をデリーに移して展開されていた。
インドールにいたリアムが、反乱の詳細を聴いたのはその十二日のことだ。
「反乱の原因は何ですか?」
リアムが問いかけると、ハミルトンは肩をすくめた。
「我が社の配布したエンフィールド銃だよ。薬包に牛脂や豚脂を用いていると聞いて、カーストの喪失を恐れたようだ」
銃を使用するには、薬包を口で噛み切る必要がある。牛にしろ豚にしろ、これらを食することはヒンドゥー・ムスリム両者の宗教上の禁忌に当たる。リアムは思わず、まさか、と口に出した。
「彼らの信仰において、常識中の常識ではないですか。それを上層部が知らないはずがありません」
「ハーヴェイの言う通りだ。薬包に塗った脂は今までと変わらん。だが連中は、説明を聞き入れる気はなかったと見える」
一月頃から、同じ理由で小規模な反乱が続いていたようだ。中には、疑いを取り除くために、薬包に使う脂をスィパーヒー自身で選ばせたり、手で切っても良いと諭した基地もある。しかし、一度立った噂と不審はなかなか消えず、彼らは頑なに新しい銃を受け取ろうとしなかった。
ベルハンプル基地やメーラト基地の将校は、逆らうスィパーヒーたちを枷に填め、十年の重労働を命じた。将校の行動は他のスィパーヒーへの見せしめのつもりだったのだろうが、今回に限っては逆効果となった。彼らは罰を受けた仲間の解放を唱え、牢を襲撃したのである。
「とにかく、皇帝を擁立したのは不味い。勢いで旧マラーターの諸侯までもが立ち上がるような事態になれば、鎮圧も容易ではなくなる」
スィパーヒーは
バハードゥル・シャー二世は、ムスリムではあるが、ムスリムの祝日と同じようにヒンドゥーの祝祭も積極的に行っているため、両宗教の信者から信頼を得ているのだ。
皇帝は早速復権宣言をなし、此度の
デリーの実情はさておき、もはやただの一基地の暴走と片づけることはできなくなった。
ハミルトンが懸念するマラーター同盟は、とうに分裂、消滅したとはいえ、北インドの藩王国の多くが旧マラーターの諸侯だ。大多数のヒンドゥー教徒への強い影響と地盤を持っている。
ムガル帝国とマラーター同盟。両者はかつてインド亜大陸の覇権をかけて争った仇敵同士だが、もし仮に、彼らが結びついてしまったら――
公館内の廊下を歩きながら、リアムは眉根を寄せた。自分で思うよりも渋面を作っていたらしく、隣を歩くハミルトンが軽く吹き出した。
「心配するでない。アンソン将軍がデリーを奪還してくださる。必ずな」
デリーの電信局から、アンバーラーに駐在していたベンガル管区軍総司令官のアンソン将軍の元に届いた電信は、現地の緊迫した状況を伝えてきた。事態を収拾すべく、アンソン将軍はすぐさま兵を出した。
いかな歴戦のイギリス将軍でも、今回ばかりは苦戦を強いられるのは必至だった。アンソン将軍より一足先にデリーに到着した駐屯軍は、スィパーヒーが命に従わずに上官を射殺している。
状況を重く見た総督府は、更にボンベイ・マドラス両管区のスィパーヒーを呼び戻し、シク王国のグルカ兵、パンジャーブのラージプート兵にも援護を求め、急ぎデリーに向かわせていた。
反乱の第一報をもたらしたデリーの電信局は襲われたのか、沈黙したままだ。
反乱が起きていても――否、だからこそ、通常の業務を疎かにはできない。だが、この非常事態には公館も沸き立ち、常に戦況が飛び交った。
メーラトの反乱原因について、総督府は彼ら自身の待遇改善を訴えるものだ、という従来の見解を変えなかった。行き過ぎた暴走ではあるものの、すぐに収められると自負しているようだが、すぐそばで反乱の空気を感じている公館では別だ。
アンソン将軍がデリーに到着するまでの間にも、各地からスィパーヒーが集まっていた。彼らの行動様式はメーラトと変わらない。仲間を解放して
アンソン将軍の発した兵は五月二十三日になって、ようやくデリー近くのヒンダン川に姿を現した。末には戦闘が開始し、デリー軍を打ち破ったことで、奪還は目前と思われた。
ところが、総督府にとって極めて不都合な変事が起きる。
ラクナウの包囲戦に向けて派兵を行っていたカーンプルのスィパーヒーが、突如として牙を剥いた。彼らは一度デリーに向かったかに見えたが、翌日にはとある人物に率いられて戻ってきた。
