【完結】ナタラージャ

乾羊

序章 嵐の行方

――一八四九年、五月。


「何とまあ、美しいこと。まるで本物の女神ラクシュミーではありませんか!」

 大仰な仕草でラクシュミーを迎えた女の感嘆は、強ち嘘でもなさそうだ、と少女は誇らしさ半分呆れ半分で考えた。

 タラ・バイと名乗った女はふっくらとした体つきで、年の頃は四十ほど。宮殿マハルの一切を掌握しているという女官の長だ。ここに到着した時、タラは「これよりラクシュミー殿下にお仕え致します」と二回り年下の少女に向かって平伏し、爪先に触れた手を自らの頭に持って行く、プラーナムの礼を取った。

 プラーナムとは最高の敬意を示す礼だが、再度顔を上げた彼女の目に宿っていたのは、ラクシュミーを値踏みする視線であり、逆らうことは許さないという圧力だった。

(わたしを小娘と見て軽んじているのね)

 不快も露わな少女に、タラは何事もないように微笑むだけだった。

 ラクシュミーはインド亜大陸の北西部、アワド藩王国近隣の町ビトゥールから、デカン高原中央部にあるジャーンシー藩王国のラージャガンガーダル・ラーオその人に嫁ぐため、約二ヶ月の旅路を経てはるばるやってきた。そこで真っ先に受けた洗礼に、ラクシュミーは頬を膨らませた。

(聞いていた話と違うじゃない!)

 父から結婚の話を持ち出された際、嫁いでもお前を縛るものなどありはしない、と語ったのに。

 ――何せ、お前は王妃になるのだからね。

 晴れやかに言い切った父はあの時、ラクシュミーに嘘をついていたのだろうか。

 苛立ちの収まらぬ少女を、タラを初めとする宮殿の女たちが浴室に放り込んだ。身体の隅から隅まで手入れされている内に、旅の垢と一緒に怒りも削ぎ落とされて、最後に残ったのは疲労だけだった。

「きっと藩王陛下もお喜びになりましょう」

 このまま横になって休みたい、などと考えるラクシュミーをよそに、タラは得意げに言い切った。

「……そうだと良いけれど」

 どこまで本気なのだろう。疑わしげな目を向けそうになるのを、ぐっと堪えてラクシュミーが応じる。タラは少女の背にそっと触れた。

「さあ、鏡をよくご覧なさいまし。完璧な花嫁姿でございましょ?」

 タラに促されて、浴室の隣の間にある姿見に向き直ると、そこには別人かと見紛うほど飾り立てられた十五の娘が映った。

 太陽の如き真紅のサリーは婚礼の色。結い上げた髪を覆う頭布オダニもまた鮮やかな緋色の絹。縁取る金糸の刺繍は、菩提樹の葉の意匠だ。秀でた額には、大きな涙真珠と紅玉小珠の髪飾りティカ、左の鼻孔には三日月のピアスナークティカが揺れ、ラクシュミーが小首を傾げると、耳元の七宝の孔雀も尾を広げた。

 少女が身動きする度、真珠に金剛石、翠玉が幾重にも連なる首飾りがしゃらりと音を立てる。五指には翠玉をくわえた蛇、両手首には金細工の蓮花と、硝子の腕輪が幾重にも巻かれている。

 本当にこれが自分なのだろうか、とラクシュミーが鏡に一歩を近づくと、足輪が擦れてちりりと楽を奏で、鮮やかな黄のスカートが翻る。縁取る紫絹に咲きそろう金の蓮華、その花芯を彩る小粒真珠と孔雀石が、祝福を謳うように光を弾いた。

 この日のために誂えられた宝飾品の数々はずしりと重く、ラクシュミーの動きに枷をかけたが、故郷の養父の気遣いを蔑ろにはできない。

「名前に相応しいお姿ですわ」

 タラは自らの仕事を誇るように、うっとりと呟いた。

『ラクシュミー』は女神の名でもある。美と豊穣、幸運を司る女神で、蓮華の瞳に蓮華色の肌を持ち、蓮華の衣をまとう姿で描かれる。

 世に顕現した女神、という世辞も誇張ではない美貌がこの少女にはあった。淡い琥珀の肌、くっきりとした大きな黒曜石の瞳、涙袋と差された紅が、年に不似合いな艶を醸し出している。幼さの抜け切れない、小柄な体つきはいかにも頼りないが、きりりとした太い眉と引き結んだ口元は、男のように凛々しかった。

 ――ラクシュミー・バーイー、それが少女の名だ。

(本当に……わたしは王妃になるのね)

 鏡に映った顔は強ばっていた。わずかでも解そうとして、紅唇の端を持ち上げる。

 脳裏に浮かんだのは別れ際の養父と義兄の姿だ。今更結婚を躊躇いはしないが、いざ離れてみると心細い。物理的な距離もそうだが、婚家に入れば生家との繋がりは絶たれ、戻ることは決してない。

 結婚は娘の義務だと教えられてきた。夫に尽くし、生涯をジャーンシーで過ごす覚悟は、とっくにできているはずだったのに。

 ――マナカルニカ。

 幼名で呼びかける義兄のナーナーの声と共に、彼と交わした約束を思い出していた。


「……結婚の祝いは何が良い?」

 養父や導師グルなど、幼い頃からラクシュミーを世話してくれた面々が居並ぶ場で、義兄はそう尋ねてきた。旅立つ当日だと言うのに暢気なことを、とラクシュミーはため息をこぼしたものだ。