――ナーナー・ゴーヴィンド。
旧マラーター同盟の
ナーナー・ゴーヴィンド軍の先遣隊は、スィパーヒーによる反抗で動揺している中、カーンプルの弾薬庫を押さえた。続いて、ナーナー自身が軍を率いて、別基地のスィパーヒーと合流。兵力を増やしてカーンプルを包囲した。
イギリスの信任も篤かった彼が、バハードゥル・シャー二世帝の臣下を名乗り、反乱に荷担することを宣言したのであった。
* * *
カーンプル市内の北側、弾薬庫周辺に本陣を置いたナーナーは、上手く事が運んでいることに上機嫌だった。
ベルハンプルの噂を現実せんと、チャマールを使って薬包の製作現場を再現させ、メーラトのスィパーヒーに見せたのは大分効いたのだろう。
ムガル皇帝に庇護を求めるように勧め、スィパーヒーの蜂起とデリーの皇帝を援助する形で、ナーナーはカーンプルでイギリスへの敵対を露わにした。
もしムガル皇帝の権威が生きているのなら、大きなうねりを作すことは容易なはずだった。ナーナーは、イギリスとムガルの一騎打ちを横目に、力を蓄えて高見の見物をしていれば良かった。かつて東インド会社がそうしたように。
だが、反旗を翻したスィパーヒーの数はナーナーの予想より少なく、またデリーの老帝には、スィパーヒーを掌握するような器もなかったようだ。
バハードゥル・シャー二世帝は、それまでイギリスの手で地下室へ封じられていた、銀の玉座に腰かけて復権を宣言した。その後、まずやったのはデリー市民に祝儀菓子を配ることだったと聞く。
この古式ゆかしい慣習は、八十二歳の老帝にとって妥当な判断だったのだろうが、ナーナーの目には愚鈍に映った。いくら戦乱を知らぬと言っても、著しく現状を見誤っている。
五月半ばを過ぎてもデリー反乱軍に動きはなく、あっさりとイギリス軍の侵攻を許した。ヒンダン川、バドリー・キ・サラーエでの戦闘でイギリスに大敗を喫し、要衝を押さえられた。
この戦闘にはデリーの王子らが将を務めたが、イギリスの用意した安寧を貪るだけの彼らはことごとく戦を知らぬ上、武勇に欠けた。デリー攻略に燃えるイギリス軍に恐れをなし、刃を交えることなく逃げ回ったという。王子らの醜態に、スィパーヒーが戦意喪失したことは想像にかたくない。
旧マラーター宰相の縁故たるナーナーが立ち上がることで、各地のスィパーヒーや旧支配者層の諸侯の反乱を後押し、イギリスに変わって皇帝を傀儡にできればと考えていたが、皇帝は最早、傀儡を演じることも儘ならない木偶だった。
デリーがこうも早々に崩れてしまっては、何のために金と時間を使って罠をしかけたのか分からなくなる。多くを求めないから、せめて皇帝の側近に戦に明るい人物がいないものか、と我が事のように頭が痛い。
だが、頭痛の種は何もデリーの状況だけではない。ナーナーのカーンプル包囲もまた、膠着状態に陥っていたのである。
ナーナーの軍は、当初は自身の配下である三百と、カーンプル・カルヤンプール両基地のスィパーヒー、併せて四千。常のようにスィパーヒーがデリーに向かったように見せかけ、油断した所に攻め込んだ。
カーンプルに駐在していたウィーラー少将率いるイギリス兵三百と民間人約六百は、突如戻ってきたナーナー軍に動転し、街の南側にある病院と、二つの兵舎に集まり、周囲に塹壕を巡らせて潜んでいた。
ナーナーが本陣とした街の北側は、防衛のために築かれた厚い壁があり、弾薬はもちろん糧食や資金も十分。包囲開始後にも、ナーナーの挙兵を聞いた各地のスィパーヒーが続々と合流し、兵の数は一万二千を越えていた。
ナーナーは当然、勝てる戦だと考えていたが、見通しが甘かったと、すぐに気づかされた。
「降伏を選ぶかと思ったが……骨のある連中だ、と褒めてやるべきですかな」
タートヤが腕を組み、周囲に同意を求めるように見回したが、集まった男たちにはタートヤのように楽観することはできず、押し黙るか唸るかのどちらかだった。
イギリス軍の持つエンフィールド銃は、ナーナーらの期待を容易く打ち砕いた。射程距離は旧来のものより長く、命中精度も高い。迂闊に近寄ればたちまち蜂の巣だ。それでも果敢に攻め立てたが、彼らの死にものぐるいの抵抗には舌を巻いた。