「今頃それを言うの、ナーナー」

 呆れた台詞が口をついて、あっと手で塞ぐ。嫁ぎ先でぼろを出さぬよう、王妃に相応しい言葉遣いを強いられていたのだ。

 その筆頭と呼べるのがナーナーだった。すぐさま注意されると反射的に首を窄めたのに対し、ナーナーは小さく笑うだけだった。

 三つ年上の義兄は、数年前までラクシュミーと変わらぬ背丈だったのに、いつの間にか見上げなければ視界に入らなくなった。容貌もすっかり精悍になって、武人然とした佇まいを裏切らない剣の腕に、ラクシュミーはとうに及ばなくなっていた。

「マナカルニカは、もうどこに出しても恥ずかしくない女性になったよ」

 ラクシュミーは目を剥いた。直前まで、なってないだのがさつだのと、それこそ食器の扱いから歩幅にまで、ああだこうだと指摘してきた義兄の発言とは思えなかった。

「どうしたの、ナーナー。風邪でも引いたの」

 本気で心配したのが、義兄は顔を顰めて軽く睨みつけてきた。

「最後くらいは褒めてやろう、という俺の気遣いが分からないのか?」

 憮然とした反論は、恐らく照れ隠しだろう。ラクシュミーの口からは自然と笑い声がこぼれた。そうして始めて、己が間際まで浮かべていた微笑みが、涙を堪えるための虚勢なのだと分かった。一国を背負う畏れと緊張とに、知らず押し潰されていた。

「で、何が良いんだよ」

 ぞんざいな口調で促されたラクシュミーはしばし考え、ゆっくりと指を立てた。

「それじゃあ、花が良いわ」

「花?」ナーナーは拍子抜けしたようで、語尾が跳ね上がった。「なんでまた、そんな芸のないものを」

「あら。わたしの気遣いがナーナーに伝わらなかったの?」

 首を傾げてみせると、義兄は渋面を浮かべたが、反論の文句が思いつかなかったようだ。

 ひとつ勝ちだわ、とラクシュミーは内心でほくそ笑む。いつもナーナーにはやり込められてきたのだから、多少の反撃は許されるはずだ。

「そうね、蓮の花が良いわ。わたしに相応しいでしょう?」

『ラクシュミー』は美と豊穣、幸運の女神。ヒンドゥー最高位の三神の一人、繁栄を謳うヴィシュヌ神の妃。乳海攪拌の際、海の泡から生まれた絶世の美女。

 大人しくしていれば、という厳しい条件つきではあったが、その名に値すると周囲は言ったものだ。

 少し得意げに胸を反らすと、ナーナーばかりか、にこやかに義兄妹の様子を見守っていた面々までもが吹き出したので、ラクシュミーは唇を尖らせた。

「皆、失礼じゃない?」

「ごめん、悪かった」

 まだ笑いの残る声で義兄が詫び、蓮の花だな、と確認するように呟いた。

「そうよ、たくさん頂戴。このインドを埋め尽くすくらいに!」

 軽やかに言い切って、ラクシュミーは腕を広げた。その拍子に細腕に幾重にも巻かれたバングルチュリーがしゃらりと鳴った。

「インド中って……」

 案の定、ナーナーは呆気に取られたようだが、暫くして「分かったよ」と投げやりに承諾した。

「約束よ」

 念を押してから義兄を見上げると、彼は神妙な面持ちで頷いた。

(絶対に果たせない約束なのに、変なの)

 何だかんだ言ってラクシュミーに甘いナーナーは、結局望みを叶えてくることが多いが、今回ばかりは無理だろう。

「ラクシュミー様、お時間ですわ」

 タラに呼びかけられたラクシュミーは、過去の幻影を頭の隅に追いやって微笑みを返した。少女の顔から、憂いの色は拭い取られていた。

 先導するタラの手に、厄除けと幸運を願う蓮と波の模様メヘンディが描かれた己の手を重ねる。これから婚礼の儀式に望むラクシュミーの足取りには、優美な衣装に似合わぬ闊達さがあった。

(これで良いんだわ)

 豪奢な衣装も、格式張った話し方も、ラクシュミーの本質ではない。

 きっと、この宮殿マハルでは苦労するだろう。ナーナーの言葉を守っておけば良かったと、後悔するかもしれない。駆け引きや戦略なんて以ての他。策を弄するよりも、体当たりでぶつかっていくほうが性に合っている。

(わたしは、そういう生き方しかできないもの)

 ならばいっそのこと、どこまで貫けるか、試してみよう。

 王妃の宮殿ラーニー・マハルを出たところで、夕暮れの押し迫る空を見上げ、ラクシュミーは胸の内で決意する。

 城に向かう輿に乗ろうとした瞬間、吹きつけた風がサリーの裾を巻き上げ、石の床を撫でる。細かな砂埃が翻弄されて、斜陽の中をくるくると踊った。

 小さな娘の足下、束の間生まれた嵐の行方を、今はまだ誰も知らない。

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