ナーナー軍の本陣はイギリス役人たちの公館で、その内で一番大きな一室を作戦室にしていた。調度品は全て端に寄せ、中央に作った空間の床に絨毯を敷いただけの、玉座も段もない簡易な設えだったが、この際致し方ない。
ナーナー自身は総大将らしく、麗々しい格好をしていた。サフラン色の
この装いを見れば、床に座り込んだ一同の中で、誰が主なのかを間違える者はないだろう。
「さすが、導師様は物事に動じない心をお持ちだ。クリシュナ神に信心すればお前のように鷹揚になれるのか?」
場の重苦しい空気を払拭せんと、ナーナーが笑った。
「本人次第でしょうな」
タートヤはナーナーのからかいに至極真面目に応じた。この二人のやり取りを、咳払いで制した男があった。
皆の衆目を集めた彼はラダハイ・シン。カーンプルのスィパーヒーを従える立場にあり、自身も騎兵として腕の立つ男だ。
カーンプルの反乱は、このラダハイ・シンが上官に向けて放った三発の銃弾を合図に始まった。もちろん、ナーナーと打ち合わせた上での行動である。
「弾薬の一部は、既に塹壕の内に運び込まれていたのでしょう。その上、エンフィールド銃が我々の足を鈍らせている。御身はいかようにして、カーンプルを手に入れるおつもりなのか、お聞かせ願いたい」
ラダハイ・シンは三十を幾つか越えた年頃で、ナーナーに協力したものの、仕えることは良しとしていないようだった。ナーナーがムガル皇帝の臣下だと宣言したことも、イギリスを恨んでいることも疑っているのか、こうして意地の悪い尋ね方をする。
「もし弾薬があるとしても、あくまで一部だ。おれたちが押さえた弾薬の量をウィーラーも把握しているだろう。塹壕に入るのは危険かもしれんが、連中は糧食にも不足している。いかにエンフィールド銃が優れた武器であろうと、使い手がなければただの鉄の塊にすぎない」
兵と物資の多さは自軍を有利にしている、とナーナーは確信していた。徒に突っ込んで兵を減らずとも、長期戦でじりじりと相手を追い詰めて行けば、敵は勝手に自滅していくだろう。
「ナーナー様」
作戦室に入ってきたのはアズィームッラー・ハーンだった。ナーナーを初め複数の男たち全員が彼に目を向けると、寡黙な美男子はその視線をかわすようにさっと黙礼した。単純な仕草にも、謎めいた艶が宿る。
イギリスでの滞在中、彼を王族と勘違いし歓待する貴婦人が絶えなかったと聞くが、それも無理からぬ話だ。
「会社軍の援軍がアラハバードに向かって行軍中との事。六月の半ばにはカーンプルに姿を見せるものと思われます」
「ずいぶんと早いお出ましですな」
ナーナーが口を開くより早く、ラダハイ・シンが鼻を鳴らす。どうするのか、と挑発する目つきでナーナーを伺った。
このまま戦を引き延ばせるほど時間の猶予はない。ならば、とナーナーは口を開いた。
「塹壕の周囲に狙撃手を配置させろ。ありとあらゆる窓や間隙から塹壕内のイギリス人を狙え」
敵はたった三百。それに比べれば、ありあまるほどの兵がいる。ただひたすら攻撃し続ける、という単純かつ執拗な作戦には、神経をすり減らすことだろう。
「……よろしいでしょう」
ラダハイ・シンはまるで己が正しい答えを知っている、とでも言いだけな高慢な態度でナーナーの案を受け入れたが、この男に腹案が存在していたのか、甚だ疑わしい。
ナーナーの一声で方針は決まり、作戦室に集まった将が動き始めた。
イギリス人たちが留まっている兵舎の周囲に狙撃手を置き、建物と言わず塹壕と言わず撃ち続けた。いつ終わるとも知れぬ攻撃を前に、敵は見事に耐え抜いて見せた。
ナーナーは夜の訪れと共に、一度兵を引き上げるよう指示した。兵力があるといっても、銃の数は限られており、習熟している者も同様だ。弾薬に恵まれていても、兵を潰しては何の意味もない。
兵たちは野営の準備のために黙々と動き、煮炊きの火を焚く。明日にもまたこの単調な戦いがあるのか、と考えると、勝ちを目前に浮かれるよりも、億劫さが先に立った。数の有利が、かえって兵たちの緊張感を薄れさせていた。
闇に銃声が響いたのは、そんな時だった。
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